なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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観音寺城は琵琶湖の南にある繖山(きぬがさやま)にありました。
訪問日は2012年8月4日です。

観音寺城/01観音正寺の案内図
▲観音正寺の案内図

登城路は10本以上あるそうですが、おいらは多分一番楽な観音正寺から登りました。
とても目立つ所なので、たぶん迷う事はないと思われます。
この道は「林道観音寺線」で、地図に赤い線を入れておきました。
通行は有料で、その終点が観音正寺の駐車場になっています。

観音寺城/02参道にある石垣
▲参道の石垣

駐車場から観音正寺への参道にはぼちぼち石垣があります。
全山総石垣のお城というイメージで訪ねましたが、その通りですねヽ(´∀`)ノ
そこかしこに石垣が見られました。
あまりに沢山あったので、4枚を1まとめにしちゃいました合格

観音寺城/03観音正寺
▲観音正寺

やがて綺麗に切り開かれた場所に出ました。
観音正寺です。
とても参拝者が多いらしく、綺麗で大きな建物が並びます。
ここも昔は曲輪の1つだったんでしょうか?

観音寺城/04観音正寺の石垣
▲石垣

境内から観音寺城へは左の脇道を進みます。
その時に見事な石垣の脇を通りますが、この石垣はお寺のです。
お寺のですが、お城のに見えてしまいます。
これがお城のだったら、ここが本丸じゃないとおかしいくらいに立派です^-^

観音寺城/05本丸までの道端にある石垣1

観音寺城/06本丸までの道端の石垣2
▲本丸までの道端にある石垣

その立派な石垣を過ぎると、普通の山道に変わります。
ただ、やっぱり石垣はそこかしこに見られます。
ここまで石垣で固めるのって、何ででしょうね?
お城で石垣が流行るのは、織田信長や豊臣秀吉が支配した所が多いです。
観音寺城の六角氏はその織田信長に滅ぼされ廃城になったのですが・・・
その頃にはすでに、石垣だらけだったことになります。
・・・おっと、長くなりそうあせる

観音寺城/07本丸にある説明板
▲本丸にある説明板

観音寺城/09本丸の石垣2
▲石垣

本丸は周囲を石垣で固められた土塁?に囲まれています。
観音寺城ってどこへ行っても石垣があります。
長い年月戦いに明け暮れたお城だからこそなのかもしれません。

観音寺城/13伝平井屋敷2
▲伝・平井氏屋敷跡

観音寺城/11伝落合屋敷2
▲伝・落合氏屋敷跡

その本丸のすぐ下には、平井氏と落合氏の屋敷跡と伝わる曲輪があります。
位置的には追手道の本丸手前なので、二の丸や三の丸に相当する場所です。
ということは、平井氏と落合氏は一門かそれに準ずる立場だったのでしょう。
周囲を石垣でガッチリ固められていて、とても見応えがありました。
・・・ですが、見始めるとキリが無いので、ここいらで次のお城へ向かいました。


◆歴史◆

築城された年代はわかっていません。
1335年、南朝方・北畠顕家軍の攻撃に備えて、六角氏頼が籠ったと太平記に記されています。

観音寺城は琵琶湖南岸にあって東から京への道や、伊勢に至る街道を押えていました。
その主は近江源氏の末裔・六角氏でした。

六角氏の祖は佐々木秀義で、平安時代末期の人物です。
秀義は源義朝に仕え、平治の乱で源義朝が討たれると、関東で渋谷氏に匿われました。
その後、源頼朝に従って平家を滅ぼすと、旧領・近江一国を与えられました。
佐々木氏はその後全国に所領を得て、出雲の尼子氏、越後の新発田氏などが派生しています。

佐々木秀義の曾孫・佐々木泰綱が、宗家を継いで六角姓を名乗りました。
ちなみに、佐々木泰綱の弟・氏信は京極姓を名乗りました。
それぞれの名の由来は、京に構えた館のある場所の地名です。
六角氏は南近江を、京極氏は北近江をそれぞれ支配していました。

1445年、六角家で家督を巡る争いが始まりました。
同じ六角姓が入り乱れて分かりづらいので、下の表にまとめましたあせる
数字は家督を継いだ順番です。

六角満綱
時綱に襲われ自害 
→嫡男・六角持綱
時綱に襲われ自害 
六角政信
はじめ西軍、六角政堯死後東軍へ
→次男・六角時綱
京極持清・六角久頼に討たれる 
六角政堯③⑤
京極持清派・東軍
→三男・六角久頼
京極持清と対立し自害 
六角行高(のち高頼)④⑥
京極持清・六角政尭と対立。西軍。 

六角満綱と嫡男・持綱が、満綱の次男・時綱により自害させられました。
これは嘉吉の乱(1441年)後、近江国での混乱を収められなかった不満によります。
間もなく幕府から時綱追討令が出され、京極持清と六角久頼により討たれました。

1468~78年、応仁の乱では六角家中が分裂しました。
六角家中は当主・六角行高派と一門筆頭・京極持清派に分かれて戦いました。
その中で観音寺城は何度も戦場となり、この間だけで2度落城しています。

