なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
足利政氏の館跡は、現在は甘棠院というお寺になっています。
訪問日は2013年10月12日です。

足利政氏館/説明板
▲説明板

ここも住宅街の真ん中にあるので、場所はわかりにくいです。
何となくこの辺かな?で入り込んで行って、一面の墓地があったら当たりです^^
・・・一応iPhoneで位置を確認しましたがw

バイクを停めて辺りを見回したら、写真の説明板がありました^^
あっ!と思って読んでみたら、やっぱりそうでしたヽ(´ー`)ノ

足利政氏館/甘棠院山門
▲甘棠院の山門

上の説明板から回れ右!とすると、写真の山門があります。
・・・とは言っても、これは説明板から見えるのとは反対側から撮ってます。
門の中に、上の説明板が見えますよね!
なんとなく、こんな雰囲気の門が見えるんだな、と思って下さい。

足利政氏館/空堀①
▲空堀(山門の東側)

足利政氏館/空堀②
▲空堀(山門の西側)

説明板から門へ向かうと、門の手前両脇には立派な空堀が残っていますラブラブ
この堀、かつては水堀だったそうです。
しかも土が火山灰なので、とてもよく滑るんだそうです。

館自体は隠居用なので、戦に備えたものではなかったハズですが・・・
それでも、古河公方といえば"関東で一番エライ人"ですからね。
敬意を払って築かれたんでしょうね!


◆歴史◆

1518年、足利政氏が当地にあった館へ移り、隠居しました。
ここに至る経緯は長くなりますが・・・

<足利政氏が隠居するまで>

2代目の古河公方・足利政氏は嫡男・高基と争っていました。
この父子は事あるごとに意見が対立していたようですが・・・

1505年、足利政氏は弟・顕実を、跡継ぎのなかった関東管領・上杉顕定の養子にしました。

足利高基はこれに激しく反対し、翌年、家出して宇都宮城へ行ってしまいました。
心を痛めた関東管領・上杉顕定は出家し、両者を調停したので一時和解しました。

1510年、その上杉顕定が没しました。

上杉顕定の遺言に従い、家督および関東管領職は、足利政氏の弟・上杉顕実が継ぎました。
しかし、ここで異議を唱えたのが顕定のもう1人の養子・上杉憲房でした。
上杉憲房は上杉顕定の義父・上杉房顕の弟・周清の子です。
足利高基は上杉憲房に味方したため、足利政氏・高基父子は再び対立。
関東管領家の内紛は、古河公方の内紛ともつながって、関東を2分する乱に発展しました。
この時、足利政氏の次男・足利義明も出奔し、小弓公方として独立しました。

1512年、上杉憲房が上杉顕実の居城・鉢形城を攻め落としました。

上杉顕実は山内上杉家の家督を上杉憲房に譲りましたが、関東管領職は譲りませんでした。
足利政氏は古河城を明け渡し、足利高基が家督と古河公方を継ぎました。
足利政氏・上杉顕実兄弟は、支持者である小山成長・政長父子を頼って祇園城へ移りました。

1515年、上杉顕実が没しました。

小山政長は足利政氏を支持するのをやめ、足利高基を支持するようになりました。
そのため、政氏は居場所が無くなり、乱の調停に当たっていた扇谷上杉朝良を頼りました。
政氏は岩付城に移り、出家して道長と号しました。

1518年、扇谷上杉朝良が没しました。

強力な支援者であった朝良が没したため、政氏は岩付城でも居場所が無くなりました。
そのため、足利政氏は扇谷上杉氏が用意した久喜の館に移りました。

<以後の歴史>

1519年、政氏は館の敷地内に甘棠院を開山しました。
1520年、政氏は古河城の足利高基を訪ねています。
1531年、政氏が館で没します。享年69。甘棠院に葬られました。
1548年、甘棠院が火災で焼失。
1552年、甘棠院が再建される。
1782年、甘棠院が4年がかりで建て直される。
1969年、甘棠院が大改修される。


所在地:埼玉県久喜市本町7丁目(甘棠院)

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