なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
北ノ庄城は福井城付近にあったとされますが、正確な位置は特定できていません。
訪問日は2008年3月22日です。

北ノ庄城/01柴田勝家像
▲柴田勝家像

北ノ庄城跡には柴田神社があります。
入口はちょっとわかりにくかった記憶が・・・
もう6年も前の事なのであせる
立派な槍を持って睨みを利かせる柴田勝家の銅像がカッコ良いです合格

北ノ庄城/02想像図
▲想像図

すぐ近くには北ノ庄城の想像図付きの説明板がありました。
文章中には天守は九層って書いてあるのに・・・
立派は立派ですが、これ九層でしょうか?
ニワカでスミマセン

お城の事書こうとしてネットを見てたら、図だけでなく模型もあるんですね。
いったいいつ出来たのやら・・・
行った時にあったとしたら、痛恨のミスですwww

北ノ庄城/03お市像
▲お市像

柴田勝家像の裏にひっそり建っているのがお市の像です。
どうせなら2体並べて建てればよいのに、なんてのは素人考えでしょうか。
それとも、勝家さんが照れるからあえて一歩後ろに下がったのでしょうか。
どうしても2ショットで並べたくなります。

北ノ庄城/04説明板
▲説明板

・・・なんてのを実現したような説明板がありましたw
2人だけでなく、その後数奇な運命を辿った3人の娘達まで。
大河ドラマ見ましたが、ここまで時流に翻弄された姉妹も珍しいですね。


◆歴史◆

年代は不明ですが、朝倉頼景が居館を築いたことに始まります。

朝倉頼景は朝倉氏4代目・朝倉貞景の次男として、1380年代に生まれたと思われます。
当時は当主・斯波義敏と守護代・甲斐常治が激しく争っていた時代でした。
甲斐常治は1458年に始まった長禄合戦で斯波義敏に勝ち、越前の実権を掌握しました。
しかし、その翌年に甲斐常治が没すると甲斐家中は分裂したため弱体化しました。

そこで相対的に浮上したのが朝倉孝景でした。
朝倉孝景は応仁の乱を利用しては、越前の実権を掌握しました。
朝倉孝景は越前守護代となり、遠江守護代は一族の長老であった朝倉頼景に贈ったのでしょう。
(朝倉頼景は朝倉孝景の祖父の弟に当たります)

以後、朝倉頼景の系統は北庄姓を名乗るようになりました。
兄が朝倉家の家督を継いだ時点で、頼景は北ノ庄に館を構えていた可能性はありますがあせる

1573年、朝倉氏が滅ぼされ、北庄三人衆が置かれました。

織田信長は北近江の浅井長政の本拠・小谷城を包囲しました。
その勢いに乗って、越前の朝倉を滅ぼしました。
戦後、織田信長は朝倉旧臣の前波吉継を越前守護代にし、北ノ庄には奉行を置きました。

前波吉継は桂田長俊と改名して一乗谷を居城としましたが、翌年、富田長繁に討たれました。
富田長繁は織田信長の元に赴き、顛末を報告したためお咎め無しとなりましたが・・・
富田長繁が桂田長俊を攻める際に利用した土一揆が暴走しました。

土一揆は加賀一向宗の七里頼周を新たな旗頭として富田長繁に反抗しました。
この一揆鎮圧に富田長繁は奇跡的な勝利を続けましたが・・・
その戦いの最中、味方に後ろから撃たれて討死しました。
以後、越前は一向一揆が支配する地域となりました。

1575年、柴田勝家が本格的に築城を開始しました。

越前の一向一揆を討伐した織田信長は、柴田勝家を越前の領主としました。
柴田勝家は一乗谷ではなく、北ノ庄に城を築き始めました。
平地に大規模な城を築くのは、この頃始まったんですね。
北ノ庄城はルイス・フロイスが「安土城にも劣らない」と評した立派な城となりました。

1583年、北ノ庄城が落城しました。

前年の本能寺の変後、織田信長の後継者を巡る争いが続いていました。
その直後に開かれた清洲会議には、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興と羽柴秀吉が出席しました。
この会議の結果、織田家の後継者は羽柴秀吉が推す三法師と決まりました。
しかし、話し合いで決着する時代ではなかったのですねwww

翌年、柴田勝家は羽柴秀吉と雌雄を決しようと挙兵しました。
そのため越前と近江の国境付近の賤ヶ岳で戦いとなり、柴田軍は敗れました。
この時に北ノ庄城も攻め落とされ、柴田勝家は自刃して果てました。
柴田勝家の後、越前は丹羽長秀が領主となりました。

1585年、丹羽長秀が没し、堀秀政が城主となりました。

賤ヶ岳の戦いの翌年、小牧・長久手の戦いで池田恒興が討死しました。
そしてその翌年、今度は丹羽長秀が胃癌のため世を去りました。
清洲会議から3年しか経っていないのに、出席者4人の内3人が世を去ったのです。

羽柴秀吉はこの機会に、123万石もの勢力を持った丹羽家の解体を図りました。
家督を継いだ丹羽長重に難癖をつけて、若狭1国16万石に国替えしたのです。
しかも有力な家臣を引き抜き、堀秀政と、木村重茲、長谷川秀一に越前が与えられました。
彼ら1人1人の所領は、丹羽長重に匹敵するものとなりました。

1598年、堀秀治が越後へ移り、青木一矩が城主となりました。

豊臣秀吉は死の直前、全国的に大規模な国替えを命じました。
京より東では、玉突き的に東へ移る感じでした。
後北条氏を滅ぼした時は、徳川家康と織田信雄を玉突きしました。
この時に国替えを拒否した織田信雄は改易されています。

それから7年経ち、今度は日本海側で同じ事をしました。
越後の上杉景勝を会津と米沢へ移し、越後には堀秀治を移しました。
そして、越前には秀吉の従兄弟・青木一矩を入れました。
青木一矩は播磨の一城主からの大出世でした。

豊臣秀吉は晩年に側近達に所領を沢山与えています。
しかし、その直後に豊臣秀吉は没しました。

1601年、結城秀康が城主となりました。

関が原の戦いに勝利した徳川家康は、西軍諸将の所領をガッツリ奪いました。
越前は江戸に留まって上杉軍を牽制した次男・結城秀康に与えられました。
この時の恩賞は50万石以上の加増で、全国トップの大躍進でした。

更に、この時に徳川家康自ら縄張りをして北ノ庄城を大改修しました。
北陸の大名達に手伝いをさせており、財政的な攻撃を仕掛けたのでしょう。
おそらく、従来の城を原形を留めない位に破壊して、造り直す位はやったかもしれません。
こうして出来上がったのが、現在まで続く福井城です。
北ノ庄城の位置が未だに特定出来ていないのは、このためだと思います。

尚、福居に地名が改められたのは、1623年、松平忠昌が藩主になった時の事です。
さらに、元禄年間後期(西暦1700年頃)に現在の「福井」と改められそうです。


所在地:福井市中央1丁目

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