武家家伝 アニメ化傾向解析 | Sheila∞River 最果てへの旅路を君の夢とともに・・・。

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MR. & MS. RUNWAY MODEL UNIVERSE
インターナショナルディレクター

内藤 飛鳥

武家家伝と言うのは時にアニメ化されます。
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幸村の父「真田昌幸」をはじめとしたキャラクターたち。


上杉謙信は美形で有名で、アニメによっては女性像もあります。
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お写真は1枚目から、続いて2枚目まで。


上杉謙信末裔⁑上杉孝久先生
真田信之末裔⁑眞田幸光先生
武田信玄末裔⁑武田邦信先生
津田弾正末裔⁑緋宮栞那先生
黒田長政末裔⁑黒田清久先生
内藤正成末裔⁑内藤飛鳥
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最近は、縁の下の力持ちについても調べています。

最近興味を持つようになった
❇︎島左近❇︎と言う武将がいます。

島左近は安土桃山時代の武将で、
大和の戦国大名・筒井氏、後に❇︎石田三成❇︎に仕えた人物です。
別名、島清興。
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島左近の実名は島清興(一説には勝猛)と言います。
 
島左近に関する資料は少なく、三成に仕えるまでの経歴は明確にありません。
 
通説では山城の国の筒井家に仕えており、筒井家当主である❇︎筒井順慶❇︎
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の死後、
跡を継いだ順慶の甥である定次とそりが合わず、浪人をしていたと言われています。
 
浪人とはいえ、その名が広く知られていた島左近の元には、多くの大名からの仕官話がありましたが、左近はその話をすべて断っていました。

その頃、近江4万石の領主であった
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アニメ化はかなりの美形ですね。

石田三成からも仕官の要請がありました。
 
もちろん、その誘いにも難色を示した左近でしたが、三成はこの時に大きな賭けに出ます。
 
「自身の俸禄の半分である2万石を与えるので、自分の家臣になってほしい。」
 
島左近
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ほどの人物であれば2万石以上で召抱えたい大名家は沢山ありましたが、左近は自身の俸禄の半分を与えてまで自分を必要としてくれているという三成の想いに打たれ、仕官を決めたといいます。
 
官僚としての才能は抜群だった三成ですが、軍事面に関する能力は今一つだったとされています。
 
そんな三成にとって、武勇と軍略の才に長けた島左近は、どうしても自分の家臣としておきたい人物だったようです。
 
三成が自分の給料の半分を出してまで得た左近は、共に朝鮮へも出兵し、
関ヶ原まで運命を共にすることになります。

 ✴︎家康暗殺計画✴︎

三成の仕える❇︎豊臣秀吉❇︎が病で没すると、天下を狙う❇︎徳川家康❇︎台頭してきます。
 
軍略家である左近は、家康の動きを警戒し、三成に家康の暗殺計画を相談します。
 
しかし、三成は大義名分、正々堂々とした戦いを主張し、暗殺という手段を許しませんでした。
 
軍略家である左近はまともに戦っても家康には勝ち目がないことを見通して三成に進言したようですが、その声は三成には届きませんでした。
 
徳川家康とは事を構えたくないと。
 
島左近が徳川家康の率いる軍団や、
その軍略をどれだけ評価していたかが分かる逸話です。
 
覚悟を決めた左近は、関ヶ原の戦いの前哨戦である杭瀬川の戦いに兵500を率いて出陣。
 
見事に東軍を敗退させて完勝します。
 
東軍の出鼻を挫いて勢いに乗りたかった左近は、薩摩の大名であり、戦上手で知られる島津と共に夜襲を三成に提案しますが、この合戦の経験が豊富な2人の軍略家の案にも三成は首を縦に振りませんでした。
 
左近の考えた策は、またしても三成に却下されてしまいます。
 
戦上手の島左近や❇︎島津義弘❇︎の意見を聞かなかったそうです。
 
三成のこういう頭が固いところが、
西軍を負けに導いた一因であると思っています。
 
こうして島左近は、最期の舞台、関ヶ原へと出陣していく事になります。
 
✴︎関ヶ原の戦い✴︎

関ヶ原の戦いで島左近は❇︎黒田長政❇︎の軍と激突します。
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鬼神の如き左近の活躍もあり、西軍有利に進行しますが、島津や❇︎毛利輝元❇︎、❇︎小早川秀秋❇︎が傍観の姿勢を見せ、戦に加わらなかったため、徐々に西軍は劣勢に陥っていきます。
 
