なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
菅原城は今まで行った中で一番危険な所かもしれません。
訪問日は2014年11月23日です。

危険」とか「やめた方がいい」と言われても、行く奴は行くもの。
そういうオバカさんが城キチというもので、ここに1匹居ますからあせる
山城シーズンに入りココに来る人も居ると思うので、書こうと思いました。

何が危険かというと・・・
①武者返しのような岩場。ここは絶対登らないコト!
②熊。遭遇しませんでしたが、新鮮な糞がありました。熊鈴を忘れずに!
③オオスズメバチ。デカイのを2回見ました。絡まれたらゆっくり後退しましょう。

菅原城/①北東側からの遠景
▲北東側からの遠景

訪問前に色々調べはしましたが、やっぱり現地で迷いました。
ここは登城路が無く、険しい山肌を直登するのは知ってましたが・・・

それを承知で読んだ数々の登城記、やっぱり文章でルートを説明するのって難しい。
なのでうっすらですが、記憶を辿った感じは↓です。

菅原城/国土地理院の地図
国土地理院の地図 を表示

菅原城/②城山橋
▲城山橋

色々グダグダ書くので、最初に安全と思われるルートを書きます。
このルートは下った時のルートを逆に書いてます。

まずは県道51号沿いにある小さな橋(城山橋)を目指します。
近くに駐車スペースが無いので、少し北東の庚申碑の前がいいと思います。
(地図右上の青です)

菅原城/③ここから登る
▲城山橋の正面(県道51号の北側)

コンクリートの切れ目の所にちょっとだけ丸太が積んであり、そこから入ります。
藪っぽく見えますが、かすかに残る踏み跡を辿ります。

菅原城/④ちょっと登った所にある石垣
▲後世に積んだっぽい石垣

あちこちに書かれている「竪堀っぽい」地形があり、20m程登った所に石垣があります。

菅原城/⑤竪堀っぽい地形
▲竪堀っぽい地形。道に見えたらあなたも城キチ

ここから見上げると平場があるので、次から次に辿る感じで頂上まで登れます。


ここからは悪戦苦闘記です。

よく登城口として紹介されている庚申塚はかな~り上の方です。
地図だと右上の方にある青いの所です。

菅原城/⑥庚申の石碑
▲よく登城口として紹介されている石碑

そこから「竪堀っぽい所」をまっすぐ登れとよく書かれているのですが・・・
そんなのあちこちにあり過ぎて、どれの事なのかサッパリ判らず。

菅原城/⑦見上げたところ
▲石碑の辺りから見上げるとこんな感じ

おまけに、小さな平場もあちこちあるので「ここ?」と思いながら登りました。
間伐材のお手入れをしたのか、人が歩いた形跡も多々ありました。

菅原城/岩盤が行く手を塞ぐ
▲まっすぐ登ると横一線に岩盤が立ち塞がります

その結果、行く手を岩場に阻まれて窮地に。
この岩場、とても滑りやすいので強行突破は止めましょう。
下は20m程の急斜面なので、ちょっと滑ったらタダでは済みそうにありません。

菅原城/⑨見下ろすと急斜面
▲ここで下を見下ろすといい感じで急斜面w

上にも進めず、かといって下を見ると「どうやって下りるんだ?」という状況。
「進退窮まる」ってこういう事なんだ、と妙に落ち着いてましたけどw

さてどうしよう?と思案。
上にも下にも行けないなら横へということで、左側(南方向)へ横移動しました。
すると、踊り場のような尾根が見えて来たので、とりあえずそこまで移動しました。

菅原城/とりあえず尾根へ
▲岩盤を避けて左へ左へと横移動して辿り着いた尾根

この尾根から上に進めるかと思いましたが、ここも上に岩場があり駄目そう。
さてどうしよう?と何度目かのシンキングタイム突入です。
ここまで来て勇気ある決断!とならないのが悪い癖です。
良い子は絶対マネしないで下さいね。

進退窮まると、なぜか見えちゃいけないものが見えてくるおいら。
じ~っと周りを見渡していたら見えちゃいました。
道っぽいのが10m程下に!

菅原城/⑪見下ろしたら見えた道
▲尾根から見下ろしたところ。道に見えます?www

上に登れるなら!と一旦下ると・・・平坦な道ではなく、竪堀っぽい急な坂でした。
しかし、これが良い結果につながりました。
この窪んだ坂を登ると、ちょっとした平場に出たのです。
すると、更に数m上の方にも平場があり、そちらに向かって人が歩いた形跡があります。

やっと城域に!

