なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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小谷城は琵琶湖の北東にありました。
訪問日は2012年8月5日の早朝です。

小谷城/01案内板
▲付近には目立つ看板があります

小谷城跡へはナビが無くても行けるんじゃね?ってくらい案内が充実しています。
・・・バイクにナビ無いですがw
当時でもとっくに終わってましたが、デカデカと「大河ドラマ~」の字が躍っています。

小谷城/02登城口
▲登城口

登城口前には大きな駐車場が。
あれ?道はあるのになんで?と思ったら、赤地に白一文字の家紋マークが。
一般車両通行止めで、専用バスしか通れないとは・・・
大河ドラマ効果で山上にクルマ停められない程人が押し寄せてる、って事でしょうか。
着いたのが朝6時前で、始発のバスが9時くらい。
2km程なら徒歩で行って帰る位の時間はありそう、ということで歩くことに。

小谷城/03大手道
▲大手道

そのバリケードの脇に「大手道」なるものがありました。
おいらこういう道より舗装された道が好きなので、ということで車道へGo!
後から地図見たら、徒歩なら大手道の方がずっと近道でした (((´・ω・`)

小谷城/04番所の説明板
▲番所の図

小谷城/05番所跡
▲番所跡

小谷城/06御茶屋~黒金門
▲御茶屋から黒金門までの図

小谷城/07御馬屋跡
▲御馬屋跡

途中、要所要所には曲輪があり、このように図が配置されています。
イラストと実物をその場で見比べられ、とてもわかりやすいです合格

小谷城/08首据石
▲首据石

そろそろ本丸か、という所で道端に大きな岩が。
その横に立て札があり、そこには「首据石」と書かれていました。
確かに上に何か置くには丁度よさそうですが・・・
想像すると、かなり怖いです。
マネキンとか置いてなくてホントよかったw

小谷城/13黒金門跡
▲黒金門跡

そこからすぐですが、とても厳重そうな場所に辿り着きました。
ここが黒金門跡で、本丸への入口です。
石組みだけでも厳重な感じが伝わりますね。
ここはその名から、鉄でしっかりガードされた門があったと推定されています。

小谷城/10本丸の案内図
▲本丸の図

小谷城/11黒金門から見た本丸
▲黒金門から見た本丸

黒金門の石段を登ると、とても広い場所に出ました。
登城口から本丸まで、徒歩で34分かかりました。
本丸の奥の方に石垣がヽ(´∀`)ノ
ここに来るまで石垣は全く無かったので。
(たぶん無かったと思いますあせる

小谷城/12本丸の石垣
▲本丸の石垣

早速近づいてパチリパチリと撮影。
やっぱり石垣のある城跡はいいもんですヽ(´∀`)ノ

案内図では、更に奥にまで城域は続いていましたが・・・
沢山城跡を回りたかったのに、朝一番から想定外のタイムオーバー。
ということで、本丸の石垣見てそのまま山を下りました。

それにしても、舗装道をバイクで登れないなんて、時間のロスは大き過ぎです。
参考に見たサイトはどこも情報が古く、番所まで車で登れると書いてありました。
専用バスしか走れなくなったのは大河ドラマの影響でしょうか・・・
しかも、バスは始発が遅く、本数も少ないし(´・ω・`)
今調べてみると、このバスは夏休みなど期間限定で走ってる模様。
あれだけの道を歩かされると、却って客足が遠のくのではと心配です。

※最近の口コミを見ていると、バス運行期間外は番所跡までクルマで登れるそうです^-^;


◆歴史◆

築城年は定かではないのですが・・・
1525年、六角定頼が攻め込み、浅井亮政は小谷城に篭城しました。
この時既に城があったということですね。

六角定頼は観音寺城を本拠とし、南近江を支配していました。
一方、浅井氏は小谷城を本拠として北近江を支配していました。
浅井氏は元々は京極氏に仕える国人衆でした。

その京極氏で家督争いがあり、1523年に京極高清・高吉父子が追放されました。
この時に主を追放した国人衆のリーダー格が浅見貞則と浅井亮政でした。
ところが、浅見貞則は専横的な振る舞いを見せるようになり、国人衆の反発を買いました。
そこでまた戦になって浅見貞則は追放され、浅井亮政がリーダーとなりました。

