• 02 Dec
    • 正体隠し説得者

      監禁されて1週間後の夜遅く、中年の中肉中背の特徴のない男性が監禁部屋にやって来ました。父と弟が迎えいれて、廊下で私は挨拶しました。前回の沢井牧師は見るからに「反牧」でエラソーな態度でしたが、今回はにこやかなそこらのおじさんでした。第一声が「反対牧師じゃないから安心してください。」でした。反対牧師じゃないのに統一教会に詳しい人としてやって来たのだから、もしかして中立的な立場で統一教会について教授しに来たのかもしれない・・・とつい希望的に思ってしまいました。(どこまでもおめでたい私です。)監禁部屋にやってきた初日は、夜遅かったので手ぶらで挨拶と自己紹介のみ行い帰って行きました。自己紹介で、名前、職業、宗教、統一教会を調べるきっかけ、今後の勉強の仕方を語りました。自らを矢口(仮名)と名乗りました。偽名でした。本名を教えてくれたのは、私が脱会したと判断された時でした。(ある程度教育が進んだ段階で、統一教会と文ちゃんを明かすのと変わりませんね。)↑(あ~、当時、それを突っ込んでおくべきだった~。今となっては遅し。)職業は交通機関関係でした。(これは本当でした。)宗教は確か浄土真宗と言いました。米本さんのブログで矢口さんのことが少し触れられていて、クリスチャンと書かれてた記憶がありますが、私は一度もクリスチャンと聞いたことはありません。もしかして、人によってクリスチャンと言ったかもしれません。統一教会を調べたきっかけは、親戚が統一教会に入信してアメリカに渡り、音信不通になったことが原因と言ってました。監禁部屋での勉強は、あくまで統一教会で発行している出版物と聖書を元に行う方針と告げました。(その言葉通り、説得で統一教会批判本は一切使いませんでした。)印象がとてもよかったので、反対派と接するという戦闘態勢(緊張感)は薄くなりました。これで重苦しい監禁だけの生活からおさらばできる・・・適当に脱会したふりして教会に戻れる日が近づいたと・・・ノウテンキに考えてました。母は、「来てくれてよかった~、やっぱりいい人でよかった~」と私を拉致してはじめて笑顔を見せてくれました。その笑顔にホッとしました。説得者が帰った後の夜中、私は廊下で心情のアベルに宛てて手紙を書きました。手紙の内容は忘れましたが・・・矢口さんのことを「いい人です。」と書いた覚えがあります。私が監禁された当初からいたいとこは、通常の会社勤務でないとはいえ、仕事がありますので、矢口さんの最初の訪問の翌日に帰りました。帰り際に、手紙を出して欲しいと頼みました。その手紙は当然のように、出されることはありませんでした。翌日、矢口さんは段ボール一杯の統一教会発行の出版物とそれを基にして作った資料を持ってやってきました。毎日、夕方から夜遅くまで・・・説得にやってきました。段ボールはどんどん増えました。

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  • 26 Nov
    • 説得開始まで

      1度目の監禁と同じく、説得者はすぐには現れませんでした。理由は私に説得者の話しを聞く姿勢ができてないからでした。本来、2度目の説得者は監禁してすぐに説得に入る方でした。殆どの説得者が行っていると思われる最初に信者から家族・親族に原理講義をし、矛盾点をつき、平行線のままだから詳しい人に来てもらおうという方法はとっていませんでした。2度目に監禁された当初は当然の如く上記のことはわからず、後から知ることになります。説得者が最初から来ないのは、1度目と同じだな、もったいぶらないで早く来てくれたらよいのに・・・・そしたら、適当に間違いがわかったふりして偽装脱会して統一教会に戻るのに・・・と思ってました。1度、偽装脱会に成功した私は脱会説得者を甘く見てました。2度目の監禁部屋はマンションではなく、平屋の一軒家でした。玄関、廊下、トイレ、台所、10畳位の和室がありました。北国の家ですので、窓は元々二重になってます。曇りガラスで外は見えませんでした。当然、窓は開かないように細工されてました。1度目は、トイレ・お風呂場は鍵がかけられましたが、2度目の監禁部屋のトイレの鍵は外されていました。監禁部屋の家は、お風呂場がなかったので、簡易的なシャワー室が作られてました。当然、鍵はかかりませんでした。1度目の監禁の時に置いてあったラジオや小説や週刊誌、新聞は置いていませんでした。統一教会反対本もありませんでした。(置いてあるのは、聖書と原理講論のみでした。)1度目の監禁の時は、ラジオを聴いたり、小説・週刊誌等を読んで、気分転換をしていたのですが、それもできませんでした。母が精神的に弱っていたので、会話も殆どなく、静かで重々しい雰囲気の中で息苦しさを感じていました。監禁部屋には家族以外は、伯父1人といとこ1人でした。唯一の救いは、幼い頃から仲がよかったいとこと雑談したり、料理を作ることでした。(母の具合が悪かったので、買い物は伯父、食事作りは伯父といとこ、私で行ってました。)(説得者との連絡は、弟が行ってました。)監禁された当初は、寝まくってました。しかし、いつまでも寝られるわけありません。私は父に、週刊誌や新聞、小説は置かないのか?トランプはしないのか?と聞きました。(1度目の監禁の時は、家族・親戚でトランプをしました。 参照:https://ameblo.jp/nanakusa-1995/entry-12270476813.html)父は、「そういうことはしない。余計な本や物は置かない。ここでは統一教会を検証する勉強しかしない。」と言いました。やることがないので、聖書と原理講論を条件のように読んでました。この時は、聖書は原理と文ちゃんがメシヤということを証明しているとしか読めませんでしたので、何故牧師はじめクリスチャンは統一原理が真理で文ちゃんがメシヤと悟らないのか不思議でした。何とか信仰を守ってここを出られるように、鏡に向かって自己暗示をしていました。「私は神様から愛されている。私は統一教会に必ず戻る。」と・・・。(一度目の監禁の時もしていました。この自己暗示は、何かの講話の時に鏡に向かって「私は神様から愛されている」と言ったらいいというのを思い出して監禁中行ってました。)1度目と同じく、いつでもすぐに逃げられるように、ズボンのポケットにお金・キャッシュカード・アドレス帳をしのばせてました。しかし、別の思いも私の中にはありました。ここまで反対する家族に対して、信仰を続けるのも面倒くさいという気持ちが出てきました。当時、ぎりぎり20代でした。教会に戻っても、献身できるわけでもなく、上にいけるわけでもないです。36万双の祝福も受けられなくなりました。コスモの姉妹達の殆どが祝福に推薦すらされてない事実を知らなかったので、殆どの姉妹が祝福を受けるだろうと思ってました。皆祝福を受けていなくなっていて、残っているのは、新しい若い青年部のメンバーだけだろう。その人達と一緒に細々と勤労青年として同じような生活を続けていくことを想像したら「もういいかな~」という気持ちになりました。それに、統一教会は霊感商法は救いのために行っていると信者の前で言いながら、世間に対しては結局誤魔化したままです。青年や壮婦信者に借り入れさせて借金を繰り返してまで、要求される金を集めることに躍起になることも、どう考えてもおかしなことです。霊感商法さえやっていなければ・・・多額の金を集め続けることをしなければ・・・これほど世間から叩かれることはなかっただろう・・・と思う反面・・・でも、お金を集めなければ、摂理は進まなかったし・・・と思考はいったりきたりでした。(当時は、摂理は進んでいるとホントに信じてました。)監禁されて1週間後・・・特徴のない中肉中背のいい声した中年の男性がやって来ました。第一声が「反対牧師でないので、安心してください。」でした。

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  • 21 Nov
    • 2度目のXデーも突然やって来た②

      1995年8月18日でした。前日、会社を遅刻した私は2日連続はマズイと思い、急いで家を出ました。アパートの階段を駆け下りて、徒歩15分位の駅までなるべく走り、ぎりぎり間に合う電車に飛び乗ろうと・・・走りはじめた時・・・うしろからダッダッダと走る足音・・・こちらも駅まで急がなければいけないので、同じように急ぐ足音に同士のような思いを感じたのも束の間・・・二人のマッチョな男性(※1)に抑え込まれてしまいました。見ず知らずの男性2人に抑え込まれれば痴漢と思います。思いっきり抵抗して「助けて」と叫びました。それもほんの数秒・・・どこに隠れていたのか・・・ワゴン車が私の横に止まりました。1年ぶりに父と弟が目の前に現れ、下の言葉を発しました。「お母さんが大変なんだ!」と・・・その言葉を聞いた後、ワゴン車に乗せられました。窓の外には、騒ぎを聞きつけた近所の人が集まってました。近所のおばさんと目が合い、私はおばさんに「助けて」と哀願しました。その願い虚しく・・・私はワゴン車から出されることはありませんでした。そして、窓の外には1回目の監禁に関わったいとこが走り去るのが見えました。そのいとこは2回目の監禁の場にはやってきませんでしたので、私を拉致する際の何らかの役割があってその場にいたのでしょう。ワゴン車内に、半狂乱になった母がいました。「私はこの1年ななくさを理解しようと一生懸命勉強してきた。そしたら、こんな新聞記事が出てきてわからなくなった。」この新聞記事は、統一教会の霊感商法について書かれてました。霊感商法について、統一教会関係者は「統一教会は関係ない。信者には職業選択の自由があり、信者が自ら行ったこと・・云々」とコメントしてました。 (※2)弟は、「ねえちゃんは、去年、霊感商法は救いのためにやっていること、と言っていた。でも、統一教会はやってないと言っている。」と言い、父は、「ほら、やってないと書いてあるだろう。」と指差しました。その後、弟が「これから統一教会が本当に正しいところか詳しい人の所に行って検証しに行く、その人は北の果てにいるので、そこまで行く、勉強には邪魔が入らないように、外に出れないようにしてある」・・・と一方的に話し、握手しようとまで言われました。(とても、握手する気持ちになれず、握手は当然しませんでした。)(ちなみにこの弟が言った言葉は、本来父が言うはずだったようですが、父はどうしても言えず、弟が言うことになったそうです。そのことで、父は、後々説得者に責められ続けてました。)ワゴン車は北の果ての地に向かうフェリー乗り場の港へと向かってました。フェリーが出発するのは夕方・・・それまで時間はたっぷりあるので、かなり車でぐるぐるぐるぐる回っていたと思います。ワゴン車の中は、私達4人家族以外は、私を拉致した2人のマッチョな男性2人のみでした。(もしかして、伯父と伯母がいたかもしれませんが、記憶が定かではありません。)拉致するにしては、少ない人数です。今思えば・・・窓の外で見たいとこはじめ数人の親戚が別の車で私達の乗ったワゴン車を包囲していたのかもしれません。(ここまでいくと、護送される犯罪者みたいです。)ワゴン車の中は、言葉一つ発せられず、静まり返ってました。私は、面倒くさかったし連日の疲れもあったので、ひたすら寝まくりました。途中、サービスエリアで「トイレ行くか?」と声かけられましたが、「行かない」と断りました。(携帯用トイレを勧められることはなかったです。サービスエリアでトイレ行くか?と外に出てもいいような準備をしていることからも、他の車が一緒に動いていたことは考えられます。)フェリーに乗るまで10時間近く・・・私はトイレに行った記憶がありません。ご飯を食べた記憶は定かではありませんが、コンビニのおにぎりを出されたような気がします。フェリーに乗る前、少し父とたわいのない雑談をしたことを憶えてます。フェリーに車で乗りこんだ後、車から降りて客室(個室)へと向かいました。この時、私は周囲を家族とマッチョな男性2人に囲まれてました。半狂乱の母に誰か女性が付いていた記憶があります。伯母だったような気がしますが、定かではありません。そうなると、ワゴン車に伯母も乗っていたかもしれませんが、伯母が乗っていた記憶がないので、やはり別の車が一緒に走っていたのかもしれません。客室に向かう途中、フェリーの女性職員がにこやかに挨拶したのを何故か憶えてます。もし、私が拉致監禁されたと裁判を起こしたなら、被告側が必ず「フェリーに乗って客室に向かう時に逃げることができたはずだ。助けを求めることができたはずだ。」と言うでしょう。確かにそうなのです。しかし・・・不思議と・・・この時は、逃げようとも、フェリーの女性職員に助けを求めようという考えも起こらず、ただ誘導されるがままに客室へと向かいました。フェリーの客室内は当然監禁状態で、船内を歩くことはできませんでした。食事はマッチョな男性2名がルームサービスを手配してくれ、それを皆で食べました。客室内にはトイレはあり、そのトイレは当然利用できました。家族の目を離れられるのはトイレ内のみでした。トイレの中の鏡を見ながら、1年前と同じく絶対に信仰を保ったまま統一教会に戻れるよう、気を引き締めなければと思いました。と、同時に、こんなことになってしまったのは、ここしばらくの私の信仰態度や心情、兄弟姉妹(統一教会で一緒に活動する人達)への接し方がよくなかったから・・・讒訴でこうなってしまったのだと深い後悔に襲われました。夕方にフェリーに乗り、翌日の朝に北の果ての地に着きました。同じように、家族やマッチョな男性2人に囲まれて、ワゴン車へと向かいました。何を思ったのか・・・私はワゴン車に乗ってから、「監禁されてます。助けてください。」と他の車に向かって叫びました。当然、父と弟は怒って「何言ってるんだ!」と言い、口を塞ぎました。こちらの様子を見ていた人がいたのですが、頭のおかしな女性が叫んでいるとしか思わなかったのでしょう。軽蔑の視線が送られただけでした。ワゴン車は、監禁場所へと向かいました。北の果ての道路は、私が住んでいた場所の道路とは比べものにならないくらい広く、まっすぐ続きます。車の量も私が住んでいた所に比べ、はるかにはるかに少なく、監禁場所に向かうのでなければ、風を感じながらの気持ちよいドライブになっていたでしょう。(当然、窓は開けられませんので、風を感じることはできませんでした。)監禁場所に着いたら、私は監禁部屋に入れられたら終わりだと思い、最後の抵抗をしました。車から降りず、抵抗し続ける私に業を煮やし、マッチョな男性2人が私を抱きかかえ、監禁部屋まで運びました。監禁部屋に入れられた私は、家族に向かい、これでもかと悪態とつき続けました。(きっと、の形相だったのでしょう。)そこには・・・1回目の監禁には関わらなかったいとこが待っていて、私の悪態と形相を覚めた目で不思議そうに眺めていました。マッチョな男性2名は、いつの間にかいなくなっていました。続きます。(※1)マッチョな男性2人は、今もって、謎の存在です。家族は、親戚と言いましたが・・・・後にも先にも、この時のマッチョな男性2名と顔を合わせていません。(※2)霊感商法は統一教会が信者に指示してやらせているわけではない、信者が勝手にやっていることというのは、統一教会の常套句でしたので、その記事を見せられたからって驚くことではありません。しかし、1回目の監禁の後のリハビリの谷村教会で、元信者と「山崎浩子さんが『霊感商法は統一教会にとっては救いの行為なのだから、やっていると言えばいいのに。』と言っていた」と話したことを思い出し・・・こんなことを統一教会幹部は言い続けているから、親が心配してこんな事態になるのだ!と怒りを感じました。この記事を書きながら、その常套句を唱えた統一教会幹部に対し、怒りでいっぱいになりました。土下座して謝っただけでは気が済まない・・・土下座している上を踏みつけただけでも気が済まない・・・はっきり言って、その幹部を拉致監禁して同じ目にあわせてやらないと気が済まないという位、今、頭が沸騰しています。

