なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
宮部城跡は宮部神社となっています。
訪問日は2012年8月5日の早朝です。

宮部城/01宮部神社
▲太鼓橋

宮部神社は県道510号「付近」にあります。
道を走っていると、何となく大きな神社があるのが見えます。
ですが、道沿いには民家があって入口がわからず・・・
結局前を通り過ぎた後Uターンして、神社脇の道に入りました。
写真を見ての通りですが、参道がその脇道と平行になっています。
わざと表通りから入りにくくした城の名残でしょうか。

宮部城/02宮部神社
▲由緒書き

その参道脇には宮部神社の由緒書きがあります。
御影石を彫った立派なものです。
創建はとても古いんですね!
戦国時代の宮部継潤についても書かれています。

宮部城/03宮部神社
▲社殿

さっきの参道ですが、途中で回れ左をします。
そこに鳥居があり、その先に社殿があります。
見た感じは普通の神社ですけどねw
お城があった雰囲気は感じられませんでした。


◆歴史◆

宮部城は宮部継潤により築かれました。
歴史に登場するのが織田信長の小谷城攻めの頃なので、1560年代でしょうか。
井守保利社周辺を城砦化したようです。

宮部継潤は元々は小豪族の子で、比叡山で修行をして僧侶となりました。
ちなみに比叡山が織田信長に焼き討ちされたのは1571年です。
故郷に戻ると宮部善祥坊清潤の養子となり、浅井長政に仕えました。

1570年、浅井長政が織田信長との同盟を破棄しました。

これは、織田信長が朝倉景恒の金ヶ崎城を攻めたためです。
朝倉家中では内輪揉めがあり、故意に援軍を送らなかったらしいですが・・・
浅井長政は朝倉氏との関係を重視し、織田信長との同盟を破棄して援軍を出しました。

南北からの挟み撃ちを恐れた織田信長は、命からがら京へ逃れました。
京で体勢を立て直した織田信長は、すぐさま浅井長政に報復を始めました。

織田・徳川連合軍は小谷城下に兵を進め、浅井・朝倉連合軍と姉川を挟んで対峙しました。
この戦いは織田・徳川連合軍が勝ちましたが、すぐには小谷城を攻めませんでした。
小谷城の喉元にあたる横山城を攻め落とし、そこに木下藤吉郎を残しました。

1572年、宮部継潤が織田方に寝返りました。

小谷城は周辺の支城と連携し、とても守りの堅い城でした。
そのため、木下藤吉郎は近江の国人を味方にすることで、小谷城の守りを崩そうとしました。
木下藤吉郎の調略は徐々に効果を現し、浅井家の重臣で佐和山城主・磯野員昌が寝返りました。
その後、続々と国人衆が織田方に寝返る中、宮部継潤も織田方に寝返りました。
この時、木下藤吉郎は宮部継潤に姉・日秀の子を人質に差出しました。
この人質は後の豊臣秀次で、翌年小谷城が落城すると、秀吉のもとへ返されています。

1582年、宮部城は廃城となりました。

その後の宮部継潤は、羽柴秀吉のもとで大活躍しました。
中国地方を攻めた際、山陰方面の総指揮を任された程です。
宮部継潤も調略が得意だったようで、垣屋光成や亀井茲矩らを配下にしています。
但馬、因幡攻めの功により、宮部継潤は鳥取城主となりました。
このため、主を失った宮部城は廃城となりました。

直後に起きた本能寺の変では、秀吉軍不在の中で鳥取城を守りきりました。
宮部継潤はその後も活躍し続け、因幡銀山を開くなどしました。
晩年は豊臣秀吉のお伽衆となり、1599年に没しました。

家督を継いだ宮部長房は、関が原の戦で西軍についたため所領を没収されました。
しかし、田中吉政の助命嘆願により生き延び、盛岡で没しました。
子孫は南部藩に仕えて、家老に就く者もありました。


所在地:滋賀県長浜市宮部町

なぽのホームページ/滋賀県を表示
AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

なぽさんの読者になろう

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。