左近は、❇︎黒田官兵衛❇︎の息子である黒田長政が迂回させた鉄砲隊の銃撃により負傷、そして小早川秀秋の裏切りにより、西軍は瓦解してしまいました。
 
左近は負傷しつつも奮戦しますが、
最後には討ち死にしたと伝わります。
 
左近の勇猛さは関ヶ原の戦いが終わった後も黒田軍の脳裏に焼き付いていたそうで、左近が鬼の形相で「かかれー!」という怒声が長政の兵たちの夢に出てきたと言われています。

❇︎真田信繁❇︎の人生の人生の中でもっとも大事件というのは
大坂の陣なのですが、この部分を描く前に
次に大事な事件とは、天下分け目と言われた戦いがあります。

冒頭に記述した『関ヶ原の戦い』です。

この戦いは、戦国時代の日本を
真っ二つに陣営を分けた、総力戦だったわけですが、
この関ケ原の戦いのプロデューサー的役割を果たしたのが
石田三成になるわけです。

東軍の総大将は徳川家康。

西軍の総大将は毛利輝元。

本来であれば、この戦いのプロデューサーの石田三成が総大将として
全面に立ちたい所なのですが

三成が総大将になってしまうと三成嫌いの武将が全て敵の東軍側に移ってしまうので敢えて、総大将にはならずに
副将各に甘んじるということになります。

石田三成の盟友でもある
大谷吉継が、

『そちの人徳のなさが、あらぬ敵を新たに作らないために、全面に立つべきではない』という吉継のアドバイスだったと言います。

いざ合戦が始まってみると、もともと、戦闘に関しては、

不得手であった石田三成軍が
敵対した黒田長政軍と互角どころか
午前中の戦いでは、優勢に戦いを進めていました。

黒田長政と言えば、黒田清久先生に沢山武勇伝を伺っています。

私が解析するには石田三成の陣営には
戦国きっての猛将と言われた
『鬼左近』こと、島 清興(しま きよおき)
がいたからでした。

石田三成こそ、真田昌幸を策士として
認めていた人物になります。


真田昌幸は、第一次上田合戦(1585年)当時、上杉景勝に仕え、
徳川家康と対立しました。

見事に撃退するわけですが、
天下統一前の徳川家康軍を蹴散らしたこの戦いは
大いに真田の武名を轟かせました。
翌年、❇︎上杉景勝❇︎は、上洛し❇︎豊臣秀吉❇︎に臣従しています。

その上洛の労をねぎらった手紙には、
豊臣家奉行の石田三成・増田長盛が
景勝へ宛てて書いた添え書きがありました。

真田昌幸のことを、
『表裏比興の者』と評した言葉です。
 
戦場の島左近は鬼神のような存在感で、常に兵士からは恐れられていたようです。

私の先祖は、東軍の徳川家康に付きました。

関ヶ原の戦いに、
徳川十六神将として、死ぬ迄家康に全てを捧げたのが❇︎内藤正成❇︎です。
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実は正成は家康よりも年上で、
家康の父親の❇︎松平広忠❇︎の時代よりも前から徳川家を支え、

親子武将として、三方ヶ原合戦の時は、
父の内藤正成

❇︎内藤清長❇︎の弟・❇︎内藤甚五左衛門忠郷❇︎次男として生まれ、
伯父の清長に仕え、❇︎松平広忠❇︎の家臣となり、その死後は徳川家康に仕えました。

15歳の時、❇︎織田信秀❇︎の侵入の際、
矢を射て退け、
三河一向一揆の折には、敵対した舅
石川氏の両膝を射抜き撃退。

三方ヶ原の戦いでは、長男を失いながらも奮戦、高天神城攻城戦では敵方武田軍を滅茶滅茶に殺した射力を恐強弓の武功者だと聴いています。

また内藤正成の叔父にあたる清長も松平清康、松平広忠に仕え、
天文11年(1542年)織田勢が上野城
(愛知県豊田市)を攻めた際に、内藤正成、息子の内藤正貞と共に防戦し、
数十人の織田勢を討ち取りました。

