なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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山上城跡は現在、山上城址公園として整備されています。
訪問日は2012年5月26日です。

山上城/入口にあるモニュメント
▲入口にあるモニュメント

Google Mapにも載っている山上城址公園ですが・・・
周りの道が細くてかなり迷ったような記憶が。
おかげで事前に知らなかった膳城を見つけてヽ(´ー`)ノでしたがw
あーでもない、こーでもないと迷った挙句、こいつを見つけてようやく辿り着きました。

山上城/広大な芝生
▲広大な芝生

入口は石やら花やら橋やらで妙に凝っていました。
橋を渡ると早速城跡のはずでしたが、、、目の前に広がるのは芝生の広場。
内心ちょっと(かなり)がっくりしながら、一応一周見て回るか~と奥へ進みました。

山上城/3郭と2郭の間の堀切
▲3郭と2郭の間の堀切

芝生の端には紫陽花の木が並んで植えられていました。
あぁ、広場はココで終わりなんだな~と思っていたら・・・!
紫陽花の裏の通路が窪んでる!
やっと遺構らしきものを見つけてちょっと嬉しくなりました。

山上城/2郭と主郭の堀切
▲2郭と主郭の堀切

1つ目の堀切の向こう側にも平坦地は続いていましたが、芝生ではなく雑木林になっていました。
ここからは余計な手が加わっていないと期待して進むと、再び堀切が現れましたヽ(´ー`)ノ
その堀切の向こう側にもまた平坦地があり、その先はかなり高い段差になっていました。
実はその向こう側は北郭だと後から知ったのですが・・・
その当時は堀切の跡にそって左(西)へ歩きました。

山上城/外周の堀跡
▲西側の堀跡(左が主郭、右側には土塁があります)

堀切を左(西)方向へ歩きだすとT字路になりました。
入口に戻るなら左(南)だな~と曲がると・・・!
そこは郭と土塁に挟まれたかなり深い堀底道でした。
最初はただの芝生だと思ってた山上城跡、実はかなり凄い城跡でしたヽ(´ー`)ノ
この堀底道は、一番上の写真の模擬と言うのもアレな建物の左側につながっていました。


◆歴史(推測混じり)◆

山上城は藤姓足利氏・の子孫・山上氏の居城でした。
平安時代末(1180年頃)に足利俊綱の弟・高綱が、山上姓を名乗るようになりました。
山上氏の館は当初は龍奥館と呼ばれ、山上城東方の善昌寺辺りにあったと考えられています。

1180年、源頼朝が挙兵した際は、足利忠綱は平家方でした。

源頼朝が以仁王の乱に同調し、石橋山で挙兵。
一度は敗れましたが、安房で再起して関東を平定しました。
以仁王の乱では足利俊綱の嫡男・忠綱が、平重盛に従い大活躍しました。
・・・ということで、藤姓足利氏は平家方でした。

1183年、2月、志田義広(頼朝の叔父)の挙兵に従いました。

源頼朝の父・義朝は、その父・為義や弟達と対立していました。
志田義広も源義朝と対立していた弟の一人で、平家方(反源頼朝方)でした。
足利忠綱は志田義広に味方しましたが、源頼朝方に敗れて龍奥館に籠もりました。

同年9月、源頼朝は足利忠綱を追討する軍勢を差し向けました。

しかし、討伐軍が到着する前に、足利忠綱が家人・桐生六郎に殺されました。
桐生六郎は不忠者として源頼朝に斬首され、足利荘は足利義兼(源姓)に与えられました。
足利俊綱の親族でも帰順した者が許され、領地財産は安堵されました。

ここで藤姓足利氏と源姓足利氏についてザックリ説明します。
・藤姓足利氏は藤原秀郷を祖とし、1110年頃足利荘で足利姓を名乗るようになりました。
・源姓足利氏は源義家の孫・義康を祖とし、義康の兄・義重は新田氏の祖となります。
・源姓足利氏が都で北面の武士として仕え、在地の実務を藤姓足利氏が務めていました。

当初は役割分担をして足利荘をうまく治めていたのですが・・・
源姓足利氏が都から足利荘に移って来ると、両者の利害が対立するようになりました。
この対立の幕引きとなったのが、志田義広による乱でした。

南北朝時代、山上氏は南朝方の山上六郎衛門、北朝方の山上十郎太郎に分裂しました。

1351年、観応の擾乱では山上十郎公秀が足利直義と笠懸野で戦いました。
この戦いでは敗れましたが、後に足利尊氏方が挽回し、山上氏は存続しました。

1487年、長享の乱が起こり、山内上杉氏と扇谷上杉氏が争いました。

山上氏は山内方であり、扇谷方についた古河公方の配下・佐野氏に山上城を奪われました。
年は不詳ですが、横瀬業繁が山上城を奪回し、山上氏の所領を復活させました。
以来、山上氏は横瀬氏に従うようになりました。
この辺の動きは、近所の膳城と同じようです。

1555年、北条氏康に攻められて山上城は落城し、山上氏秀は下野へ逃れました。

すぐ近くの膳城は横瀬氏と同調して後北条方に転じたようですね。
山上城が奪われたのは、横瀬氏に同調せず抵抗したからなのでしょう。
山上氏秀は佐野氏に仕えたそうです。
その佐野氏が後北条氏に降ると、浪人となって武田信玄や滝川一益に仕えたそうです。

1560年、長尾景虎(上杉謙信)に山上城が攻め落とされ、大胡民部佐衛門に与えられました。
1572年、上杉謙信が後北条方の小俣城を攻めましたが、反撃に遭って山上城は落城しました。
      山上城は由良成繁の持ち城となりました。
1574年、上杉謙信が由良氏を攻め、膳城と山上城を占領しました。
      両城は羽生城から連れて来た木戸忠朝に与えられました。
1578年、上杉謙信没後、北条氏邦が膳城と山上城を攻めました。
      膳城は後北条家臣・河田備前守が城主となっており、山上城も落城したと思われます。
1580年、厩橋城を攻略した武田勝頼により攻め落とされました。
1582年、武田氏滅亡後は織田家臣・滝川一益が上野国を支配します。
      織田信長が本能寺で討たれると上野国は後北条氏と徳川家康が争奪戦を繰り広げました。
      最終的に上野国は後北条氏の領地となっています。
1590年、豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼしました。
      この際、山上城は片桐且元、郡宗保らに攻められて落城し、廃城となりました。


所在地:群馬県桐生市新里町山上

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