生まれることと死ぬこと

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葬儀社主婦なむ子です。






この数日来、とても強い北風にあおられている関東地方です。




関東の空っ風は昔から有名ですが




何でも飛んでくるので危険です。




「南無なむ葬儀社(仮称)」前には昨日の風で降り立ったと思われる




ダンボールさんがぐったりと横たわっております。




紙ゴミの収集日が近いので




それまでそこに安置しておいたほうが良いのか、思案中です。










さて。






"生は偶然、死は必然"という言われ方があることはご存知でしょうか。






生は確かにお母さんとお父さんがいて




奇跡とも言える確率の中から芽吹いて表れれるものです。




いつどこへ、どんなふうにどんなタイミングで生を受けるのか、




この"私"という存在として生まれるのか、




いくら文明が進んだからといって




人の意思が介在したり人為が及ぶところではないように思えます。




一方で、死は"いつ"、"どこで"、"どんな理由で"・・




などということは不明であるとはいえ




誰にでも必ず訪れる事柄であることは確かです。






"生"と"死"。




似ているような、対極にあるような、それとも一連の流れのものなのか・・・










私たちは死別の深い悲しみの中にいるご家族を




数限りなく見てまいりましたので




この"生"と"死"については考えさせられることばかりです。






人はみなただ漫然と生きているだけではないはずですが




といって、いつも、どんなときも、この瞬間瞬間まで




"生"を実感しているかといえばそうでもありません。






なのに、誰かの"死"によって、




わたしたちの"生"が急にクローズアップされるとでもいいますか




生きていることが急に実感を帯びて表れることも確かです。






"死"があるからこそ"生"を実感するというのも変な話ですが




この世での命が終わるその日まで




この自分の"生"の意味を見つめつつ




淡々と、素直に生きていけたらいいな、と思っています。






それはそうと。




ちょうどおじいちゃんやおばあちゃん、




その他縁のある人が亡くなってすぐに子どもさんが生まれたりすると




「●●の生まれ変わりだね」なんて言われたりしますけど




それはやはり違うのでしょうね。




似ているのは血筋でしょうし、




似ているように育てるのは親御さんの気持ちでしょう。






やはりその人その人ひとりひとりには




その人だけの、この世での役割があるように思います。




そういった自分の役割は何かと考えながら




人生を生きていくのも意味深いものなのでしょうが、




今私がいただいているご縁や人の配慮、そして試練・・・




ひとつひとつが自分の役割だと思い定めて




この一瞬を生きることが人の努めのように感じます。













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