なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
奥多摩の山城シリーズ第2週の2番手は戸倉城。
檜原城から東へ約5km程の所にあります。

戸倉城/城山遠景
▲城山遠景

戸倉城のあった山はその名もズバリ「城山」。
「城山」ってその気で調べるとあちこち沢山ありますがw
遠くから見ても頂上が尖っている山なので、すぐに分かります。

戸倉城/光厳寺
▲光厳寺

まずは登城口があり、居館があったと伝わる光厳寺を目指します。
お寺の周りには光厳寺への案内があるので、迷わず辿り着けると思います。

戸倉城/登城口にある説明板
▲説明板

光厳寺の山門前には説明板が!
ここが登城口となります。

なぜなら東京都が説明板を立てていますからw

戸倉城/説明板(右)
▲右の説明板

戸倉城/説明板(左)
▲左の説明板

だいたい同じ事が書かれていますが、せっかくなのでupします。
それにしても「大桜」のダンボール邪魔ですね・・・
もうとっくに葉桜なんですけどw

戸倉城/案内標柱
▲案内標柱

説明板のちょっと奥には「盆堀城山」と書かれた案内標柱があります。
そしてその下には「クマに注意」と・・・
近所でツキノワグマが目撃されたと書かれています。

おいらは小心者なので、おととし位に買った熊よけ鈴を初めてバッグの外側に付けました。
この鈴はかなり音が大きく、人里では外に出したくない位です♪

戸倉城/登城路にある堀切っぽい所
▲いきなり堀切?

この登城路はお寺を出てすぐは緩やかな下り坂です。
本当にこれ山の頂上に向かってるの?と思いたくなりますが・・・

5分程歩いた所にある堀切っぽい所を右に曲がると、ここからはちゃんと登り坂です。
途中「城山(急坂)→」と書かれた案内標柱の所からは、更に坂がキツクなりますw

そして頂上付近はさながらロッククライミング。
ちゃんと道はありますが、岩肌をよじ登るという表現がピッタリな位です。

戸倉城/主郭
▲主郭

その最後の岩を登り切ると、綺麗に削平された主郭に辿り着きます。
光厳寺の登城口からは32分かかりました。

伏馬田城の時もそうだったのですが、いきなり主郭ってことは裏道ですねw
戸倉城の大手道は、北にある神明社からの道です。
でも、この図を見てると、出丸下の竪堀から登るのが一番楽そうな気が・・・
あくまでイラストを見ての感想ですけど、どうなんでしょうね?

戸倉城/主郭にある説明板
▲説明板

主郭にも説明板がありますが、登城口のものよりいい感じ♪
これだけいい物があれば、東京都さんもわざわざ説明板を立てる必要ありませんね。

戸倉城/主郭からの眺め
▲主郭からの眺め

主郭は木が伐採されているので、とても眺めがいいです。
この時は、ハイキングの人たちがくつろいでいました。
写真に写ってる荷物はその方たちの物です。

狭くて眺めの良い主郭、そしてそれ程厳重でない造り。
ここも烽火台として使われていたようです。

戸倉城/主郭を下から見上げた所
▲主郭を北側の郭から見上げた所

城域は主郭の北に2段の郭を構え、さらに尾根伝いの北にある出丸まで続きます。
もちろん、ここまで来て見に行かない訳がありません!

戸倉城/出丸
▲出丸

出丸の入口には、道の分岐を示す標柱が立っていました。
・・・ということは、ここに至る別の登城路があるということですね。
大手道は主郭脇を北に下るので、登城路は少なくとも3本はあるということです。

出丸の位置は、その内の1本を抑える所にあります。
烽火台とはいえ、それなりの規模があって厳重に管理されていた様子が窺えました。


◆お城の歴史◆

戸倉城も築城年は不明です。
武州南一揆の有力者であった小宮氏が居城としていました。
武州南一揆は1416年の上杉禅秀の乱で、禅秀方から幕府方に寝返って形勢を一変させました。

『新編武蔵国風土記』では小宮領について
・寛正年間(1461~66年)に上杉上野介憲明が当地に来て小宮姓に改めた
・天文の末(1555年)頃に、北条氏により滅ぼされた
と記しています。

「上杉」氏で「憲」の字がつくとなると、関東管領・山内上杉氏の一族と思われます。
それが小宮姓を名乗ったとすると・・・

1460年頃といえば享徳の乱で上杉氏と鎌倉公方(→古河公方)が争っていた最中。
小宮氏は武州南一揆の中でもっとも力のある豪族の1つでした。
こういった背景を考えると、武州南一揆を味方に引き入れるためだったのでしょうね。

そして「天文の末頃に滅ぼされた」とありますが・・・

少し時代をさかのぼると、1546年に河越夜戦がありました。
この戦により、後北条氏が扇谷上杉氏を滅ぼしました。
この影響はとても大きく、武蔵の土豪達はこぞって後北条氏の配下となりました。

これは後に戸倉城にやって来る大石氏も例外ではありませんでした。
大石氏は木曽義仲を祖とする名族で、扇谷上杉氏に仕え武蔵守護代を務めていました。

この大石氏が北条氏康の3男・氏照を養子として迎えたのが1559年の事です。
この時に当時大石氏の当主であった大石定久は隠居し、戸倉城にやって来たのです。

では、戸倉城を拠点としていた小宮氏はどうなったのでしょうか?

北条氏照は大石氏の養子となって滝山城にやって来ると、武州南一揆の解体を行いました。
また、居館跡とされる光厳寺の歴史を調べてみると、「1558年に焼失した」とありました。

・・・これらの状況を組み合わせると、南一揆解体の際にひと悶着ありそうです。

南一揆の有力者であった平山氏は、そのまま檜原城主を務めています。
ところが、小宮氏は関東管領・山内上杉氏の血を引いています。
このことが災いしたのか、または反抗的であったのか・・・
時期が余りにも一致し過ぎているので、この時滅ぼされたのではないのでしょうか?

戸倉城に隠居してきた大石定久の晩年も不明な点が多すぎます。
3年後に自害したとか、天寿を全うしたとか・・・

後北条氏の歴史を調べた感じでは、従う者は所領を安堵し、逆らう者は滅ぼすといった感じ。
大石氏の所領を引き継いで支配するのであれば、大石氏が反抗的でも穏便にしたい所です。
・・・・ということで、戸倉城に軟禁幽閉したのかもしれませんね。

わからない事だらけなので、ついつい妄想癖が暴走気味ですあせる

ついでに書くと、光厳寺は1567年に北条氏康により再興されました。
時期的には武田信玄が三国同盟を破棄する直前・・・
戸倉城を烽火台ネットワークとして整備したのはこの頃でしょうね!


所在地:東京都あきる野市戸倉

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