因果応報でしょうか、高天神城の戦は、武田勝頼と徳川家康の間で戦われた高天神城の2度の攻城戦ですが、

勝頼の家臣を滅茶滅茶に殺しながら、
内藤正成の息子、(正貞)は、
三方ヶ原合戦で、家康の命を守る為に自ら肉鎧になり、武田軍の矢を受け、
三方ヶ原で絶命しています。

因果応報なのか、
高天神城で圧勝した内藤武将は、
三方ヶ原で武田軍により絶命しました。

また皮肉なのか、
内藤大名家は全国に六家あり、
三河豪族だった内藤飛鳥の先祖は
徳川家に付き、

内藤家には丹波系、周防系、三河系、甲斐系があり、丹波系と周防系は室町時代の守護代として、
三河系は江戸時代の譜代大名として。
甲斐系からは武田四名臣の一人である
❇︎内藤昌豊❇︎を輩出しています。

武田軍vs徳川軍
は、親戚同士の殺し合いでもあります。

これは私の血、DNAが感じた事ですが、
何故か❇︎上杉謙信❇︎末裔・上杉孝久先生とお逢いした日、
あったかく、懐かしい感じがあり、
❇︎武田信玄❇︎末裔・武田邦信先生にお逢いしたとき、背筋が凍るような恐怖を覚えました。
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今でも武田先生のお側は緊張します。
ただ、戦国武将は敵であっても味方であっても命懸け。

私も武田軍に一切恨みはありません。
武家の定だからです。

上杉先生が仰っていました。
御先祖様の御供養の際に、敵同士の集まりがあり、今では仲良くなってしまうそうです。

武田信玄は子の勝頼に
「いざという時は上杉謙信を頼れ、
必ず助勢してくれるはず。謙信とはそういう男だ!」

「義侠心に富んだ義に厚い男」と人格を認め、信玄は謙信を敬っていたのが解ります。

『敵に塩を送る』という言葉があります。

それは正に信玄と謙信の間柄から生まれた言葉です。

信玄と謙信は、川中島の合戦でも知られている通り宿敵とも言える程の間柄でした。

信玄は信濃を拠点とする将。
海から遠い信濃に、塩の搬入が滞る事態が発生します。

真っ先に救いの手を差し伸べたのが謙信だと言われています。
敵同士とはいえ、真に困っている相手を見捨てる事が出来ない程、
度量の大きかった謙信に対し、信玄は『信頼に値する』と感じたのかと思います。

子の勝頼に『困った事があったら謙信に頼れ』と遺言を残したのも納得がいきます。

越後の龍の上杉謙信の土地は遠いですが、
私の先祖や親戚が定着した土地は浜名湖付近に多く、何方かと言えば甲斐の虎の武田信玄の土地の方が近いのです。

私の父や叔父もまた、浜名湖の湖一部や湖西の土地の一部を所有していますが、

毎年好きなだけ浅利を採るくらいな平和な活用しかしていません。

個人的な私の趣味ですが、冒頭に記述した島左近は私の家系と性質が似ている為
何故か親近感が湧きます。

歴史本や教科書にあまり目立たなくも、
猛将だった事実かもしれません。

内藤武家屋敷も今や公園になってしまい、縁戚の新宿御苑(❇︎内藤清成❇︎)系もまた、国のものになり、明治維新後は子爵家としての内藤家の力も、平成の今では血筋の名誉、建立、寄付した寺院が存続しているくらい、やはり貧乏貴族というものです。


私が親近感が湧く武将の島左近ですが、
恐らく剣術に於いて優れていて、
主君の命運を握っていた人物だからかもしれません。


❇︎島左近
❇︎石田三成
❇︎毛利輝元
❇︎筒井順慶
❇︎豊臣秀吉
❇︎松平清廉
❇︎松平広忠
❇︎徳川家康
❇︎内藤甚五左衛門忠郷
❇︎内藤正成
❇︎内藤正貞(弥二郎)
❇︎内藤清長
❇︎織田信秀
❇︎島津義弘
❇︎黒田長政
❇︎黒田官兵衛
❇︎小早川秀秋
❇︎真田信繁
❇︎真田昌幸
❇︎大谷吉継
❇︎武田信玄
❇︎上杉謙信
❇︎上杉景勝
❇︎豊臣秀吉