なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
国吉城は越前国との国境近くにありました。
訪問日は2012年8月5日です。

国吉城/01資料館

国吉城/02幟
▲佐柿代官所跡にある資料館と幟

国吉城の麓には、石垣に囲まれた売店風の建物がありました。
どうやらこれが「若狭国吉城歴史資料館」のようです。
特に何が欲しいというのも無かったので、そのままスルーしちゃいましたが・・・
色々資料があるそうです。
国吉城の幟がいっぱいなのですが、資料館は佐柿代官所の跡地にあります。

国吉城/03説明板

国吉城/04案内図
▲資料館前にある説明板的な物

その駐車場というか広場には、写真の説明付きオブジェ?があります。
板じゃないので「説明板」とは呼べず・・・何ていうんでしょうね?これはw
この案内図によれば、資料館の北隣で山の谷間にある段々が城主様の館跡のようです。
そして、その脇を登る道が登城路です。

国吉城/05城主居館の石垣

国吉城/06城主居館跡
▲城主居館跡

登城路の脇にある城主の居館跡です。
石垣や段々になった地形が残ります。
石垣は何だか石が新しいようにも見えますが・・・
雰囲気はとてもいいですね^-^

国吉城/07獣よけの扉

国吉城/08つづら折れの登城路
▲登城路にある獣よけの扉とつづら折れの道

城主様の居館脇を登って行くと、獣よけの扉があります。
カギはかかっていないので自由に通れますが、開けたらちゃんと閉めましょう。
そこからつづら折れの散策路的な道をガツガツ登ります。

国吉城/09発掘調査中

国吉城/10掘り出された石垣
▲発掘調査中

登城路をひいこら登って行くと、平らな所に辿り着きました。
そこは何だか色々ロープが引いてあり、発掘中的な事が書かれていました。
・・・1年半前の事ですけどw
そこらじゅうほじくり返しては、その周囲にロープが張られています。
中には掘り出されたっぽい石垣も!
きっと後で埋め戻されるんですね。
・・・1年半前のお話ですw

国吉城/11本丸

国吉城/12本丸の土塁
▲本丸

本丸は広く、真ん中には麓にあったのと同じような説明板的な物がありました。
本丸の縁には土塁もありますヽ(´∀`)ノ
ちゃんと案内も出ているので、おいらのようなニワカにもちゃんと分かりました合格
ここで帰っちゃったのもニワカちゃんの為せる業なのですがあせる


◆歴史(妄想爆発w)◆

1556年、若狭武田家重臣・粟屋勝久が、古城跡を大改修しました。

と、どこのサイトでも書かれていました。
・・・その古城っていつ誰が築いたの?は素朴な疑問。
どこのサイトにも、その辺については全く書かれていませんでした。
んんん、、、みんなコピペ過ぎるぜぇぇぇ
まぁ、いくら調べても、その古城が何なのかは出てきませんでしたけどw
たま~に「南北朝時代」って書いてあるのがあったので調べました。
手がかりは南北朝時代若狭何があったのか、ということだけです。

室町時代の始め頃、足利尊氏と直義兄弟、後醍醐天皇が三つ巴の争いを演じていました。
この中で、一色範氏は足利尊氏に味方して、九州探題として菊池氏ら南朝方と戦いました。
しかし、九州ではさしたる成果も出せぬまま、1355年には京へ逃げ帰ってしまいました。

一色範氏とその嫡男・直氏はそのまま歴史の表舞台から消えてしまいましたが・・・
次男・一色範光は将軍・足利義詮、次の将軍・足利義満に気に入られて重用されました。
そして1357年、一色範光は三河国と若狭国の守護に任命されました。
この経緯がサッパリわからず、ただ将軍と仲が良かっただけなのか?という感じです。