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  • 17 Nov
    • 2度目のXデーも突然やってきた①

      1995年10月16日 AM2:34 の日記より(※1)(日記部分は青字)2ケ月前・・・暑かった・・・2ケ月前の8月15日は有給をもらって、仕事は休みだった。殆どの会社がお盆休み(夏休み)なので、青年部のみんなは心霊復興でプールに行った。私は、アトピーがあるし、水着もないし、行かなかった。夕方からの映画会に行こうと思ったが、行かなかった。・・・疲れていた・・・夕方頃、お風呂屋さんに行き、お風呂屋さんで涼みがてら、テレビを見(高校野球)、そして帰ってきてゆっくり過ごした。夜は、霊のおばあちゃんの半田さん(仮名)に電話し、長話しした。その時、私は3日後の運命を知らなかった。3日後の8月18日、AM8:10頃・・・私は忘れない・・・全ては、この時にはじまった・・・前日の8月17日は後半出発式(※2)だった。連日の疲れ、暑さもあり・・・、また前日の就寝時間も遅く、寝坊してしまった。前日の8月17日、夜中の下痢のせいで朝起きれなくて、会社を遅刻してしまった。2日連続は“マズイ”と思い、急いで支度をした。一瞬、休もうかと思った。でも、考え直した。朝のみ言だけでも・・・と思い、電話したが、話し中で通じない。(※3)仕方がない。行くか・・・で、外に出た。階段を下り、表に出て何歩も歩かないうち、ダッダッダッと後ろから走って来る足音・・・あっという間に体格のいい男の人にはさまれてしまった。拉致監禁というより・・・見ず知らずの人の為、痴漢・・・!?と思った。祝福前だから、ここで犯されたら・・・全てが台無しになる!と思った。抵抗した 蹴っ飛ばした “助けて!”と叫んだ。(※1)2度目の監禁説得の後、一度統一教会に戻ってしまい、その後、再度監禁説得場所に戻った時に書いた日記です。(今年のGWに実家の古い書類や本を整理していたら出てきました。)この日記を書いたのは軟禁中でした。この後、再度監禁状態になります。(※2)参照:https://ameblo.jp/nanakusa-1995/entry-12243533191.html原研の運動会?後半出発式(※3)青年部通教者は、毎朝、朝の御言葉を聞くため、ホームに電話をしていました。この日の日記(監禁時の様子を綴ったもの)はここで終わってました。次の記事は、現在の記憶で拉致された時のこと、監禁場所に向かった様子を書きます。

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  • 10 Nov
    • マインドコントロール論信者と宗教渡り鳥

      1.マインドコントロールは日常にある「マインドコントロール」という言葉が世間に認知され、使われはじめたのは山崎浩子さんの統一教会脱会記者会見からでしょう。それまでは、「マインドコントロール」という言葉を聞くことはなかったです。「マインドコントロール」という言葉が認知され始めてから、統一教会反対派と脱会者は二言目には口にするようになりました。でも、「マインドコントロール」って何?と聞くと、殆どの人が答えられないです。笑えないこんな話しもあります。オセロの中島さんが占い師にマインドコントロールされていたという騒動中、某テレビ局の某番組スタッフがマインドコントロールに異を唱える人に夜中に電話でコメントをとろうとしたらしいです。夜中の電話にも関わらず、エリートの性で上から目線の非常識な物の聞き方をしたのでしょう。電話を受けた人は超ムカムカしながら逆に質問したそうです。「マインドコントロールとは何ぞや?」と・・・・そしたら、そのスタッフ全く答えられなかったとか・・・・そこで、電話をとった人は烈火の如く怒鳴ったとか・・・(多少脚色あり)そんなものです。マインドコントロールという大層な言葉を使っているので、何やらカルト入信させる特殊な心理的操作みたいなものに感じますが、マインドコントロールは日常に転がってます。(正しい、間違っているは抜きにして)もしかして常識的にとらえている以下のことは、マインドコントロールと言えないでしょうか?(思いつくまま書きますので、関連性はありません。)・高偏差値高校、大学を卒業した人は頭がいい。・一流企業に就職した人は優秀。・専門家の意見は正しい。・インフルエンザワクチンはインフルエンザの重篤化を予防する。・ワクチンは接種すべき。親が子どもにワクチンを接種させないのは虐待(医療ネグレクト)だ。・フッ素は虫歯を予防する。・児童相談所は子どもを守る機関だ。・児童相談所が虐待から子どもを守れないのは、児童相談所に権限がないからだ。親権が強すぎるからだ。・うつ病は医療機関を受診し、抗うつ剤を服用すべきだ。・統合失調症(旧・精神分裂病)は治癒しない。ずっと薬を服用し続けないといけない。・心療内科医、精神科医は心の問題に詳しい。・犯罪を犯した人が「精神科受診歴があった」と報道されると、精神疾患のせいで犯罪を犯したと関連づける。・発達障害の子どもが増えている。発達障害を早期に発見し、治療を開始した方が後の生きづらさは改善する。・認知症は早期に発見して、抗認知症薬を服用しはじめると認知症の進行を遅らせる。・癌は早期発見・早期治療すれば治癒する。そのために、癌検診は受けるべき。・カルト信者はマインドコントロールをされていて、自分の頭で考えられない。マインドコントロールを解くためには、家族の愛情と教会から離れて自分の頭で考えられる環境が必要。・拉致監禁(保護説得)は家族の愛情。・キリスト教は愛の宗教。etcetcetc(追記)kokoro氏の思い込みhttp://yonemoto.blog63.fc2.com/blog-entry-872.html2.宗教渡り鳥宗教渡り鳥の件は、米本さんのブログ「火の粉を払え」にもとりあげられてました。http://yonemoto.blog63.fc2.com/blog-entry-883.html統一教会脱会後、渡っていく宗教で圧倒的に多いのがキリスト教でしょう。宗教でなくても、反対活動、マルチも同じようなものです。統一教会脱会した後、マインドコントロールされていたから間違った統一原理を信じてしまった、反社会的活動をしてしまったで終わりにしたら、結局、何で自分が信じてしまって反社会的活動したのかがわからないままです。わからなくても、二度とそういう活動に足を踏み入れない人の方が多いのでしょう。しかし、自分が変わってないと、結局統一教会と同じような世界を無自覚のまま求めて、他の宗教やマルチや反対活動に関わってしまうのです。前々記事に書いたように、一定の時期、反対活動に関わるのは精神安定のため必要なこともあるでしょう。だけど、反対活動は結局は頭が変わっただけで思考は統一教会員のままなのです。元信者が多くいるキリスト教会(拉致監禁説得を行っている教会)は、統一教会員の雰囲気ほぼそのままです。一番笑えたのは(ホントは笑いごとではないのだけど)、統一教会信者からクリスチャンになった人の言葉で・・・(その方は、牧師になるべく神学校まで行きました。)「クリスチャンにならなければ、なんのために統一教会に入ったのかわからないじゃない。」・・・・・その人が所属していた教会は拉致監禁脱会説得を開始した所で、そこで脱会説得を受けた人は殆どクリスチャンになるようです。だから、そこはそういう考えを持っている人が多いようですが・・・クリスチャンになるための統一教会員としての活動だったら・・・統一教会で行っていた反社会的活動もクリスチャンになるための準備だったということで・・・・原理のメシヤのための基台と同じようなものだし、正体隠し伝道や霊感商法は救いのためのものという統一教会の考えと通じるものがあるし・・・変なのと思いました。私はクリスチャンになるどころかキリスト教はカルトと思うくらい嫌いになりましたが、たとえクリスチャンになったとしても、統一教会に入ったのはクリスチャンになるためという発想にはどう頑張ってもなりません。宗教も活動も自由ですから、人に迷惑をかけない限り、自由です。統一教会を脱会した後、他宗教を信仰するのは自由です。だけどですね・・・・後で騙された~とまた同じようにほざくのでは、人としてあまりにも成長してないのではないかと思ってしまいます。(私も別の意味で成長してませんので、人のことは言えませんが・・・)

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  • 05 Nov
    • 謝罪&被害を訴えるということ

      1.「私は謝罪したい」について米本さんのブログ「火の粉を払え」http://yonemoto.blog63.fc2.com/blog-entry-883.html反省する元信・反省しない元信(下)-宗教渡り鳥 に衝撃的なブログ記事が紹介されてました。http://naibukaikaku.blog.fc2.com/blog-entry-56.html「私は謝罪したい」読んで頭をガーンとハンマーで殴られたような気持ちでした。私は・・・このブロガーさんのように・・・自分が本当に悪かったと思ってないということに気づきました。献身者ではなかったので、霊感商法には携わってないです。偽募金活動もしてないです。大金を韓国に運び込んだこともないです。マスコミや反対派に嫌がらせも電話もかけてないです。青年部信者もやっていたオレオレ詐欺の走りみたいなこともしてないです。しかし、正体隠し伝道は始終してました。珍味売りはしました。(マイクロには乗ってませんが)宝石展(CB)、アート展、着物展(JD)には友人やゲストを誘い、数人に商品を購入させました。(統一教会活動の一環でやっているとは言ってません。)高麗人参茶も数人に購入させてしまいました。統一教会の資金になることを伏せて、嘘をついて銀行から借り入れもしました。法的な詐欺罪にあたるかどうかはともかくとして、本来の目的を一切言ってなかったわけですから、多くの人を騙しまくっていたわけです。それを真の意味で自覚していたら、本当に申し訳なくて申し訳なくて、世間様に顔向けできないのですが・・・そこまでの罪悪感はないです。それは私の中にまだ、「原理を信じていたから、それが救いの行為だと思っていたから、仕方ない。」という言い訳があるからだと思います。誤解しないで欲しいのは、元信者は罪悪感を抱えて世間様に申し訳ないという気持ちを常に持ってなければならないと言っているわけではありません。(そこまでいったら社会生活が営まれなくなります。)しかし・・・マインドコントロールされた、教会やアベルの指示でやらされた自分は被害者と言う前に、自分も人を騙した加害者であり、世間様に謝罪しなければならないということは忘れてはならないと思います。エラソーなことを言いながら、真の意味でそういう自覚をしてなかったということを気づかされ、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けたというわけです。2.自分を振り返るのと、被害を訴えるのは違う米本さんのブログ「火の粉を払え」で下記のコメントがありました。(引用部分は青字)不快感情は他者のせいではなく、自分が選択していると頭で理論はわかっていても、他責感が否めない事が多々あります。そして特定の人間に対して恨みが残っている部分もあります。http://yonemoto.blog63.fc2.com/blog-entry-883.html深く考えさせられるブログですね在米歴15年さんコメント注:2つのコメントを引用してましたが、1つはコメントした方と私の解釈に相違があったため、削除させていただきました。そのため、この後の文章の内容と若干つながらなくなります。自分を振り返り、マインドコントロールされたのでなく、自分に選択する理由があって統一教会信者となり、活動をしたと総括するのと、被害や苦情を訴えるのを同じ土俵で考えてはいけません。自分で選んだこととはいえ、特定の人に対して恨みが残ったり、他責感が出るのは当然です。だって・・・その特定の人はそれだけのことをその人に対してしたのですから・・・。統一教会信者をAさんとしますと・・・Aさんが自分で選択して統一教会に入信したとしても、Aさんに霊感商法や物売り、正体隠し伝道、銀行借り入れ、高額献金を指示するのは許されません。Aさんが祝福を希望して、相手は誰でもいい、海外の人でもいいと言っても、韓国の「飲む・買う・打つ」の男性を祝福相手としてあてがい、韓国に渡って家庭を持った後、教会として何もフォローしないのは無責任の極みとして責められるべきです。Aさんが統一教会に入信して家族を心配させていたとしても・・・拉致監禁して脱会させようとするのは、ダメです。拉致監禁される原因がAさんにあったとしても、教会に戻ったAさんの心理的フォローどころか接触を避けようとするアベルは、冷たいと言われても仕方ないでしょう。一般社会にあてはめるとこういうことではないでしょうか。いくらいじめられる原因があるといっても、いじめてはいけません。いくら挑発する格好をしていたとはいえ、強姦(合意なき性的行為)をしてはいけません。金品が無造作に放り出されていたとはいえ、それを盗んではいけません。どんなに酷いことを日常的に言われ、されていたとしても殺してはいけません。被害を受ける原因があったとしても、それに付け込んで「被害を受けるのはそれ相応のことがあったのだから。」とそれで加害者の行為が免除されるわけではありません。被害者が被害を受けたのは被害者自身にに原因があったからと、被害を訴えるのはやめよと言うのは違うでしょう。苦情を言いながらの謝罪も、自分が選択したと思っていながら、他者を責めたり恨んだりするのは、当然ながらありです。世の中には、都合良く、一方方向に謝罪させたり、被害や苦情を訴えさせる(他方の謝罪や被害・苦情の訴えは受け付けない)人達がいますからね・・・・騙されないようにしましょう。

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  • 24 Oct
    • マインドコントロール論からの脱出ー「元脱会者」への道

