テレビは政治に使えるか | 名無しの唄

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突然の解散宣言から、事実上の選挙戦へ。
師走選挙は三十年に例がないそうだ。
かつてないほどの政党乱立と、与党の低支持率。
一億の一般人がどうするべきなのか、決めあぐねている現状だろう。

さてそんな中で、テレビは一日中騒がしい。
何処の局でも政治家と会議会場を映している。
スタジオを映せばお偉い先生方とコメンテーターが難しい顔を突き合わせている。

実は自分はテレビ放送自体久しぶりに見たのだが、なんというか、この時勢にあたって感じたことがある。
「こんなにしょーもなかったっけ?」
焼き増しのように万歳三唱の映像を流し、誰でも分かることをテープで隠して仰々しく剥がし、国民の発言は陽気なテロップで中断される。
この大事と向き合う眼鏡としては、目の前の液晶画面は甚だ度数が足りていない。

不景気が生活にまでふりかかる現在に、有権者がするべきことは、選ぶことだけではない。
勢いと場当たりで選ぶことに終始したとき、どうなったのかが今あるのだから。

必要なのは、自ら進んで考えることだ。
理想と思想を持って代弁者を押し出さなければならない。
そこで必要なことは、扇情的なアナウンスではない。
冷静に現実と対応させるべき強固で膨大なテキストなのである。

有権者と候補者の“しかるべき”が変質しているとすれば、一方通行で他律的な放映情報は、政治の手として優良だろうか。
むしろ頑迷な被治・支配関係に拘束しているのではなかろうか。

欲しい情報を誤魔化されてはいけない。
流れるニュースを横目にしながら、意思を子細に整理している。