なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
田代城は中津川を挟んで細野城の対岸にあります。
訪問日は2013年3月9日です。

神奈川の在庫もこれで終わり!
まだ行ってない城跡もありますが・・・
山城なので、蜂や蛇の心配がない季節になったら攻める予定です^^

田代城/愛川中学校
▲愛川中学校

田代城本丸のあったとされる場所には、現在は愛川中学校があります。
今となっては攻め込めるのもここまでですw

田代城/富士居山
▲富士居山

その北側には富士居山があります。
その名の通り、遠くから見ると富士山のような形をした山です。
この山の山頂には田代城が管理する狼煙台がありました。

田代城/首塚
▲首塚

田代城は三増合戦の戦場のすぐ近くにありました。
そのため、合戦にまつわる史跡も散見されます。
愛川中学校のすぐ東には、首塚があります。
これは三増合戦での戦死者を弔うものだそうです。

これとは別に、胴塚というのもあるそうです。
こちらは見つけられなかったのですが、近所にあるそうです。

田代城/三増合戦場碑
▲三増合戦場碑

愛川中学校の前の道を東に進むと、三増合戦の戦場跡の石碑があります。
場所は、下のGoogle Mapで少し右にスクロールした所です。

田代城/三増合戦場跡
▲反対側から

田んぼに囲まれた道路沿いにあり、わりと目立ちます。
石碑の脇には説明板や、合戦の際にどう布陣したかの図があります。
今はのどかな田園風景なのですが、かつて大きな戦がここであったんですね。


◆歴史◆

<築城>

田代城は弘治年間(1555~58年の間)に内藤秀勝により築かれたとされます。
田代城の背後には富士居山があり、狼煙台がありました。

内藤氏本家は津久井城主であり、三増峠や中津川の監視を目的に城を築いたと考えられます。
その後、永禄年間(1557~70年の間)に秀勝の孫・定行が中津川対岸に細野城を築きました。
1560年代は武田信玄が不穏な動きを見せており、田代城では守備に不安があったのでしょうか。

<三増合戦>

1569年10月、武田信玄が小田原城を包囲しました。
信玄は堅城である小田原城から北条軍をおびき出そうと挑発を繰り返しましたが・・・
北条氏は城から出なかったため、信玄は城の周りを焼いて退却しました。

しかし、北条氏康はこの機会を狙っていました。
滝山城の北条氏照と鉢形城の北条氏邦の合わせて2万の軍勢を三増峠に配置。
ここで武田信玄を足止めし、背後から攻め立てて挟撃する作戦を立てました。
これが三増合戦です。

この作戦通りになれば武田信玄も絶体絶命のピンチだったのですが・・・
北条軍の作戦を見抜いた信玄は、別働隊を背後に回して氏照・氏邦軍を挟み撃ちにしました。
これにより武田軍が優勢に。
作戦が見破られたことを悟った北条軍本隊は進軍を止めたため、武田軍の勝利が確定しました。

一説には田代城と細野城はこの時、武田軍の攻撃を受けて落城したと言われています。
戦場から至近距離にあるのに史料には登場しないので、確かな事は今もわかりません。

尚、津久井城の軍勢は三増合戦には参加できませんでした。
それは武田軍の小幡重貞率いる別働隊に牽制されたためであったといいます。

三増合戦の戦場跡には石碑と説明板が設けられました。

<廃城>

廃城時期ははっきりしません。
三増合戦の後、田代城主の内藤秀行は出家したそうですが・・・

内藤氏の菩提寺である勝楽寺に1578年の寄進状があるそうです。
このことから、定行が家督を継ぎ、1590年の後北条氏滅亡まで続いたと思われます。
ただ、定行は細野城を居城としており、2つの城を同時に管理していたかは不明です。

定行は北条氏滅亡後、帰農したとされています。


所在地:神奈川県愛甲郡愛川町田代

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