再読について。

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基本的に再読はしない。

(村上春樹以外)


というのが、私の読書におけるスタイルだ。

スタイル。スタンス、ではなくて、あくまで気がつけばそんな感じ、というような。


もちろんたまにはもはや書庫と読んでもいいような

自宅の仕事部屋の書棚からなんとはなしに昔読んだ本を引っ張り出したり、

あるいは中学校や高校のころに読んだ名作、的なものを

意図的に読んでみたり。

そういうことはあるのだけれども、

もっと意志的に、よし読むぞ!といって以前読んだ本を読むことはない。


のだけれども。


最近、よしもとばななさんの本を再読する、のが流行っている。

きっかけは、きまぐれ。


なんとなく書棚の奥からひっぱりだして、読み、読み終わり、

ふうん、そうか。と思い。

もう一冊をだしてきて、読み、読み終わり、

ふうん、ふうん、そうか。とまた思い。

気がつけば、エッセイ以外のほとんどすべての過去の本を

いまいちどそろそろほとんど一気に読んでみてしまった、という状態になった。


そうしてあらためて思ったのは、歯に衣を着せずにいうと、

作家も成長するのだということと、

一定レベルの本を世の中に出し続けることの重さと、

さらにその作家のテーマ性、ということだろうか。


作家も成長する。

あたりまえだけど(そしてえらそうだけど)、

本当にそう思う。

使うモチーフも変わるし、たとえば初期のころの作品だとどうしても甘くなりがちなことが

だんだんと地に足ついてくるというか、想像ではなく体験として、知ったんだろうな、と思えることが増えてくる。

もしかしたらあくまで想像かもしれないのだけれども、それを体験として読ませるくらいのちから。というべきか。

わかいころにはわかいころのよさがもちろんあるのだけれども、

そんなふうに思う。


そうして作家さんはきっと自分の作品をずっと知っているから、

だからよしもとさんは「とかげ」をもう一度書いたりしたんだろうな。


そういえばよしもとさんの作品は

すべての作品で「夢」が出てくる。夜見るほうの夢。

そんなことにもはじめて気がついた。


今回の再読体験は結構おもしろかったので、

これまでずうっと本が出るたびに買ってきた作家さんの

過去作品一気読み、というのは

意識的にやってみようと思う。


今日もいい天気。

(でも自宅の窓は相変わらず外から目張り中・・・)





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もう3年もこの状態が続いている。

男は毎年、今年こそはなんとかするからといい続け
私はその言葉にすがり続け
日々のちいさな楽しみやいさかいをその間にいくつも重ね重ね
3年が過ぎた。

3年。
長いとは言い切れないが短くはない。決して。

気がつけば男に「ちょっとだけ」貸している金も200万近くになった。

こちらは決して少なくない金額だ。
しかもまだ若かった時分。
まとまった金額が手元に入る梅雨時と師走になると
ただでさえさがっている柳眉をさらにさげて男は金の無心をする。
おまえしか頼めないからという男に呆れながら結局金と時間を渡してきた自分がいちばんの阿呆だ。

いやいまは分かる。
金よりも時間だ。
まだ若くきらきらしている頃は気づきようもない時間。その尊さ。

たまに我にかえると
何やってるんだ私と思うのだが
時間が流れれば流れるほど手放すのが何故か惜しく怖くなるのだ、どんな値下がり株でももしかして上がるかも?一日待てば、来週になれば、と思うのにそれは似ている。
結局損切りができないのだ。
あるいはかけてきた時間の重さに腰が上がらない。
損して得取れだ。昔のひとはいいこというなあ。
損というか痛みは一瞬だ、その先の人生の長さのほうが重要。

