なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
桐生城は別名・柄杓山城とも呼ばれ、城山の山頂にありました。
訪問日は2012年5月26日です。

桐生城/城山林道の突当り
▲城山林道の突き当たり

桐生城へは城山林道を登ります。
突き当たりは写真の通りバリケードが設置されていて、一般車はここまでしか進めません。
余程ここへ来る車が多いのか、この手前には10台は停められる駐車場となっていました。

桐生城/案内板①
▲案内板①

この駐車場には、上のとおり案内板があります。
かな~りザックリしていますが・・・このイメージはとても大事です。
忘れちゃうと、後でとても痛い目に遭います。
・・・と経験者は語るw

桐生城/案内板②
▲案内板②

城山林道の突き当たりからは徒歩で登ります。
歩き始めてから5分ほどでこの案内板が現れます。
ところが、この案内板がクセ者でして・・・
林道脇の空き地の入口にあるコヤツ、この案内では道が分岐して描かれていません。
しかも、場所的にも林道がヘアピンカーブで曲がり切った所。
おいらはそのまま林道を歩き続けたのでした。

・・・先に書いちゃうと、ここから空き地へ突き進むのが正解です。
1枚目の案内板で道が枝分かれしているのがココだったのです。

桐生城/銀竜草
▲銀竜草

林道はやがて未舗装になり、獣道になり、そしてただの山林に。
何となく歩いた跡がある?的な所を追って急斜面を登りました。

途中、20年以上ぶりに銀竜草に遭遇。
異名は幽霊茸ですが、れっきとした植物です。

更に斜面は険しさを増し、本格的にただの山に。
何かおかしい?と思いつつ、頂上が見えて来たので登り切ると・・・
稜線に沿って遊歩道が現れました。
でも、城跡らしき様子はかけらも無し。
そこで初めてiPhoneで位置を確認すると、城山からかなり離れた北西の山に居ましたwww

・・・どこかで道を間違えたと、ここでやっと気付いたのでした。
とりあえず山を下りなきゃということで、何となく町の方向へ遊歩道を歩きました。

桐生城/三の丸の堀切
▲三の丸の堀切

気を取り直して、とはいいつつかなりガッカリ。
正午に登り始め、林道の突き当たりまで歩いて戻ったのが15時頃。
もう帰ろうかと心も折れ掛けましたが、また来直す方がメンドイと登り直しました。

そして、案内板①をよ~っく見直した結果、途中で道が分かれている事に気が付きました。
どこかで左へ道が分かれるハズだと林道を登り直していると・・・
案内板②の空き地の奥に、斜面を登る道を発見!
これでダメならと、今度はそちらへ進みました。

すると・・・ものの10分ほどで見事な堀切が・・・w

桐生城/二の丸の堀切
▲二の丸の堀切

桐生城/本丸の堀切
▲本丸の堀切

次々に現れる見事な堀切。
それにあわせて「三の丸」「二の丸」と曲輪の名前が書かれた板がヽ(´ー`)ノ

桐生城/本丸
▲本丸

そしてやっと本丸到着。
大して高い山でもないのに、ここに辿り着くまで3時間半も掛かりました。
これから桐生城へ行く皆様は、どうか案内板②の所で空き地の方へ進んで下さいあせる


◆歴史◆

桐生城は1350年頃、桐生国綱により築かれたとされます。
桐生国綱は実在が疑われる人物だそうですがあせる

ただ、桐生の地は「桐生氏」により治められていたのは確かなようです。
古くは平安時代末、桐生六郎という人物が歴史に現れます。
桐生六郎が桐生城と関係あるかはわかりませんが・・・

桐生六郎は藤姓足利俊綱・忠綱父子に仕えていました。
この頃、足利の地の利権を巡り、藤姓足利氏と源姓足利氏が対立するようになっていました。
そのため、源頼朝が挙兵した時に藤姓足利氏は平家方に味方をしました。

1183年、平家の命令で常陸の志田義広が、源頼朝討伐の兵を挙げました。
この時、足利忠綱(藤姓)は志田義広に味方しました。
しかし、野木宮合戦で敗れたため、足利忠綱は上野国山上郷竜奥に立て籠りました。
源頼朝は和田義盛の弟・義茂に足利忠綱討伐を命じ、兵を率いて攻めて来ました。

この時、桐生六郎は主・足利忠綱の首を手土産に御家人にして欲しいと売り込んで来ました。
この知らせを受けた源頼朝は、梶原景時を派遣して桐生六郎を斬らせました。
しかし、源頼朝は素直に降った者達は許し、足利忠綱の弟や親族らは所領を安堵されました。

戦国時代に活動した「桐生氏」のはじまりは、佐野大炊助です。
桐生を本拠とした「桐生氏」は後世の呼び名で、当時は「佐野」姓を名乗っていたそうです。
1453年1月、足利成氏が佐野大炊助を桐生郷の代官に任じました。

1455年、足利成氏が関東管領・上杉憲忠を謀殺し、享徳の乱が勃発。
幕府軍によって鎌倉が占拠されたため、足利成氏は古河を本拠とし古河公方と呼ばれます。
桐生氏は古河公方方として行動しました。

1458年、隣接する新田荘の岩松氏が上杉方に寝返りました。

1459年、武蔵国・太田庄の戦いで、古河公方が大勝利。

1466年、桐生佐野氏は上杉方に寝返ります。

1468年、上野国・綱取原合戦で上杉方が大勝利。

1469年、岩松氏で内紛。岩松家純が勝利し、上杉方で統一されます。

1471年、足利成氏が伊豆へ出兵した隙に、上杉軍が古河城や下野国を制圧。
しかし、返って来た足利成氏軍により古河城が奪還されます。
桐生佐野氏はこの時に古河公方方に復帰しました。

1500年頃、桐生佐野氏は、新田荘の横瀬氏と渡良瀬川の水利を巡って対立するようになります。

1560年、長尾景虎(この直後に上杉輝虎と改名、のちの上杉謙信)が関東に進攻しました。
桐生佐野氏は本家・佐野氏とともに上杉氏に帰順しましたが、輝虎が帰国すると離反します。
横瀬氏・足利長尾氏が上杉方に残ったため、後北条方の最前線となりました。

1563年、翌年にかけて攻撃を受け、上杉方に降伏しました。
横瀬氏・足利長尾氏が後北条へ寝返り、今度は上杉方の最前線となりました。

1570年、桐生の佐野助綱が死去。本家・佐野昌綱の子・親綱が養子として家督を継ぎます。
佐野親綱は讒言を信じて里見勝広を切腹させたため、桐生佐野氏は弱体化しました。

1573年3月、由良成繁が桐生城を急襲して攻め落とし、佐野親綱は本家を頼って落ち延びました。

1574年、由良成繁は由良国繁に家督を譲り、桐生城へ移って隠居しました。

1578年、由良成繁が死去。佐野親綱が桐生城奪回のため攻めますが失敗しました。

1583年9月、北条氏直は佐竹氏を攻めるため金山城と館林城の借用を由良成繁に打診しました。
家臣が猛反発したため由良成繁・長尾顕長兄弟が小田原に監禁されました。
これにより由良氏は桐生城と足利城を残して領地を奪われました。

1590年、豊臣秀吉により後北条氏が滅ぼされました。
この時に桐生城も廃城となりました。
しかし、豊臣秀吉は由良国繁の母・妙印尼を気に入り、常陸国・牛久に所領を与えました。
由良氏は牛久の所領を受け継いで存続しました。


所在地:群馬県桐生市梅田町

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