このゴタゴタを利用し、傀儡となった京極氏に近づいたのが六角定頼でした。
京極氏は元々は六角氏の庶流なので、六角氏が攻め込む良い口実となりました。
この時は六角軍を撃退しています。

1534年、浅井亮政は京極高清・高延父子を小谷城に招きました。

六角定頼の侵攻を受けていたこともあり、家中の分裂を避けるためと思われます。
元々はこの父子の不和が家中分裂の原因でした。
しかし、この父子が和解したのは、浅井亮政から実権を取り戻すことが目的だったようです。

1538年、六角定頼が攻め寄せ、浅井亮政は一旦美濃へ逃れました。

お騒がせだった京極高清が、上平寺城で79年の生涯を閉じました。
傀儡とはいえ、元主君の死が家中に及ぼす影響は小さいはずはありません。
これを好機と捉えた六角定頼は、再び小谷城へ攻め寄せました。
この陣中には家督争いに敗れた京極高清の次男・京極高吉も居ました。
小谷城を包囲された浅井亮政は美濃に逃れ、六角軍が退いてから城に戻りました。
近江では国人達の連携がとてもよく、本城を落とされても復帰することが多いようです。

1541年、浅井家で家督争いが起きました。

浅井亮政が病に倒れると、浅井家中では家督を巡る争いが起きました。
浅井亮政は浅井家庶流の出身で、浅井久政は側室の子でした。
久政には正妻の子である異母姉がおり、浅井家庶流の田屋明政に嫁いでいました。
さらに、久政は家督を継ぐ気がないような言動をしていたそうです。
最近見直されつつある久政ですが、暗愚と評されていたのにも一理ある訳です。

この争いに付け込んだのが京極高延でした。
京極高延は田屋明政に加勢することで、再び当主の座を狙ったのかもしれません。
しかし、ここが最近浅井久政が見直されている点らしいですが、驚きの一手を打ちます。
それは・・・何と・・・六角定頼の軍門に降るという禁じ手でした。

これは見事というか、完全に想定外ですね。
父の代に何度も攻め寄せてきた六角定頼の力を逆手に取った一手です。
これにより家督争いを制した浅井久政が、亮政の跡を継ぎました。

1560年、野良田の戦いで浅井軍が六角軍に大勝しました。

浅井久政の嫡男・新九郎が15歳となり元服を迎えました。
六角義賢は自らの名から一文字与え、「浅井賢政」と名乗らせました。
「浅井賢政」では誰も知りませんが、浅井長政の事です。
また「浅井賢政」には六角家重臣・平井定武の娘を娶らせています。
せっかく従った北近江の浅井氏を、六角義賢も手放したくなかったんですね。
当然と言えば当然ですがw

浅井久政の長年の弱腰外交に、浅井家中では不満がくすぶっていたのでしょう。
浅井賢政は反六角派の家臣を集め、独立の動きを見せました。
観音寺城下で暮らしていた浅井賢政は小谷城に戻り、名を新九郎に戻しました。
それだけでなく、平井定武の娘も親元に返しています。

激怒した六角義賢は、京極高吉に2万5千の兵を付けて浅井新九郎を攻めさせました。
新九郎が集めた浅井軍は1万1千と、六角軍の半分以下でした。
しかし、見事な戦いぶりに浅井家一同心酔したそうで・・・
この時に落ち目の六角家を見限り、浅井家に寝返る国人衆が数多くいたそうです。
その2ヶ月後、国人衆は浅井久政を竹生島に幽閉し、長政を新たな当主としました。

1565年、織田信長と同盟を結びます(1568年説もあります)

そのきっかけとなったのが、後に将軍となった足利義昭です。
1565年に将軍・足利義輝が暗殺された後、足利義秋(義昭)は六角氏を頼りました。
しかし、六角氏が敵の三好三人衆に通じていることを知り、近江を出ました。
越前の朝倉義景のもとに逗留していた足利義秋でしたが、上洛する気配がありません。

