なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
騎西城の跡地は加須市の郷土史料展示室となっています。
訪問日は2007年6月2日です。

騎西城/模擬天守
▲模擬天守

訪問したのが6年前です。
当時は城跡めぐりを始めたばかり。
天守やそれっぽい建物のある城跡ばかり回っていました。

なので歴史なんてさっぱり興味がなく・・・
手前にある説明板は撮ってません^^;

当時の記憶を辿ると、周りは市街地でした。
色んなサイトを拝見すると、昔は沼に囲まれていたそうです。
そういえば模擬天守の裏にも池があったような・・・

かなり開発され尽くした感があり、遺構らしきものは無いそうです。
当時はそういう目で見ていなかったので何とも言えませんがあせる


◆歴史(一部想像も含みます)◆

築城時期は不明です。
初見は1455年、古河公方・足利成氏が騎西城を攻め落としています。
以後、騎西城は対上杉の最前線基地として整備されます。

この前年、成氏が鎌倉で関東管領・上杉憲忠を謀殺したことから享徳の乱が始まりました。
史料の年号が康正元年となっていることから、騎西城の落城は古河に移った後と思われます。

古河公方と関東管領の戦いは、ここから約30年にわたって続くこととなります。
この乱には関東管領方として成田正等が活動していました。

正等は途中から古河公方に寝返っています。
忍城と騎西城はかなり近く、この時に古河公方から与えられたものと思われます。

その後、成田正等は長尾景春の乱で景春方につきましたが・・・
乱は太田道灌の活躍により景春方が敗北。
正等は山内上杉氏の家宰・長尾忠景の子を養子に迎えることで和睦しました。


文亀年間(1501~03年の間)、小田顕家が騎西城主となります。

「小田顕家」は同時期に同姓同名の人物が常陸でも活動しています。
常陸の「小田顕家」は、小田氏の家督争いで兄を殺して追討されています。
それが1495年の事で、顕家の足跡は以後わからなくなります。
一方、騎西城に入った「小田顕家」はそれ以前の事が不明で・・・

面白く想像するなら、家を追われた顕家が成田氏を頼って逃げて来たかもしれません。
当時、小田氏は扇谷上杉氏方、成田氏は山内上杉方として活動していました。
顕家は食客となっていて、何らかの事情で空いた騎西城を与えられたのかもしれません。
顕家は1539年に没し、成田長泰の弟で顕家の養子になった小田朝興が跡を継ぎました。


1563年、上杉輝虎(のちの謙信)が小田朝興の騎西城を攻め落としました。
これは松山城が北条・武田連合軍に包囲されたため、松山城救援のため越山したのでした。
輝虎は2月の雪山をかなり無理をして越えて来たのですが・・・
せっかくの援軍も間に合わずに松山城は落城。
腹の虫が収まらない輝虎は、2年前に喧嘩した成田長泰の弟に八つ当たりしたのでした。
とんだとばっちりですねあせる


1574年、第3次関宿合戦で越山した上杉謙信により、騎西城はまた攻め落とされました。
この頃、謙信は上洛するために越中国を主戦場としていました。
ところが、関東唯一の上杉派・関宿城の簗田持助が、北条氏政の大軍に包囲されました。

援軍要請を受けた謙信は、越中から関東へ兵を差し向けますが・・・関宿城は落城。
謙信はまたしても腹いせに、成田氏の忍城や菖蒲城周辺を焼いて越後へ帰ったのでした。
謙信って結構根に持つタイプだったようですねw


1590年、後北城氏が滅ぼされると、騎西城は徳川家康の子・松平康重に与えられました。
1601年、大久保忠常が城主となりました。
1632年、忠常が美濃加納城へ移ったため、騎西城は天領となり廃城になりました。


所在地:埼玉県加須市根古屋

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