やぐち おさむのブログ

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現千葉地方裁判所(当時東京○○裁判所)裁判官「蓮井俊治」は、「裁判官としてあってはならない過ち」を犯した。

 

それは、筆者がある事件で平成27年12月3日に判決を受けたが、筆者がある費用を「平成20年9月から平成22年6月まで220万円を支払っていた」と通帳や手帳を証拠として提出したが、それを認めないで相手方の証拠を提出していない「虚偽」の主張を採用して、判決文の前段でその費用を「平成20年9月から平成21年12月まで支払っている」と認めつつ、後段で「平成20年9月から平成25年5月まで支払っていないからその費用171万円を支払え」と意味不明な二重の支払いを命じた。

 

そこで、裁判官相手に反省を促すために訴訟を起こしたが、蓮井裁判官は東京地方裁判所での第一審で最高裁判例を根拠に謝罪もしなく、そしてその第一審も最高裁判例を根拠に「棄却」とした。

そして、当然に最高裁判所の報告するために東京高等裁判所に控訴した。

その控訴理由書を皆様にご紹介する。

 

 

平成28年(ネ)第2590号 損害賠償等請求控訴事件

    谷口 

被控訴人  蓮井俊治

    

平成216

東京高等裁判所第23民事部Eハ係 御中

                                           控訴人      

 

頭書の事件について控訴人は次のとおり控訴理由を提出する。

附属書類

1 控訴理由書副本

 

控訴の理由

 はじめに

1 本控訴理由書では、原審において判決に影響すべき重要な事項について審理不尽があるためこれを指摘し、判断の遺脱、理由不備、社会通念ないし経験則違反を指摘し控訴理由を補強し、その上でまとめを行い、控訴理由を明らかにする。

 

2 本控訴理由書における表記について

(1) 控訴人谷口治を以下、「控訴人」という。

(2) 被控訴人蓮井俊治を以下、「被控訴人」という。

 

 判決に影響を及ぼすべき重要な事項についての審理不尽

 判断の遺脱及び理由不備

 原判決は「国家賠償法1条1項は、国又は公共団体の公権力に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任じ、公務員個人はその責を負わないと解するのが相当である(最高裁昭和30年4月19日第三小法廷判決・民集9巻5号534頁、同裁判所昭和53年10月20日第二小法定判決・民集32巻7号第1367号)」により、担当裁判官は個人であるため損害賠償責任を負わないとした。

 しかし、「最高裁昭和30年4月19日第三小法廷判決・民集9巻5号534頁(農地委員会解散無効確認並びに慰謝料請求事件)」は、熊本県知事が行った「町農地委員会の解散命令のより名誉を毀損されたとする者が県知事及び農地部長個人に対して賠償を求めた事案であり、そして、「最高裁昭和53年10月20日第二小法定判決・民集32巻7号第1367号」は、刑事事件の捜査及び訴追に故意又は重過失があったとする者が、国並びに担当検察官及び警察官個人に対し、損害賠償と謝罪広告を求めた事案であり、本件のように「民事訴訟法247条違反」「民法724条適用の誤り」「安全配慮義務違反」「民法709条及び710条」の、極めて「裁判官としてあってはならない」判決を職務上行い、中でも「費用の二重の支払い」という信じ難い判決を言い渡した本件に適用するのは、あまりにも次元が違いすぎるため適切ではない。

 また、その判決のみを理由として「棄却」としている点は、理由不備であると指摘する。

 

2 控訴人の主張 

(1)憲法上の裁判官の良心について 

 憲法76条3項は「すべての裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定する。それは、憲法19条の「良心」と同じく裁判官個人の主観的良心と解する「主観的良心論」か、裁判官の良心は職業倫理に関するものであり、それには客観的な道徳的価値基準が存在するから裁判官の良心も客観的なものでありうるとした「客観的良心論」に大別されるが、いずれかが妥当だと未だ明確ではない。

 そこで、「裁判官個人の主観的良心と解する」と今回の極めていい加減な判決も「主観的良心」と解されるため妥当ではなく、「裁判官の良心は職業倫理に関するものであり、それには客観的な道徳的価値基準が存在するから裁判官の良心も客観的なものでありうるとした「客観的良心論」が妥当である。

 したがって、裁判官の良心も「客観的なもの」として取り扱うと、問題となっている判決はおよそ憲法上の「良心に従ひ」職権を行われたとは言い難い。

 

(2)国家賠償法について

 国または公共団体の公務員が、その職務を行う場合において、故意又は過失によって他人に損害を与えたときは、国家賠償の責任を生ずる(国家賠償法1条)。

 裁判官の司法作用としての職務行為については、国家賠償法その他の法律においてこれを例外とする明文の規定はない。そのため、裁判官の職務について国家賠償責任を生じうるかについては、見解が分かれている。判決等は公権力の行使にあたることについて異論はない。しかし、一般の公務員の公権力の行使の場合と同様に扱うべきかどうかについては、問題がある。

 さらに具体的に、①前訴(民事又は刑事の訴訟)の裁判官の判断を、後訴(国賠請求の民事訴訟)において再度裁判官が判断する、という判断の二重性、②その判断は、その間に民刑事の裁判の確定判決も介在しており(判断の時的差異)、③国賠訴訟の各当時者に対する適正な手続保障の問題、④前訴と後訴では判断の対象に次元が異なるほか、⑤裁判官の裁判行為には裁判制度に由来する固有の三審制(上訴・再審)及び固有の制度ではないがなお、憲法上の大原則である裁判官の独立から来る制約、の問題がある。

 求償も「諸般の事情に照らし、損害の公平な分担という見地から信義則上相当と認められる限度においてのみ認められる(最三小一判昭和51年78日民集30巻7号689頁)」としている。

 

(3)公務員個人の責任について学説の展開

① 責任否定説

 国家賠償法の規定の「国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる」のほか、国又は公共団体に十分な資力がある以上、資力の乏しい公務員個人への請求を認める必要はないこと、公務員個人への請求を認めると公務員の職務執行が萎縮し行政の停滞をもたらすおそれがあること、軽過失の場合に直接請求を認めることは国家賠償法1条2項の求償権の規定とそごすること、等が挙げられる。

 

② 限定的肯定説

 国家賠償法第1条2項の公務員個人に対する求償権の場合と同様に、故意又は重過失のあるときのみ公務員の責任を認める説である。また、公務員が私利私欲を図ったような場合には、個人の免責に疑問があるとの見解がある。

 

③ 肯定説

 理由として、民法715条では被用者も使用者とともに賠償責任を負うのに、国家賠償法の適用がある場合に公務員は個人責任を負わないとする理由はないこと、国家賠償は、公務員の職権濫用に対する民衆による個別的監督作用を営むこと、被害者の報復感情を満たし得ること等を挙げる。

 

(4)公務員個人に責任を認めた事例

 (東京地裁平成6年9月6日判時1504号40頁)

「本件盗聴行為がまさに被告県の職務として実行されたものであることについては同被告ら主張のとおりであるが、他方、本件盗聴は当初より違法であることが明確な行為であって、かかる行為についてまでは、形式的に公務に該当することを理由に、公務としての特別の配慮を加えるべき理由が存するのかどうかについては強い疑問を感じざるを得ないところである。」

「思うに、公務は、私的業務とは際立った特殊性を有するものであり、その特殊性ゆえに、民事不法行為の適用が原則として否定されるべきものであると解されるが、右の理は、本件のごとく、公務として特段の保護を何ら必要としないほど明白に違法な公務で、かつ、行為時に行為者自身がその違法性を認識していたような事実については該当しないものと解するのが相当である。このように解しても、公務員の個人責任が認められる事案は、行為の違法性が重大で、かつ行為者がその違法性を認識している場合に限られているのであるから、損害賠償義務の発生を恐れるが故に公務員が公務の執行を躊躇するといったような弊害は何ら発生するおそれがないことは言うまでもなく、かえって、将来の違法な公務執行の抑制の見地からは望ましい効果が生じることさえ期待できるところである。

 

3 被控訴人の原審での主張について

 最高裁判所の判例「国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人の損害を加えたときは、国家賠償法により、国又は公共団体が賠償する責めに任ずるとされ(1条1項)、公務員はその責任を負うものではない」(最高裁昭和30年4月19日判決・民集9巻5号534頁、昭和53年10月20日判決・民集32巻7号1367頁)を用いて、「故意又は過失によって違法に他人の損害を加えたときは」と自らの誤りを認めつつ、「国家賠償法により、国又は公共団体が賠償する責めに任ずるとされ(1条1項)、公務員はその責任を負うものではない」と、自らの責任ではなく「国」の責任だと責任逃れをしている極めて信じ難い主張である。

 

三 求釈明

 「真実」を別件訴訟においての「控訴理由書」や「準備書面」を提出するのでそれを参考に、被控訴人が真の裁判官であるなら、別添にて求釈明申立書を提出するので、詳細に釈明を求める。 

 

