なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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金山城は予定外でしたが寄り道しました。
訪問日は2013年7月28日です。

金山城/①登城口
▲登城口

山城ということで、当初は行く予定ではありませんでした。
真夏の城廻りでしたから。
でも、時間に余裕がある!というか、城跡という文字の引力に負けただけです。
金山城の案内は、近くの道を通ると嫌でも目に入るので。
でも、このクソ暑いのに山登りなんてなぁ・・・とつぶやきながら、足は既に登城路を登っていました。
やっぱり病は相当進んでいるようですあせる

金山城/②三の丸
▲三の丸

いつも画像ファイルのタイムスタンプで登城時間を書いてます。
それにしても、登城口から三の丸まで1分以内って何かの間違いですよね?
と言いつつ、あながちあり得なくもないと思ってます。
横着者なので、いつもどこが一番楽なんだ?そんな事ばかり考えています。
この日もそんな感じで登れる所まで登っていましたので。
さて、さっそく石が点在する様子に少し興奮し始めましたが・・・

金山城/③大手門跡
▲大手門跡

三の丸を過ぎると、更にガッツリと石垣が組まれた場所に出ました。
ここが大手門の跡で、説明板によると枡形だったんだそうです。
画像ファイルをパラパラと見て書いてますw
塩銀写真と違って、デジカメだと気軽に撮りまくれるのが嬉しいですラブラブ
・・・いつの時代の原始人だ?と言われそうですがあせる

金山城/④本丸
▲本丸

さて、またしても程無く本丸に到着です。
登城口から5分・・・やっぱり何かの間違いですよね?
本丸には神社があり、その左右を城址碑と説明板で挟んでいます。
しかし、この神社の名前、某お茶の名前と読み違えますよね?
そんな事ないですか。
そうですかあせる
やっぱり一度お医者サマに診てもらった方がいいですよね。
よく言われます。

金山城/⑤城址碑
▲城址碑ラブラブ

さて、その城址碑とやらがコチラです!
石垣も堀跡もいらないけど、コイツだけは欲しい!って方もいらっしゃるかと。
そうでもないですか?
おいらは全部欲しいですw
遺構バッチリな上に城址碑まであると、テンションぶっ飛びますヽ(´∀`)ノ

金山城/⑥天守台
▲天守台の石垣

さらに!さらに!
天守台の石垣まで残っています。
予定外の山城でしたが、大して時間も掛からなかった上に色々見れて大満足でした合格


◆歴史◆

1537年、長井規秀(斎藤道三)により築かれました。

後の斎藤道三ですが、この頃はまだ斎藤姓を名乗っていませんでした。
斎藤姓を名乗るようになったのは、この翌年に守護代・斎藤利良が没してからです。
しかし、こうやって見ると、斎藤利良の「病死」が怪しく思えてしまいます。

築城当時は「烏ヶ峰城」と呼ばれていました。
城には長井規秀自身ではなく、養子の斎藤正義を入れました。
養父が斎藤姓を名乗る前、正義が何と名乗っていたのかは?です。

守護代・斎藤利良が「病死」すると、長井規秀はその名跡を継いで斎藤利政と改名しました。
そして、烏ヶ峰城に入ったこの養子は斎藤正義を名乗りました。

ここからは完全に根拠も無いただの推測ですが・・・
守護代の病が重くなって、長井規秀が勝手に斎藤家に養子をとったのかもしれません。
この養子(斎藤正義)は関白・近衛稙家の子なので。
斎藤家としても、近衛家から持ち掛けられた話ということにすれば断れませんからね!
で、斎藤利良が没したら自分が養父になって斎藤家の名跡もGet!という事だったのかも。

病がどんどん進んでる気がしますが、自覚あるからまだ大丈夫ですよね?

1548年、斎藤正義が配下の久々利頼興に謀殺されました。

久々利頼興が斎藤正義を酒宴に招き、主である正義を謀殺しました。
養父である斎藤利政(道三)は・・・特に久々利頼興を罰することもありませんでした。
自分の養子を殺されてお咎め無しということは、そういう事なんですね。

この暗殺劇は斎藤利政が仕組んだものという説が有力です。
しかし、テツ&トモが頭の中でアノ曲を盛んに歌い始めます。
単純に仲が悪かったということでしょうか?

この年にあった大きな出来事と言えば、斎藤家と織田家の和睦です。
織田信長の父・信秀は、土岐頼芸に味方してよく美濃に攻め込んでいました。
土岐頼芸がはじめ戦っていたのは兄の土岐政頼で、こちらには越前朝倉氏が味方していました。
兄弟喧嘩がひと段落すると、頼芸を担いでいた斎藤利政が野心をむき出しにしました。
そのため土岐頼芸と斎藤利政が戦い始め、腐れ縁で織田信秀は土岐頼芸に味方していました。
しかし、土岐頼芸の領主としての器量に見切りを付けたのでしょうか。
織田信秀は斎藤利政と和睦し、織田信長と濃姫との婚儀が成立しました。

斎藤側の出した和睦の条件は、織田家が土岐頼芸の味方をやめることだったと思います。
美濃での土岐方と斎藤方の争いは大勢が決しており、織田方としては痛くも痒くも無いですね。
この和睦は織田側から言い出したもののようで、東の今川義元対策だったようです。
美濃との争いが無くなれば、今川軍からの防衛に専念できますからね。

もしかすると、斎藤正義はこの和睦に強硬に反対したのかもしれません。
斎藤正義の領地は、尾張の犬山と隣接しています。
今川軍と挟み撃ちにすれば、今まで散々苦しめられてきた織田家を潰せますからね。
・・・いけないいけない、また突っ走ってしまいましたあせる

斎藤正義を討った久々利頼興は、時を空けずに烏ヶ峰城を占領。
一族の土岐十郎左衛門を城代としました。

1565年、織田信長の家臣・森可成が城主となり、兼山城と改名しました。

織田信長が美濃東部を制圧し、森可成を城主としました。
森可成は織田信長にとっては最古参の家臣の1人です。
弟・織田信行との戦いで、柴田勝家や林通勝を相手に奮戦した猛将です。
信長の信頼が厚く、森可成の子の多くが信長の小姓として仕えています。
余談ですが、本能寺の変では蘭丸をはじめ、可成の子が3人も討死しています。

1570年、森可成が戦死したため、次男・森長可が城主となりました。
1582年、森長可が信濃・海津城へ移ったため、森蘭丸が城主となりました。
1582年、本能寺の変で森蘭丸が討死。森長可も命からがら信濃から戻りました。
1584年、森長可が小牧・長久手の戦いで討死。末弟の森忠政が城主となりました。

1600年、廃城となりました。

森忠政が信濃・海津城へ移り、森氏の旧領は犬山城の石川貞清が引き継ぎました。
石川貞清は金山城を廃城とし、犬山城改修の建築資材として利用しました。
そのため、犬山城の現存天守も金山城から移築されたのでは?という説もありましたが・・・
1961年の犬山城天守修繕の時の調査により、移築されていないことがハッキリしました。

尚、石川貞清は直後に起きた関ヶ原の戦いでは西軍についたため、所領を没収されました。
黄金千枚で助命された後は、京で貸し金業を営んだそうです。


所在地:岐阜県可児市兼山

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