砂漠に電気を、テロに屈せず日本ができること。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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音楽、ナノテク、微粒化、日々の思いをつづっています。
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 どこの街でも、街路樹の下に、白い椅子とテーブルをだして、食事を提供する店はある。ワインやビール、コーヒー、おつまみを食しながら、友や恋人を語り合ったり、ひとり、本を読んだり、今なら、PCでメールを書くことだってあるだろう、パリだって、ロンドンだって、東京だろうと、ニューヨークだろうが、よくある光景である。だれもが、そんな日常を満喫していた時、突然、黒いワンボックスカーが、近づいて、そこから、黒い男が数名下りてきて、自動操縦を乱射したら、どうなるだろうか。

 


 一瞬の出来事だったにちがいない。誰もがおもった。あり得ないことが目の前に起こっている。ほんとうの一瞬だったろう、何者かが、銃を乱射している。そう思った瞬間、思考が停止する。なにもわからず、なにがおこったのかも判断つかず、即死である。コンサート会場、熱気に包まれている。突然、黒づくめの男が中に乱入してきた。しかし、ほとんどの人はその事実などわからない。そして、銃を乱射する。ばたばたと人が倒れていく。自分の身に何が起こったのかわからない。記憶がうすれていく、意識が消えていく。

 


 ちょっとしたことで、生死が分かれる。たまたま、後ろを振り向いたら、銃をもった男と目があった。たぶん、考える余裕もないだろう、テロリストは、ためらいもなく、銃を乱射する、頭、目、顔に銃弾が突き刺さり、木っ端みじんになったろう、その瞬間に、その被害者の意識はない。その横にいた人はその流れ玉に当たったかもしれない、当たっていたら、これも即死である。急所をはずれた、そして、近くにいた人の肉片がとんできたら、たぶん、恐怖もなにも感じていないだろう、とっさに、逃げようとする。テロリストは、逃げるものを、本能的におい、射殺しようとする。玉が、それでも急所をそれたら。テロリストも一か所にかまっていられない。彼らは、殺戮することが目的だから、銃を別な位置にむけて、乱射する。助かった人の脳裏に、恐怖とおぞましい記憶とが、鮮明に焼きつく。なんてこった、ではすまされない、どす黒いものが、どっと流れ込む。

 


 テロリストは、聖戦、復習、アラーの神は偉大なりと、叫んで、自爆する。これは単独犯ではなく、彼らの思考の原理に基づき、行われたものと、いうことになる。当然に、やられた方は、やり返す。シリアのイスラム国のエリアにむかって、空爆を仕掛ける。当然に、やられたらやり返す、殺し合いの連鎖、復習の連鎖は永遠につづく。

 


 これが、いままでの中東を巻き込んだ西洋の歴史である。そこにあるのは、格差であり、持てるものと、持てざるものの差別と格差である。荒涼とした砂漠と、緑と水との恵まれた肥沃の土地とがあれば、だれもが肥沃の土地を求める。それが、限定されれば、奪い合いが必ず起きる。侵略と征服、服従、差別、それが歴史の事実なら、そこには、自由、平等、博愛という理想はない。

 


 たぶん、これから、テロは、恩讐となって、つづくだろう。忘れたころになって、起きる。彼らが怖いのは、自爆覚悟だからである。ダイナマイトをまいて、機関銃をもって、襲撃されれば、どうにもならない。日本やアジアでは起きないだろうが、ヨーロッパやアメリカではいつ何どき起こらないとも限らない。やられたらやりかえす、それが、彼らの考え方であるから、どうにもならない。はなせば、わかるというのは、日本的な考え方、もし、日本が唯一できるとすれば、砂漠に花をさかせる、砂漠を緑化させて、豊かな土地に変えること、砂漠の民に、電気を与えることである。砂漠の熱と光を電気にかえる技術を供与して、彼らに、潤いをあたえ、そして、そこで生きられる技術をつくりだしてあげることである。イスラム国がおそれることは、すべてのイスラム教の人々から、イスラム教を信奉する民から、人殺しと糾弾され、否定されることである。

 


 その技術は、中東だけでなく、アフリカにも、南米にも波及するはずである。簡単に、外部のエネルギーを電気に変換でき、しかも、導電性がよければ、インフラは劇的に簡素化され、利便性がます。それが普及して、はじめて、紛争の芽が小さくなる。それまで、復讐の連鎖は、続くことになる。私はそう感じる。