      2回目の拉致監禁・脱会までの過程・脱会後についてアップするその前に・・・facebookで考えさせられる投稿が流れてきました。投稿者・URLを公表しない約束で、(畑違い)ブログにアップすることをご本人の許可をとってますので、そのまま引用させていただき、それについて自分の考えを書かせていただきます。※あくまで私の立場・経験からの考えですので、違う立場・経験された方は当然違う考えを持っていることと思います。決して違う考えの人を否定するつもりはありません。※引用部分は青字お薬を辞めたいと思っている方へ。比較的すんなり辞められた人もいますが、辞めてから何年も離脱症状に苦しみ、体の健康を損ねている人も実際います。そういった人たちの違いを私なりに検証してみると、「内観」に対する真面目さかなと思います。誰か(薬、医者、家族、自分など)を責め続けてしまうと、体の症状も出やすいように感じます。確かに責める儀式は必要なんですが、責めきって自分なりの答え、悟りのようなものを出せた人は強い。逆にそこに辿り着けないと、薬物依存の問題が消えてもPTSDの問題は残ります。比較的スムーズに辞めている人は、そうでない人に比べて自他への怒りが少ない。やはり、必要なのは反発心ではなくて自立心です。精神薬を飲み続けるという立場は、大人でありながら誰か(医者、家族、社会)に庇護される立場であり続けるということです。ですから、精神薬を辞める行為は、子供から大人への階段を登る儀式に似ていると思います。反抗期は、いつか卒業してくださいね。自分が反抗期だなと自覚さえ出来れば必ず卒業出来ますから。(今でなくてもいいですよ。反抗期さえない人が一番病んでいますから、あなたは正常です。)多くの皆さんが読む場所に書いてしまうと、精力的に反精神医療の活動をされている方や、色んな各方面の方々を責めるような雰囲気になってしまうかなと思って自分のフィードに友達限定で書いています。反抗期の途中の皆様を刺激したくないので…( ̄▽ ̄;)お薬(精神薬)や精神医療を統一教会に置き換えると、そっくりそのまま統一教会脱会について当てはまります。私も統一教会を脱会した当初は、怒りでいっぱいでした。トンデモ団体が存在し続けるのは、イカン!と思い、反対父母の会に参加したり、霊の子や一緒に活動していた人に「統一教会はダメよ~」とアクションをかけてました。(結局、アクションに反応した人はいませんでしたけど。)脱会者や脱会者のグループと接することも多かったです。(反対派の言う)マインドコントロール論も信じてました。拉致監禁は辛かったし、基本は行うべきことではないという考えでしたが、マインドコントロールを解くためには致し方ないこと、必要悪と思ってました。そのうち日常生活で忙しくなり、統一教会のことも自分が関わっていたということも頭の片隅にしか置かれなくなり、たまに思い出す程度になりました。脱会者の人と付き合う頻度もかなり減りました。そんなある日の脱会して13年後の2009年の暮れ近く・・・何気な~く開いた統一教会のHPに12年監禁されて統一教会に戻った後藤さんのことが出てました。後藤さんのことは、脱会者の友人と「どうしたかね~?」と上記記事を見る数年前まで話題にしてました。その後藤さんの監禁が12年にも及んだことに度胆を抜かされました。一体何があったんだろう?とネット検索すると統一教会は拉致監禁反対キャンペーンの真っ最中で、拉致監禁に関する記事がいくつか出てきました。殆どが拉致監禁されながらも脱会しなかった人や統一教会側の意見でしたが、統一教会と関係ない人が拉致監禁はイカンと書いているブログを発見し、食い入るように読みました。拉致監禁で脱会しながら、拉致監禁反対と言っている人がいることもわかり、驚きました。拉致監禁反対とハッキリ言うことは、拉致監禁脱会者にはタブーという空気が流れています。「辛かったけど、嫌だったけど、親がマインドコントロールされた私を本来の私に戻すためにやってくれた愛なのだから、感謝しないとね。」という暗黙の掟がなんとなくあります。拉致監禁について親や説得者を批判するなどトンデモないことで、そんなこと口にしようものなら、「恩知らず」「人間じゃない」「親の気持ちを考えろ!」etcと説教されます。説教されるだけならともかく、「まだ統一教会の間違いがわかってないのではないか?」「統一教会に戻るのではないか?」「偽装脱会ではないのか?」と疑われ、最悪再監禁の恐怖があります。「そんなことまでないだろう。」という声が聞こえてきそうですが、一度でも監禁されると、統一教会に関連している限り、再監禁の恐怖は付き纏います。後藤さん裁判の世話人をしている時、どこかから私が後藤さん裁判の世話人しているという情報が洩れて、「統一教会に戻ったのではないか」と誤解されて親に伝わって監禁されるという恐怖がありました。(後藤さん裁判の世話人をしたのは、脱会後15年経ってたし、親の年齢からは拉致監禁する体力がないことはわかっていたのにです。)再監禁はなくても、拉致監禁反対を唱えると脱会者の友人が離れていきます。脱会したばかりの時は、心を通わせられるのは脱会者の友人のみです。その友人がいなくなるのは、完全に孤独になるということです。今まで真理と信じて活動してきた統一教会が誤りで反社会的迷惑団体でしかないと認識したことと、一緒に活動してきた心通わせてきた友人達と言葉が通じなくなる・・・喪失感を感じているところに唯一心が通う脱会者の友人も離れることは耐えられないことです。そうならないため、自分に「拉致監禁は、マインドコントロールを解くには必要なことだった。」と言い聞かせて納得させてました。だから、拉致監禁脱会者でありながら拉致監禁にノーといった勇気ある人がいることに驚いたと同時に、孤独になることを恐れて拉致監禁を黙認していた自分を反省しました。マインドコントロールされたから統一教会に入信し、活動したと、私も他の脱会者と同様にずっと思ってました。だから、米本氏が著書やブログでマインドコントロール論を否定しているのを読んで、違和感を感じてました。拉致監禁はよくないけど、信者はマインドコントロールされているのだけど・・・と思ってました。しかし、後藤さん裁判の世話人をしたり、自分の統一教会歴史を思い出すことで、私は反対派の言っているマインドコントロールはされていなかった・・・私が統一教会信者になり、活動したのは私の中に原理を信じ、実践する理由があったから・・・そして依存だったということがわかりました。(理由と依存については後日書きます。)拉致監禁反対キャンペーンに触発されて、拉致監禁されたことについても怒りを感じたことがありました。しかし、これも統一教会信者となったことと同様、私の中に拉致監禁される理由があったから親は拉致監禁による強制説得に踏み込んだのです。友人・知人・家族、はたまた街頭で声をかけられても、実際統一教会信者になる人は少ないです。統一教会信者の中でも拉致監禁される人は少ないです。その少ない中に入った理由は自分にあったのです。自分の中にある理由をないがしろにして、自分は被害者だと言い続けていては、永遠に統一教会や拉致監禁した反対派等に縛られていて真の意味で自由になれないし、自分の人生を生きられないと私は感じます。拉致監禁脱会説得していた牧師(私を説得した牧師ではありません。)が言った言葉でなるほどなと思ったのは・・・「脱会者」と「元脱会者」(この牧師は脱会して結婚して家庭をもったら「元脱会者」と変な解釈をしていたらしいが・・・)「元脱会者」は統一教会から真の意味で自由になれて、自分の人生を生きている人のことだと思うのです。そういう意味では、私は「元脱会者」になれているのだろうか?いや、まだそこには達してないな~と思います。このブログを終了する頃には、「元脱会者」になるのが目標です。と、色々まとまりなく書いてしまいましたが・・・facebook投稿者が書いているように、被害を訴える時期も反対活動に関わる時期も必要です。その必要な時期を通過した時・・・私のこの拙いブログ内容を思い出してくれたらと思います。次回は、米本さんの現在のブログ記事の感想等・・・次々回はマインドコントロールについて書きます。(しつこい?)

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  • 15 Oct
    • 最後のゲスト

      初めて、I駅で伝道した時でした。礼拝が終わった後、I駅で伝道すると言われた時、「エッ!?」と思いました。I駅は、当時の私の職場の最寄り駅でした。でも、休日だから、職場の人に会うこともないだろうし、I駅は大きい駅なので、そうそう知っている人に偶然めぐり会うこともありませんので、職場の最寄駅でも関係ないと思い、街頭伝道に臨みました。その日から私が拉致される時まで(多分その後も)私が所属する基台は、日曜日はI駅付近で伝道してました。大体は、屋外で行ってましたが、その日は雨だったので、駅構内で行いました。伝道開始して、割に早い時間に私より若く背が高い女性、星野さん(仮名)が止まってくれました。手相をみて、転換期トーク・・・途中、協助の人が入るのはいつもの流れです。特に、占いや転換期トークに関心がありそうとは感じなかったのですが、ビデオセンター(とは言いませんが)に占いのエライ先生がいると言ったら、鑑定してもらいたいと言い、自己啓発の勉強も必要と感じたらやると言いました。星野さんは、私に大事なことを話したのですが、周囲があまりにもうるさくて聞こえませんでした。(しかし、協助に入った人には、聞こえてました。)大事なことを聞き逃したまま、ビデオセンターまで誘導しました。聞き逃した大事なことを確認したのは、ビデオセンターに行く途中か、ビデオセンターに到着した後かは忘れました。確かなのは、占いの偽エライ先生を紹介する時には、大事なことを確認していて、偽エライ先生にも伝えていたことです。それでも普通に姓名判断をして、普通にビデオセンターでの勉強を勧めました。大事なことを控えていたのに、意外にスンナリコース決定しました。大事なこととは・・・・星野さんには、フィアンセがいて、近々結婚を予定していたことです。もし、私がI駅街頭でそれをきちんと聞きとっていたら、ビデオセンターに即動しませんでした。何故って・・・?フィアンセがいるだけならともかく、結婚の日も間近だったからです。今から、ビデオセンターで勉強しても、フィアンセと別れて祝福を受ける決意をするにはあまりにも時間がなかったのです。(星野さんが夫を伝道して、夫婦で既成祝福という道があるという考えに及ばなかったのです。)そういうわけで、私としては珍しくコース決定したゲストに情がいかなかったし、真剣に統一教会に繋げようとは思わなかったです。それでも星野さんがどんな形でも神様・文ちゃん夫妻につながっていくよう、蕩減条件はたて、祈ってました。星野さんは、ビデオセンターには順調に通いました。2daysもその頃の他の人に比べたら早期に参加しました。その2daysの日は、星野さんの誕生日でした。星野さんのフィアンセはアメリカ人でした。アメリカ人は誕生日を大切にします。大切な誕生日に、フィアンセを過ごせないことはアメリカ人としては信じられないことです。最初は、星野さん自身も2daysに参加することに躊躇していました。しかし、結婚の日程からしたらこの時に参加するしかありませんでした。ビデオセンター担当カウンセラーと私で参加を強力に勧め、星野さんは参加を決意しました。今・・・これを書きながら思っていることは、結婚を間近に控えながら、エライ(偽)占い師に鑑定希望するだけならともかく、ビデオセンターで勉強したり、フィアンセが一緒にいることを望んでいる誕生日に、いくら強力に勧められたからとはいえ2daysに参加したというのは、星野さんはもしかして結婚に不安をもっていたのではないか、フィアンセとの関係に何かあったのではないかということです。しかし、当時はそれを感じることができませんでした。2daysの迎え(修練会場まで行き、修練生と一緒に電車に乗って話しをする)も担当したのですが、私は星野さんとは話しをせず、星野さんは2daysの班長(献身者スタッフ)と話してました。駅に到着後も、星野さんはすぐに帰らなければならないと言い、話す時間がありませんでしたので、次のトレーニング参加を勧めることができず、星野さんと会ったのはこれが最後となりました。(どちらにしろ、結婚が間近の星野さんは、次のトレーニング参加は無理だろうし、私一人では強く勧めることはできないので、諦めてました。)星野さんが、その後、予定通りフィアンセと結婚したのかはわかりません。フィアンセとの関係に何かあったとしても、星野さんが結婚に対してどんな思いがあったとしても、あのまま統一教会に繋がらなくてよかった・・・と思います。

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      テーマ:
  • 11 Oct
    • 成約断食