四 結語

 問題となっている判決は、「判断の誤り」「法律の適用の誤り」「職務義務違反」「不法行為」等が内在している極めて可笑しな判決であり、現代社会には許されるべきものではなく、「費用の二重の支払い」については「裁判官としてはあってはならない誤り」であることに異論はない。

 そこで、「故意又は重過失のあるときのみ公務員の責任を認める」べきであり、また、「民法715条では被用者も使用者とともに賠償責任を負うのに、国家賠償法の適用がある場合に公務員は個人責任を負わないとする理由はない」と考える。

 したがって、「公務として特段の保護を何ら必要としないほど明白に違法な公務で」あり、「かつ、行為時に行為者自身がその違法性を認識していたような事実については該当しないものと解する」のが相当である。

 そして、「行為の違法性が重大で、かつ行為者がその違法性を認識している場合に限られているのであるから、損害賠償義務の発生を恐れるが故に公務員が公務の執行を躊躇するといったような弊害は何ら発生するおそれがないことは言うまでもなく」、「かえって、将来の違法な公務執行の抑制の見地からは望ましい効果が生じることさえ期待できるところである。」ため、裁判官個人に責任を認めるべきである。

  

以 上

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行政行為は、「行政庁が法律の定めるところに従い、その一方的な判断に基づき、国民の権利義務その他の法的地位を具体的に決定する行為」と定義される。土地収用法に基づく土地の強制収用、所得税法に基づく税の徴収等である。


行政行為という言い方は、我が国の法令上の用語とはされていない。法令上の一般的な用語としては、「処分」「行政処分という、いわば行政処分概念(行政手続法、行政事件訴訟法32項、行政不服審査法2条)をもって法令上の用語とされている。


 成立要件としては、①正当な権限を有し、正当に構成された行政機関が、その権限の範囲内で、その意思形成に欠陥なく行うこと(主体に関する要件)(大阪高判平7.7.28判タ905号139頁)、②行為の内容が法的にも事実上も実現可能なものであり、明確なものであること(内容に関する要件)、③手続きが要求された場合にはこれを具備すること(形式に関する要件)、を挙げることができる。効力発生要件は、行政行為を相手方の知りうべき状態に置くことである(最判昭57.7.15民集36巻6号1146頁)。


 行政行為には、法令により、その成立や効力や取扱について次のような特色がある。①行政行為は、法に従わなければならない(法適合性)。②行政行為の成立に瑕疵があっても、無効の場合の他は権限のある機関の取消しがあるまでは適用し、有効に拘束力を持つ(公定力)(最判昭30.12.26民集9巻14号2070頁)。③法令の定めるところにより、自らその内容とするところに相手方に対して強制的に実現する力を持つ(執行力)(行政事件訴訟法25条、行政代執行法等)。④行政行為の効力が発生して一定の期間経過後は、その効力を争うことはできなく(不可争力)(行政事件訴訟法14条)(最判昭24.5.18民集3巻6号199頁)、行政庁もこれを変更することはできない(不可変更力)(最判昭29.1.21民集8巻1号102頁)。⑤現行法では、行政行為に関する不服の訴訟は、抗告訴訟として特殊の規律におかれ(行政事件訴訟法)、また、行政行為による損害の賠償責任も民事上の不法行為責任とは異なる(国家賠償法)等である。これらは学説、判例上認められている。

 行政行為のこれらの効力のうち最も重要な問題は②公定力である。国民は立法府に立法権を委任し、立法府は行政府や司法府に対し適法に行政処分や判決を下すべきことを委任する。したがって、行政府や司法府が行う行政処分や判決は「適法の推定」を受けることになる。そして適法の推定を受けた行政行為がその内容に応じて法律効果を発生する力を拘束力という。この拘束力は、その適法の推定を受けた行政行為の効力を相手方又は他の行政機関や国民に承認させる力である。さらに公定力が問題となるのは、行政庁による行政行為が適法か否かについて相手方が疑いをもった場合に、行政庁の適法の判断を優先させる場合である。わが国の実定法においては行政行為の適法性の判断の優先権を行政機関に認め、行政行為が違法であっても権限ある機関により取り消されるまで、その行政行為は一応適法の推定を受け、相手方、第三者、国家機関もその効力を否定できないという理論にたっている。

 

 ③執行力が発動されるのは、行政代執行法が認める代執行の場合である。私法上の法律行為を強制執行する場合は、裁判所の債務名義がなければならないが、行政行為にあっては、行政庁自身が債務名義が与えられている(税務署長の強制徴収等)。国民の権利利益の保護の観点から、行政庁の下命権と強制執行権とを区別して、行政庁の下命権には当然には強制執行権が含まれないと解されている。したがって、行政庁の強制執行権の行使にあたっては法律の根拠が必要であるという考え方が支配的である(東京地判昭41.10.5)


 裁判判決の確定力には形式的確定力と実質的確定力とがある。この確定力の概念は訴訟手続きを経た裁判判決に伴う特殊な効力として用いられているにもかかわらず、一般の行政行為についても形式的確定力を④不可争力、実質的確定力(最三小判昭42.9.26民集21巻7号1878頁)を⑤不可変更力と呼ぶのが適当だとされる。

 

 それから、行政行為には外形的には存在してはいるが、要件の充足に様々な程度において瑕疵があることがある。この瑕疵には無効原因たる瑕疵と、取消原因たる瑕疵がある。

瑕疵の態様は①主体、②内容、③手続、④形式についてである。


①主体に関する瑕疵は、行政行為が正当に行政機関としての権限を行使し得ない者により、正当に組織されない合議体により、法律上予定された他の行政機関の協力又は相手方の同意を欠き、事項的又は地域的に権限を有しない行政機関によって行われた場合は、それぞれ原則として無効原因となる。意思に欠陥があり、心神喪失、抗拒不能程度の脅迫による等の意思のない場合は無効原因となるが、詐欺、脅迫等意思決定に瑕疵のある場合、賄賂その他の不正は取消原因となる。錯誤は、無効又は取消原因とならず、原則として表示されたところに従って効力を生ずる(最判昭40.9.10民集19巻6号1512頁)


②内容に関する瑕疵は、行政行為の内容が法律上又は事実上実現不能な場合又は不明確な場合はそれぞれ無効原因となる。事実上の不能とは、物理的又は社会観念上事実不能な場合をいう。法律上の不能とは、法律構成上実現不能な場合をいう。内容に単なる違法性がある場合には取消原因となる。内容の不明確性は無効原因となる。


③手続に関する瑕疵は、行政行為の相手方に法的利益を保護するために法の規定によって予定され、また条理上要求される手続きを履践しない場合には、原則として無効原因となる(行政手続法の定める手続き、行政不服審査法等の不服申立手続き)(最判昭50.5.29)


④形式に関する瑕疵は、行政行為は性質上要式行為ではないが、法規が形式を要経する場合がある。書面によることを要件としているのに、書面によらない場合、権限ある行政庁であることを明らかにする署名捺印がない場合、要求されている理由付記を欠く場合は無効原因となる。ただし、記載に欠陥がある程度のものは取消原因となる。



杉本章三郎著『行政法Ⅰ』中央大学出版部 2001年

塩野宏著『行政法Ⅰ行政法総論』有斐閣 2003年

田中舘照橘編『演習ノート行政法』法学書院 1995年

塩野宏編『行政判例百選Ⅰ』別冊ジュリストNo150 有斐閣 1999年

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 〔憲法33条、35条に違反する捜査活動を否定(排除)し、違憲な捜査活動に由来する活動とその成果を否定する(毒樹果実の法理)法則〕=排除法則は、

(1)この法則を用いても、違憲な捜査活動を将来抑止する効果があるとの実証的研究、調査が欠けている

(2)有罪者にだけ役立ち、無実者は本来、無事なのだから、この法則は有罪者を無罪にする反道徳的なものである。

 との相当に理由がある反論があるのに、この排除法則を採用する方が大きな意味があるとの立場がある。

 排除法則を、上記の批判を考慮に入れながら、採用すべきだとする説得的で、一貫性のある理由づけ発見できるとすれば、どのような内容の理由づけだろうか考察する。


 憲法上の重要な基本権、具体的には憲法上保護された領域への他人の不当な干渉、侵入を受けないとの合理的な期待を保護する目的を実現するためにそのような不合理な干渉・侵入をした政府に、それによって入手された資料、証拠等に由来する一切の利益を享受することを許されない法則を排除法則という。換言すると、証拠の収集手続が違法であった場合に、その証拠能力を否定し、事実認定の資料から排除する原則である。


 排除法則の関心は個人の自由の保障に向けられており、被告人の有罪、無罪にあるのではない。すなわち、排除する法則が排除するのは、「有罪証拠」ではなく、「不当な法執行・捜査活動」なのである。個人の自由を侵害し、不特定多数の個人の自己表現に委縮効果を及ぼすような活動を否定するところにこの法則の狙いがある。当の個人の自由が侵害されていない状態に回復すること、他の不特定多数の個人の自由を侵害する活動を抑制するとともに、他の不特定多数の個人が自由な自己表現を差し控えるような委縮効果を持たないようにしようとする要求がこの法則を生んだのである。