それから12年経った1369年から2年の間、若狭国が荒れました。
これは領国支配を強化しようとする一色範光と、従来からの国人衆の権益争いです。
大雑把な勢力図は、若狭国の西半分が守護方、東半分が国人衆方といった感じです。
国吉古城?は若狭の東の端なので、国人衆方の勢力圏にありました。
この戦いは守護・一色範光が勝利を収めました。
国吉古城?が使われなくなり、放棄されるのは辻褄が合いますね。

・・・で、1556年頃の若狭では何があって、栗屋勝久は城を築いたのでしょうか。
この頃は、当主・武田信豊とその嫡男・武田義統が争っていました。
この争いもよくわからないので勝手に辻褄を合わせてみます・・・

武田信豊は隠居したがっていた、らしいです。
次の家督を嫡男・義統と次男・信方のどちらが継ぐかで揉めた、、、らしいです。
武田信豊は次男の信方に家督を譲りたかった、、、のかもしれません。
そこで武田信豊と義統との間で争いとなり、義統方が勝利しました。
しかし、ゴタゴタはこれで終わりません。

1561年、朝倉義景による若狭介入が始まりました。

この年、西の重臣・逸見昌経が乱を起こしました。
逸見昌経は丹後国・一色義道の援助を得ていたため、単独で乱を鎮圧できませんでした。
そこで武田義統は、東隣の越前国・朝倉義景の力を借りることにしました。
しかし、これには東の重臣・栗屋勝久が猛反対しました。
朝倉軍の介入により乱はひと段落しましたが、逸見氏と粟屋氏は健在でした。

1563年、国吉城はこの年から毎年のように朝倉軍に攻められました。

何度も朝倉軍に攻められましたが、すべて撃退し守り切っています。
これは「粟屋勝久の国吉籠城」と呼ばれ、後に織田信長も賞賛したそうです。

1566年、粟屋勝久と逸見昌経は、武田義統の嫡男・元明を推して乱を起こしました。

武田元明は1562年生まれなので、この時はまだ3歳か4歳です。
武田義統ってよっぽど家臣受けが悪かったんですね。
しかしこの翌年、武田義統が急死したため、元明が家督を継ぎました。

1568年、朝倉義景が若狭に攻め込み、当主・武田元明を拉致しました。

朝倉軍が若狭に攻め込み、当主・武田元明を連れ去りました。
武田元明は一乗谷で暮らすことを強要されました。
以後の若狭は朝倉氏に従属し、武田義統の弟・武田信方が統治しました。

1570年、織田信長が国吉城を拠点に越前へ攻め込みました。

織田信長は若狭攻めを口実に軍を進め、国吉城に逗留しました。
この時に粟屋勝久をはじめ、多くの若狭の国人衆が織田方に味方しました。
織田信長はここで進路を変更し、敦賀の金ケ崎城を攻め落としました。

1573年、織田信長が朝倉義景を滅ぼしました。

この時、若狭の国人の多くは織田軍に加勢しました。
特に粟屋勝久は一乗谷への一番乗りを果たし、旧主・武田元明を救出しました。
武田元明は粟屋勝久の命乞いにより赦免され、小浜市の神宮寺に蟄居となりました。
一方、朝倉義景より若狭統治を任されていた武田信方は姿を消しました。
以後、若狭の主は丹羽長秀となりました。

1583年、木村定重が城主となりました。

羽柴秀吉が賤ヶ岳の戦いで勝利し、北ノ庄城を攻め落として柴田勝家を滅ぼしました。
この時の戦功により、丹羽長秀に越前が与えられました。
粟屋勝久はこの頃に没したとみられ、その旧領は木村定重が引継ぎました。
木村定重は丹後街道を城寄りに付け替え、佐柿を宿場町として整備しました。

1634年、小浜藩主・酒井忠勝が佐柿奉行所を設置しました。

佐柿奉行所は国吉城の麓に築かれました。
ここには政庁の他、藩主が領内を巡視する際の休憩所も設けられました。
後に佐柿陣屋と改称され、幕末には水戸天狗党の残党を預かる准藩士屋敷が建てられました。


所在地:福井県三方郡美浜町佐柿

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