      祝福を受けるために成約断食(7日間断食)を行わなければなりませんでした。(36万双の時は、必須ではありませんでした。)献身者は、しかるべき方(おそらく支部長、チャーチマザークラス)と面接をして、断食をしやすい責任分担の時に成約断食を行うのだと思います。(献身したことないのでわかりませんが。)私の知っている限りでは、献身者は一人で成約断食を行ってました。勤労青年は、長期の休みの時に数人で一緒に行うパターンが多かったです。(中には長期休み関係なく一人で行っていた勤労青年もいたと思いますが。)私は、1995年のゴールデンウィークに行いました。この時は史上最大の大人数同時に成約断食を行いました。社会人になってから、夜勤あり、不規則休日の仕事をしていたので、ゴールデンウィークもまるまる休みということはなかったのですが、1回目の監禁から逃亡後は土日祭日休みの夜勤なしの仕事をしていました。お蔭で社会人になって初めて、ゴールデンウィークをカレンダー通り休めました。1995年のゴールデンウィークは恵まれていて、7日間断食の1日目と7日目だけ仕事で、間の5日間は休みでした。(さすがに仕事をしながらの断食は、ご飯を食べない言い訳に苦労するのでなるべく避けたいです。)5月2日~5月8日に行いました。1995年5月カレンダーhttp://www5a.biglobe.ne.jp/accent/kazeno/calendar/1995.htmこの年のゴールデンウィークの青年部のスケジュールは、前半の2日間は珍味売りをし、後半の2日間は街頭伝道活動でした。間の5月5日は、何をしていたか記憶にありません。例年ですと、ゴールデンウィーク中に1日は心霊復興があるので、多分5日は心霊復興だったと思います。しかし、断食中に心霊復興に行った記憶はないので、多分行かずにアパートで一人うだうだ過ごしていたと思います。断食中にアパートから、一緒に断食した霊の子の下山さん(仮名)に電話した記憶があります。下山さんはゴールデンウィークでも4月の下旬から始めたので、私より早く終了しました。体重が何キロ位落ちたか聞いたら、7キロという答えが返ってきました。(ちなみに私は5キロでした。)断食中は、何もしないより、体を動かした方が気持ち的には楽です。しかし、やはり水以外口にできないので、さすがに肉体的にはきついです。それだけに、一緒に断食している人が多かったのは大きな励みになりました。(統一教会の断食は水以外は一切口にできません。最近、ファスティングブームで断食道場だの断食のための合宿だの、プチ断食だのというものをネットで見かけるますが・・・・統一教会の断食程徹底してないのですよね。だから、全然断食じゃないじゃん、と一人突っ込んだりしてます。)ちなみにこんなファスティング合宿発見しました。https://www.facebook.com/events/1635534816507492/?acontext=%7B%22ref%22%3A%2222%22%2C%22action_history%22%3A%22[%7B%5C%22surface%5C%22%3A%5C%22timeline%5C%22%2C%5C%22mechanism%5C%22%3A%5C%22hovercard%5C%22%2C%5C%22extra_data%5C%22%3A[]%7D]%22%7D2日間の珍味売りは、断食中の人同士でペアを組みました。私は、大久保さん(仮名)とペアを組みました。大久保さんは私より年下で、コスモ所属で班長でもなかったので、私同様、36万双の祝福は(希望していましたが)推薦されなかったです。大久保さんは、その後の南米摂理で南米に行くメンバーに選ばれてました。(何故、それを私が知ったかって・・・母が私の説得者に送るため愛美書店でしこたま統一教会関連書籍を買ってたのです。その中の写真に大久保さんが写っていたからです。)大久保さんは、私が知っている時は情が安定せず、頑張る時とそうでない時の波がありましたけど、南米摂理の頃は情が安定していつでも頑張れるようになったとのことです。2日間のうち、初日は基台毎の競いもなく、個人の実績も表彰の対象になりませんでした。2日目は基台毎で実績を競い、個人の実績が表彰対象となりました。皮肉にも大久保さんと私は、初日にけっこう実績だし、2日目はさんざんでした。2日目は出発当初から、訪問先で足蹴にされたり、オウム事件の話題真っ最中の頃でしたので、「オウム」と言われました。知っていますか?オウム真理教では、統一教会信者のことを「家畜」と言っていたそうです。オウム真理教信者は統一教会とだけは一緒にされたくないと言っていたようです。統一教会信者が行う珍味売りで、「オウム」と言われていたことを当時のオウム真理教信者が知ったら、ショックでひっくり返るでしょう。それでも、文ちゃんの歩んできた道、神様が通過した心情はこんなもんではない!と奮い立たせて足蹴にされても1軒1軒祈りながらまわりました。しかし、一向に売れませんでした。途中決められた時間に、隊長に報告の電話を入れると、「そこ、昨日は実績出てるんだから、頑張って!」「大久保さんはどうなの?いつもの勢いはどうしたの?」とハッパかけられました。確かに・・・大久保さんはいつもに比べたら元気がなかったです。元気がなかったのは、大久保さんは成約断食を失敗したかもしれないと思ったからでした。珍味売りも間もなく終わる頃になり、大久保さんはマザーに電話すると言いました。その電話の内容が「切手をなめてしまったかもしれない。これって失敗ですよね?」ということでした。(断食中は、切手をなめてもいけなかったのです。)マザーからは、大丈夫と言われたそうです。その後・・・・珍味売りも間もなく終わる頃、ぎりぎりに大久保さんが1個売りました。結局、2日目の実績は大久保さんが売った1個のみでした。(私は1個も売れませんでした。)珍味売りが終了し、肝心の2日目に実績が出せなかったことを基台長に謝りました。基台長は「最後に1個売れたからよかったじゃない。2人で勝利した1個だよ。」と優しい言葉をかけてくれました。(マイクロや献身者の基準、青年部でも実践課の基準だとこういう言葉はかけられないでしょう。やはり、コスモは甘かったのです。)2日間の街頭伝道は、特にこれといった思い出もありません。途中体がきつくて座り込んだことはあったけど、何とか乗り切りました。7日目の最終日は、仕事でした。できれば仕事休みたかったけど・・・休んだら条件にならないから行ったというのもあるけど、それ以前にその日の仕事は他の所にヘルプに行く業務だったので、休めなかったのです。職場には統一教会員はいません。私が7日目の断食中だということは当然ながら誰も知りません。私の本来の勤務地の同僚の1人も一緒にヘルプでした。朝会った時、「かなり顔色悪いね。」と心配されました。ヘルプ先とはいえ、何回か行っている所なので、一緒に業務をしている人もある程度は気心知れてます。お昼食べないのを「具合が悪いから・・・」と言って誤魔化したのも、(ホントに顔色が悪かっただけに)かなり心配されました。何とか1日の労働を終えました。仕事終了後、アパートに戻らず、直接コスモのホームに行きました。翌0時に断食が明けた後の、断食明け恒例の成約断食終了式に参加するためです。(待ち時間、かなりたっぷりでした。)青年部全体で成約断食終了式をしました。一人一人用意された重湯を順番にすすり、写真を撮りました。「成約断食勝利おめでとう!」の寄せ書きももらいました。成約断食終了式で感極まって泣いたという話しを2回目の脱会説得の後に、元信者から聞いたのですが・・・・私は感極まることもなく、1イベントが終わったとう感覚だけでした。泣くこともありませんでした。私だけでなく、一緒に断食した青年部のメンバー達も泣いている人がいた記憶はありません。集団でやると感動が薄れるのだろうか・・・と思いきや・・・自分の記憶で、成約断食終了式で泣いた人がいた人はいません。感極まって泣いたという話しをした元信者に、「私は特別に感動しなかったし、泣かなかったけど。」と言ったら、後で一緒に聞いていた説得者と「ななくささんはおかしい。」と言っていたようです。(自分達の感覚で人をはかるのはやめましょう。)成約断食7日目は、仕事に行ったのですが、翌日は休んでしまいました。私が具合悪いことは、私の勤務先にも伝わっていたので、休むことは2つ返事でOKもらえ、大丈夫か?と心配されました。翌々日、勤務先に行ったら痩せた私の姿を見て、「何キロ痩せた?」と聞かれました。「5キロです。」と答えたら、「そっか~」という反応で、もしかして、断食のこと知ってる?と一瞬思ったのですが・・・まさかです。断食後の食事は、入教してなかったので、断食後の食事メニューを参考にしながら食事を作ってました。けっこう真面目に守ってました。お弁当にもお粥を入れてました。<追記>ファスティングはきちんとやれば体にはいいのでしょう・・・・しかし、私は、(病院で禁食の指示が出ない限り)もう断食はやりません。(と、言いつつ、先に紹介したファスティング合宿、興味あります。時間とお金の関係で参加はできませんが・・・。)後藤さん裁判では被告側が「この本を参考にして、後藤さんの断食後の食事を出したと申してました。・・・https://www.amazon.co.jp/%E6%96%AD%E9%A3%9F%E3%83%BB%E5%B0%91%E9%A3%9F%E5%81%A5%E5%BA%B7%E6%B3%95%E2%80%95%E5%AE%97%E6%95%99%E3%83%BB%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E4%B8%80%E4%BD%93%E8%AB%96-1980%E5%B9%B4-%E7%94%B2%E7%94%B0-%E5%85%89%E9%9B%84/dp/B000J8417G本の内容は、とてもよかったので、これから断食する方・・・どうせ断食するなら、宗教的意味だけでなく、体も健康にした方がよいので、一度読んでみては如何でしょうか?(と、以前もどこかで書いたな~)

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      テーマ:
  • 08 Oct
    • 祝福の決意

      統一教会信者でいる限り、いつかは祝福を受けることを決めなければ一生独身です。(一度離れて好きな人と普通に恋愛結婚して、再度夫婦で統一教会に入信して既成祝福を受ける人もいたらしいが・・・。現役中はそんな人がいたこと知りませんでした。)最初に、祝福のことを知ったのは、最初の4daysに出る前の1984年のことでした。4daysに出ることに反対されていた私は、エライ学者さん(?)が書いた統一教会と文ちゃんをヨイショする本を親に読ませました。その本に祝福のことが書いてありました。ホントは親に4days参加を認めさせるために読ませる本ではなかったのですが・・・本をいい加減に斜め読みしていた私は、祝福の記載があったところは飛ばしていて、統一教会は素晴らしいとエライ学者先生が言っているのだから、親も認めるのではないか、と単純に考え読ませてしまったのです。祝福を異常で気持ち悪いと、母は思っていて(当たり前の感情)、祝福を受けるのは絶対ダメと言ってました。(36万双前のギリギリに2回目の拉致監禁したのはその為でしょう。)母は、エライ学者先生の書いた本を読んだ後、祝福のことをいとこ(母にとっては姪)に話しました。いとこも「エー」という反応で、そんなことする所にいるのか!?と軽蔑の視線を私に、送ってきました。3年後の2回目の4daysの時、同じ班に新生トレーニング参加中の人がいました。その人が夜、班長がいない時に祝福の話をしたら、他の班のメンバーは、「それは嫌だ!」「結婚は自分の選んだ人としたい。」という反応でした。私はと言うと・・・最初、ウエディングドレス姿とタキシード姿のカップルがズラーと並ぶ合同結婚式の写真を見た時は、確かに違和感あり、気持ち悪いと思いました。しかし、知らない人同士が教祖の指名でカップルになり、結婚することに違和感も気持ち悪さも感じませんでした。私の両親はお見合い結婚でした。ホントかどうかわかりませんが、母は近所の人との縁談話を断る為、父は行きたくない会社の旅行を断る為、お見合いしてそのまま結婚したと言います。昔は恋愛結婚は多くなかったです。親族も殆どお見合い結婚でした。だから、愛だ、恋だと言って結婚するのは、小説や映画や舞台の中と芸能人と一部の一般人と思っていました。世間のお見合い結婚と統一教会の教祖が指名した相手と結婚する祝福は同じようなものではないか、と単純に思ってました。結婚自体に希望をもてなかったことも祝福に違和感を感じなかった理由の一つでした。私は、中学時代、男子に嫌われてました。そんな私が男性から愛され、結婚に至るとは考えられませんでした。結婚しなくてもいいと思ってました。ただ子どもは欲しかったので、その前段階の結婚はした方がいいのだろうな、と思ってました。だから、こんな私でももらってくれるなら誰でもいいという意識がおぼろげながらありました。最初に統一教会に関わった1984年~1985年は10代で、2回目に関わりはじめた1987年は20代初めでしたので、結婚を意識することはなかったし、(恋愛禁止の統一教会にいたら、尚更そういう意識はどこかに飛んでしまいます。)祝福自体が長く行われていませんでしたので、雲の上の話しでした。1988年に6500双が行われ、身近な献身者は殆ど祝福を受けました。しかし献身してない私には、やはり雲の上の出来事としか思えませんでした。祝福を身近なもの、自分も受けることになるだろうと考え始めたのは、献身者でない青年信者も普通に受けられるようになった3万双の頃からです。3万双は当初1991年に行われる予定でした。結果的に1年延期して1992年になりましたが・・・。1991年初めより、青年部のメンバーにも祝福を意識した話しがアベルより出てき、祝福講座や準備が始まりました。3万双の時には20代後半で、信仰歴も3年以上あったのですが、基準の上がり下がりあり、自分には祝福を受ける資格がないと思っていたこと、家庭もつということがイメージできなかったのため、希望はしませんでした。I青年部のメンバーで3万双を受けた人は少なかったです。(私が所属していた支部・特に青年部が祝福に実は積極的でなかったことを脱会後に知りました。)36万双の私の年齢は20代ギリギリでした。日日でも30歳になったらすぐに家庭を持てるから、丁度いいかな~という邪な思いもあり、希望を出しました。祝福のための面接でなく、定期的な面接でも祝福に対する思い等が聞かれます。小隊長との面接の時、「祝福にどんな希望がある?」と聞かれたので、「祝福に希望なんてありません。」とはっきり答えてビックリされました。その後に・・・「希望といえば、血統転換です。」と追加しましたけど・・・。私には身近に色々相談できる人、土佐さん(仮名)がいました。土佐さんは、昔献身していましたが、体が弱いので献身者から勤労青年になり、I青年部コスモの班長をしていました。土佐さんは、3万双で日日祝福を受けていました。その土佐さんから、主体者の悪口を日々聞かされてました。悪口を散々聞かされたお蔭で、祝福講座等で言われていた祝福でマッチングされるカップルは「鍵と鍵穴の関係」「最も合わない者同士」はホントなんだと思い、祝福相手に希望を持つのはやめようと思ってました。それでも、私の認識は甘かったです。統一教会の男性信者は殆どいい人で、スッキリしていました。だから、多少癖があって闘っても大丈夫と楽観的に考えていました。面接の時、口では「海外祝福でもいい。」と言っていたけど・・・本音は日本人がいいと思ってました。韓国の農村のにわか信者と当たらなければいいなと密かに思ってました。(36万双で祝福を受けたI青年部女性は殆どが韓国の農村のにわか信者でした。)祝福による血統転換はバカみたいに信じてました。専門学校時代の先生が、「自分が産める最高の子どもを産むようにしなければいけない。」と授業で言いました。だから、煙草は吸わないようにと続き、勿論祝福とは全く関係もない話しですが、私はこの授業の言葉が頭に残り、自分が産める最高の原罪のない子どもを産むために祝福を受けようと思っていました。勿論、祝福子女が優秀というわけではなく、普通の子と同じ(むしろ愛情に敏感なだけ、愛情不足だと普通の子以上にぐれると言われてました。)というのはわかってました。でも、文ちゃん夫妻や神様に対する思い・信仰姿勢は2世は違うと聞いていたので、根っこが違う子どもを授かれることが希望でした。だから、祝福子女でも統一教会員にならない人が多いと2回目の拉致監禁前に聞いた時は、少なからずショックを受けました。チャーチマザーによる祝福のための面接を受け、写真を撮り、告白文を書き、成約断食をしました。36万双祝福前、私は3人の霊の子がいました。3人のうち2人、下山さん(仮名)と瀬川さん(仮名)は祝福を希望してました。下山さんは同時期に、瀬川さんは私より早く成約断食をしました。下山さんは実践はしていませんでしたが、定期的に青年部に通い、活動してました。瀬川さんは少しずつ自主的に街頭伝道してました。もう一人の大成さん(仮名)は実践トレーニングに所属していました。ただつながっているだけでなく、しっかり活動している霊の子が3人いて、信仰歴7年、祝福渡航費を支払い、祝福献金も順調に支払っていたので、推薦はされるだろうと思ってました。36万双は1995年8月下旬に行われました。その前月の7月(多分・・・うろ覚え)、青年部メンバーの一部の祝福相手が決まった人にお知らせが来ました。決まった人は、皆嬉しそうに喜んでました。私も次の時は来るだろう・・・と思ってました。・・・しかし、次の発表はなかなかなかったです。ギリギリに来るのかな、と思っていた矢先・・・・私は2回目の拉致監禁されてしまいました。これで祝福は受けられないと思いつつ・・・でも、相手は決まっていたのだろう・・・その相手はどんな人だったのだろう・・・と原理の間違いがわかった後でも気になっていました。しかし、結局、私は祝福に推薦すらされてなかったのです。一時的に統一教会ホームに逃げた時にマザーに聞きました。「私の祝福相手は決まっていたのですか?」マザーは首を横に振りました。「家庭問題が激しい人は推薦されなかったのよ・・・。」私と同年齢で祝福を強く希望していたコスモ所属の木村さん(仮名)も祝福に推薦すらされてなかったと・・・私が監禁中に私のアパートに手紙が届いてました。「家庭問題が激しい・・・」云々は言い訳で、I青年部コスモは班長か30歳以上の女性しか推薦すらされてなかったのです。・・・猫も杓子も祝福の36万双でしたので、反対派や元信者達に話しても信じられないという反応でした。一度統一教会に逃げて信用を失っていた私は、説得者に祝福に推薦すらされてなかったと言っても、信じてもらえず、祝福相手と海外に行くのではないかと妄想されてました。祝福なんて受けなくてよかったから、推薦されてなくてよかったけど・・・・・・献身も断られた過去があるから・・・気持ちは複雑です。無理やり献身させられた人とか祝福で苦労した人からは、「よかったじゃない」と言われるけど・・・元信者から、無理やり献身させられ、祝福も強く勧められたという話しをちらほらと聞きますが、望まれ、期待され、優秀だったと暗に示されているように感じてしまいます。どうせ希望してもはじかれた私は、元信者や反対派から、統一教会にすら相手にされない劣っているどうしようもない人間なんだと思われているのでしょう。<追記>・土佐さんは、1995年はじめに家庭を持ち、1996年に第1子を授かり、以後4人の子持ちとなりました。私は、信者時代に一度、脱会後に数回遊びに行きました。(だから、第1子には会ったことあります。)あんなに日々悪口を言うほど主体者と闘っていたのに、それなりの家庭を築いていましたので、言うほど悪く思ってなかったのかなと思っていたのですが・・・・後に土佐さんのお母さんから聞いた話しによると、土佐さんは自分の日記に主体者と闘っていることを延々に綴り、主体者に対し、「できれば離れて欲しい」とまで書いていたようです。(土佐さんのお母さんは土佐さんの日記を見てしまったと言ってました。)・7月に祝福相手が決まった人は、講話があり、その講話で、男同士マッチングされたカップルの話しが出たそうです。黒人だと男か女かわからず、間違えてマッチングしたという話しでした。でも、7代前まで見える文ちゃんが・・・・男か女かわからないって・・・???この話しを聞いて、私は1回目の監禁中にさんざん聞かされた文ちゃんはメシヤじゃないというのが真実では、と一瞬頭をよぎりました。しかし、その思いはすぐに打ち消してしまいました。男同士マッチング話しを聞いた人は、「もしかして教会におかまがいるの?」と思ったらしく、ギクっとしたそうです。何故、そんな話しを講話でしたかというと、例えあり得ないマッチングでも感謝するようにという意図があったらしいです。

