なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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願海寺城は遺構が無く、城址碑と説明板があるだけです。
訪問日は2012年8月7日です。

願海寺城/城址碑と説明板
▲城址碑と説明板

その城址碑と説明板は、周囲を田んぼで囲まれた一角にあります。
前の道は細いので、この道を見つけられれば辿り着けると思います。
城址碑はとっても立派で、昭和50年に宮崎氏により設置されたと彫られています。
この宮崎氏は寺崎氏の家臣だったのでしょうか?

願海寺城/賀茂神社
▲賀茂神社

願海寺城の本丸跡と推定されているのが賀茂神社のあった所です。
城址碑の所からはちょっとだけ北にあります。
Google Mapで航空写真を見てると、城址碑は城域の南端っぽいですね。
賀茂神社辺りが田んぼに囲まれた島のように見えます。
ここにも遺構はありません。


◆歴史(異説だらけw)◆

築城年は不明ですが、寺崎氏により築かれたと考えられています。

1550年、長尾景虎(のちの上杉謙信)に攻められ落城しました。

城主・寺崎行重が討たれ、子の寺崎盛永が家督を継ぎ、長尾家に仕えたとされます。
ただ、ホントに1550年?って思います。
長尾景虎はこの頃、兄・晴景とのゴタゴタの末に家督を継いだばかりだからです。
越後国内をようやく平定した段階で、越中まで手を出す余裕があったのでしょうか?

当時の越中は神保長職と椎名康胤が覇権を争っていました。
神保氏は能登の畠山氏、椎名氏は越後の長尾氏を後ろ盾としていました。
1544年の越中大乱以後、常願寺川を境に両氏が越中を東西に二分しました。

願海寺城主の寺崎氏は、常願寺川の西・射水郡一帯を支配する有力者でした。
神保氏が上杉軍に攻められて願海寺城の東にある富山城を退去したのが1560年の事です。
寺崎氏が上杉方になったとすれば、この時じゃないかな?って気がします。

神保長職が逃れた増山城は、願海寺城の南西にあります。
仮に射水郡が上杉方になると、増山城が最前線になるな~なんて、地図を見ると感じます。

1552年、寺崎盛永が斎藤利忠と戦いました(天神林の戦い)

寺崎盛永は「上杉方」として井田館の斎藤利忠と戦ったとされます。
寺崎軍は斎藤利忠の弟2人を討ち取り、斎藤利忠は同族・斎藤信利の城生城へ逃れました。
寺崎軍は城生城にも攻め寄せましたが、落城には至らなかったようです。

ここで気になるのが両氏の立ち位置です。
単純に寺崎氏vs斎藤氏の戦いだったのか、大勢力同士の代理戦だったのか。
斎藤氏は越中南部の飛騨との国境周辺を支配し、神保氏とは長らく対立していたそうです。
上杉方vs反神保ってなんか不自然な気が・・・w
「神保方」の寺崎氏と椎名方(上杉方)の斎藤氏と見るのが自然な気がします。
斎藤氏はこの頃に降伏し、神保氏に仕えるようになったそうです。

1560年と1562年に神保長職が上杉輝虎に攻められ、神保氏は降伏しました。
上杉氏に属する越中東部の椎名氏を攻めたためだそうです。
神保氏は能登守護・畠山義続の仲裁により上杉軍に降伏しました。
以後、上杉氏に従うこととなりますが、神保家中に親上杉派と反上杉派の対立が生じました。

1571年、神保氏は反上杉の姿勢を示し、一向一揆と和睦しました。
この頃に神保長職が没し、神保長城が家督を継いだとされます。

1574年、城主・寺崎盛永が一向一揆の総大将として能登へ侵攻しました。

能登の畠山家中では守護・畠山氏と畠山七人衆と呼ばれる重臣達が対立していました。
1568年には前当主・畠山義続と当主・畠山義綱が追放されるクーデターが起きました。
そこで傀儡当主にされたのが畠山義綱の嫡男・畠山義慶でしたが、1574年に急死しました。
これは重臣による暗殺という説が有力です。
越中一向一揆はこの機を逃さず侵攻したのでしょう。
しかし、能登・二宮の戦いで一向一揆方が敗れています。

1576年、神保長城が上杉謙信に滅ぼされました。

上杉謙信が越中攻略に本腰を上げたのでした。
そのため、越中一向一揆と組んでいた神保長城は、本拠・増山城を攻め落とされました。
その後の神保長城の消息は不明なため、この時に城から逃れたか没したと思われます。
上杉謙信はそのまま能登攻めに入り、翌年には七尾城を開城させています。
その軍中に寺崎氏の名もあることから、神保氏滅亡とともに上杉氏に仕えたのでしょう。

1578年、上杉謙信が没すると、寺崎氏は織田信長に寝返りました。

上杉謙信が没すると、上杉家中では家督争いが勃発しました(御舘の乱)
織田信長がこの機を逃す筈もなく、神保長住を先鋒として越中に侵攻しました。
寺崎氏が織田方に寝返ったとすれば、このタイミングだと思います。
神保長住は次々と旧臣を味方につけ、かつての本拠・富山城奪還も成し遂げました。

1581年、織田軍の菅屋長頼に攻められ落城しました。

越中制圧に佐々成政が投入され、神保長住はその指揮下に入りました。
そして両名が揃って御馬揃えのため越中を留守にすると、上杉軍が攻めて来ました。
織田軍は急遽越中に戻って上杉軍を撃退したのですが・・・
この時に主だった神保旧臣が上杉方に寝返るのではと疑われ、滅ぼされています。
寺崎盛永もその1人で、近江・佐和山城へ連行され、切腹させられました。

翌年、小島職鎮らの旧臣により、神保長住は富山城を攻められ捕らえられました。
すぐに織田軍により救出されましたが・・・この不首尾を咎められて失脚しました。
こうして見ると、神保氏は頼ったはずの織田信長の滅ぼされてしまったのですね。


所在地:富山市願海寺

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