分かってはいるんだ、分かってはいるんだ。けれどやめられない。
苦しい。やめたい。
こんな自分を卒業したい。
でも私は私をやめられないのだ、結局。


そんなずいぶんと昔の閉塞した日々を久しぶりに思い出した。
常に後悔の殆どない能天気な私だが
あの頃の日々だけは後悔しても仕切れない。

「生きているだけで、愛。」は、劇作家である本谷有希子さんの小説だ。
躁鬱を繰り返し心のアンペアをあげられない主人公の女性、25歳は物語終盤で恋人の津奈木に叫ぶ。

いいなあ津奈木。
あたしと別れられて、いいなあ。

そう。
私は私をやめられない。
どんなに苦しくてもつらくても
あるいはいまのよろこびに束の間しあわせを感じていても。

でも。30も半ばになればわかる。
私は私をやめられないけれど
選ぶことはできるのだ。
人生を。ともに歩くひとを。
少なくともこの平和な時代の日本においては。

間違えないことはときに難しい。
でも必ず。選びなおすこともできるのだ。毎日を。新しい日々を。

ずいぶん昔の私に、
そして友だちたちに。
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マジシャンというのはどうもいけすかない。


マジックなのだから種もしかけもあるはずで

あるはずなのに見破れない。

だからいけすかない。


マジックバーなるものが一時期友人知人のあいだで流行り、

私も数回、行ってみた。数年前の話だ。


銀座の雑居ビルの地下にある店と

それからもうひとつは、これまた銀座の数寄屋橋交差点のそばの店。


前者のほうが老舗のような趣で

後者はできたてで、マジシャンのたまごのようなひとに

「タネを教えて」と、同僚が信じられないことをいったら

本当にテーブルマジックのタネ証をしてくれた。

なんだ、そういうことだったんだ。そのタネを聞くと興ざめだ。

それ以来、ふん、と思っているフシがある。


しかし。

ウチの近くにはマジック銭湯なるものがあり、

名前のとおり、銭湯でマジックショーが見られる。

要は銭湯の若主人がプロのマジシャンで、たまに番台にいたりして

リクエストがあるとマジックを見せてくれるのだが。

そこでは度肝を抜かれるマジックを見せてもらった。

もう本当にすごい。わが目を疑う。

そこでまた、ふふん、と思う。

ふふん、やるじゃない。マジック、侮りがたし。


ここ数日で一気に何冊かの本を読み

なぜかほとんどの本でマジックやそのトリックに関することがちょっとずつ出てきた。

その符号にたったいま気がついてなんだか可笑しくなった。


さてマジシャンと本といえば、

吉田篤弘さんの書いている小説にたびたび出てくるマジシャンが

私はとても好きだ。

誇り高きマジシャン。


さて今回、こころを動かされたマジシャンは、

老齢の、バスの運転手さんである。

四十年間、バスだけを運転してきた運転手。

観光バス、長距離夜行バス、路線バス、そして六十を過ぎたいまは、幼稚園バス。

そんな運転手が主人公の、これは物語だ。


 幼稚園バスにはさまざまな子どもたちが絶えず動き回り、大きな声を出し、少しも油断ならない。まるでそれが本当の名前であるかのように、「バスのおじちゃん」と馴々しく男を呼び、ハンドルやサイドブレーキや制帽に触りたがる。


(中略)


 一番困るのは泣かれることだ。彼らはいともたやすく涙を流す。

「さあ、泣くんじゃない。泣き止んだらドロップをあげよう。君は何味が好きかな?苺、葡萄、桃、チョコレート、ハッカ」


そうして男は、子どもがリクエストしたドロップを、必ず出してあげるのだ。必ず。

タネは簡単。


 男は五つのドロップ缶を買い、中身を全部出し、一つの缶に一つのドロップを入れて制服のポケットに忍ばせている。苺と葡萄はブレザーの右と左、桃とチョコレートはズボン、ハッカの子は滅多にいないから内ポケット。

 こうして、ポケットの中で、カタカタと鳴るドロップの音を聞きながら、男は幼稚園バスを走らせている。


小川洋子さんの短編集「海」のなかの、これは「缶入りドロップ」という小編だ。

ああなんて素敵なマジシャンなのだろう。

こんなマジシャンになら私もなりたいと思う。





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「キリストは白人だったと思いますか?」

恐る恐る投げかけてみた。男ははじめて顔をあげ、少年の方を向いた。

(中略)