 

 1914年のアメリカ合衆国最高裁判所の連邦事件であったウィークス事件(Weeks v. United states,232 U.S.383(1914))で、合衆国憲法第4修正(日本国憲法33条と35条に相応する規定)は不合理な捜索・押収によって入手した証拠の公判での利用を禁止しているとはじめて判示し、この法則を宣言した。ここでは、いわゆる規範節がとられた。つまり「政府は自己の不正な活動によって一片の利益も得るべきではない」という理由づけで、法執行機関が基本権を侵害して入手した非供述証拠の排除法則が採用された。その後、「司法が損なわれていない状態を保つべきだとする至上命令」が基本権を侵入して入手した証拠を排除する法則を支えるという司法の廉潔性の保持説が主張された。さらに、法執行機関による基本権の侵害行為を抑止する目的で排除法則がとられるという政策的見地を顕らかにする抑止効説が説かれた。1961年の合衆国最高裁判所のシャップ事件(Mapp v. Ohio, 367 U.S. 643 (1961))は、この抑止効説に立った。


 排除法則に関する日本の学説は、これを肯定する見解が多数であるが、その証拠について以下の通り見解が分かれている。適正手続きの保障、いわゆる規範節は、憲法は捜査・押収について詳細な手続きを定めており(憲法35条)、しかも適正な手続きによらなければ処罰されないと保障している(同法31条)。これらの規定からの帰結として、憲法35条の規定に反する方法で収集された証拠を用いることは、適正な手続きによる処罰とは認められず、許されないとする。司法の廉潔性の保持説は、捜査機関によって違法に収集された証拠を、裁判所が公判廷において用いた場合には、その違法性を裁判所が引き継ぐこととなり、全体として司法の廉潔性が侵害されることになり、許されないとする。抑止効説は、違法収集証拠の証拠能力を否定することにより、捜査機関に違法の利益を享受させないとともに、将来の同種の違法捜査を防ぐことを根拠としている。


 証拠排除の基準として、大きく二つの見解が存在する。第一は、絶対的排除説である。これは、収集手続きに重大な違法性があった場合には、直ちに排除されるという見解である。些細な手続き違反があった場合には排除されないが、一定限度を超えた違法収集証拠は即排除される。重大な違法の内容は、憲法31条、35条違反に当たる行為や、刑法上処罰にあたる行為、刑訴法上の強行規定に反する場合などである。それに対し、相対的排除説は、絶対的排除説には排除という効果の重さがかえって裁判所の違法性認定を必要以上に慎重にさせてしまうという不都合があると主張している。そして具体的には、複数の基準が定立する。ひとつは、証拠集手続きに後続の手続き全体を不法にするほどの手続き違反があった場合には当然に証拠排除されるというもの、もうひとつは、司法の廉潔性や違法捜査の抑制の目的から、種々の要素を考慮して排除の必要性が決定されるとするものである。

 

 日本の判例は、当初この排除法則について消極的であった(最判昭24.12.13刑集15号349頁、最判昭36.6.7刑集15巻915頁)。証拠物は押収手続きに違法があったとしてもその証拠価値には変わりないからである。しかしその後、「証拠物の押収等の手続きに、憲法35条及びこれを受けた刑訴法218条1項等の所期する令状主義の精神を没却するような重大な違法があり、これを証拠として許容することが、将来における違法な捜査の抑制の見地からして相当でないと認められる場合においては、その証拠能力は否定される」(最判昭53.9.7刑集32巻6号1672頁)とし、抑止効説に立った。


 思うに、違法な手続きによって収集された非供述証拠に証拠能力が認められるが、それについての明文規定がないので問題となる。確かに、違法な手続きによって収集されたとしても、非供述証拠の場合は、その証拠能力自体には変わりない。しかし、このような証拠については、次のような観点から証拠能力を排除すべきである。


 個人の「憲法上保護された領域」を不当に侵害した法執行、捜査機関の活動の影響が、多数の個人の自己決定に不当な委縮効果を及ぼす限度で、その不当な活動の成果は否定されるべきである。なぜなら、個人の自由の保障の関心は、裁判所での犯人の有罪、無罪に向けられているというより、むしろ「不特定多数の」個人の自己表現を委縮させることになるか否かにある。そこで個人の自由な自己決定を委縮させる効果を除去するためにも、その活動は原状に回復され、矯正されなければならない。このため、被告人の有罪を確実に示している証拠であっても、不特定多数の個人の自由な自己表現に委縮効果を与えるような方法で入手された場合には、その「法執行や捜査の方法」に関心を寄せて排除することが正しいとすべきである。


 次にその証拠についてであるが、わが国には、警察制度内部での規律、検察官と警察との独自の監督、調整関係による規律や法律の制度が用意されている。したがって、規律や法律違反の法執行活動の規律は、この制度に委ねれば足りる。そして、わが国の憲法81条の権力分立の下で、裁判所の完全性が害されない限り、基本権の侵害があっても違法な法執行を審査せずに放置するとの立場をとることはできない。


 したがって、権利章典に定める基本権を侵害し、自由社会の基盤を崩しかねないような法執行活動から政府は一片の利益も享受すべきでないという、いわゆる規範節が最も妥当であると考える。排除法則は、法執行、捜査活動を規律することを目的とする原則であって、公判の証拠排除の方策ではない。直接に法執行活動を規律する憲法33条と35条に定める要件に違反する活動に排除法則が適用され、また、排除法則の実定法上の根拠は、憲法33条と35条に、また身柄拘束を間接的に規律する34条の弁護権を保障する規定に求めるのが正しいこととなる。


渥美東洋著『刑事訴訟法』中大出版部 2001年

渥美東洋著『刑事訴訟法』有斐閣 2001年

渥美東洋著『罪と罰を考える』有斐閣 1996年

渥美東洋著『レッスン刑事訴訟法〔中〕』中央大学出版部 1995年

松尾共編『刑事訴訟法判例百選』別冊ジュリストNo148  有斐閣 1998年

田口守一編『争点ノート刑事訴訟法』法学書院 2000年


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(裁判員制度が導入される前の平成13年頃に書いたものなので、記述が現在の制度とは違うことをあらかじめご了承願います)



 従来、わが国には君主の強大な権力を認めた大日本帝国憲法があった。しかしポツダム宣言後、新しい民主主義憲法、すなわち現在の日本国憲法制定に至った。民主主義は、国民が国民の福祉のため、すなわち自分自身の福祉のためではなく、社会に生存するすべての人々の福祉のため、みずからを治めるという主義である。そしてこれを徹底すれば主権は国民となる。

 

 現憲法は主権が国民にあることを明らかにし、基本的人権を詳細に限定している。近代以降の市民社会は、特定の権力からの個人の自由を目指した(自由主義)。治者と被治者が同一である(民主主義)。政治の在り方を憲法典に定める(立憲主義)。国民が最高の意思決定権を持つ(国民主権)。その国民主権は、国民がすべて平等に人間として尊重されてはじめて成立するものだからである。その国民主権は、国民がすべて平等に人間としてはじめて成立するものだからである。

 

 憲法第1条には「天皇は日本国の象徴であり、日本国統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と規定している。憲法前文において「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福祉は国民がこれを享受する」といっている。



 その国民主権には、二つの要素が含まれている。権力的契機と正当性の契機である。権力的契機とは、国の政治の在り方を最終的に決定する権力を国民自身が行使するというものである。正当性の契機とは、国家の権力行使を正当付ける究極的な権威は国民に存するというものである。現憲法における国民主権の現実にはこのような側面が併存しているのである。我々はこのような国民主権の原理とする日本国憲法の下に生活しているのである。しかし、本来より直接的な参加が望ましい。

 

 原始的な裁判は、専門の裁判官でなく、素人や民衆の手で行われていた。市民が選定人にされたり、部落集会が判定に関係した。しかしそれは、国家権力の確立と、裁判の法規の発達に伴って、専門的な裁判官に委ねられるようになった。しかしその後は民主主義の風潮に伴って、司法の民主化が新たな意味を持つようになってきた。その登場したのが「陪審制度」や「参審制度」である。

 

 「陪審制度」とは、法律の非専門家である一般国民が裁判官から独立し裁判を行うものである。「参審制度」とは、選ばれた数人の参審員が職業裁判官と一つの合議体を構成し、職業裁判官と同一の権利・義務をもって裁判を行うものである。

 

 かつての我が国の「陪審制度」は起訴陪審を採用せず、公判陪審であった。1923年の陪審法は後述の英米の陪審制度と異なり、陪審不適事件、陪審の更新、資格の制限等の多くの制度的欠陥を有していた。その後停止されたが、戦後の司法改革に際し、刑事裁判に関して陪審制度、あるいは参審制度の導入が(検討されている)※。



 その陪審制度の導入は、わが国の現憲法の下では、憲法第32条、同第761項、同条3項との見解がある。そして参審制度についても陪審制度と同様、憲法第32条、同761項の各条項について問題とされ、さらに同第80条の条項に違反するのではないかとの見解がある。それらが、違憲論の見解である。憲法は職業裁判官を要請するものであるといている。



