なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
八神城跡は田んぼに囲まれた民家となっています。
訪問日は2013年7月27日です。

八神城/①遠景
▲田んぼ越しに撮影

ここも加賀井城と同じく田んぼの中の住宅が城跡です。
周りが同じ風景で探しづらいと思いきや・・・
地図に描かれた角っこの四角い貯水池が目印になって見つけられました。
そこから城跡を撮ったのが上の写真です。

八神城/②標柱
▲城址標柱

まず最初に見つけたのがこの標柱です。
普通に敷地の中にあるので、あれ?っという感じでしたが・・・
まぁ、見つけられればオッケーということで!

八神城/③土塁と説明板
▲土塁と説明板

もうちょっと何か無いか?と思っていたら、すぐ北側に土盛り、そして白い板!
土塁の一部に説明板が2枚もありましたヽ(´∀`)ノ
さっそくわらわらタカッてパチリパチリ。
周りが民家なので、あまりお家が写らないよう気を遣いました。

八神城/④絵図
▲説明板に描かれている絵図

その説明板に描かれているお城の絵図です。
一応堀に囲まれてはいますが、内堀と外堀の間が田畑って・・・w
大規模な戦闘を想定したものではなく、居館だったんでしょうね。


◆歴史◆

鎌倉時代に大明広秀が城を築いたとされます。

大明広秀(毛利広秀)は源義家の子孫で、相模国毛利庄から移ってきました。
毛利庄といえば、毛利元就の毛利姓発祥の地です。
ただし、毛利元就は大江広元の子孫なので、まったく別の家系です。

源義家の7男・義隆が所領の地名を取って毛利姓を名乗ったことに始まります。
義隆から6代後の広秀が尾張国長岡庄石田村へ移りました。
それがいつなのかによって「八神城の歴史」がガラっと変わりますからねw

八神城をググって出てきたWikipediaでは
「鎌倉時代、尾張国長岡庄石田郷の司職である毛利氏が、居城を八神に移す(時期は不明)」
とあります。
何代目の誰とは書かれていないのと、何処から引用したのか?でサッパリです┐(´∀`)┌

本能寺の変の後、毛利広盛が羽柴秀吉から八神村3000石を与えられます。

毛利広盛をWikipediaで見ると、美濃斎藤氏から織田信秀に主を変えています。
斎藤道三は土岐頼芸を支持する織田信秀と度々争っていました。
地理的にも当時は木曽川の尾張側だったと思われるので、不思議な事ではありません。

ここで注目したいのは「八神村3000石を与えられた」です。
本能寺の変があったのが1582年。
1584年には小牧・長久手の戦いでこの辺り一帯が戦場となりました。
なので、領地の移動があるとすればこの時期と思われます。

小牧・長久手の戦いでちょっと前に調べたのが、竹ヶ鼻城の悲劇です。
竹ヶ鼻城城主・不破広綱は落城前に妻を離縁し、親元へ返そうとしました。
その親元が八神城の毛利広盛なのです。
離縁された妻は八神へ向かうのですが、毛利領に差し掛かった所で自害しました。
お供をしていた三七は奥方を弔い、目印に松の苗を植えました。
そしてその場で自害したそうです。

この三七松の場所を地図で見ると、八神城のすぐ北で隣町なのです。
・・・移動という程の距離でも無く、単に元々の領地を安堵されたのかもしれませんあせる

1586年、尾張国から美濃国に編入されました。

これは木曽川が大氾濫した後、現在の流路に変わったためだそうです。
それ以前の木曽川は、現在の境川だったそうで・・・
このことを念頭に地図を見ると、加賀野井城や竹ヶ鼻城も以前は尾張だったんですね!

この地域が未曾有の洪水に襲われたとすると、浸水しなかった所に移るのが普通です。
八神城の築城が鎌倉時代説と戦国時代説があるのはこのせいかもしれませんね。
洪水が原因で移ったとすれば、戦国時代築城説はこの移転を指しているのかもしれません。

八神城の毛利氏はその後も時代の荒波をくぐり抜け、江戸時代は尾張藩の家老となりました。
そして明治維新まで続き、ご子孫は現在も近くで暮らしているそうです。


所在地:岐阜県羽島市桑原町八神

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