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  • 03 Oct
    • 最後の霊の子ー大成さん(仮名)②ななくさ脱会後

      2回目の拉致監禁については、後日記事で書きますが・・・ここでも、さらっと書きます。1995年8月18日、私は2度目の拉致監禁されました。その前の日曜日に、私は一人の人を即動(街頭から直接ビデオセンターに連れて行くこと)しましたが、コース決定には至りませんでした。2度目の監禁説得者は、みっちりがっちり原理の矛盾・間違いを統一教会の出版物や資料を元にこれでもかーと提示する方々でした。統一教会の書物・資料は普通の一般信者の足元にも及ばない位そろってました。説得も、有無を言わさぬ勢いで理論的で、説得者が作成した資料も完璧で・・・・・そんな方々に一ペーペー青年部信者が対抗できるわけなく、見事に短期で落ちました。しかし、統一依存症に陥っていた私は、頭では原理は間違いで文ちゃんはメシヤでなく、統一教会はトンデモない団体だということがわかっても、心は離れることはできませんでした。今年のGWに実家に行った時、昔の写真やら日記やらが出てきました。それを自宅に持ち帰り、ずっと開けずに封印していたのですが、ブログの前記事を書く関係上あけました。拉致監禁中に書いた日記も出てきました。「やめたくない やめたくない」と何度も書かれていて・・・複雑な思いになりました。頭でわかった時点で「ハッ!」とし、おそらく、目が変わったと思います。へっぽこ宮村氏と違い、熟練説得者はそこは見逃しません。しかし、それが仇になりました。私は大成さんと同じで、あまり自分の気持ちや感情を表現する方ではありません。(文才はありませんが・・・)だから、説得者はななくさは心情的なもので縛られてないと思っていたようで、早期に監禁から解放してくれました。監禁から解放されても、すぐに自由な行動がとれないのは、1度目と同じです。そして、私も脱会するつもりでいましたので、逃げるつもりもなかったのです。しかし、解放から半月経った頃、一人になる時間ができ、またもホームに逃げ帰ってしまったのです。(ここから本脱会までが地獄でした。)その一時ホームに逃げ帰った時、(この時はホームに寝泊まりできませんでしたけど)大成さんが私に宛てた手紙を渡されました。その手紙の内容は、「ななくささんが即動した日から、ずっと会えていませんが・・・」で始まり、大成さんがコース決定したゲストが2daysに参加したけど、喜んでなかったこと、2daysの後は繋がらず、来なくなったことが書かれてました。ずっと姿をみない私の身も案じていました。2度目の監禁場所はかなり遠方でした。監禁場所からホームに戻るのは、1日がかりでした。途中、何度かマザーに電話連絡しました。その電話で、マザーが私に「大成さんが、今度、青年部に来るのよ。」と言われました。私は、大成さんは9月から青年部に来ると思っていたので、既に青年部所属だと思ってましたので、まだ実トレにいたことに驚きました。「ななくささんのことをどう話そうかと思って・・・」と言ってましたが、私には「こう話してください」と言えません。原理を真理だと思っていた監禁前なら、大成さんが青年部に来て、一緒に歩めることはとても嬉しいことでした。しかし、教会に戻ろうとしていたとはいえ、原理の間違いがわかっていたその時は、大成さんが青年部に来ることは複雑でした。教会に戻ったとしても、前と同じような気持ちでいられない私には、大成さんと会うことはできないと思いました。結局、マザーは大成さんに私が監禁されていたこと、私が監禁場所から逃げてきたことを話しました。大成さんは「実トレでも噂になっていたので、薄々わかってました。」と答えたようです。この時期、実トレの後藤隊長も監禁されていので、暫く見かけない私が監禁されたのではないかと思ったのではないかと思います。一時的に監禁から逃げた時は、大成さんに会うことも大成さんと電話で話すこともありませんでした。2度目の監禁の時、母は精神的におかしくなってましたが、私が原理の間違いをわかったことで元気になりました。しかし、私が逃げてしまってから、再度おかしくなりました。おかしくなった母を置いて教会に居続けることは、当時の原理に不信感をもっていた私にはできませんでしたので、私は再び監禁場所に戻りました。その時、マザーに大成さんからの手紙を返しました。どんなに統一教会の兄弟姉妹大好きで、友人関係を絶ちたくなくても、間違いだらけで反社会的団体の統一教会に戻ることはできません。私は真性脱会をしました。私を説得した方々は、霊の子(自分が伝道した人)は、間違った団体に誘ってしまった責任として、間違いだということを伝え、脱会させることは人として当然のことと言いました。兄弟姉妹が大好きだっただけ、あんなトンデモ団体にまだ居続ける人達が忍びなく、今度は逆の使命感に燃えました。でも、拉致監禁説得は抵抗がありました。ただ、自分は拉致監禁説得でないと間違いがわからなかっただろうから、この方法も致し方ないな、と思ってました。大成さんにも、連絡取り、ビジネスホテルで会いました。大成さんは、青年部コスモ所属だったため、当時は入教していませんでした。何の警戒心もなく、大成さんは私に会いに来ました。(大成さんが真面目な信者でアベルに報告していたら、会えなかったでしょう。)ビジネスホテルで自分なりに勉強してまとめたもの、説得者の資料のコピーを見せながら、必死に説得しました。大成さんは、私の説得を聞いて「真理とは思えないね。」と言いました。その後、大成さんがコスモのホームには行った時・・・私の話しが出たそうです。コスモのメンバーにも脱会して欲しかった私は、仲が良かった人2人位に(あいさつ程度の)電話してました。私の電話を受けた人が班長に私から電話があったことを話している時、大成さんもいて、「大成さんにも電話あった?」と聞かれたそうです。大成さんは電話がなかったと言ったと言いました。その後、数回会って、原理の間違い・統一教会のハチャメチャさ、文ちゃんがメシヤでないことを話しました。数回会っている途中、大成さんは手紙をくれました。「青年部に行っても、復活できず、伝道もさぼりがちだった・・・と。」私の実家にも来て、一緒にご飯を食べたこともありました。大成さんは一度は脱会を決意して、脱会届を送りました。その後、私の離れた霊の親が通っていたキリスト教会(そこの牧師も監禁説得をしていました。)にも一度だけ一緒に行きました。離れた霊の親にも会い、3人で食事をしました。それから・・・大成さんは何だか様子がおかしくなりました。私と会う時も妹さんを必ず連れてきました。妹さんは大成さんが統一教会に関わっていたこと、私が統一教会員だったことを知りませんから、差しさわりのない話ししかできません。結局、なんだか様子がおかしいなと思っても、気持ちを聞くことができませんでした。手紙を送っても、大成さんにしては珍しく返事がありませんでした。・・・・そんなこんなの中、大成さんより電話があり、「ななくささん、お母さんと一緒に私のアパートに来なかった?」と言われました。近所の人に、私と母らしき人を見かけたと言われたようです。私は行ったことを認めました。大成さんに会うために電話をする前に、どんな所に住んでいるかみるため・・・という言い訳にならない言い訳をした記憶があります。そこから大成さんは私に対する不信感をあらわにしました。大成さんに、説得者の資料をコピーしたものを貸してました。(コピーは私のお金でしました。)それを説得者から返すよう言われました。説得者曰く、「最初から、霊の子の説得が一段落したら返す約束だったでしょ。」と・・・しかし、そんな約束した覚えはありません。一緒にいた家族もそんな約束してないと言ってくれましたが、そんなことを聞く説得者ではありません。同時期脱会したお気に入りの元信者を使い、私に返すよう圧力をかけてきたので、大成さんにすぐ返して欲しいと言いました。大成さんは「なくした」と言いました。何とか探して返して欲しいと言うと・・・「もう、見つからないからしょうがない。」と大成さんにしてはそっけない言葉を返ってきました。そして、マザーに私と会ったこと、私と話したことで脱会しようと思っていることを話したことを明かしてくれました。マザーは「ななくささんと大成さんは関係ないでしょう。大成さんはどうするか、大成さんが決めることでしょう。」と言ったといいます。そして、その後・・・「ななくささんとは友人関係も無理です。」と手紙に書いてきて、それっきり会ってません。それから暫くして、突然大成さんから電話がありました。借りた資料を返したいと・・・そして、また私の実家に遊びにきてよいか?と・・・私は資料を返してくれることにお礼を言い、いつでも遊びにおいで、いつでも電話してきてね、と言いました。しかし、大成さんが遊びにくることなく、それ以後は音信不通です。(資料は郵送で送られてきました。)今もどうしているかわかりません。脱会はしたと思いますが・・・。見かけはともかく、私と大成さんはやはり似てました。こんなこと書くと、もし大成さんが読んでいたら怒られそうですが、もし私に娘がいたら、大成さんのような娘だったのだろうな~と想像してしまします。現在は、40歳を過ぎた大成さん・・・元気でいるでしょうか?あの時は、私の気持ち、状況で振り回してしまい、ごめんなさい。

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  • 29 Sep
    • 最後の霊の子ー大成さん(仮名)①ななくさが信者時代