 それらに反する合憲論の見解は、明治憲法下では裁判を受ける権利を保障した第24条は「法律ニ定メタル裁判官ノ裁判ヲ受クルノ権」を定めていたのを、現憲法第37条は「裁判所において裁判を受ける権利」「公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利」に改められたことをい重要な根拠として陪審制度、あるいは参審制度を民主主義の理念に照らし合わせ合憲である、としている。

 

 私見ではあるが、誤判からの人権擁護、参加する国民の市民倫理の向上という観点からは導入の支持する。

 

 現行の制度※(平成13年当時)では国民が司法に対して直接参加できるのは、①簡易裁判所における司法委員制度(民事訴訟法358条1)、②家庭裁判所における参与員制度(家事審判法3条、10条、10条の2)、③海難審判での参審員制度(海難審判法14条)、④調停委員会の調停委員制度民事調停法6条、8条、家事審判法3条、22条の227条の3)、⑤検察審査員制度(検察審作法4条、2条1項)である。

 

 間接的に参加できるのは、①最高裁判所裁判官の国民審査の制度(憲法792項)、②裁判官に非法律専門家である国民の中から任命する制度(裁判所法41条、45条)、③内閣による裁判官の任命(憲法791項、801項)である。諸外国と比べて極めて制限されている。

 

 英米法系においては陪審制度を、大陸法系では参審制度を採用している。そしてスウェーデン等は陪審制度と参審制度を併用している。

 

 陪審制度を採用している米では、合衆国憲法及び各州憲法上陪審裁判を受ける権利の保障があって、現在でも陪審制度は国民に浸透しており、審理に立ち会い、評決する公判陪審すなわち小陪審が広く採用されている。



 人権と有罪率で若干相関が出ているようである。英では、刑事陪審においては重罪のみの正式に起訴されたものに限り、民事陪審においては人格権等に基づく請求に限られている。参審制度を採用している仏では、かつて起訴陪審と公判陪審とを採用していたが起訴陪審は廃止された。混合型のスウェーデンでは13世紀頃より参審制度が採用されたり、1734年に現行参審制度の原型が制定された。そして、1815年に出版の自由を保障する制度として陪審制度が採用された。出版物に関する刑事事件と損害賠償責任と出版物の没収に関する訴訟が陪審制度によって行われている。

 

 今日の我が国の議論は、以上のような陪審制度も参審制度も、裁判に対して国民が参加し、裁判に対して、公平から迅速という監視・国民の福祉のためみずからという統制・公開裁判という透明性の機能を果たし、国民主権という個人の尊厳に立脚する民主主義の理念を実現している。裁判にとっても法的安定性が重要であり、陪審制度をとるこの機能が著しく落ちるとの批判があるが、より重要なものは具体的妥当性であり、国民の健全な常識を反映させるという意味で陪審制度は最も機能するものである。



 そして陪審制度は被告人の基本的人権を擁護する役割を果たし、誤判防止の機能をも有しているという点が最も重要である。先進諸国では国民の司法参加は普遍的な民主的制度として定着している。したがって、国際社会の中での立場を考えると、民主主義国家の共通ルールというべき国民の直接的司法制度の採用は急務である。

 

 現在の司法制度改革審議会では「裁判員」が検討中である。内容的には、参審制度と陪審制度の折衷である。裁判官と裁判員が一緒に有罪・無罪を決定、量刑にかかわる点、判決理由がある点は参審制度で、裁判員を無作為に抽出する点は陪審制度である。「陪審制度でもなく参審制度でもない日本独自の制度」である。裁判官と裁判員の数は立法の判断に委ねられている。国民の司法参加は、裁判を一般の人にわかりやすくしなければならないし、もちろん国民の責任分担の自覚が求められていると考える。したがって、日本人の意識や社会の在り方を考えるに

考える。



=参考文献=

芦部信喜『憲法』岩波書店

山田晟『法学』東京大学出版会

兼子一共著『裁判法』有斐閣

東京弁護士会編集『陪審制度』ぎょうせい




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 平成10年1月1日に施行された新民事訴訟法2条は、「裁判所は、民事訴訟が公正かつ迅速に行われるように努め、当事者は、信義に従い誠実に民事訴訟を追行しなければならない。」と規定している。これは旧民事訴訟法1条の「この規則は、訴訟が公正かつ迅速に行われるように解釈し、運用しなければならない」と、同法3条の、「裁判所は、審理が公正かつ迅速に行われるように努め、当事者その他の訴訟関係者は、これに協力しなければならない」の理念を合わせたものともみられるが、それだけではなく、新法の理念が加えられ制定された。「民事訴訟が公正かつ迅速に行われるよう努め」と明文化されたことは、憲法上保障された「裁判を受ける権利」の具体化だけではなく、市民的及び政治的権利に関する国際規約の規定を実現する立法措置として意味がある。



この規定での「公正」とは、両当事者を平等に扱い、手続及び結論が正義に適っていること意味する。当事者にその言い分を主張することは、手続的正義の基本的な要請である。「迅速」とは、停滞なく時間的に早いというだけでなく、事案に応じた充実した審理が行われることを含んでいる。



そこで、民事訴訟制度には、どのような理想が考えられるか。次の4つが挙げられる。第一に、適性の理想であり、裁判の内容が正しく過誤のないことである。これには、事実の認定が真実と合致し、かつ、法規の解釈適用が適切であることが必要である。第二は、公平である。公正な裁判官が審理判決を担当し、主張立証の対等の機会を当事者に与えることが必要である。第三は迅速である、相当な審理期間内に訴訟の決着がつくことである。限られた国家予算を最も有効に活用し、また、当事者が過大な出費を強いられない、廉価な裁判を保障することも大切である。



しかし有限の資源という現実の制約を前提とする限り、これらの理想を同時に達成することは極めて困難である。とりわけ適正公平の要請と迅速廉価の要請との間の衝突が顕著であり、適切な調和を図ることは困難となり問題となる。



それでは、「適正公正」「迅速廉価」は、具体的にどのように運用されているか。

まず、訴訟の適正公正という点からいえば、民事訴訟の枠組みを構成している制度や原則、さらに手続き規則は、ほとんどが適正公正を目的としている。公開、対審、上訴・再審、合議制、除訴、忌避、異議権・責問権、証拠法、処分権主義、弁論主義、釈明権などである。



新法では、第一に、証拠収集手続きの強化、とくに文書提出命令の拡大(223条)である。旧法において提出義務は、一定の要件を具備している場合にのみ認められる限定義務であったが、新法はこの状況を変えようと一般義務の導入を図った(220条)。これは文書提出義務を一般化することにより、申立段階における文書の特定を緩和し、インカメラ手続きを導入したものであるが、結果として、証拠の偏在を是正、すなわち訴訟の適正公正に資することになる。



第二に、当事者照会制度である。迅速・公正かつ計画的な審理をより実現するための工夫として、当事者紹介制度を刷新し(163)、訴訟の早い段階で当事者間によって情報の共有化を図ろうとしている。

また、特許事務等について専門部のある裁判所への管轄の集中(6)や移送既定の弾力化(16条~20)も、より適切な裁判所での審理を可能にするという意味で、適正公正を確保するものといえる。



思うに、適性で公正な裁判を生み出すための保障は、公正な裁判所と適正な手続きにおいて実現される。文書提出義務は、裁判上証拠として価値ある文書をすべて提出させることで、構造的な証拠の偏在を克服し、法的救済が受けられるものであると考える。



次に、訴訟の迅速という視点からいえば、第一に争点整理手続き(164条~178条)と集中証拠調べ(182)である。これは口頭弁論前に十分に争点及び証拠を整理し、口頭弁論に入ったら集中的に証拠調べをして早期に判決を言い渡すことを狙いとするものである。争点整理手続きの整備は、手続の基本である口頭弁論に加え、準備的口頭弁論(164条~167条)、弁論準備手続き(168条~174)、及び書面による準備手続き(175条~178条)ことを目的とする。



第二に、随時提出主義からの適時提出主義(156条、162条)への転換である。適時提出主義は、口頭弁論ばかりでなく、訴訟の提喩津の際にすでに、請求を理由づける事実や証拠の記載、一定の種類の添付が要求されるし、第一回期日前に裁判所は進行参考事項を当事者から聴取することができることとなった。争点整理手続きにおいて、適時提出主義の効果として、その終了後の攻撃防御方法の提出につき説明義務が課されることとなった(167条、174条、178条)



第三に、迅速廉価という面で、少額訴訟手続きを採用したことである(368条~381条)。これは、アメリカの少額訴訟制度を見習ったものであり、少額の金銭問題を解決するために多額の弁護士費用がかかってしまう等の問題点を解釈しようとするものである。現在の日本において、簡易裁判所が扱う事件の事物管轄の上限が90万円に引き上げられたことから、地方裁判所化してしまったという更なる問題を解決するため、30万円以下の金銭支払い請求事件について、この制度が導入された。原則として1期日の審理で、即日判決を言い渡すものであり、この意味で反訴は許されていない。広く利用することができるように年10回の利用に限られている。この制度は高く評価され、上限が60万円に引き上げられることとなった。



