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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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花尾城は皿倉山の西隣にある花尾山にありました。
訪問日は2013年12月30日です。

花尾城/①公園入口
▲花尾公園の入口

都市高速を跨ぐ橋を渡り、ヘアピンカーブの手前ですぐ左折。
すぐまた右折して狭い道を進んで行くと、写真の公園入口に辿り着きます。
ここには駐車場は無く、入口のスペースにクルマを停めさせてもらいました。
先客が居たので反対の端に停めたのですが、間にもう1台というのは無理そうですね。

花尾城/②堀切
▲堀切

できるだけ効率的に見て回りたい!ということで、東から順に見ることにしました。
途中で帆柱山城跡にも寄り道するので、できるだけ登って下りてをしたくなかったので。
東登山道はしばらくひたすら水平に東へ進みます。
それがキュッと南へ鋭くカーブしたかと思うと、九十九折れに変わります。
その途中に忠魂塔への案内があり、それを過ぎるとすぐに写真の堀切が現れます。
いきなりハッキリした遺構に出くわしてヽ(´ー`)ノ状態になりました^-^

花尾城/③馬場
▲馬場

この堀切に付けられた道を登ると、細長い削平地に出ます。
ここが馬場です。
山城のテッペンにあるこういう郭は大抵「馬場」と呼ばれていますが・・・
お馬さんも山登りさせたんですかね?
しかも思い切り走らせるような長さもありませんし。
いつもギモンに思っています。
例えとして付けられた名前なのかもしれませんね。

花尾城/④大堀切
▲大堀切

馬場を西へ進むと高台があり、その裏に回った瞬間に絶句しました。
ものすごく深い堀切がありますヽ(´ー`)ノ
たぶん、高低差は7、8m程。
この堀切の向こう側が本丸です。
ここも堀切に付けられた細道を下りて、本丸側を登りました。

花尾城/⑥本丸の東側
▲本丸の東側

大きな堀切からちょっと距離はありましたが、先に本丸に辿り着きました。
二の丸、三の丸は通ってないので、東登山ルートは搦め手口ということでしょうか。
公園入口からの所要時間は25分でした。

花尾城/⑦本丸の石垣
▲本丸の東側と西側の間にある石垣

本丸の東端に辿り着くと、西側の方が1段高くなっていました。
ここも本丸(主郭)を2段にしているのですね!
その段差の所に石垣が組まれていましたヽ(´ー`)ノ
東側から登ると、最初に拝める石垣です。

花尾城/⑨本丸から北東側

花尾城/⑧本丸から北西側
▲本丸からの眺め(北西と北東)

その高い方には展望台があり、そこから北側を一望することができます。
左が北西側で、遠賀川から八幡西区、若松区が丸見えです。
右が北東側で、若松区、八幡西区・東区、戸畑区などが丸見えです。
・・・要するに、麻生氏の所領はほぼ全て見渡すことができます。

花尾城/⑩本丸から皿倉山
▲東の皿倉山

花尾城/⑪帆柱山
▲南西の帆柱山

さらに、東には皿倉山、南西には帆柱山が見えます。
この2つの山は花尾城よりも標高が高く、花尾城全体が丸見えになります。
敵に抑えられるとアウトな拠点がすぐ近くにあるんですね。
応仁の乱で西軍の主力だった大内政弘から3年も守りきった麻生家延って何気にスゴイ!

花尾城/⑫二の丸
▲二の丸

花尾城/⑬二の丸西側の石垣
▲二の丸西側の石垣

本丸の西側の急斜面を下ると、二の丸があります。
花尾城の特徴としては、各郭の間が急斜面で隔離されています。
この二の丸は特にこれと言って何も無いのですが・・・
その西側には、斜面を補強するような感じで石垣が組まれています。

花尾城/⑭城址碑
▲城址碑

二の丸から三の丸に下る途中、左(南側)に道が分かれています。
帆柱山城へ寄り道するため、左へ進んで一旦花尾城を離れました。
この道はかなり下ります。
帆柱山城から戻ってきたら、またこの坂を登るんだぁ、と少し気分が萎えました。

この坂を下り切った所に、とても立派な城址碑がありました。
なぜ城域から外れた所に?
本丸にあればみんな見落とすこともないだろに・・・
帆柱山城への寄り道が無ければ、完全に見落としていたモニュメントでした。