      大成さんと出会ったのは、1994年11月半ばの日曜日でした。この前日、超落ちこんでいました。(何故、そんなに落ち込んでいたのか忘れました。)街頭伝道には出ても、他のメンバーと話すこともできないくらい落ちこんでいました。そんな状態でしたので、早めにあがりました。翌日日曜日の街頭伝道の時には、気持ちは切り替えられてました。(何故、切り替えられたのかも忘れました。)この日のペアは同じ年の木村さん(仮名)でした。木村さんは、K青年部出身で、調整日に皆でカラオケに行った時のメンバーの一人でした。K青年部とI青年部が合併した時は、私はコスモ所属で、木村さんもずっとコスモでした。K青年部でもI青年部でも個人的に仲良くしてました。木村さんは、どちらかというと、カイン的で(不平不満発言等をする)、ヘアスタイルもロングでひとつにしばってましたので、他の青年部の姉妹から「非原理(一般社会)っぽい。」と陰口を言われたりしてました。(陰口を言っていたのは、マザーの霊の子とヤコブの姉妹・・・教会の人間関係もけっこうえげつない一面があったのです。)仲良しの木村さんとペアだったので、気楽に街頭伝道を開始しました。開始して間もなく、6歳年下のOLの女性大成さんが止まってくれ、スンナリビデオセンターについてきてくれ、迷わずビデオセンターで勉強することを決めてくれました。大成さんは、私達に出会う前、エステの勧誘にも遭ってました。何とそこも申し込んでいて、 お金がなかったので、 コース決定時の支払うお金は後日となりました。大丈夫かな?と不安になりましたが、大成さんは約束はきちんと守る人で、最初にビデオセンターに来た日にお金を持ってき、4回の来場にも最初に決めた通り来ました。大成さんのビデオセンターの担当カウンセラーは鍋島さん(仮名)でした。鍋島さんは、以前はコスモの小隊長をしていましたので、私とは気心が知れてます。鍋島さんは元々面白い性格で、人の情を解放することがうまい方でした。おとなしい大成さんも鍋島さんと話すのは楽しかったようです。2daysの班長も鍋島さんでした。人と接するのがあまり得意でない大成さんは、2daysの参加目標を「班の人と仲良くする。」と書きました。(大成さんらしいと、今でも思い出すと自然と笑みがこぼれます。)それを読んだ鍋島さんは、「私も班の人だから仲良くしてね。」と言い、私と大成さんを笑わせてくれました。大成さんは、おとなしいながら、意外と面白い一面もありました。2daysの帰りの電車に迎えのため、青年部の高木さん(仮名)が乗りました。(修練会場まで迎えに行って、帰りの電車に一緒乗る紹介者が必ずいました。修練会場まで迎えに行く人は、修練会場のスタッフから連絡があります。どちらかというと、修練会に相対していない人の紹介者が迎えに行くよう言われてました。)高木さんのゲストは、他の修練生と話さず、一人席を立って車窓を眺めるようなタイプでした。席を立って車窓を眺めるゲストの側に行こうとする高木さんに、大成さんは「○○さんは、私達と離れて外を見ているのが多かったですよ。」と言ってくれたそうです。高木さんからその話しを聞き、大成さんにそういう一面があったことを知り、微笑ましくなり、高木さんと(いい意味で)笑いました。大成さんは、2days参加後も、順調に中級トレに通いました。統一教会とメシヤが文ちゃんと明かされる講義も、特にビックリしている様子はなく、ひょうひょうとしていました。ドキッとしたのは4days参加後のウエルカムの時でした。修練生を迎える前、私達霊の親はそれぞれの修練生の様子を教育部長から聞きます。教育部長より、大成さんは新生トレーニング参加を決めていると聞いたため、安心していました。ウエルカムで、霊の親子で一緒に向かい合い夕食を食べながら、4daysyの感想、今後どうするかを話します。大成さんは、4daysはよかったとは言いましたが、原理はあまりわかってないようだし、統一教会の活動についてもそれほど決意したようには感じませんでした。新生トレーニング参加も渋っているように見えました。そして、今までの大成さんの顔でない怖い顔できつい口調でこう言いました。「ななくささん、(最初に紹介した時に)宗教じゃないと言ったじゃない!」その言葉になんて返したか忘れました。多分、しどろもどろの言い訳だったと思います。霊の親は、霊の子(修練生)との会話の状況を、途中何度か教育部長に報告しにいかなければなりません。私は、大成さんがまだわかってないみたいだ・・・ということと、新生トレーニング参加を渋っていることと、「宗教じゃないと言ったじゃない」と言われたことを報告しました。(1度だったか何回かに分けたのかは忘れました。)報告後、教育部長よりお叱りの言葉をいただきました。(統一教会用語では、「分別された」とよく言ってました。)「何で、大成さんを自分が伝道したのかわかってないのか!大成さんは、自分からここが凄くて、こういう決意をしていると言うタイプではない。」教育部長の言葉を聞いて、私は・・・ーわかってなかったのは、私で、大成さんは原理も統一教会のことについてもわかっていて、決意もしてるのか・・・ただそれを表現しないだけなのか・・・・と・・・・霊の親だったらそのくらい察しないとだめだったのかーと思いました。新生トレーニング参加を渋っていたように見えた大成さんだったのですが、何故か教育部長に私がお叱りを受けた後、大成さんの所に戻ったら、大成さんは「新生トレーニングに行きます。」と言いました。新生トレーニング始まる前の来場日もすんなり決めました。大成さんを駅まで送って行く前に、教育部長に挨拶した時、「ななくささんと大成さんは似ているから、ななくささんが大成さんを伝道したのだよ。帰り道、周囲を気を付けて帰るように。」と言われました。青年部で他支部から来た私は、教育部長から直接講義を受けたことはないし、多く話したこともありません。それなのに、私のことをわかっていて、大成さんのことも私以上にわかっていることが嬉しかった記憶があります。大成さんは、新生トレーニング、実践トレーニングと順調に進みました。新生トレーニングは通教でしたが、実践トレーニングは入教しました。ちなみに大成さんの時の実践トレーニングの隊長はあの後藤さんでした。後藤さんと私は、私が1回目の監禁からホームに戻った日の翌日に電話で話したのですが、(後藤さんの相対者が谷村教会にいたので、その相対者の状況を聞くため。)会ったことはありませんでした。それなのに、後藤さんは大成さんと私を「似てる」と言ったそうです。後藤さんも、けっこういい加減だなぁ~統一教会内で霊の親子は似ているとよく言われてました。私と霊の親の鈴木さんも、似てるとよく言われました。大成さんと私も、周囲から似てるとよく言われました。「大成さんとななくささんが一緒に暮らしたら、大家さんは姉妹だと思うよね。」とまで言われました。当時の実践トレーニングと私達青年部コスモは日曜日の街頭伝道場所が同じでした。街頭伝道している霊の子・大成さんの姿を見れたことは嬉しかったです。もしかして、この時が統一教会入って、一番喜びを感じていた時かもしれません。大成さんは、いつの間にか髪を切りました。殆どパンツスタイルの大成さんでしたが、スカートをはくようになりました。表情も明るくなり、よく話すようになりました。新生トレーニングの頃から大成さんは、私によく手紙をくれるようになりました。手紙は、自分の感じていることがしっかりと表現され、なかなかの文才でした。街頭伝道中に嬉しい知らせもありました。「ななくささん、私、コース決定したのですよ。」大成さんがコース決定した人は、19歳の女性で街頭で出会い、約束してビデオセンターに連れて行ってコース決定したそうです。「おめでとう、よかったね。」と言うと、大成さんは嬉しそうでした。この時の大成さんの輝いた顔は今でも忘れません。大成さんは、献身するタイプではないので、いつか青年部に来るだろうな~と思ってました。当時は、実践トレーニングから青年部に来た人は殆どコスモから出発していたので、大成さんがコスモに来て一緒に活動する日が来ることを楽しみにしていました。しかし・・・青年部コスモで一緒に活動することはありませんでした。私が2度目の拉致監禁されたからです。

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  • 26 Sep
    • 天宙的イベント2017.9.23

      皆さん、ご存じだと思いますが、サンクチュアリがやってくれました。天宙お笑いイベント・・・死んでしまった文ちゃんとかつて死んでしまった方と祝福を受けた姜ちゃんとの祝福結婚・・・・https://www.youtube.com/watch?v=dESbQ2U3Ibc&feature=youtu.beえっとえっとえっと~歴史的な事が起こると、アメリカツアーまで企画して、サンクチュアリ信者を呼び寄せたのは、この奇想天外、頭がおかしいとしか感じない物笑い結婚式を見せるためですか?http://sanctuaryseinen.blog.jp/archives/24784570.html高い旅費を使ってアメリカまでわざわざ行ってしまったサンクチュアリ教会員の皆さん・・・ホントにホントにお疲れ様です。心から労いの言葉を申します。このイベントの事実を知った時は、ただただ笑いしか起こらず、こんなおもろいことを自分の周囲の人と一緒に笑うことができないのは、残念だな~と思っていたのですが・・・笑ってる場合ではない・・・国進と亨進の心の闇がみえ、空恐ろし~く寒気すら感じてます。国進と亨進は生きている自分の母鶴子ちゃんを心の中でなきものとして、新しいお母さんをつくってしまったのです。国進と亨進は鶴子ちゃんを恨んでも恨んでもまだ飽き足らないくらい恨んでいることを表してしまったのです。https://www.youtube.com/watch?v=3oueuyM66XEhttps://www.youtube.com/watch?v=weLA22wlSq4恨んで恨んで「自分には母がいない」と思い、母を捨てる人はいるでしょう。しかし、母が生きているうちに、なき父と女性の結婚式をあげ、母をつくってしまうのは、世界広しと言えども、国進と亨進だけでしょう。摂理的(?)に真の母が必要という表向き屁理屈はあるかもしれませんが、そんなものはただの表向き言い訳で・・・国進と亨進は、母が欲しくて欲しくてたまらなかったのでしょう。生きているのに、息子になき者にされて別の人が母として慕われている姿を見せられるのは、母としては何よりも辛いでしょうが・・鶴子ちゃんがそういう感情を感じているかどうか疑問です。どちらにしろ、鶴子ちゃんは自分の子ども達にそうされるようなことをしてきたのだから、同情はできませんけど・・・・。ホントにこの団体、終わりましたね。さよなら - オフコース - YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=xq95tN57bvQ最後は、人に迷惑をかけずに静かに人知れず幕引きをすることを願うのみです。銃乱射したり、ナイフ振り回したりして、無関係の人の命を奪うことだけはやめてくださいね。

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  • 23 Sep
    • 逃亡中の年末年始

      拉致監禁から統一教会に逃亡した時は、暑~い夏でしたが、季節は廻り、秋~冬、そして年末・・・新しい年1995年を迎えました。1995年1月1日、この年の上半期に大災害と大事件(※)が起こるなんて誰が予想したでしょう。(※)1月17日:阪神で大震災   3月20日:地下鉄サリン事件拉致監禁から逃亡して3か月後の11月より、統一教会のホームではなく、アパートを借りて生活していました。必要な物は、バザーで買ったり、コスモ(青年部の一部所)の姉妹(女性教会員)からもらってましたので、生活には不自由していませんでした。霊の子の瀬川さん(仮名)からは、コタツをいただきました。(本当にありがたかったです。)仕事も開始していました。社会人になってから、夜勤あり、不定期休日、年末年始も一部出勤の仕事をしていたのですが、初めて、夜勤なし土日休み、年末年始完全休みの職に就きました。年末年始の青年部のスケジュールは(うろ覚えですが)29日か30日まで、年始は4日くらいから活動してました。12月31日~1月3日は帰省する人は帰省し、帰省しない人は調整日として過ごしてました。逃亡中の私は、帰省するわけにはいかないし、年末の日本家庭行事の大掃除も4畳半のアパートで物も殆どないわけだから、大掃除することもなく終わってしまうし・・・仕事も休みだし・・・ですることがないので、コスモのホームに向かいました。年末は青年部のスタッフ(献身者)は珍味売りに出ていました。私も珍味売りに出たかったです。他の青年部のメンバーも珍味売りに出たい人がいたかもしれません。しかし、献身者の基準で行う珍味売りに青年部のメンバーが混じるのはよろしくなかったのでしょう。帰省せず、ホームに来る青年部のメンバーのために、ダラダラと映画上映会など行っていました。ダラダラ映画上映会に、けっこうな人数の青年部メンバーが来たので、皆けっこう帰省しないものなのだな~と思いました。31日、映画会が終わった後、中島さん(仮名)、長野さん(仮名)、古賀さん(仮名)が私の住んでるアパートにやってきました。4人で4畳半のアパートにやってきて、夜遅くまでトランプをしました。4畳半に無理無理4人寝たのか・・・それとも長野さん、古賀さんは帰って中島さんだけが泊まったのかは忘れました。翌朝は、1月1日。5時にホームでの三拝敬礼式に参加し、一旦アパートに戻り、中島さんと渋谷の松濤本部教会の礼拝に参加しました。松濤本部の礼拝は、青年部で1回は参加したことがありました。その時も人が多くて礼拝堂に入りきれなかったのですが、1月1日もかなりの人が集まってました。時は、1995年・・・1992年の3万双の合同結婚式でかなりマスコミに叩かれ、1993年には山崎浩子さんが脱会記者会見を行い、世間にはすっかりカルトで忌み嫌われる団体となってました。そういう団体の礼拝に、あんなにも多くの人が1月1日の礼拝にやってきていたのは、今考えると不思議です。礼拝には、中島さんの霊の子の茂木さん(仮名)も来ていました。茂木さんは、実践課の班長をしていました。私が実践課にいた時、私の所属していた班の班長だったこともあります。中島さんと茂木さんは2人で松濤本部教会で仲良く写真を撮りました。(カメラマンは私)この写真がおそらく・・・中島さん、茂木さん2人で写った最後の写真でしょう。そして、中島さん、茂木さん2人で同じ空間を共にして語ったのも最後だったでしょう。茂木さんは、その後間もなく拉致監禁され、脱会しました。茂木さんとは、今でも細々と付き合いがあります。昨年夏は一緒にスカイツリーに行きました。その時に中島さんの話しが出ました。私が、「中島さん、どうしているかな?家庭もって子どもができていたら、子どもも大きくなっているだろうし・・・献金で苦労してなければいいけどね。」と言ったら・・・茂木さんの「えっ?」という反応・・・「中島さん、祝福受けたの?」「36万双で日本人と祝福受けたよ。私がまだ教会にいる時に、相手が決まっていたよ。もしかして、連絡なかった?」「なかったよ。・・・・」脱会したとはいえ、霊の子に祝福を受けたことを知らせないのだろうか?茂木さんの話しでは、茂木さんは脱会した時、その後も何通か手紙を送っているが全く返事がないとのこと・・・・寂しいですね。・・・・中島さん、そんな情に薄い人ではなかったのですが・・・1995年1月1日、松濤本部教を出た後、中島さんと私は一緒に昼食を摂り、その後私のアパートに戻り、暫くダラダラ過ごしました。たわいのない話ししかしませんでしたけど、楽しかったです。家族から逃亡中のこの年末年始・・・私は教会に行き、教会の姉妹と楽しく過ごし、家族がどのような気持ちでお正月を迎えているのか考えることもありませんでした。この時、(この後でも)家族の気持ちを少しでも考えていたら・・・・考えるだけでは何も変わらないでしょうが・・・・