第四に、最高裁への上告の制限(312条、318条)ひゃ、執行停止要件の厳格化(389条)である。法令違反の名を借りて本来最高裁が取り上げて判断するに値しないような事件までもが上告される問題点解決のため、導入された。判決の早期確定、権利の早期実現という意味で、訴訟の迅速の理念にもつながる面を有するともいえる。



第五に、電話会議方式による争点整理(1703項、1763項)、進行競技および少額訴訟の証人尋問(3723項)、テレビ会議方式による証人・当事者尋問(204条、210条)のような通信機器の裁判への導入は、当時者、代理人または証人の出廷の労を省くことを直接の目的とするが、訴訟の促進への点でも効果がある。



その他、当事者の不熱心な訴訟追行に対する対策強化である。具体的には、審理の現状に基づく導入(244条)と訴えの取り下げの擬制の容易化(263条)である。



思うに、争点を整理したうえで、適正な時期に、証拠を提出し、証拠調べをすることは確かに迅速という目的を達するものといえる。さらに、一連の手続きが原告・被告の両方に義務化されることは、当事者対等という適正公正にもつながるものといえる。




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 何故、弁護権の保障について、米国の有効放棄法理が要件となり、行使・請求法理によることを否定するしかないという憲法理論が確立されたのだろうか。今日の刑事法運用での弁護権の重要性を見つめたうえで、有効放棄法理を十分に理由づけてみる試みをする。

 

 わが日本国憲法は、身柄の拘束を受けている場合には、被疑者・被告人の双方に対し弁護権を保障し(憲法34条)、被告人に対しては私選弁護人のみならず国選弁護人をも保障している(同法37条3項)。それを受けて刑事訴訟法は被疑者段階から弁護権を保障し(刑訴法30条)、被告人の国選弁護権については、「請求による」弁護人の国選(同法36条)と特別事情による職権による国選(同法37条)の制度を定めている。

 

 日本国憲法は、逮捕つまり身柄拘束を定める33条の次条に、身柄拘束に関する事前、事後の手続要件を定めたのであるから、そこでの弁護権は身柄拘束状態に着目している。つまり、逮捕や拘留という身柄拘束がその目的(逃亡と証拠隠滅の虞の防止という目的)を超えて事実上もできるだけ利用されないように弁護権を保障したのである。

 

日本国憲法の明文規定からいえば、解釈・運用上は、アメリカ合衆国憲法と同一の立場をとっている。アメリカ合衆国憲法第6修正は、「刑事訴追がされる場合には常に、被告発者は・・・、自己の防衛のために弁護人の助力を受ける権利を有する」と規定する。

 

合衆国憲法は、捜査段階での弁護権の内容と公判での弁護権は異なっており、捜査段階での弁護権は、「供述の自由」を保障することをねらいとしているように解されている。すなわち、捜査段階での弁護権は、基本権として、他の基本権と完全に独立したものではなく、「供述の自由」という基本権を保障する最重要の方策だと位置づけられている。

 

パウェル対アラバマ事件(Powell v. Alabama287 U.S.45(1932))が、合衆国最高裁の最初の弁護権の助力をうける権利の保障の法理の出発点であった。合衆国憲法第6修正に定める構造の公判において、被告人側が自己の立場を充分に展開できるように効果的な法律上の援助を弁護人から受けることがなければ、そこには公判はなく、公判の基本的公正が否定され、第14修正の適正手続の保障が害されることになると判示され、そのような効果的援助を提供して公正な公判を維持・確保するためには、少なくとも死刑事件にあっては、効果的な援助を実際に提供できる弁護人を、被告人が弁護権を有効に放棄しない限り、裁判所が国選しなければならないとした。その後の(Johnson v. Zerbst, 304 U.S.458(1938))で弁護権は対審構造の公判では必須の要件であり、これを欠けば公判ではなくなるとみられるほどの重要な権利であると判示され、有効放棄法理が確立された。ベッツ事件(Betts v. Brady, 316 U.S 455(1942))では特別事情法理が宣言されたが、ギデオン事件で判例は変更され、有効放棄法理が確立され、「請求法理」は違憲となった。

 

日本の判例は、「憲法37条3項は、被告人が自らこれを依頼することができないときと規定し、辯護人を依頼することのできないことについては、必ず依頼できないと言えるだけの相賞の事由がなければならない譯である。(中略) 被告人が貧困その他の事由の有無に拘わらず弁護人を選任する意思のない場合には、刑訴法上いわゆる強制弁護の場合を除いては、国が積極的に被告人のために弁護人を選任する必要はないのである(最判昭24.11.2刑集3巻11号1737頁)」と判示したものや、「所論憲法上の權利は被告人が自ら行使すべきもので裁判所、檢察官等は被告人がこの權利を行使する機會を與へ、その行使を妨げなければいいのである(最判昭24.11.30刑集3巻11号1987頁)と判示したものや、これらを「既に当裁判所の判示しているところであり、今これを変更する必要はない(最判昭28.4.1刑集7巻4号713頁)」と判示したものがある。我が最高裁は請求法理に立ち、刑訴法36条もこの立場に立つことは明らかである。

 

 思うに、弁護権は被告人にとって基本的な権利であり、それを放棄することで得られる権利は極めて小さい。そこで、請求をしなければ弁護権は放棄されていると解するよりも、有効に放棄しなければ弁護権は常に保障し続けなければならないとする「有効放棄法理」によるべきである。

 

まず、被疑者が任意に事情聴取に応じているためだけの被疑者を逮捕、拘留することは許されない。すなわち、取り調べだけを目的とするのであれば、被疑者の協力を求めて在宅のまま、取り調べれば、その目的は達せられる。捜査機関の便宜だけを考えれば、確かに被疑者を施設に収容して、捜査機関の都合のよいときに被疑者を取り調べることは考えられる。だが、個人の自由を、基本権に定める憲法下では、その自由は真に十分な切迫した要求がある場合にしか制限できないことになっているので、捜査機関に取り調べの便宜は逮捕・勾留を正当化させる理由になり得ない。つまり、逮捕・勾留は、犯罪を行ったことを疑うに足りる相当の理由がある被疑者の逃亡と罪証隠滅活動を防止するためだけに許されるのである。

 

そして公判構造に対審構造を用意するところでは、被告人が自らの立場を十分に公判で展開することが予定されている。そこでの被告人の活動は、公判の手続きについて、一般に被告人は不慣れであったり、冷静でなかったりするので、法律専門家である弁護人の効果的な助力がなければ、およそ、法の期待するものには成り得ない。このようにして、被告人の公判活動を被告人の公判活動を被告人の立場に立って助け、有罪・無罪に影響を与える重要な作用を弁護人の助力を営む。したがって、公判での弁護人の効果的な援助が欠けると、原則として、その公判手続きは無効とされ、その公判手続きの結果である裁判は破棄されなければならない。

 

貧困、不人気等の理由で弁護人を自ら依頼することができない被告人に、裁判所が効果的な弁護を提供できる能力資格をもつ弁護人を指定して公判を公正に保つことを憲法は定めている(憲法37条3項)。このように、公判の公平さにとって重要で不可欠の弁護人であるから、被告人が必要があると自らを考えて弁護人を請求した場合に限ってそれを附す請求法理は、憲法37条3項に違反するのではないかと思われる。

 したがって公判の公平さにとっての重大さを考えると、刑訴法36条の請求法理は改正した方がよいと思われる。




渥美東洋著『刑事訴訟法』中大出版部 2001年

渥美東洋著『刑事訴訟法』有斐閣 2001年

渥美東洋著『罪と罰を考える』有斐閣 1996年

渥美東洋著『レッスン刑事訴訟法〔中〕』中大出版部 1995年

松尾・井上共編『刑事訴訟法判例百選』別冊ジュリストNo148 有斐閣 1998年

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=注=

(1) 衆議院個人情報の保護に関する特別委員会議録平成15年4月14日(第2号)および同月15日(第3号)中の細田博之国務大臣の答弁及び藤井内閣官房内閣審議官・藤井昭夫政府参考人の発言参照。

(2) S.D Warren & L.D.Brandeis,The Right to Privacy,4 HARV.L.REV..195 (1890)

(3) Roversich v.Rochester Folding Box Co.171N.Y.538,64 N.e.44281902)

(4) Pavesich v New England Life Insurance 381 US 479(1905)

(5) William L.Prosser,Privacy,48 Calif.L.Rev.383(1960)

(6) 大阪高判昭和39年5月30日判時381号17頁

(7) 東京地判昭和39年9月28日判時385号12頁

(8) 最大判昭和44年12月24日刑集23巻12号1625頁

(9) 最三小判昭和56年4月14日民集35巻3号620頁

(10) 最三小判平成7年9月5日判時1154号1頁

(11) 最三小判平成14年9月24日判時1802号60頁

(12) 最二小判平成15年3月14日判時1815号170頁

(13) エクイティ(Equity)は、15世紀に、エクイティ裁判所によって作られた判例法である。衡平法とも訳される。コモン・ロー裁判所によって作られた判例法がコモン・ローであり、互いに独自の法体系であったが、イギリスでは1875年に裁判所の統合が図られ、両者は同じ判例法として融合した。しかし長年別々の流れで発展してきたので、用語上は、コモン・ロー上の権利、エクイティ上の権利として使われることが多い。

