なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
思い出しブログ2発目です。
訪問したのは・・・2011年11月5日。
まだ2年経ってませんw

ルートは国道246号を大和市から国道467号へ。
そのまま走ると江ノ島に出る道です。

「長後小学校入口」交差点を左折し、相鉄の線路を越えて小学校脇へ右折します。
小学校の真裏へ回りこんで更に奥へ進むと、道の右手に公園が現れます。

中和田城/泉中央公園
▲泉中央公園

停められそうな所が無かったのでちょっと中に。
車だと厳しいですね。
相鉄のいずみ中央駅が近いので、電車での訪問をおすすめします。

中和田城/公園の案内板
▲公園の案内図

公園に入ってすぐの所にある案内板。
図と文章がありますが・・・城跡であることには触れられていません。

中和田城/一見普通の公園
▲一見普通の公園

中に進んで見ますが、遊具のある普通の公園にしか見えません。
木が沢山あるので、夏場は暑さを避けるのに良いのかもしれません。

中和田城/土塁
▲土塁?

そんな公園の端に目をやると・・・!
道に沿って土が盛られています。
公園の端って土を盛る必要って無いですよね?
・・・ということで、多分土塁の痕跡なのではないでしょうか。

中和田城/空堀
▲空堀

更に奥(南)へ進むと!
さっきの土塁?は遺構なのか怪しいですが、これは間違いなく空堀ですね!
公園でこんな窪んだ地形を作る必要ないですもんね!

中和田城/二重の空堀
▲二重の空堀

更に進むと、今度は二重の空堀!
かなり浅くなっているのは800年もの年月のせいでしょう。
往時を想像すると、かなり複雑な構造だったように思われます。

中和田城/西に下る坂
▲公園の西の端には急な下り坂が

満腹感に包まれつつ、公園の反対側から戻ろうとすると何やら怪しげな下り坂。
この急な坂の先には何かあるのでは?と下ってみました。

中和田城/小次郎池
▲柵に囲まれた池

するとそこには柵に囲まれた池の跡。
そのすぐ脇には説明板がありました。

中和田城/小次郎池の説明板
▲小次郎池の説明板

この板には歴史的な説明が書かれていました。
要約すると・・・
池の名前は小次郎池。
「小次郎」とは城主の泉親衡の事です。
この池は干ばつでも干上がることなく水をたたえていたそうです。
雨が少ない時には雨乞いが行われていたそうで、昭和15年まで行われていたのだとか。

おいらが見た時は水はありませんでしたw


◆お城の歴史◆

中和田城は、鎌倉時代初期に信濃源氏である泉親衡の居館でした。
源頼朝が1199年に急死すると、嫡男・頼家が18歳で家督を継ぎました。
頼家は北条政子の長男でしたが、彼は母の実家である北条氏ではなく比企氏を重用しました。
どうやら母子の仲はあまりよろしくなかったようです。

家督相続当初の頼家は、先例に倣わず独裁体制を築こうとしました。
すると北条氏が反発して、有力御家人十三人による合議制とされました。
しかし、これは北条氏の策であり、それから数年の間にこの半数が滅ぼされました。

源頼朝の右腕だった梶原景時もこの時に粛清されており、将軍・頼家も例外ではありませんでした。
1203年の春から頼家は体調を崩して一時危篤となりました。
この時、まだ存命中にも関わらず弟の千幡(のちの実朝)を将軍しようと北条氏が動きました。
頼家の後ろ盾であった比企氏がこれに反発したため、北条氏により滅ぼされてしまいました。

病状が回復した頼家がこのことを知ると激怒し、北条氏を討伐しようとしました。
ですが、従う者がおらず、逆に、北条政子により修善寺に幽閉されて、その後暗殺されてしまいました。

・・・ここまでは前置きですwww

こうして起きたのが、1213年に中和田城を舞台にした「泉親衡の変」です。
親衡は源氏の一族でしたので、北条氏の専横が許せなかったのかもしれません。

彼は北条氏を倒して頼家の遺児・千寿丸を次の将軍にしようと計画します。
この計画には多くの御家人が賛同して着々と準備が進められていました。

ところが、この計画が事前に北条側に漏れたため、捕縛の兵が差し向けられました。
親衡は何とか信濃へ逃亡しましたが、千寿丸は捕らえられて殺されてしまいました。

・・・ここからあとは乱の影響です。

この乱には和田義盛の子である義直・義重と、甥の胤長が関わっていました。
和田義盛は三浦氏の一族で、源頼朝に従って戦功を重ねた歴戦の勇士です。
鎌倉幕府が成立すると、初代侍所別当に任命された大物中の大物です。

北条義時はこれを好機と捉え、数々の挑発を仕掛けます。
義直・義重の罪は赦免されましたが、胤長については中々許されませんでした。
そこで、義盛は一族総出で赦免を請いましたが、その面前に縄で縛られた胤長を晒したのです。
しかも胤長は許されず、ついに奥州へと流されてしまいました。

さらに、胤長の屋敷を一度は義盛に渡しながら、その後別の御家人に渡すよう言い渡しました。
慣例では罪人の屋敷はその一族に引き渡される所を、2度も取り上げたのです。

何度も屈辱的な挑発を受けた義盛はついにキレて挙兵。
流石に頼朝随一の武家とあって、簡単には討伐されませんでした。
そこで北条氏は、将軍・実朝の名で御教書を発行。
御家人達は幕府方として加わらざるを得ず、多勢に無勢でとうとう義盛も討ち取られました。

こうして北条得宗家はますますその地位を確固たるものにしたのでした。


所在地:神奈川県横浜市泉区和泉町
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