目覚める喜び、いつでも神は沈黙しない。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 何気ないことだが、目が覚めるというのは、非常にありがたいことだ。だれでも、死を恐れる。しかし、だれでも、睡眠を欲する。寝なければ、倒れる。倒れるというよりも、倒れるような睡魔に襲われ、ねむる。死の瞬間も、きっとそういうことだろう。真空で引かれるぐらいの睡魔に襲われ、意識が混濁する。死と睡眠との違いは、この世で目が覚めるか覚めないかという点である。

 

 朝、目が覚める。意識がもどる。その一瞬、自分というものが、わからない。もやっとしたときがある。そのもやっとしたところに、自分が入る。そこで、記憶がつながる。そこで、記憶がつながらなければ、自分はいったい、何者なのかとおもう。記憶があるから、自分というものが出てくる。自分とは、ある意味、記憶の上にのった自意識を有する生命体ということになる。いずれにしても、目が覚めるというのは、自分にとって、ありがたいことである。この世に生を受けた喜びと、目が覚めるという喜びとは、結局、同じことである。朝、何気なく、目が覚める。学校に行きたくない、会社に行きたくない、仕事をしたくない、とおもう。このまま、寝ていたいと誰もがおもう。それは、目が再び覚ますということを前提としている。もし、そうでなければ、どうだろうか。

 

 私は、昔、ネフローゼという病気をした。尿に多量の蛋白がでる病気である。原因はわからない。しかし、自己免疫疾患であるということはわかっている。自分で自分を壊すというものである。だから、ステロイドを投与する。ステロイドが特効薬ではない、投与すると、病気が治るという事例が多いという経験的な治療法である。因果関係などわからない、投与すると、確率的に治る事例が多いということ。それが治るときは、多量の尿が夜間に出てくる。そして、見る見る尿の中に放出される蛋白が減ってくる。数日で陰性になる。それから、ステロイドをきっていくまでに、相当な時間がかかるということである。病気はいつ治るか、それは寝ているときである。私は経験的にそれを知っている。治るときは短期間に治る。数ヶ月、元にもどらなくても、治るときは、数日である。気分の転換も、躁鬱気質での変換も、また同じである。寝ている内に、変わるのである。もちろん、本人が変わろうとしない限り、何も変わらない。

 

 遠藤周作さんの小説に沈黙というものがある。迫害を受けるキリシタンの話である。神はなぜ、沈黙をするのかという、神に救済を求める人にとって、苦しい哀歌である。神はなぜ沈黙をするのか、である。しかし、結果的に、神は沈黙はしていない。その瞬間は、沈黙しているように見えるが、長い目でみれば、神は救済する方向へとすべてを導いている。キリストが生きていた時代に比べて、今はどうだろうか、親鸞聖人や日蓮上人が生きていた鎌倉時代にくらべて、今はどうだろうか、今の方がずっといいに違いない。すこしずつ、難病といわれるものも治るだろう。科学や技術の進歩かもしれないが、明らかに、時間の流れは、メシアが指し示した方向へと進んでいる。それが神の意思でもある。

 

 キリストのマリア像をみればいい、聖観音菩薩像をみればいい、弥勒菩薩像等をみればいい、そこには、製作者の愛が刻まれている。だれでも、わが子を憎いとはおもわない、小さき、子犬や子猫をみて、愛くるしくおもわない人はほとんどいない。

 

 すくなくとも、昨日よりも今日のほうがいいはずである。そして、明日の方がいいはずである。長い目で人生や歴史をみれば、そう動いているはずである。神は、沈黙しているようで沈黙はしていない。人間は、老いていき、自我がうすれていく、それは神の世界へと導かれているからである。目が覚める。本来は、毎日がなにかが更新されている。しかし、それに、人は気付かない。気付かないようにしているのが、自分という意識、我執である。目覚めて、よかった、そこに喜びを感じられるようになれればいい。そうなれば、どんな病も、治る方向へと向かうだろう。明日を信じて生きることだろう。