(14) 大阪地判平成10年5月26日判時1661号108頁

(15) 各アプローチの主要論者

(a) 定義主義アプローチ フリード説、ラッシェル説、ライマン説、ショーマン説

(b) 道徳主義アプローチ ブラウスタイン説、ベン説、ガースティン説

(c) 還元主義のアプローチ サムソン説、プロッサー説

(d) 批判主義のアプローチ ウァッサーストラム説、ポズナー説

(16) 佐藤幸治著『憲法』青林書院 1995年

(17) 阪本昌成著『プライバシーの権利』成文堂 1982年

同著『プライバシー権論』日本評論社 1986年

(18) 棟居快行著『人権論の新構成』信山者 1992年

(19) 東京地裁昭和62年11月20日判時1258号22頁

(20) 東京地判平成13年2月6日判時1748号144頁

(21) 東京地判平成2年8月29日判時1382号92頁

(22) 神戸地判平成11年6月23日判時1700号99頁

(23) 大阪高判平成8年9月27日判タ931号188頁

(24) 東京高判平成9年3月12日高民集50巻3号12頁

(25) 東京地判昭和59年10月30日判時1137号29頁

(26) 東京高判昭和63年3月24日判時1268号15頁

(27) 大阪地判平成2年7月23日判時1362号97頁

(28) 大阪地判平成7年12月21日判時1580号126頁

(29) 東京高判平成14年1月16日判時1772号17頁・判タ1083号295頁




=参考文献=



清水睦著『憲法』中央大学通信教育部 2000年

樋口陽一著『憲法概論』放送大学教育振興会 1994年

佐藤幸治著『国家と人間=憲法の基本問題=』放送大学教育振興会 1997年

宇賀克也編著『法システムⅢ-情報法-』放送大学教育振興会 2002年

芦部信喜著『憲法』岩波書店 1996年

芦部信喜著『憲法判例を読む』岩波書店 1995年

佐藤幸治著『憲法』青林書院 1995年

佐藤幸治編著『要説コンメンタール日本国憲法』三省堂 1996年

法曹同人法学研究室『「佐藤憲法」解読入門』法曹同人 1993年

奥平康弘著『憲法Ⅲ』有斐閣 1993年

長尾一紘著『日本国憲法』世界思想社 1997年

平野武著『憲法と人権保障』晃洋書房 1998年

小林武著『人権保障の憲法論』晃洋書房 2002年

辻村みよ子著『憲法』日本評論社 2004年

伊藤正己著『プライバシーの権利』岩波書店 1963年

阪本昌成著『プライバシーの権利』成文堂 1982年

阪本昌成著『プライバシー権論』日本評論社 1986年

棟居快行著『人権論の新構成』信山者 1992年

松井茂紀著『アメリカ憲法入門』有斐閣 1995年

加藤紘捷著『概説イギリス憲法』勁草書房 2002年

大須賀明編『争点ノート 憲法』法学書院 1997年

浦田共編『演習ノート 憲法』法学書院 2000年

芦部信喜・高橋和之編『憲法判例百選Ⅰ』別冊ジュリストNo.130 有斐閣 1994年

右崎正博著『基本判例Ⅰ憲法』法学書院 1999年

堀部政男「個人情報・プライバシー保護の世界的潮流と日本」法セ 1988年 8月号

松井茂記「情報コントロール権としてのプライバシーの権利」法セ 1988年 8月号

石村・堀部共著『情報法入門』法律文化社 1999年

船越一幸著『情報とプライバシーの権利』北樹出版 2001年

岡村久道著『個人情報保護法入門』商事法務 2003年

個人情報保護基本法制研究会編『Q&A個人情報保護法』有斐閣 2003年

内藤篤・田代臣之共著『パブリシティ権概説』本鐸社 1999年










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第5章 さいごに

1 「自己情報コントロール権」としてのプライバシーの権利

 プライバシーの権利は、人に公的な生活に関わらない私的な領域があることを前提とする。私生活への干渉やその暴露、私的な情報の他者による収集・利用・伝達が権利侵害となるのは、それらが公的生活に関わりのないその人自身の問題であり、換言すると、それらに対する侵害が、私的な領域で個人が自由に思考し、交流し、生きることを極めて困難にするからである。 


特に、自己に関する情報をコントロールすることは、自己に関する非公開の情報を相互に打ち明けることで信頼する少数の人と親密な人間関係をとり結ぶための前提条件となるし、また自分が何者かであるかを自ら構想し描き出すための基盤ともなる。

 

 プライバシーが侵害されたか否かは、問題の情報が個人の私的な情報か否かと同時に、問題となった具体的状況で、本人がどの範囲での流通を合理的に期待しうるかにも依存する。個人の私的情報の保護が個人の自律のために不可欠であることを考慮すると、保護の対象となることが合理的に期待しうる情報を政府が、本人の同意なく収集・利用・伝達する措置は、厳格な違憲審査に服することになり、そうした措置が正当化されるのは、それが必要不可欠な利益を達成するための必要最小限度手段であることを政府が立証した場合に限定されるべきである。


 自己情報コントロール権は、私的な領域に関する情報の収集・利用・伝達をコントロールする権利を超え、公的領域に関する情報についても、氏名、住所、生年月日など各個人を識別できる情報が収集・管理されている場合に、その正確さ、管理の安全、使用目的の限定などについて本人に一定の権利を付与するといわれる。

 ある情報が私的な領域に属するか否かは不明確である。そして公的な事項に関する情報であっても他の個人情報と組み合わせることで、私的な領域に属する情報を構成することが可能である。また、個人情報を包括的に法的規制の対象とする方が、私的情報のみを対象とするよりは、概念を明確化する利点がある。


 したがって、個人情報についても、それが厳格な意味での私的事項に含まれないものであっても、また誰もが秘匿を望むセンシティブな情報とはいえないものであっても、収集・管理の事実を公示し、その安全確保義務を保有者に課し、使用目的を明示・限定するとともに、その内容について訂正ないし抹消を求める権利を本人に付与することが本来のプライバシーの保護にも役立つと考える。



2 自己情報コントロール権の妥当性

我々は社会的存在であり、他の人間との接触交渉のなかに自己が何者であるかを見出し、自己の能力を磨き、あるいは生活するために必要な環境を作り上げてゆく。その場合、誰と何時接触交渉し、自己のどのような部分をどのような形でみせるか、等は各人がその時々の選択的決断を通じて行われる。現代社会において特にプライバシーの権利が問題とされるのは、社会の巨大化・複雑化と情報技術の飛躍的発展と関連して、自己に関する情報への他者のアクセスについて、選択的に決定できる可能性が縮減ないし不確かになったためである。つまり自己情報が我々の思いを越えて他者によって収集、利用ないし流布されているのではないかの不安である。したがって、プライバシーの権利とは、やみくもに自己情報をコントロールしようとするのではなく、人が社会にあってなお自律的存在として生きる上で通常必要と思われる種類・範囲の自己情報を、一般に可能と思われる方法を通じて実効的にコントロールできるようにしようとするものである。しかし、何故に人はそのように自己情報を実効的にコントロールできなけばならないのか。それは、個人が自律的存在として人格的統一を図る上で必要な道徳的・良心的決定過程を保全するために不可欠なものであるからである。すなわち、高度情報化社会での現代においては、企業や国が個人情報を収集しており、そのために個人の自律的領域たる個人の秘密が脅威にさらされているという状況が発生している。このことから自己に関する情報をコントロールする権利としてのプライバシー権の保障は、人格的生存に不可欠である。


 プライバシーの権利の発生の由来を考え、また、「データ・バンク社会」への対応の必要を考慮した場合、プライバシーの権利は「自己情報コントロール権」の意味に解するのが妥当であると解する。



3 個人情報保護システムの構築の必要性

現代のプライバシー保護は、個人情報がどのように扱われているかという個人の自己コトロール権の問題であるが、もう一方で、個人のデータ保護法を違う側面から考察する必要がある。プライバシーが内心の自由な精神的活動という領域から外に流出して、個人以外のものにより取扱いが可能となったとき、保護法は、その取扱者をどう取り締まるかという側面に焦点をあてなければならない。つまり個人情報保護法の趣旨は、個人以外のものが我々の個人の情報を収集し、集積した情報をその者が厳格な方法で管理するよう、また違法な方法で利用しないよう取り締まろうという意味合いを持っている。