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  • 10 Sep
    • 修練会の食当ー家庭修

      未献身、未祝福の私は、家庭修があるなんて知らない無知な信者でした。そんな私に、2daysの食当の1か月後(多分・・・かなりうろ覚え)に家庭修の食当に行くよう言われました。家庭修は、統一教会で合同結婚式を受けて、これから家庭を持とうとする前の修練会です。(内容は不明です。修練生とも殆ど顔を合わせませんでした。一人か二人位はすれ違った程度で合わせた位です。)2daysの食当より少し長い位・・・という認識しかなかった私は、前回の2daysの食当も楽しかったし、今回も何とかなると思い、電車で2時間(位かかったと思います。これもうろ覚えです。)の統一教会の中では代表的と言える修練所に向かいました。これがとても甘~い思いであったことは、翌日には思い知らされました。少し早めに着いた私は、最初の食事の準備が始まるまで、食当の人が寝る部屋に荷物を置き、少しゆったりしていました。このゆったりがこの食当期間中の最初で最後のゆったりでした。最初の食事の準備が始まる前に、チーフに挨拶し、メンバーと自己紹介をし合いました。チーフは、食当の大大ベテラン!家庭修のチーフも何度もやっている方だったと思います。統一教会の食当をきっかけに調理士の資格をとったということです。祝福家庭でしたが、お子さんは授からなかったということでした。食当メンバーは、全てずっと一緒ではなかったです。途中で抜けたり、途中で加わった人もいました。途中で加わった人で、40代女性で未祝福(当然未婚)の人がいました。40代に見えない可愛らしい人でした。最初からいるメンバー(私も含む)が、疲れ切っていた頃にやってきて、面白いことを言って場を和ませてくれました。家庭修の食事は、通常のホームや2days、4daysの食事と違い、お祝いの場なので凝った料理で美しさが要求されます。野菜の切り方もきちんと大きさを揃えて・・・みじん切りはなるべく小さく・・・千切りもなるべく細く・・・面取りして・・・うっかり焦がしたりしたら大変・・・数あるメニューの中でこの3品を作ったのは、記憶にあります。元々ずぼらで不器用な私です。今でも、形を整える料理は苦手な私です。最初は意気揚々明るく食当を開始した私ですが、だんだんだんだん自信喪失、無口になっていきました。己のダメさ加減を思い知らされました。ただ黙々と、失敗しないように、なるべくチーフの意に沿うように、朝早くから夜遅くまで台所に立ってました。座る時間は殆どなく、足はパンパンに浮腫みました。それでも一緒に食当をしているのは、同じ信仰をもった食口達・・・ゆっくり会話を交わすことはありませんでしたが、心は通じてました。監禁中やリハビリでの谷村教会にいる時に比べたら、同じ思いで心が通じ合っている姉妹達と一緒にいられるのは嬉しいし、大きな幸せでした。家庭修の食当中、意外な再会がありました。K青年部で一緒に活動していた千葉さん(仮名)という男性が同じ修練所で行われていた3daysの食当としてやってきたのです。千葉さんはいつの間にか献身して、人事異動していたのです。家庭修と3days(おそらく、私達支部では2daysyに相当する修練会)が同じ時期に同じ修練所で行われていたのは凄い話しです。うっかり、3daysの修練生が家庭修の講義室の前を通りかかり、話しを聴いたり、文ちゃんの写真を目にしたら、大変です。講義室や修練生の部屋は見たわけではありませんが、かなり広い修練所でしたので、その辺はうまくやっていたのでしょう。家庭修と3daysでは、メニューは違いますが、かぶるものもありましたので、お互い協力してました。3days食当の方々に手伝ってもらえて助かりました。知り合いの千葉さんが3daysの食当として、同じ場にいたことで私の心は和みました。やはり、一緒に活動した人と会うのは嬉しいものです。千葉さんに、「何で献身しないんだ!?」と言われたりしましたが・・・千葉さんは、K青年部では班長とかしてましたけど、どちらかといえばヌボーとしていて変わり者でした。その千葉さんは意外に器用で、キャベツの千切りを見事に行っていました。千葉さんの見事なキャベツの千切りを見て、チーフは私に「負けたね。」と言いました。そう、見事完敗でした。統一教会の修練会の食当ですので、当然始まる前と終わる前に祈祷会があります。代表祈祷を順番で行ってました。私の番も当然やってきます。私、この代表祈祷が大の苦手というか、嫌いでした。家庭修の食当の中では料理も劣等生な上に、祈祷もぱっとしなくて、ホント私って何でこんなに何やってもダメなんだろうと落ち込んでいました。3daysが先に終わり、そして、家庭修も終わりました。終わって、ホッとしました。他の皆もホッとし、開放感に包まれ、台所掃除の時や残った食材で面白お弁当を作った時は、はじけてました。(そういや、谷村教会でも面白串焼きを作ってはじけてました。食口って現役でも元でも同じ発想なのですね。)最後に、皆で集まり感想を言い合い、祈祷をして解散しました。この家庭修の食当・・・お金が出ました。まさかお金が出るとは思わなかったので驚きました。他の食当のメンバーは、お金が出ることを知っていた人もいたし、知らなかった人もいました。メンバーの中にはお金をもらった途端に、「救国献金の足しにしよう。」と言っていた人もいました。(皆、もらったお金は献金で消えたのでしょう。)帰りは、ホームの最寄り駅にI青年部コスモの女性小隊長が迎えに来てくれました。普通に何事もなく、ホームに戻るはずが・・・何と、母に出会ってしまいました。出会ってしまった時ビックリして、声も出ず、小隊長と共にすぐに母に背を向け逃げました。途中マンションに逃げ込み、見知らぬ人の家のインターホンを鳴らし、小隊長が「具合が悪くなったので、電話を貸してください。」と依頼しました。(当時は携帯電話がなかった時代です。)当然、そんな怪しい依頼は断られました。何とか、母から逃れ、コスモでなく、実践課のホームに辿り着き、その夜は実践課のホームに泊まりました。実践課のホームに泊まるのは初めてです。同じ青年部とはいえ、雰囲気はコスモとはかなり違います。翌日は三拝敬礼式の日でした。遅れてはいけないと緊張し・・・なんと、三拝敬礼式の5時よりかなり早い時間に三拝敬礼式の時間と勘違いし、支度をはじめました。起きていた献身者の人に「何やってるの?」と言われ、三拝敬礼式云々と言うと・・・「まだ〇時だよ。」と言われ、勘違いに気づき大笑いしました。午前中実践課のホームで過ごし、午後小隊長が迎えに来たので、コスモのホームに戻りました。母は、父と弟に止められたのですが、「どんな所か様子を見に行く。」と言い、ホーム近くに来たと言ってました。あの時、母のそんな気持ちが少しでもわかっていたら・・・何かが変わっていたのでしょうか・・・。

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  • 13 Aug
    • 修練会の食当ー2days

      統一教会のホームや修練会の食事はお金をかけていませんでしたが、美味しかったです。特別料理上手でなくても、食当(ホームや修練会の食事を作る担当)の責任分担に就けば、皆に美味しい食事を食べさせたいと思い、必死に手間暇かけて料理をするからです。1回目の拉致監禁から統一教会に戻った後、2回修練会の食当に行くよう言われました。初めての修練会の食当は、2daysでした。2回目は家庭修(祝福を受けて家庭を持つ前に参加する修練会)でした。献身したかったのにできなかった私は、修練会の食当の機会が与えられたのは嬉しかったです。関西から田中さんが来た翌日、私は2daysの修練会場に向かいました。T駅ホームで2daysのマザーの小村さん(仮名)と待ち合わせをしました。(小村さんは以前はI青年部コスモのマザーでした。)T駅までどうやって行ったかは忘れましたが、T駅までコスモのスタッフに送ってもらった記憶はないので、ホームの最寄駅まで送ってもらい、その後はドキドキしながら電車を乗り継いでT駅まで行ったと思います。T駅から2days会場の最寄駅までけっこう時間がかかります。平日の日中、それほど混む電車ではないので、ゆっくり座ってじっくり会話ができましたので、私は監禁されていたこと、監禁から戻ってきたばかりのことを話しました。それが面接(※)代わりになりました。※修練会スタッフに対し、修練会が始まる前に男性は講師が、女性はマザーが面接して心情等の確認をしてました。※修練会は講師、マザー、進行、聖歌指導、班長、食当というスタッフがいました。修練生は数人毎に班に分けられます。班長は担当の班の修練生をまとめる役です。講師と食当以外は、2つの役割を兼任することも多かったようです。(例:マザーと聖歌指導)修練会場に着いてから、掃除や他のスタッフとの顔合わせ、祈祷会等行いました。食当はチーフと私の二人でした。チーフは、私と同じ年の女性献身者でした。修練会の食当は何度も経験ある人でした。2daysは、土日で行われ、修練生は金曜日の夜に修練会場に来ます。修練生が来る前の金曜日の昼間に、チーフと私で2日間の修練生とスタッフの分の食事の買いだしに出ました。メニューはチーフが決めてました。信仰6年目(離れていた期間も含めると10年目)にして、はじめての修練会の食当です。この2daysにゲストを送った食口(統一教会信者)は、必死の思いで伝道し、この期間、修練会を通して神様、父母様につながっていけるよう必死に祈っているのです。スタッフも修練生一人一人が神様、父母様につながることを願い、祈り、必死で責任分担を果たすのです。食当は修練生の顔を直接見ることはありませんが、思いは他のスタッフと同じです。食事で修練生を躓かせてはいけない・・・私の不手際で皆の思いを台無しにしてはいけないと思うと緊張してきました。とはいえ、メインの料理や味付けはチーフがするので、私は補助的なことだけでした。修練会の朝は早いです。食当は、当然ながらそれより早く起き、朝食の準備をします。食事が終わったら後片付け、次の食事の準備とほぼ1日台所で過ごします。ただ、2daysは人数もそれ程多くなく、特別凝った料理を出すわけではなかったので、後に行く家庭修の食当よりかなり楽でむしろ楽しかったです。2daysのスタッフが集まっての朝、夜の祈祷会はやったとは思いますが、覚えていません。食当以外のスタッフは修練生についての会議もやっていたと思いますが・・・どこでどのようにやっていたかはわかりません。2days最終日の日曜日の午後、I青年部スタッフから「食当ご苦労様」の寄せ書きカードが届きました。献身してなかった私は、「食当ご苦労様」カードの伝統は知りませんでしたので、カードを見た時、スタッフの愛を感じ、とても感動しました。2daysの講義が終了した後、修練生の誕生会を行います。班ごとにケーキを用意します。ケーキは安いロールケーキにデコレーションしたものです。統一教会に一度でも関わったことがある人なら「あ~、あれか~。」とわかると思います。2days閉会式終盤で、食当紹介があります。ここで初めて修練生の前に顔を出します。修練生が帰る時見送ったら、一人の女性修練生より「食事美味しかったです。ありがとうございました。」と声をかけられジーンときました。(そういえば、自分が修練生だった時、食当の人に感謝の言葉述べたことなかったなぁ・・・)修練生を見送った後、修練会場の掃除、反省会、祈祷会をして解散となりました。支部は違えど、同じ方向の人達は一緒に電車に乗り、帰りました。修練会始まる前、最中は他のスタッフと話す暇なく、ただ顔合わせて挨拶くらいでしたが、帰りの電車ではリラックスして普通の信者女性同士の会話をしました。一人の女性班長は、私より3歳位若かったのですが・・・私を年下だと思っていたらしく・・・・・コスモのホームの最寄駅に着いたら、コスモのスタッフが迎えに来てくれました。他の青年部メンバーはまだ街頭伝道の最中でしたので、一緒にビデオセンターに行き、一緒に待機してました。何故か・・・ビデオセンターの裏でも私の年齢の話しになり、皆私の年齢を聞き驚いてました。・・・若くして献身して、マザーとかアベルの地位を与えられると自然と貫禄もつくから・・・・そういう人からしたら、幼く見えるのだろうけど・・・・・今だったら若く見えたら万々歳なのですが、残念ながら、年相応か上にしか見られないことが多くなりました。(ある年代を堺に一気に老けました。)

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  • 11 Aug
    • 関西からの訪問者ーあの人は、今?

      統一教会に戻り、1週間位経った頃でしょうか・・・。同年代の女性が関西からコスモのホームにやってきました。田中さん(仮名)は、I青年部ユニティ(実践をしない部署)で小隊長(献身者スタッフ)をしていた五木さん(仮名)の相対者(合同結婚式でマッチングされたカップルの女性)でした。はるばる関西から関東のホームに五木さんに会いにきました。田中さんは、関西の女性連合で活動していました。元は、私と同じ職業で勤労青年として統一教会活動していたようです。がむしゃらに一直線に頑張るタイプで、それで腰を悪くしてしまい、仕事と統一教会の活動から一線を引き、女性連合に所属していると聞きました。田中さんは、木曜日の日中にコスモのホームに来ました。平日の日中でしたが、平日休みが時々ある小熊さん(仮名・水澤里に一緒に行った人)がホームに来てました。小熊さんは、私と同じ職業でしたが、進学を目指していて平日休みの時はホームに勉強しに来ていました。統一教会員という共通項以外に、同じ職業の同年代の女性3人が集まったのです。すっかり話しに花が咲きました。そのうち田中さんは、私の名前からあることに気づきました。田中さん:「ななくささんって・・・・もしかして内河さん(仮名)知ってる?」ななくさ:「えっ、内河さん・・・って、N市の青年部にいた人?」田中さん:「そう・・・。内河さんと同じ女性連合にいるの。私がI青年部ホームに行くと言ったら、ななくささんと会えたらよろしくと言われたのよ。」内河さんと同じ部署で活動している田中さんと出会え、会話ができた偶然に驚きました。もし、私に拉致監禁という事態が起こらなかったら、私は木曜日の日中にコスモのホームにいなかったのです。そして、この日の夜もホームに来なかったかもしれないし、来たとしても早く帰らなければいけなかった私は、田中さんと会って話すことはなかったです。また、谷村教会から脱出せず、そのままいたら当然この出会いはなかったわけだし・・・それに、私は翌日から2daysの食当に行く予定でした。もし、田中さんが来るのが1日遅かったら、出会えなかったのです。田中さんは内河さんの知り合いのななくさと出会えたことに喜び、小熊さんもこの偶然の出会いに驚き、より話しに花が咲きました。小熊さんが、夜の青年部の集まりの前に一度家に戻った後、2人で近くの銭湯に行きました。夜の青年部の集まりが始まるまで、共通の知り合いの内河さんの話しや私が拉致監禁されてここにいることを話しました。夜の青年部の集まりの後、一緒に夕食を摂り、布団敷きを手伝ってくれました。(コスモのホームに過ごしてから、夜の布団敷きは私の役割になってました。)翌日、私は2daysの食当に出発したため、田中さんと一緒に朝食を摂った後別れました。田中さんは、関西に帰った後も私のことを気にかけてくれ、手紙を何通か送ってくれました。内河さんとはN青年部にいる時から親しく、一度、内河さんの関西の実家に一度遊びに行ったこともある程なので、ずっと文通はしていました。内河さんは、N青年部所属の時は、伝道活動はあまりしていませんでした。関西の実家に戻った時も信仰は持ちつつ、統一教会には繋がっていませんでした。それがどういうきっかけかわかりませんが、女性連合で活躍することになり、韓国にも行ったと手紙に書かれていた時は驚きました。内河さんが女性連合で活躍する前後から文通の頻度はかなり減ってましたが、田中さんと私が出会ったことをきっかけに、再度文通の回数は増えました。まだコスモのホームに篭もっていて、前線に出てなかった土曜日の夜(多分、田中さんと出会った1週間後)、コスモのホームの電話がやけにしつこくなりました。電話がなっても出ないようにしていたのですが、やけに気になる電話だったので、出てしまいました。何と、田中さんと内河さんからの電話でした。出ないだろうと思いつつ、でも出てくれるかも、出て欲しいと念を送りながら電話をくれたと言っていて、私が出たことにとても喜んでいました。それから約2年後、私は統一教会を脱会してましたが、ふと田中さんと内河さんを思い出し、田中さんと内河さんのいるホームに電話をしました。内河さんとのみ話しました。私が2度目の拉致監禁され、統一教会を脱会したことをまだ伝えていませんでしたが、何故か・・・私が脱会したことを知っている口ぶりでした。(おそらく、五木さんから田中さんに話しがいったのでしょう。)何を話したか忘れましたが、何とな~くよそよそしい会話だったことは覚えてます。これが内河さんとの最後の交流で、その後どうしているかはわかりません。田中さんとも、勿論交流はありません。田中さん、内河さんは今も統一教会(現・家庭連合)の信者なのでしょうか?それとも、脱会したのでしょうか?それとも分派にいったのでしょうか?どの道に進んだにしろ、元気でいらっしゃることを願っています。

