ストレスからの解放は、自己能力をアップすること。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 人間は、基本的に、わがままで、エゴイストである。自分さえよければいいというもの。それは、種をまもろうとする自然界の本能だから、しかたがない。だから、逆にいえば、死がある。自分さえよければいい、その引き換えとして、人には、存在の消滅(死)というものが待ち受けている。若い時はいい、エネルギーを発散させればいい、そのために、人には性欲がある。思春期になれば、男も女も性に目覚める。そして、狂ったように、お互いをもとめ、その快楽の一瞬に夢を見る。それが行き過ぎれば、薬物にはまる。そうして、みだれて、狂って、廃人と化して、堕落する。最悪は、死である、まさしく、狂った性の快楽は、自分さえよければいいという快楽・利己主義の行きつくところである。

 

 

 人は、それでも、生き続けなければならない。だから、神を作り上げた。ある意味、神がいるから、それの存在を見出したと言った方がいいのかもしれない。神は、エゴイストであるべき人間の救済である。愛と正義の象徴である。利他と慈悲といってもいい。その反意語は、悪と不義、利己と憎悪である。だから、人間の本質は、ある意味、悪と不義、利己と憎悪といってもいい。だから、人は死ぬのである。もし、己の利己と憎悪のまま、他者を否定したらどうなるか、まちがいなく、崩壊である。当然に、それが放任されたら、どうなるか、利己と憎悪の連鎖の中で、人間は、殺し合いの末に、絶滅する。現在であれば、細菌兵器と核兵器の打ち合いで、終りである。シェルターの中にいる人はその瞬間は生き延びても、放射能汚染された地球では、餓死が待ち受けているだけである。

 

 

 神は、人に何をあたえるのか、魂の救済、それは、永久の命を与えるものである。人間が神を作り上げた論理は至極単純である。悪と不義、利己と憎悪をやめて、愛と正義、利他と慈悲に徹しなさい、そのかわり、永久の命を与えようとするものである。ストレスからの解放と救済なのである。なぜ、神が必要なのか、それは、秩序を維持しようとするからである。ゆらぎある世界を維持するためである、乱れは崩壊、よどみも崩壊、その中間にあるゆらぎある秩序、それが、なぜかしらないが、この世を支配する因果の本質だからでもある。それから逸脱すれば、どうなるか、崩壊、それは消滅、死である。人間がもっとも恐れるものである。なぜ、そうなのか、わからない。しかし、自然界やこの世をみていると、そういう因果で支配しているのがわかる。だれがその因果をつくったのか、わからない。神がつくったとしかいいようがない。

 

 

 過労死は、なぜおきるのか、それはストレスからくる。病気はなぜ起きる、それもストレスからである。もし、好きなものなら、寝る間をおしんでも人はやる。たのしいからである。仮に、一日数時間の睡眠でも、それが、相当期間続いても、人は死なない。そこに、ストレスがないからである。過労死するのは、そこに、悪と不義、利己と憎悪の人間がその環境を支配しようとするからである。人間関係がスムーズにいくのは、基本的にWIN-WINである。それは、何かというと、お互いが利己をおさえ、他人の利己を尊重するからである。そこに、愛と義、利他と慈悲があるからである。そういう環境であれば、ストレスはうまれない。ストレスは緩和される、そして、そこには、乱れとよどみがなくなり、揺らぐものとなる。たぶん、その環境は、楽しいはずである。しかし、大抵は、ろくでもない人間が、それを踏みにじるのが相場である。綺麗に管理したお花畑を踏み荒らし、めちゃくちゃにする輩がでてくるのが、この世だからである。逆にいえば、そういう輩がいるから、神は必要なのである。どの世でも、暴君はいる。どの時代でもろくでもない権力者がいる。ふざけた上司がいる。虐げられた人の心の支えが、神なのである。いずれ、暴君や権力者は、どこかで、消滅する。それがこの世の定めでもある。嵐は、永遠には吹き荒れないものである。

 

 

 逆に、ストレスに負けないためには、どうしたらいいのか、この世では、答えはひとつしかない。それは自分を強くする以外には道はない、勉強して、自分の能力をたかめることしかないのである。出る釘は打たれる。なぜ打たれるか、未熟だからである。それでも努力して、上にいくしかない。どんな世界でも、やれば、かならず結果がでる。努力は報いられる。もちろん、世の中には意地汚い利己的な権力者がいる。そういう時は、そんな環境からおさらばすることである。しかし、大抵は、能力がないエゴイストは、人生の階段から滑り落ちるものである。

 

 

 人間は、みんなが善意あるものではない、悪意のあるエゴイストが多いと思っていた方がいい。だから、他人をあてにしても、まず、自分が期待している結果にはならない。他力本願、たなからぼた餅は、基本的にはない。それは努力した結果、得られるもので、努力もなしに、たなからぼた餅などおきない。今は、情報社会である。看板だけで、商権が維持できると思っていたら、まず、未来はない。看板に胡坐をかいていたら、まず、アウトである。人は、いいものに集まる。いいものは、たなからぼた餅ではえられないからである。本人の努力、才覚、自分の運命を犠牲にして得られたものだから、人が集まるのである。愛と義に満ちた人は、それを、世に残してあげたいと思うだろう、いろいろなものがあつまり、それが力となり、世の中が変わっていく。それが、文明である。

 

 

 市場経済の中、経済の場が拡張されている。多くの人はストレスにさらされている。全員がいい人とは限らない。ろくでもない人がいる。ろくでもない環境がある。その中に、いることもある。だれも、助けてはくれない。人を当てにしても、まず、人は自分のことで精一杯である。自分で頑張るしかない。自分の才覚で、努力で、自分の能力をアップするしかない。能力がついて、結果がついてきたら、今度は、それを持ち上げようとする。それがいいものなら、かならずそういう風な機運がでてくる。それまで、耐えて、がんばるのである。