そこで、プライバシーの権利の十全な実現を図るためには、広く個人に関する情報を対照として、法律により、政府諸機関に対し、個人に関する情報の①取得・収集、②保有および、③利用・伝播の各段階について規制を加えるとともに、政府諸機関がどのような個人情報システムを保有するかについて公表することを義務づけ、情報主体に政府諸機関の保有する記録についての具体的アクセス権および訂正・削除要求権を付与することが必要である。そこで個人情報を制度的に保障するために、地方自治体レベルでは個人情報保護条例が制定されつつある。行政が集積している個人情報は膨大になものとなっており、またそれがオンライン化され、利用の便が進むとともにプライバシーの侵害等の危険性も増大している。これについて一定の歯止めをし、個人情報の保護を図り、また、個人の自己情報コントロール権を保障する必要がある。



4 プライバシー保護の国際的潮流

 自己情報コントロール権の考えの影響をうけた個人情報保護立法は、1970年代から見られるようになった。すなわち、1970年にアメリカで公正信用報告法(Fair Credit Reporting Act)、旧西ドイツでのヘッセン州でデータ保護法が、1973年にスウェーデンでデータ法が、1974年にアメリカでプライバシー法(Privacy Act)が、旧西ドイツのラインラント=プファルツ州でデータ濫用防止法が、1977年に旧西ドイツでデータ保護法が制定されている。さらに、1987年にフランス、デンマーク、ノルウェー、オーストリアで、1979年にルクセンブルグでデータ保護法が制定されている。

 

 しかし、各国が個別に法制化を行った結果、制度の不統一が生じ、個人情報がボーダレスに流通することを阻害する懸念が高まった。そのような背景の下でOECD(経済協力開発機構)が、1980年9月、「プライバシー保護と個人データの国際流通についてのガイドラインに関する理事会勧告」を採択し、その中でプライバシー保護の8つの基本原則を提唱した。


 その後の、1980年9月に、欧州評議会(Council of Europe)の「個人データの自動処理に関する個人の保護のための条約」が採択されている。さらに個人情報保護法の動きは進み、1981年にはアイスランド、イスラエル、1982年にはカナダ、1984年にはイギリス、1987年にはフィンランド、1988年にはアイルランド、オーストラリア、オランダ、1991年にはポルトガル、1992年にはスイス、スペイン、ベルギー、チェコ、ハンガリー、1993年にはニュージーランド、1994年には韓国、1995年には香港、台湾が個人情報保護に関する法律を制定している。


1995年10月には、欧州連合(EU)の「個人データ処理に係る個人の保護および当該データの自由な移動に関する欧州議会および理事会の指令」が採択された。このEU指令25条は、個人データを第三国へ移転する場合、当該第三国が十分なレベルの保護を確保していることを要件とすると定めているため、EU指令の内容は、EU加盟国以外の国にも大きな影響を与えることになった。そして、EU指令を受けて、イギリスは1998年、ドイツは2001年に改正が行われている。


日本では昭和63年(1988年)に「行政機関の保有する電子計算機処理に係る個人情報の保護に関する法律」(いわゆる個人情報保護法)が制定された。それは個人情報保護システムの構築の必要性に応えようとするものではあるが、その不十分さは否めない。

①電算機にインプットされた個人情報に限定されていること、②固有情報の収集制限規定がないこと、③個人情報ファイルの保有等に関する総務庁長官への事前通知・個人情報ファイル簿の作成及び閲覧等につき広汎な例外が認められていること、④誤っている情報については訂正を申し出ることはできるが法的な訂正請求権は認められていないこと、⑤第三者的な監視機関が存しないこと等、である。

この点、地方公共団体のなかには、自己情報コントロール権の実効的な実現という観点を明確にした個人情報保護条例を制定し、より徹底した個人情報保護に努めてようとしているところもある。電算機処理情報のみならず手作業処理情報も対象とし、固有情報に関する収集制限を定めたり、徹底した登録制度を設け、開示請求権・訂正請求権を認め、不服審査や条例の適正施行の監視に関与する第三者機関を設置したりなどしている。















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第3章 わが国の判例の動向

わが国の最高裁判例には自己情報コントロール権を正面から採用したものは見受けられないが、下級審判例は以下のように判示したものがある。



1 プライバシー
 ①ノンフィクション「逆転」事件第一審(19)
(東京地裁昭和62年11月20日判時1258号22頁)
「他人がみだりに個人の私的事柄についての情報を取得することは許さず、また、他人が自己の知っている個人の私的事柄をみだりに第三者へ公表したり、利用することを許さず、もって自己的自律ないし私生活上の平穏を維持するという利益(以下、『プライバシーの権利』という。)は、十分尊重さるべきである。」


Nシステム事件(20)
(東京地判平成13年2月6日判時1748号144頁)
「憲法13条は、国民の私生活上の自由が警察権等の公権力の行使に対しても保護されるべきことを規定しており、この個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、その承諾なしに、公権力によってみだりに私生活に関する情報を収集、管理されることのない自由を有する。」


 2 自己情報コントロール権

 ① 勤務先電話番号事件(21)

東京地判平成2年8月29日判時1382号92頁

「プライバシーの権利は、このように自己に関連する情報の伝播を、一定限度にコントロールすることをも保障することをその基本的属性とするものと解される。」



 ②ニフティパソコン通信事件(22)

(神戸地判平成11年6月23日判時1700号99頁)
「自己に関する情報をコントロールすることは、プライバシーの権利の基本的属性として、これに含まれるものと解される。」


 3 自己情報開示請求
 ① レセプト開示請求事件(23)
大阪高判平成8年9月27日判タ931号188頁)
「個人のプライバシーの保護を趣旨とするものであることが明らかであって、公文書公開の原則といえども個人のプライバシー保護の要請の前には道を譲るべきであるとしたものにほかならない。」原判決は「制度の趣旨を無視し、文理にとらわれた形式論というよりほかはない。」

 ② 体罰記録文書開示請求事件(24)

東京高判平成9年3月12日高民集50巻3号12頁

「区の情報公開条例の非公開事項『個人に関する情報で、特定の個人が識別されるもの』に該当するものであっても、本人またはその保護者から公開請求があったときは、公開を拒否することはできない」


 4 自己情報訂正請求
 ① 在日台湾元軍属身元調査事件(25)(26)
東京地判昭和59年10月30日判時1137号29頁)

(東京高判昭和63年3月24日判時1268号15頁)

「他人が保有する個人情報が真実に反して不当であって、その程度が社会的受忍限度を超え、そのため個人が社会的受忍限度を超えて損害を蒙るときには、その個人は、名誉権ないし人格権に基づき、当該他人に対し不真実、不当なその情報の訂正ないし抹消を請求し得る場合がある。」「いかなる場合に個人情報の訂正請求が容認されるかは、個々具体的な事案に即し、・・・諸般の具体的事情、関係者の関連法益を総合考量し、憲法以下事案に関係する各実定法の関連各法条・法理、さらに信義誠実の原則、衡平の法理に照らして判断されるべき問題である。」「本件についてみるに、右記載をもって真実に反し不当であり違法であると認定判断することはできない。」




 5 個人情報の正確性・安全性確保
 ① シャープ・ファイナンス事件(27)

(大阪地判平成2年7月23日判時1362号97頁)

 個人情報を「個人が関知しないところで営利事業として売買する会社が誤認により誤情報を流す行為は」「信用に基礎を置く取引社会を根本から覆すおそれがある。」




 ② 銀行本人未確認事件(28)

大阪地判平成7年12月21日判時1580号126頁

「架空名義又は他人名義による口座開設であることが明らかで開設者が当該口座を不正な手段に利用する意図が窺われるといった特段の事情がある場合は格別、そのような事情がない限り、名義人本人の意思に基づく取引かどうかを確認すべき義務はない。」「右払戻しに応ずる私法上の義務があり、その支払を拒否できなかったというべきである。」


 6 他者による個人情報の経済的利用
 ① 早稲田大学江沢民主席講演会名簿提出事件(29)
(東京高判平成14年1月16日判時1772号17頁・判タ1083号295頁)
 憲法第13条の「趣旨からすれば、他者に知られたくないと感じる個人の私生活上の情報がみだりに他者に開示されないことも、個人の人格的自律あるいは私生活上の平穏を守るため、人格権の一内容として法的に保護されるべきである。」「特に、巨大データベースなどのコンピュータやネットワークを用いた情報管理技術の発展に伴い、官公庁のみならず民間企業や民間団体にまで大量に個人の情報が収集・蓄積されている現状では、国民の間に、これが収集目的以外に使用されている個人の私生活上の平穏を害するのではないかとの不安感が広がっており、現実に、企業の顧客名簿などの個人情報が大量に流出したり、個人情報が売買の対象とされるような事態も生じている。」

 

 以上のような下級審判例も、私事性、非公知性および通常人の感覚を基準に公表を欲しないと思われる情報であることを保護の要件としており、「宴のあと」事件判決以降採用されてきた伝統的な3要件論に立脚している。
 したがって、個人を識別できる情報であればすべて権利の対象となって本人がコントロールできるとするものではない。また、自己情報コントロール権が当初の公的部門を主要対象として提唱されてきたものであるにもかかわらず、これらの下級審判例は主として民間部門を対象とするものである。