「なんでそんなことを訊く?」

男が呟いた。

(中略)

「だって、そう思ったら、質問をしたくなったんだもの。なんでって言われてもわからないよ。知りたいから。でも、ちゃんと答えてくれた人はいない。」

少年は口早に説明した。男は頬杖をつき、

「キリストはそんなことを気にするような人だったとは思えないけど。」

と告げた。少年はモヤモヤとしていたものが不意に消えてなくなるのを覚えた。

「そんなことはどうでもよかったのじゃないか。キリストが皮膚の色を気にしたとは思えない。ぼくだって、そんなことはどうでもいいように思う。」


これは辻仁成の「隠しきれないもの」に出てくる一節である。


キリストの皮膚の色について。

それをここで議論するつもりはまったくないのだが。

なぜならば私は無神論ではないが宗教を持っていないし持つつもりもさらさらなく

歴史を講じるほど知識があるわけでもない。


ただ。

私がいいなと思ったのは、この物語に登場する「男」の意識である。


キリストが皮膚の色を気にしたとは思えない。

そして、

ぼくだって、そんなことはどうでもいい。

その意識。


すべてのひとがこういう気持ちを持っていたならば

争いなどこの世に必要ないだろう。


皮膚の色というのはひとつの抽象だ。

それもそれ以外もすべてのものものについて。


種明かしをしてしまうと

この「男」は神父さんでありつまらない「争い」に巻き込まれ命を落とす。

その物語に共感は憶えたくはないが

今日感じたこの意識を

私はたいせつにしたいと思う。







群ようこさんの「きものが欲しい!」を読了する。


きものに対する考えかたは

共感できるところとそうでないところがあり

ただきものを着ることが好きだという気持ちはとてもよく伝わってきて

また知らなかったことや、これは参考になるなということも

いくつかあり、なかなか興味深く読んだ。


欲しい!と思ったきものは買ってしまう、という境地には

私はまだまだ立てず、

(結果、「すってんてんになる」と群さんは何度も書いているが)

いつかそんなふうにできたらいいなとも思うし(すってんてんになりたいわけではない、もちろん)

また母や祖母から受け継ぐきものがあるというのも

そういうものがない私にはうらやましくうつる。

きものが増えていい、ということではなく

そういう、受け継ぐというものが、宝石とかバッグとか家とかではなく

きものである、ということ。


さてこの本のなかに、「きものサロン」での群さんと著名なかたがたとの対談が3篇ほど掲載されている。

佐藤愛子さんの気風には脱帽だし

平野恵理子さんの「あ、これは私のためにある」とつい店頭で気に入ったものを買ってしまうところには共感だ。

おふたりのきもの姿はとても素敵だ。もちろん群さんもだけど。


わけても篠田桃紅さん。

ああなんて素敵なのだろう。

その着こなし。ふだんのようでいてしゃんとして。

とてもとても、美しい。


そんな篠田さんが渡米して暮らしていたときのことが、

対談で紹介されていた。


群さん「日本に戻ってこられて、のちのち外国で暮らしたいとは、考えたことなかったんですか」

篠田さん「何度も思いました。ただ、私が小さいときからなじみ、自分の仕事としてきた墨は、日本の、東洋の風土のものです」

群さん「ああ、やはりそういうものですか」

篠田さん「あちらでしたら、オイルペインティングを描くべきだと思うんです」

群さん「それは、気候とか湿度ですか」

篠田さん「風土です」


風土。

なるほど風土。


つづけて篠田さんはこうおっしゃっている。


風土。光線。すべて。

私、持っていった着物を、ニューヨークの外の光で見たとき、ええっと思ったことがあります。


私は海外できものを着た経験はないが(まあ日本でだって数えるほどしかないが)、

海外の光のなかでは植物ひとつとっても

まったく違って見えることを知っている。


そうしてだからこそ

きものという日本の文化を

日本人である私が

この日本で愉しむことは

とても自然なことであるのだなあと思うのだ。


と思うのだが

なかなかたんすのこやしからは脱っすることが

できないのだけれども。