1469年、六角行高は近江守護を解任され、京極持清が近江守護となります。
1478年、応仁の乱が終息。六角行高が近江守護に再任されました。

やっと平和が訪れたのかと思いきや、今度は足利将軍と対立して何度も討伐されます。
これは、公家・寺社の領地を横領して国人衆に与えたことに端を発しています。

1487年、将軍・足利義尚に攻められ、六角行高は甲賀へ逃れました。
1491年、将軍・足利義材(後の義尹、義稙)に攻められ、再び甲賀へ逃れました。
1493年、将軍・足利義高(後の義澄)の追討を受け、近江守護となった山内就綱と戦いました。
1495年、六角行高が近江守護に復帰。将軍・足利義高の偏諱により、六角高頼と改名しました。

以後、六角高頼は足利将軍家との関係修復に努めました。
1520年、六角高頼が没すると、孫の六角定頼が家督を継ぎました。

1523年、六角定頼は観音寺城の周囲に家臣団を集めました。

これが現在残る観音寺城の原型なんですね。
主城の周囲に家臣団を住まわせる手法が、後の一国一城令のヒントになったとされます。

1549年、六角定頼は観音寺城下に楽市・楽座を開設しました。

楽市・楽座というと、織田信長が連想されますが、始めたのは六角定頼でした。
これにより、観音寺城周辺は一大商業都市に発展したそうです。
六角定頼の頃が六角氏の最盛期で、中央政界にも影響力を及ぼしていました。
この年、管領・細川晴元と三好長慶が戦った江口の戦いに、六角定頼も参戦しています。

1552年、六角定頼が死去。六角義賢が家督を継ぎました。
1560年、浅井長政討伐のため遠征しましたが、大敗しました。(野良田の戦い)

この頃から六角家の凋落が始まります。
六角義賢の軍勢は、浅井長政の軍勢の倍以上の兵力でした。
この戦いの結果、六角家中では六角義賢に対して反抗する者が出るようになります。
一方の浅井家でも、浅井久政が強制的に隠居させられ、浅井長政が家督を継ぎました。

1563年、六角義治が重臣・後藤賢豊を観音寺城内で惨殺しました。(観音寺騒動)

後藤賢豊は六角定頼の時代からの功臣で、とても人望がありました。
進藤貞治とともに「六角氏の両藤」と称され、当主代理の権限を持っていました。
そのためまだ若い六角義治と不和になり、当主のメンツを保つため暗殺されたと思われます。

ところが、これが国人衆の猛反発を招き、父・義賢とともに観音寺城から追放されました。
父・義賢も三好長慶や三好三人衆に連戦連敗を喫し、国人衆からの信望を失っていたからです。
蒲生定秀・賢秀父子の仲介で六角義賢・義治父子は観音寺城に復帰しましたが・・・
家督を弟の六角義定に譲ることと、当主権限の大幅縮小という条件を呑まざるを得ませんでした。

1564年、三好長慶が病没。
1565年、足利義輝が三好三人衆と松永久秀により暗殺されました。
1568年、観音寺城が廃城となりました。

三好長慶の死により、三好三人衆と松永久秀は幕政を牛耳ろうと目論んでいました。
長慶の死を待ち望んでいたのは彼らだけでなく、将軍・足利義輝も同じでした。
足利義輝は三好長慶を使って、政敵を1人ずつ滅ぼしてきたのでした。
そして最大の味方にして最大の敵・三好長慶が、ようやく世を去りました。

足利義輝は文武に優れ、剣は塚原卜伝から奥義「一乃太刀」を伝授された程でした。
足利将軍家の権威回復のため着々と準備を進めていましたが・・・
そんな矢先に三好三人衆らの兵に襲われました。
敵兵に囲まれながらも、足利義輝は刀を奮って応戦したと伝わります。

足利義輝の暗殺後、その弟・足利義秋は還俗し、将軍になるべく活動を開始しました。
義秋は近江の六角氏、浅井氏、越前の朝倉氏、若狭の武田氏を頼って上洛するつもりでした。
しかし、どの家中も内紛などで上洛する余裕などなく・・・
上洛出来る気配が無いのは名前のせいだとして、足利義昭に改名しました。

そんな時に、尾張の織田信長が急浮上します。
織田信長は尾張一国をまとめあげ、飛ぶ鳥も落とす程の勢いがありました。
足利義昭は朝倉家重臣・明智光秀の仲介で、織田信長に上洛に付き合うよう依頼しました。

そうして1568年、織田信長と浅井長政の軍勢に守られ、足利義昭は上洛しました。
途中、近江で三好三人衆の味方となった六角義賢が上洛を阻む動きを見せました。
そのため、織田軍と六角軍の間で戦が始まりました。
この戦に敗れた六角義賢は観音寺城を退去し、甲賀の石部城に移りました。

六角氏伝統の技なんですねw

六角軍は織田軍と戦い続けますが・・・観音寺城を取り戻すことができませんでしたあせる
1574年の戦で敗れた六角義賢らは、夜陰に紛れて逃れて消息がわからなくなりました。

1576年、六角氏を完全に駆逐した織田信長は、安土城の築城を始めました。

その後、織田信長が没して豊臣秀吉の時代になると、六角義賢は再び世に姿を現しました。
六角義賢・義治父子は、足利義昭らとともに御伽衆として豊臣秀吉に仕えました。


所在地:滋賀県近江八幡市安土町石寺

なぽのホームページ/滋賀県を表示

・地図中にある「観音寺城跡」の所には「佐々木城跡」の石碑があるそうです。
・100名城スタンプは安土城郭資料館楽市会館桑實寺と観音正寺の休憩所にあります。
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