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  • 08 Aug
    • あくまで私の体験、思いです。

      ここまで統一教会入教~1回目の拉致監禁~統一教会に戻ったところまで書きました。統一という語りながら、全く統一されてないのがこの宗教です。同じ時期、大体同じ期間統一教会に所属していても、地区によって立場によって全く違います。(特に原研と教会はかなりの違うようで、原研出身者が私のブログを読んで、言葉がわからないという感想をくださいました。)入教、献身、祝福を強制された人が私のブログを読んだら、頭の中が?マークだらけになるでしょう。献身生活、祝福後の家庭生活で苦労した人からしたら、「何を甘いこと言ってるんだ!」と怒りすら湧くでしょう。信仰を親から強要された二世やヤコブの人からしたら、教会から救い出そうとして必死な親兄弟、親族の行為に対して、「拉致監禁」と書いていることに、何とな~くざわざわする思いが出ることでしょう。ここに書いてある私が所属していた支部が行っていること、考え方が、自分が所属していた所とあまりにも違うと、それは違う、嘘を書いてるのではないかと、言いたくなるでしょう。一部の元信者や反対派は、自分が体験した、見聞きした統一教会が普遍的だと思ってます。そして、統一教会員や元信者ならこう思うはずだという固定化された考えを持っていると思いこんでいます。その普遍的・固定化された考えから外れたことを、「特殊」「おかしい」「嘘」「まれ」「一部」と片づけ、「そんなのおかしい。統一教会ならこういうことをやるはずだ。」「そんな考えするなんて、人としてどうなんだ。」と指摘してきます。拉致監禁説得をしていた清水牧師は、ツイッターで拉致監禁を反対する強制脱会者に対して、「特殊な元信者」と呟いていました。(魚拓とってないので、それを示すことはできません。)娘さんを統一教会から脱会させたkokoroさんは、「拉致監禁関係のことを書くものではない。」とメッセージで私におっしゃいました。(これは保存してます。)2回目の監禁説得した説得者は、私が所属していた支部が他とあまりにも違うので「ななくささんがいた所が統一教会の全てじゃないのよ。」と言いました。その説得者お気に入りの元献身者は、「ななくささんのような食口はいない。」と言いました。◆◆◆◆◆◆◆ある読者の方から、「統一教会の人間関係がななくささんにとって何がよかったのか?統一教会以外と何が違うのか?書いて欲しい。」と言われました。難しい課題ですが、私がカルトにはまった理由につながりますので、最終回近くに書きます。ただ、これも普遍的と思われている統一教会員や元信者の考え(思い)とはずれていると思いますので、「こういうものなのか」と一概に思わない方がよいです。(そんなの、わかってる・・・・って・・・・・)

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  • 06 Aug
    • 統一教会に戻った日から1年間のざっとした生活模様

      谷村教会から統一教会に戻ってすぐに、1994年8月のI青年部の出発式に参加しました。ほんの数時間前まで過ごした谷村教会のほんわかのっぺりした雰囲気とは全く違う「今月も闘うぞー!」という場です。「私、ここにいていいのだろうか?」というとまどいが最初はありました。40日強ぶりに会う青年部のメンバー達です。「あら、久しぶり~。」と声をかけてくれたり手を振ってくれたりしてくれました。当時のI青年部では、通教で監禁されたと思われる人がいてもメンバーには告知されませんでした。(ちなみにI支部の上にも報告されていませんでした。)ですので、私が監禁されていたことは、I青年部の献身者スタッフと一部のメンバーしか知りませんでした。(隊長、マザーからは青年部の他のメンバーには言わないようにとは釘を刺されませんでしたが、私は敢えて言いませんでした。)戻った日から約3か月、I青年部コスモ・ユニティ献身者スタッフ、ビデオセンタースタッフが寝泊まりしていたコスモホームに私は生活しました。(これは異例なことでした。)統一教会の間違いが全くわからず監禁から逃げてきた私は、信仰を全うして戻ってきたという変な自信と、親とも当分顔を合わさなくて済む、大好きな統一教会のメンバーといつでも一緒にいれる嬉しさで精神的には安定してました。申し訳ないけど、親に対する罪悪感は全くなかったです。出発式終了後に、祈祷室で監禁から戻って来られたことの感謝のお祈りを文ちゃん夫妻の写真の前に捧げました。戻った日は、親にも連絡せずそのまま休みました。翌日に、マザーより言われて親に手紙を書き、母に電話をしました。手紙を書いた後、マザーに見てもらいました。よそよそしい内容・言葉に、マザーは「親子なんだから、こんな丁寧な言葉じゃなくて・・・親子にも色々だけど・・・。」と言いながらOKしてくれたので、そのまま投函することになりました。電話では、勝手に谷村教会を出たこと、統一教会に戻ったことをなじられ怒られるかと思ってましたが、意外にもあっさりした言葉で拍子抜けしました。(監禁から逃げた人が親に電話したら、皆そんな感じのようです。)その後も(嫌々ながら)定期的に電話したり、手紙を書きました。監禁を謝罪する言葉、監禁はもうしない、監禁は間違っていたということを母は手紙に書き、電話でも口にしてました。(しかし、1年後の1995年8月に再び拉致監禁されました。)暫く(1~2週間位)は外に出なければならない街頭伝道や礼拝は参加しませんでした。土日、スタッフもメンバーも誰もいないホームで一人留守番して、ビデオを見たり、御言葉を読んだり、ゲストに手紙を書いてました。電話が鳴っても一切出ませんでした。(とはいえ、土日はホームが留守になることは統一教会関係者は知ってますので、電話が鳴ることは殆どなかったです。)街頭伝道、礼拝に参加するようになってからも、コスモのホームにいた3か月間は一人で自由に外出することはなかったです。伝道対象者との待ち合わせ、伝道対象者が修練会に参加した後等のウエルカムは、コスモのスタッフに付き添ってもらいました。監禁中に退職した職場に書類や荷物を取りに行く時もコスモのスタッフが付き添ってくださいました。必要な日用品は、何となく監禁されていたかもと気づいたコスモの女性メンバーが分けてくれました。(バザーでも調達しました。)パン屋で働いていた坂口さん(仮名)は、店で売れ残ったパンを私に持ってきてくれました。(その坂口さんも翌年に拉致監禁されて脱会しました。現在は結婚して女の子を授かりお母さんしてます。)皆の心遣いが本当にありがたかったです。一人で外出できないのだったら、谷村教会にいた軟禁中と変わらないのではないか?と思われそうですが、家に帰る時間を気にせず統一教会の活動はできるし、皆と毎日会え、マンションでの監禁中や谷村教会の時のように会話に気をつけなけばいけないことはなかったので、ストレスにはなりませんでした。平日の日中はホームの掃除や食当の手伝いもしていました。2daysや家庭修(祝福を受け家庭を持つ前の修練会)の食当にも行きました。2daysの食当は普通に楽しかっただけですが、家庭修の食当は朝早くから夜遅くまで殆ど台所に立ち、求められる料理の基準も高かったので、けっこうきつかったです。私は献身者ではなかったし、青年部でもコスモ所属のため、入教は本来できませんでしたので、早くアパートを探して生活しなければならなかったのですが、アパートが見つかるまで3か月かかりました。(その間、よくホームに置いてくれたなぁと思いました。)仕事は、アパートに移って1か月後からはじめました。アパートから仕事、統一教会の活動と、普通の青年部の通教者の生活に戻りました。アパートに移ったら、当然外出も自由に一人です。ホームから夜道を帰る時、アパートに着いた時家族が部屋で待ち伏せしてないか・・・気になり、夜道は早足で所々振り向いていたし、アパートのドアを開ける時は、そーっとドキドキしながら開けてました。(皮肉なもので、2度目の拉致は、夜道でもアパートの中でもなかったです。)2度目の監禁までの1年間の家出期間に、阪神大震災があり、オウムの地下鉄サリン事件がありました。親として気が気でなかったと思います。私は、親の気持ちを考えることなく、モチベーションの上がり下がりはありながら相変わらず統一原理は正しい、文ちゃんはメシヤだ、自分の行っていることは世界平和につながると信じ続けてノウノウと活動してました。・・・・その1年間のことと、2度目の拉致監禁・・・その後についてこれから綴っていきます。(今年中にこのブログ終了するつもりだったけど・・・このペースでは無理そう・・・)

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  • 17 Jul
    • 夏の逃避行ー統一教会に帰った日

      谷村教会の玄関を開け、うろ覚えの駅の方へ歩いていきました。誰も追いかけて来てないか気にし、一刻も早く1mでも先を歩こうと自然速足になってました。(逃亡者の心理マンマ)見つかったら、捕まったら・・・監禁状態に戻ってしまう・・・心臓はバクバクしてました。時は1994年8月・・・今のように、スマホやタブレットで目的地までの電車のルートを確認することはできません。(とはいえ、監禁されたら携帯電話は没収されるので、今も同じです。)谷村教会最寄の駅は、殆ど人が利用していないと思われる寂しい駅に感じました。ここからI青年部のあるホームの最寄駅までどう行けばいいのか検討もつきません。ポケットにアドレス帳とお金とキャッシュカードは入れてました。とりあえず駅から適当な所までタクシーで・・・と思っていたのですが、駅前にタクシーが1台も止まってませんでした。1駅先まで電車に乗り(すぐに電車が来たのはラッキーでした。)、そこからタクシーに乗りました。タクシー運転手に、I青年部ホームのある都道府県まで行ってもらうよう依頼しました。長距離になるので、持っていたお金では足りないので、途中銀行に寄ってもらいお金をおろしました。(有り金全てを献金しなければならない支部でしたら、後藤さんのように歩いてホームまで行くか・・・適当に電車を乗り継ぐしかありませんでしたので、貯金があったのはありがたかったです。)1駅先からタクシーに乗ったのですが、タクシーは1駅前に戻り、谷村教会近くを通りました。この時は「タクシーに乗っている私を見つけられるかもしれない」とかなりドキドキしました。無事にホームに辿り着けるか全く確証がなく、時間はどんどん経ち、夕方になっていきました。これでは、行こうと思っていた小沢さん(I青年部メンバー)が勤務しているビジネスホテルに到着するのは、小沢さんの勤務が終了した後になります。果て・・・どうするか?とにかくもう事態は統一教会へ戻る方向へ動いているのだから、今晩は親や谷村教会や沢井牧師関係者に見つからない安心できる場所を確保するしかないです。小さい頭であれこれ方法を考えてました。ある地下鉄の駅付近でタクシーの運転手さんが「この辺りでいいですか?」と聞きました。私は、とりあえず「いいです。」と答え、お金を払い、タクシーを降りました。・・・何かを感づいたかタクシーの運転手さんは降りる私に「頑張ってね。」と声をかけてくれました。タクシーを降りて、すぐに公衆電話を見つけ、ホームに電話しました。電話には、隊長が出ました。谷村教会からマザーと小沢さんに電話してましたので、隊長も事情は知ってました。隊長に谷村教会から逃げてきたことを話しました。隊長より、「元信者でななくささんの家族に監禁を誘導したと思われる人はいるか?」と聞かれたので、「多分北田さんだと思います。」と答えました。隊長は「北田さんか・・・」とぼそっと呟きました。隊長よりI青年部コスモのホームに戻ってくるように言われましたが、電車で戻るのは勇気がいります。帰宅ラッシュの時間帯でしたので、電車の中や途中の駅で見つかることはほぼないことはわかってます。しかし、私が逃げたことを知った家族がコスモのホームの最寄駅に待機していることも考えられます。私は隊長に「タクシーで行っていいか?」と聞きました。「いいよ」と言われたため、再びタクシーをつかまえ、ホームまで行きました。隊長と連絡できたことと、ホームに戻ってくるようにと言われ、ひとまずホッとしました。でも、まだ油断はできません。景色は徐々に見知った懐かしいものとなってきました。「無事にホームに入れますように。」と心の中で必死にお祈りしてました。ホームの前までタクシーを止めてもらい、お金を払い、ホームのドアをあけ、ホームへの階段を急いで登りました。靴下をはいてなかったので、集会所に入ることできずに、(※)スタッフを呼びました。※統一教会ホーム(集会所)では素足で歩くことは厳禁でした。コスモの女性小隊長の鍋島さんが出て来てくれました。「入って」と言われたのですが、靴下はいてないことを言ったら、(冬物の)靴下を貸してくれました。ありがたくその靴下をはいて、集会室に入りました。・・・I青年部の8月の前半出発式の日でした。

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プロフィール

ななくさ

性別:
女性
自己紹介:
20代の殆どを統一教会の勤労青年教会員として過ごしました。 2回の拉致監禁による強制説得を受け、脱...

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