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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
宮崎城は越後との国境近くにありました。
訪問日は2012年8月7日の朝です。

宮崎城①/駐車場から城域へ
▲駐車場から城域へ

宮崎城は富山の北東端にあり、有名な難所・親不知の手前にありました。
ルートは国道8号から県道103号に入り、トンネルを抜けた先で左斜めに入ります。
あとは迷った記憶も無いので、「城山~」なんて案内があったのかもしれません。
随分昔の事なので、その辺の記憶は曖昧です。
・・・きのうの事ですら怪しいのは内緒ですあせる

山頂近くまで綺麗に舗装された道が整備され、その行き止まりが城山公園です。
駐車場からクルマ止め越しに見るとかなり広い平地が見え、あぁ公園なんだって感じです。

宮崎城②/堀切跡の土橋
▲堀切を埋めて築かれた土橋

その広場を何かに導かれるように奥へ進むと、ココを通れ的な道に出ます。
公園の入口には特に案内とかは無かったので、ほぼ本能で動いていますあせる

これは戦時中に造られた土橋で、元々は堀切で断ち切られていたそうです。
・・・と、現地にあった説明板には書かれていました。
近代に至るまで戦略的な要地だったんですね!

宮崎城④/城址碑
▲城址碑

さて、どこにあったのか忘れてしまいましたが・・・
ちゃんと城址碑もありましたヽ(´∀`)ノ
ただ、ツルツルテカテカなので、写真撮るのは苦労しますあせる

宮崎城③/本丸の石垣
▲本丸脇の曲輪から見た本丸

土橋を渡った先には広い平地があり、そこにこんもりと土を盛った所に出ます。
このプッチン何とかみたいなのが本丸です。

宮崎城⑥/石垣
▲本丸の石垣

本丸は周囲を石垣で囲まれていますが・・・
何となく積み方が新しく、土止めのような気がしないでもないです。
ですが、当時のおいらは単純にテンションヽ(´∀`)ノでしたw

宮崎城⑦/本丸
▲本丸

裏に回り込んで登ると、柵で囲まれた展望台風になっていました。
そこには本丸の標柱が!

宮崎城⑤/親不知
▲宮崎城から親不知を望む

とても眺めが良く、あいにくのお天気にも関わらず親不知の絶壁が見えました。
もちろん西の眺めも素晴らしく、境の城にはもってこいの立地だと実感できました。


◆歴史◆

1182年秋、北陸宮の御所が築かれました。

これが宮崎城の始まりとされますが、確証はありません。
北陸宮は、平家討伐計画が事前に漏れて討たれた以仁王の第二皇子です。
身の危険を察した皇子は越中まで逃れ、宮崎太郎長康が迎えました。

この前年、北陸地方は木曽義仲が平家勢力を掃討して制圧していました。
皇子保護の報せは直ちに木曽義仲に伝わり、翌月には両者は初対面を果たしました。
木曽義仲は宮崎太郎に命じて諏訪神社、神宮寺を突貫工事で築かせました。
そして皇子の還俗式、元服式を執り行い、官軍として平家討伐の大義名分を得たのでした。

1183年5月、倶利伽羅峠の戦で木曽軍が平家軍に大勝。
有名な「火牛の計」は宮崎太郎の献策という説があるそうです。

1184年1月、木曽義仲は源義経・範頼の連合軍に敗れ、近江の粟津松原で討たれました。
宮崎太郎は巴御前とともに信濃国木曽へ逃れ、新たに宮崎家を再興しました。
巴御前は後に源頼朝に捕らえられ、鎌倉で侍所別当・和田義盛に嫁ぎました。
北陸宮は源頼朝により京都・峨野衣で隠居させられ、皇位継承の望みは絶たれました。

1221年、承久の乱後、北条朝時の被官として椎名良明が新川郡に赴任しました。

承久の乱は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府と戦って敗れた戦です。
この時に加賀・越中の勢力は、ほぼ上皇方に味方したそうです。
越後から親不知を越えて来る幕府軍を宮崎左衛門尉定範が迎え撃ったそうですが・・・
敢え無く敗れ、幕府軍の西進を許すこととなりました。
・・・ということは、この時までは宮崎氏のお城だったんですね!

南北朝時代、越後守護・上杉憲顕の軍勢が宮崎要害を攻略しました。

全然詳しい事はわかりませんが・・・
城として使われ続けていたことだけは確かなようです。
この時、上杉軍は北朝方として参戦していました。
・・・ということは、この時戦ったのは新田義貞の元で勇名を馳せた椎名孫八頼胤ですね!
その後も椎名氏が新川郡を治めているので、小競り合いが続いたのでしょうね。

歴史の舞台に宮崎城の名前があんまり出てきません。
なので、宮崎城周辺が騒がしくなる越後と越中の戦いを列記すると・・・

1519年、越後守護代・長尾為景 vs 神保慶宗・椎名慶胤
1520年、越後守護代・長尾為景 vs 神保慶宗・椎名慶胤(両名討死)
1521年、長尾為景が新川郡守護代に椎名長常を任命。椎名氏は越後長尾氏に仕えます。
1568年、椎名康胤が上杉輝虎から離反。魚津城が攻め落とされました。

1582年、織田軍の佐々成政が越中を制圧しました。

魚津城が落城した2日後に、本能寺の変の報せが織田軍に届きました。
織田軍は一時撤退しましたが、すぐに越中を制圧。
佐々成政の家臣・丹羽権平が宮崎城の城番となりました。

1584年10月、上杉景勝に攻められて開城しました。

小牧・長久手の戦いの緒戦です。
この時は羽柴秀吉に味方した上杉景勝が、佐々成政の越中に攻め込みました。
宮崎城でも城兵300人が27人になる程の激しい戦があり、6日目に開城しています。
この戦いの後、佐々成政は越中の大半を没収されましたが、新川郡だけは安堵されました。

1587年、前田家が城代を置き、その後廃城となりました。

佐々成政が九州征伐で武功を挙げ、肥前一国を与えられて移りました。
新川郡は前田利家に与えられ、その家臣・高畠織部が宮崎城の城代を務めました。
翌年には小塚権太夫が城代に任命されたそうです。
1602年に小塚権太夫は御幸塚城へ移っています。

宮崎城は境関所が設置されたため廃城になったとされていますが・・・
境関所が正式な関所となったのは1614年であり、それまでは口留番所だったそうです。
・・・ということは、廃城時期は1602年から1614年の間ということになりそうですね。


所在地:富山県下新川郡朝日町城山

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