菅原城/⑫初めての郭
▲初めて辿り着いた郭

いくつかの小さな人工的な平場を過ぎると、今度はかなり広い平場に出ました。
ここが6郭です。
削平は若干甘いのですが、斜面に築いた一時的な感じではありません。
ここに辿り着くまで相当苦労したので、一気にテンションアップ上がりました

菅原城/⑬壁に見えた土塁
▲壁に見えた土塁

この郭からどう上がって行くのか?
辺りを見渡すと、どう見ても一番傾斜のキツイ所に踏み跡が続いていました。
なんでわざわざこんな急な所を登るんだろう、と思いつつ登ると・・・
この急斜面が実は土塁でした!
高さは5m程あります。
6郭側からはただの斜面にしか見えませんでしたが、巨大な土の壁だったんです。

菅原城/⑭土塁の反対側にも郭
▲土塁の反対側にも郭が!

土塁を隔てて更に広い5郭がありました。
広さは6郭の倍はありそうです。
ただし、登城路はこちら側ではなく、土塁上から真っ直ぐ上に向かっていました。
道を見つければあとは辿るだけということで、ここは素直に上へ歩きました。

5郭の上に3郭があり、その奥に4郭があります。
ただし、登城路は4郭には向かわず、真上に有る2郭へと向かっています。
どうやら皆さん考える事は同じで、ここまで来ると目指すは頂上!ですねw

菅原城/⑮頂上手前にある祠
▲頂上の手前にある祠

2郭の端から更に上がると、それまでと雰囲気が変わります。
それまでの郭は平らで広くて郭っぽいです。
しかし、最上部は細長い尾根を削っただけのような感じになります。

踏み跡を上がって細長い平場の先端に行くと、そこには小さな祠がありました。
Uターンして緩~い坂を登ると、2m程のこんもりした所が見えてきました。
ここが山頂です。
特に何も無く、自己満足に浸れるだけの場所でしたw


◆歴史◆

「菅原城」でググっても歴史らしい歴史を書いたサイトは殆ど皆無。
おし、久しぶりに登城記だけで済む!と思いきや・・・
唯一のキーワード「高田憲頼」でググると、菅原城の事も書かれていました。
菅原城は山内上杉氏の重臣・高田(たかた)氏の城でした。
高田氏は清和源氏で、平安時代末に美濃から移り高田姓を称した高田盛員を祖とします。
高田氏はもうちょっと東にあった高田城を本拠としました。

菅原城は築城年不明です。
戦国時代に高田氏が拠っています。

1547年、高田憲頼が信濃国志賀城で武田軍と戦い討死しました。

信濃攻略を目指す武田晴信が佐久郡制圧のため、志賀城を攻めました。
志賀城主・笠原清繁は高田憲頼と血縁があったため、憲頼は援軍として志賀城に入りました。
また、憲頼は主君・上杉憲政にも援軍を要請しました。
河越夜戦で北条氏康にコテンパンにやられた直後なので、反対も多かったようですが・・・
この上杉憲政の発した3000人の志賀城救援軍は、小田井原で武田軍に壊滅させられました。
頼みの綱を失った志賀城は落城し、高田憲頼も討死しました。

その後、徐々に上野国を北城氏康に侵食され、1550年代に上杉憲政は越後へ逃れました。
高田氏はそのまま領地に残り、北条氏に抵抗を続けたと思われます。
1560年に長尾景虎(のちの上杉謙信)が関東を攻めた際、高田繁頼も上杉軍に参加しています。

1561年、菅原城が武田軍に攻められました。

この年に西上野の雄・長野業正が没し、武田晴信による上野攻略が始まりました。
菅原城も武田軍に包囲され高田繁頼は抵抗しましたが、降伏して開城しました。
以後、高田氏は武田家臣となりました。

廃城時期も不明です。

高田氏は1582年の武田氏滅亡後は後北条氏の家臣となりました。
さらに、1590年の後北条氏滅亡後、高田直政は信濃塩田村に移り住んだそうです。
そのため、この時に廃城になった可能性が高いと思います。


所在地:群馬県富岡市妙義町菅原

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