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第3章 学説の展開 

1 アメリカの学説の展開

 アメリカでは、プライバシーの基礎概念に関する哲学的、社会学的アプローチが盛んに試みられている。多くは哲学者によるものであるが、法律家も論争に加わっている。 

 

 ショーマン説は、「プライバシーの議論は大別すると次の3つの類型に分かれるとする。①定義主義的アプローチ、②道徳主義的アプローチ、③懐疑主義的アプローチである。このうち①は、プライバシーは「人間の尊厳(human dignity)というより、より一般的な価値にとって不可欠の要素である。すなわちプライバシー保護は、道徳的自律、及び自立、精神的存在としての自覚、識見を持ち人生の意義を探求する存在であることの自覚などを守るためにあるのである。」との構成をとる。そして②は、「プライバシーの保護は、それぞれが意味深い人生にとり重要であるところの、様々な種類の社会関係に身を置く社会的存在としての我々にとり必要不可欠のものである。」との構成をとる。③は否定的立場に立ち、さらに2つに分かれる。(a)プライバシーの保護利益は、実は独自性を有しておらず、したがって独立した道徳上の範疇を形成しない(還元主義的アプローチ)。(b)プライバシー保護は個人を精神的にひ弱にし、非社会的ないし反社会的態度を助長するものであるから、むしろ有害である(批判主義的アプローチ)、である(15)

 そして「ある人間にとり、情報を私的な、ないし親密なものとするのは、情報の単なる内容の果たす機能ではない。情報が当の人間に対して営む役割もまた、そのような機能を営むのである。」「プライバシーは、そこにおいて人格の様々な側面が展開されうるようなコンテクストを生み出すことができるのである。」「プライバシーは人格の多次元性、及び人々の人間性ないし内面生活に関連して重要である。」と説く。

 

 フリード説は、万人に秘匿されたプライバシー情報を、相手を選んで与えあうことが親密な人間関係の形成にとり不可欠であることに注目し、「伏せられた個人情報を誰に対してどこまで開けてみせるか、の選択の自由こそが、正にプライバシー保護を通じて確保されるべき実体である。」とする。したがって、プライバシーは親密関係に際して当事者のみならず局外者も遵守しなければならないルールであると説く。

 

 ラッシェル説は、「誰が我々に、ないし我々にかかわる情報に接近しうるかを、我々がコントロールしうる力と、我々が様々の人間との間に様々の種類の社会関係を形成し維持しうる力との間には密接なつながりがあるのだ、という考えに基づいた、プライバシー価値の把握を提起したいと思う。この把握によれば、プライバシーは、もし我々が、他の人々との間に持ちたいと思うような様々な社会関係を維持したいと考えるならば、不可欠のものであり、正にプライバシーが我々にとり重要なことの理由である。」とする。したがって、プライバシーは、多くの親密でない関係を含むところの様々な種類の関係をこなしていくための手段なのであると説く。

 

 ライマン説は、「私のあなたに対する親密さの内実は、我々が共有しているものの質や強度によって形作られているものではなくして他者にとって入手の困難さ、すなわち希少性によって形作られることとなってしまうのである。」とし、親密な関係は情報の独占的な供与だけで形成されるのではなく、個人情報の共有を有意義なものにしているところの、相手に対するおもいやりのコンテクストで形成されるものだと説く。

 

 ギャヴィソン説は、「プライバシーは様々の強度の人間関係を形成・維持する個人の能力を増大させることにより、自由を促進する機能を営む。プライバシーは個人に、世間に対する役割と表象の多元性を確立することを可能にすることである。」と説く。

 

 以上のようなプライバシーに対する諸説は様々なものになっている。

そして、「自己情報コントロール権」を採用する以下の諸説でも、そのニュアンスが若干違っている。フリード説は、「自己に関する情報へのアクセスをコントロールしている社会秩序の一側面」とし、ウェスティン説は、「自己に関する情報を、いつどのように、どこまで他者とのコミュニケートするかを決定する個人、集団又は組織の要求」とする。さらにパーカー説は、「われわれの身体の各部分を、いつ、だれによって感受されてよいかをコントロールすること」とし、ビーニィー説は「(a)自己のアイディア、書き物、氏名・肖像その他の個人識別徴表を利用してよい人的範囲、(b)自己又は自己が責任を負う人物の情報を開示してよい人的範囲、(c)自己の空間又は自発的活動領域に、物理的方法か否かを問わず侵入してよい人的範囲、を決定する法的に承認された自由又は力」としている。


2 わが国の学説の展開

プライバシーの権利は、前述のような理論の展開の中で「一人にしてもらう権利(the right to be let alone)」、私生活を干渉されない権利として確立された。  

その後、この定義に近い意味で「欲せざる意見や刺激によって心をかき乱されない利益」(①静穏のプライバシー)、さらに、避妊・堕胎などの私的生活領域における自己決定の利益(②人格的自律のプライバシー)をも含めて広義に捉えられるようになり、今日では、情報化社会のもとで自己に関する情報をコントロールする権利としてのプライバシー権(③情報プライバシー)が重視されるようになった。

 日本でも、1960年代以降議論が高まり、これら三要素に関して広義(①②③)ないし狭義(②③)、最狭義(③)に概念規定がなされてきた。


 最狭義の概念を採用するA説(通説的立場)は「個人が道徳的自律の存在として、自らが善であると判断する目的を追求して、他者とコミュニケートし、自己の存在に関わる情報を開示する範囲を選択できる権利」としての「情報プライバシー権(自己情報コントロール権)」に限定している。プライバシーの権利を「ひとりで居させてもらいたいという権利」、あるいは「個人的事柄を自ら決定することができる権利」として理解するときは、プライバシーの権利の内容は明確性を欠き、さらに異種の権利(自己決定権など)が含まれるため、同質ではなくなり、そのためプライバシーの権利の保障が弱まる虞がある。従来はプライバシーの権利を漠然と捉え、様々なものをプライバシーの権利に含めてきたが、これでは逆にプライバシーの権利の保障を弱めてしまう。むしろ、「個人的事柄を自ら決定することができる権利」(自己決定権)は人格的自律権の問題として考えるのが妥当であると説く。この説は、単に私的情報を開示されないということにとどまるものではなく、情報収集段階でもプライバシーの権利侵害となるとする。ただ人に関するすべての情報が対象となるわけではなく、「人の精神過程とか内部的な身体状況等にかかわる高度にコンフェデンシャルな性質の情報」が法的保護の対象となる情報であり、これを「外的情報」と区別して「固有情報」と呼ぶ。具体的には、政治的・宗教的信条にかかわる情報、心身に関する基本情報、犯罪歴にかかわる情報ということになる。このような意味でのプライバシーの権利は、21条2項後段、35条、38条1項(そのほか19条、21条等)で直接保障されているから、これらの条項が妥当しない場合に補充的に13条の情報プライバシー権が妥当することになるとする。この説はさらにプライバシーの権利には自由権的側面と社会権(請求権)的側面があるとする(16)


これに対し、B説は、「プライバシーの中心的構成要素は、自己について何らかの決定がなされる際に、その決定の基礎として利用されうる個人情報が、適切なものであることに対してもつ個人の利益である」と説く。そしてプライバシーを定義するにあたって、プライバシーそのものと、プライバシーの利益とを区別しなければならないとする。プライバシーそのものを「他者による評価の対象になることのない生活状況または人間関係が確保されている状態」とし、プライバシーの利益を「他者に知られたくない個人情報または私的空間に対する相当な要求」と定義する。そして通説的立場を、①「情報」という語が極めて抽象的である、②「コントロール」という意味も同様のことがいえる、③定義として無意味であって、外延が不明であると批判する。さらにアメリカの連邦最高裁がプライバシーの権利を憲法上の権利として承認しているのは自律権としての文脈においてであり、自己情報コントロール権としての文脈ではないと指摘する(17)

さらにC説は、「プライバシーの保護を、社会の評価から自由な領域の確保としてとらえる」べきだとし、このような定式により人格的自律権をプライバシーの権利から切り離すことや、名誉侵害とプライバシー侵害との区別が可能になるとする。そして、プライバシーの保護されるべき領域の決定に際しては、前掲ギャヴィソン説を引用しつつ、「個人の自律と多元的な寛容な『開かれた社会』が望ましいという価値選択と、そのために、どこまで社会の評価から自由な領域を認めるかという記判定判断が、不可欠なのである」とする。

D説は、プライバシーを「多元的な社会関係を形成する自由」から派生するものととらえる。B説に対しては、単なる認識とは区別される、「評価」のメルクマーク自体必ずしも明確とは言えず、また、「正当な要求または主張」とはどういう場合か、という定義上肝心な点には手がかりを与えられていないと批判する。C説に対しては、「開かれた社会」とプライバシーが不可分の関係にあるとしても、せいぜい「開かれた社会にとり、プライバシーの保護が不可欠でる」といえるにすぎない。そこからさらに「なにがプライバシーであるか」の答えがでてくるわけではない。そして、そもそも何故に、プライバシーの保護された領域が「社会の評価から自由な領域」と定義づけられるのか、と批判する(18)

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