花尾城/⑮三の丸
▲三の丸

花尾城/⑯二の丸虎口の石垣
▲三の丸虎口の石垣

帆柱山城から戻り、さっきの坂を登り直して三の丸へ。
三の丸も郭自体はただの広場です。
が、その出入口が重要で、敵の侵入を妨げるような構造になっています。
四の丸側の出入口には、地形を補うためか、わずかながら石積みが見られました。

花尾城/⑰三の丸
▲四の丸

花尾城/⑱ヤグラ台
▲ヤグラ台

三の丸から更に四の丸、ヤグラ台へと下ります。
各郭はやはりただの広場ですが、四の丸からヤグラ台への坂道がまたとても急でした。
下るのにも滑り落ちないようかなり神経を使います。
ただ登るだけでもキツそうですが、攻撃されながら攻め登るのは至難の業だと思います。


◆歴史(後半はほぼ推測です)◆

1194年、花尾城は、山鹿氏と麻生氏の祖・宇都宮重業によって築かれました。

年代的に見て、源平合戦の戦功で領地を与えられたようです。
宇都宮氏はこの頃、全国各地に所領を得ています。
有名どころでは豊前の城井氏、筑後の蒲池氏、伊予の宇都宮氏など。
現在、宇都宮姓が一番多いのは愛媛県だそうです。

宇都宮重業の子・家政が山鹿城を築いて山鹿姓を名乗るようになりました。
以後、筑前の宇都宮氏本流は山鹿氏となります。
山鹿家政の孫・資時は麻生荘を分け与えられて麻生姓を名乗るようになりました。

南北朝時代、山鹿本家は南朝に、麻生氏は北朝に味方しました。
最終的に北朝が優勢となって統合したため、麻生氏が本家となりました。

1478年、麻生家延と麻生弘家の家督争いに大内政弘が介入します。

1436年に惣領・麻生家春が嫡男・家慶ともども、少弐氏との戦いで討死しました。
家慶の嫡男・又光丸はまだ幼子だったので、家春の弟・弘家が後見となりました。
ところが、間もなく又光丸も世を去り、そのまま弘家が家督を継ぎました。

この家督相続を幕府が裁定するまで2年かかっており、ひと騒動あったのかもしれません。
家春の嫡男・家慶には弟・家延が居り、順序として家延が継ぐのが筋だからです。
家延はそれから35年後、麻生家中の不満分子をまとめあげ、弘家を花尾城から追放しました。
追放された弘家は応仁の乱で西軍総大将であった大内政弘を頼り、家延への攻撃を始めます。

応仁の乱が終わった1477年から攻撃が本格化し、家延は岡ノ庄へ移ることで和議に応じました。
そのため麻生弘家が総領の地位に復帰しましたが、麻生氏は大内氏に取り込まれました。

1549年?、麻生弥五郎が大内義隆の怒りに触れて花尾城を追放されました。

麻生弥五郎がどのような人物であったのかは定かではありません。
当時の大内氏は相良武任の文治派と、陶晴賢の武断派に分かれて対立していました。
当主・大内義隆は文治派寄りでしたが・・・政務そっちのけで風流を楽しんでいました。
1548年に相良武任が評定衆に復帰した際、陶晴賢が武任を暗殺しようとして失脚しました。
もしかしたら、この時に麻生弥五郎が関係していたのかもしれませんね。

1551年、花尾城の相良武任が討たれました。麻生鎮里が城主に?

大内家中で失脚していた陶晴賢が謀反を起こし、大内義隆を自刃に追い込みました。
矛先は大内義隆の側近・相良武任にも向けられ、花尾城を攻めて武任も自刃しました。

麻生鎮里の事はよくわからないのですが・・・調べた範囲で推測してみました。
鎮里は麻生家延の子で大内氏に仕え、1523年から安芸国・水晶城の城主を務めていました。
麻生家延は大内政弘と戦ったので、鎮里は和議で送られた人質だったかもしれません。
陶晴賢の乱後も水晶城主であったことから、大内家中では武断派だったと思われます。