ちょうどその頃、織田信長が美濃を攻略していました。
美濃を攻略するには、その向こう側の近江を味方にするのは当たり前ですね。
ただ、この同盟には浅井久政や重臣・遠藤直経らが反対しました。
それは、織田信長が浅井家の古くからの盟友・朝倉家と仲が悪かったのです。
浅井長政も、まさか数年後に織田信長が朝倉義景を滅ぼすとは思わなかったでしょう。
この同盟に当たって、絶世の美女と謳われた信長の妹・市が嫁入りしました。
同盟に反対する浅井家中も、これで信長の気合いに負けたのでしょうね。

1567年、織田信長が美濃を制圧しました。
1568年、浅井長政は、織田信長とともに足利義昭を奉じて上洛しました。

ここまでは良かったんですけどね・・・

1570年、小谷城下の姉川で、織田信長と戦いました。

発端は、織田信長が朝倉義景の金ヶ崎城を攻めたことです。
織田信長は、徳川家康や松永久秀、池田勝正らとともに琵琶湖西岸を北上しました。
領内を北へ進む織田軍を、なぜ浅井長政が通したのか・・・
それは、表向きの理由が若狭の武田氏討伐だったからです。
そのためだったのかもしれませんが、織田軍は金ヶ崎城を攻め落としました。

しかし、織田軍の盟約違反に浅井長政は黙っていませんでした。
すぐさま朝倉救援軍を編成し、織田軍に攻めかかりました。
北の朝倉軍と南の浅井軍に挟み撃ちにされるため、織田軍は急いで撤退しました。
これが金ヶ崎の退き口と呼ばれる戦いです。
これにより織田信長と浅井長政の同盟は無効となりました。

京へ逃げ帰った織田信長は、体勢を立て直すとすぐさま報復に出ました。
姉川での合戦は織田・徳川軍が勝利しましたが、小谷城は攻めませんでした。
それは小谷城が堅城で、力攻めしても無駄に兵を損じる恐れがあったからでした。
織田軍は小谷城の麓にある横山城を攻め落とし、木下藤吉郎を城番にしました。

1573年、小谷城が織田信長に攻められ落城しました。

姉川の戦いには敗れましたが、小谷城とその支城は健在でした。
そのため、織田軍は小谷城を包囲出来ない状態が続いていました。
この状況を打開したのが木下藤吉郎でした。

人たらしで知られる木下藤吉郎は、浅井家に従う国人を根気強く口説き続けました。
その結果、磯野員昌や宮部継潤などの重臣クラスも織田方に寝返るようになりました。
こうして周辺から少しずつ織田方の国人が増え、山本山城の阿閉貞征も寝返りました。

山本山城は小谷城の支城で、琵琶湖東岸を南北に通る街道を押える城です。
この城が手に入った事を知ると、織田信長はその日の内に出陣しました。
小谷城に織田軍が攻め寄せた知らせを受け、朝倉軍が援軍に駆けつけますが・・・
山本山城が織田軍に占拠されているため、小谷城に近づくことが出来ませんでした。

朝倉軍が状況を把握して移動しようとした所を織田軍が急襲。
朝倉軍は総崩れとなって撤退しました。
この機を逃さず織田軍は追撃し、朝倉義景を滅ぼしてしましました。

朝倉氏を滅ぼした織田軍は小谷城に戻り、城攻めを開始しました。
まずは木下藤吉郎の一隊が清水谷の急斜面から京極丸を攻め落としました。
京極丸は本丸よりも更に奥まった所なので、常識では考えられない攻め方ですねw
これにより城内で浅井久政と浅井長政の連携が絶たれ、小谷城は落城しました。

この戦での働きにより、木下藤吉郎は伊香郡・浅井郡・坂田郡12万石を与えられました。
この時に木下藤吉郎は、羽柴秀吉に改名しています。

1575年、小谷城は廃城となりました。

城主・羽柴秀吉は、北国街道と琵琶湖に面した今浜に新たに城を築きました。
この時に地名を「長浜」に改めています。


所在地:滋賀県長浜市湖北町伊部

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100名城スタンプは小谷城戦国歴史資料館河毛駅コミュニティハウスで押せます。
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