1555年、毛利元就が陶晴賢を厳島合戦で討ち取ります。

毛利元就は大友義鎮と同盟を結んでいました。
陶氏に勝利した勢いのまま、元就は大友義鎮の弟・大内義長まで滅ぼしてしまいました。
弟が滅ぼされるのを見ていることしか出来なかった義鎮は、さぞ無念だったろうと思います。
この同盟では、北九州は大友氏に属するとされていたようです。
麻生鎮里は水晶城のこともあって反毛利で、すんなり大友氏に属したと思われます。
名前の「鎮」の字が、いかにも大友義鎮から与えられたように見えますね。

1558年、小早川隆景が門司城を攻略したため、大友義鎮が反撃する。

おそらくこの時点で山鹿城に麻生隆実、花尾城に麻生鎮里が居たと思われます。
親の代の因縁で仲は悪かったと思われますが・・・
麻生隆実が反大友氏を貫いていたのは、麻生鎮里との対立があったせいかもしれません。
近くで毛利軍と大友軍が衝突した場合、麻生家中が真っ二つに割れるのは当然ですね。

1559年、大友軍に攻められ、花尾城が落城しました。

大友軍が門司城をはじめ、毛利軍に奪われた北九州の奪還に動きました。
この時に花尾城主として大友軍と戦ったのが麻生隆実ということは・・・
麻生家中で争いがあり、麻生鎮里が一旦敗れて花尾城を退いたということですね。
それを受けて大友軍が攻めたのではないかと推測されます。

1561年、毛利軍に攻められ、花尾城が落城しました。

今度は毛利軍が逆襲に転じ、北九州に本格的に攻め込んできました。
その時に花尾城も攻められて落城し、麻生隆実が城主になっています。
一見すると毛利氏と大友氏が争っているように見えるのですが・・・
麻生家中で争っているように見せることで、都合よく言い訳できたのかもしれません。

1564年、毛利氏と大友氏が和議を結び、花尾城は大友氏に属することとなりました。

反大友派の麻生隆実も大友氏に属するようになりましたが・・・
隆実は大友家中の内情を毛利氏に漏らすようになりました。
毛利氏が筑前に放ったスパイが戻らない中、隆実の漏らす情報は貴重だったそうです。

1567年、麻生鎮里は麻生隆実と戦って敗れ、島津義久の許へ逃れました。

うがった見方をすれば、南で勢力を拡大し続ける島津氏とのパイプ作りかもしれません。
大友宗麟の所へ駆け込まないのがミソですね。
対立していたのは事実なのでしょうが・・・。
麻生鎮里はあまり表に出てきませんので、そのまま薩摩に居たかどうかもわかりません。

1568年、毛利軍が大友氏の立花城を攻めた際、麻生隆実は毛利方に寝返りました。
1569年、毛利軍が撤退したため、麻生隆実は花尾城を退いて山鹿城に入りました。


ググってみると、この時に花尾城に入ったのが竹尾城主・麻生鎮里というのもありました。
麻生鎮里はどうやら麻生領の南西部に居て、帆柱山城も支配していたようです。
1571年には大友宗麟が立花道雪に麻生隆実の討伐を命じています。
なぜ麻生鎮里に命じないのか?という疑問も沸いてくるのですが・・・
鎮里は大友宗麟に信用されていなかったのかもしれませんね。
麻生隆実はその後、元通り山鹿城に戻って来ています。
その辺の経緯がサッパリわからないのは、麻生家中で証拠を残さなかったのかもしれません。

1586年、豊臣秀吉の九州征伐で、麻生家氏(隆実の子)は降伏しました。
      家氏は筑後へ移され、花尾城は廃城になりました。


麻生鎮里がよくわからないのは、九州征伐の時にも麻生家中にその名が登場するからです。
この時鎮里は、豊臣秀吉に人質を送ったのですが、後に島津側につきました。
そのため人質2人が処刑されたそうなのですが・・・人質は誰だったのでしょうか?w
1523年に城主になる位でしたから、この時すでにかなりの高齢だったと思われます。
子が親の名を継いで同名を名乗った、というのも考えられなくはありません。
その後鎮里がどうなったのかもサッパリわかりません。


所在地:福岡県北九州市八幡西区鳴水 【地図・写真のみ印刷用】 【文章も印刷用】

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