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2008-08-31 14:07:50

引っ越ししたい

テーマ:生き様ってやつ。
今の部屋に越してきてから10年近くなる。

毎日手元にありながら、お札のデザインをいまさらしげしげと観察しないように自分の部屋をまじまじと眺める人は少ないだろう。ましては、時間の蓄積がそれなりに有する部屋では。

自分の寝床は一段高いロフトにあり、部屋全体(というほど広くもないけど)を眺める位置にある。だから、時に「この景色は10年前と変わらないんだなあ」と、その経過した10年の評価を含めて(かなり否定的ではあるが)思う時とても悲しくなる。そんなことを思うのは、疲れているくせに神経が高ぶって眠れない、とても残念な夜だ。

あらためて見ても何も変わらない部屋である。窓の外は隣のアパートの通路ということもあって、遮光カーテンは一年中締め切ってそのまま。小さなテレビは、上京して2年目、大学に入学して買った時のビンテージモノだ。とっくの昔にキャパシティーを超えた本棚から本はあふれ、床一面覆い、床を覆いきれない本はロフトの寝室スペースを侵している。写真を撮っていながら、絵や写真を定期的に取り替える趣味はないので、部屋には、10年前に彩りをと思って買ってきた六道輪廻図(マンダラ)が幾分、退色しながらも現役で飾られている(存在している?)。

訳もなく引っ越ししたいな、と思う。お金のかかることに関しては、幸か不幸か、かなり適当ではあるが論理的思考が働くので、動機(結婚、仕事の異動、転職)もないのに引っ越しできないだろうと、今でも思っているし、本や写真などモノの量が増えてきたこともあるので、よっこらしょと腰を上げるのはかなり面倒くさいとの思いもある。とはいいつつも、脳とは別な心は変化を期待しているわけで、物件の情報があれば立ち止まってみてしまう。

でも、これがいいのがないんだ。
高かったり、狭かったり、遠かったり。
最近では、賃貸ではなく分譲や中古物件にまで目がいく始末。

時期が良くないのかな。
もしかしたら、一大決心する秋が来るかも(いやこないか)

2007-09-09 23:42:23

お線香を手向けに

テーマ:生き様ってやつ。
日曜日、お線香を手向けに四街道へ行く。

遺影に写る顔は何故あんなにぼやけているのか。
風景のない世界にするために加工されているから、着てもいない服を着させられるからなのだろうか。
ここ数年、同じ遺影を見ているが、見るたびにこの写真で亡くなった人を記憶してはいけないなと思う。その一方で、この写真の占める記憶のウェートが大きくなっている。フレッシュだったリアルな記憶は年を経ることに少しずつ底に沈みつつあるからだ。

遺影に写る人は、写真を撮られることを極度に嫌っていた。以前つき合っていた人が同室で入院していたことから始まったつきあいだったが、終ぞ一度たりともみんなで同じ写真に収まってくれなかった。膠原病ということで、ステロイド剤を服用していたこともあり、周期的に表情が大きく変わってしまうことがあった。ムーンフェイスになると、カーテンを固く閉めてその奥に引きこもり、そうなると目を合わすこともできず、カーテン越しでしか会話ができなくなった。

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学校を卒業してまもなくインドに行った時、写真を撮りまくっている人を心底軽蔑していた。そんな小さな枠に記憶を固定して何が楽しいのだろうか。写真を撮るだけでインドを本当に楽しめていると言えるの」と本気で思っていたし、写真を撮ってばかりの人に食ってかかっていた。写真を本気で撮っている今、若かったなぁと思うし、もしかしたらあの時のようなカラダが行動が先に立つインドはもうないのかなと寂しくも思う。その頃は、20代のはじめだし吸収しなくてはならないことがありすぎて、カラダで覚え込ませることがすべてだったのだろう。自分は、今でもその時のインド体験は“それなりに”リアルだと思っているけど、時間やその後に得た思考によって、都合良く脚色されているかもしれないことも知っている。

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死ぬ直前、「死んでからも忘れられたくないなんて甘え以外の何者でもないでしょう」と言っていたあの人のことだ。顔がぼやけようと、生前着ることもなかったドレスを着させられても、「遺影なんてそんなものだよ」とクールに言うんだろうな。しかし、彼女が亡くなって数年もすると、写真がないと言うことの意味を遺影を見て考えたりしている。どんなに病状が悪かろうと、一緒に写った写真が欲しかった。無理言ってでも撮るべきだったのかもしれない。

残されたお母さんから話しを伺う。膠原病を発病してからというもの一切、写真を撮らせなかったようだ。お母さんと親子二人で何度か旅行に出かけたが、娘がもっぱらカメラマンを務め、母一人が写るだけの記念アルバムが多く作られた。発病する前のアルバムを見せてもらったが、私たちが知る人とはまるで別人の彼女がフレームに収まっていた。当日、つきあっていた人の背中から手を回し、同じバイクにまたがる写真、犬吠崎の案内の前で母親と収まるツーショット写真。ステロイド治療を行う前の見たことのない表情の彼女。その後の人生はなかったことにしたかったのだろうか。

いろいろあーだこーだと考えたところで、すべてのことは時間の差こそあれ、ニュアンスを失い、輪郭がぼけて、やがては忘れていく。

年に一度の命日、都合良く脚色された事実と知りつつ、その人のありようを想っていろいろ想いを馳せる限り、リアルな存在であるんだろう。

写真はぼやけていたとしてもね。
2007-07-18 00:42:58

明るい離婚相談室。

テーマ:生き様ってやつ。
先週の深夜、関西に住む友達から離婚の相談を受ける。

ちょっとした言い争いから、奥さんが子供を寝かせたまま実家に帰ったらしい。悶着を起こして間もなかったのだろう、ちょっと興奮気味に「聞いてくれよと」ばかりに話をしだした。

ダンナとは年が10歳以上離れ、ダンナもどうしようなく忙しいひとだった。奥さんは、思ったことはすぐには口にせず、とりあえず我慢するタイプの女性だった。自営と言うこともあって、ほとんど休みなく働くダンナ。親から引き継いだ家業は、必ずしも順調なところからスタートしたわけではなかった。ただ、いくつか不動産を有していたことから、それを活用することで再起を目指し、お店のネットワークを広げたのが多忙の原因だった。小売業というのは、忙しいからすぐに社員を増やせるというモノではないらしい。仕入れはもちろん、店のチラシから、ポップの作成まで社長であるダンナが一切、取り仕切っていた。

カラダ壊すよ、お前。と自分は何度言ったか分からない。それ社長の仕事かよ、とも言った覚えがある。些事であれ任せきれるスタッフがいないというのもあっただろうが、結局自分がコミットしなければ納得しないし、人に押しつけるというのができないそういう性格だったのだ。奥さんは間近でそれを見ていたのだから、仕事に関しては口出しできないし、自分が手伝うことで返って心配や気を遣わせるから何もできないと聞いたことがある。信頼されていないのかな、とも言っていた。そうじゃない、決してそうじゃない、と語気強く答えたけど、届いたかどうかは確信がもてなかった。

で、原因はなによと自分が訊くと、分からないときた。

友達としては良い奴だし、優しいし、人を思いやれるし、自分が女だったら面倒見の良さから間違いなく惚れるタイプではあるだろう。友達としてつきあい始めて、10年、遠く離れて暮らすようになって5年以上、コミットが続くというのは彼の性格の良さはもちろん、自分のガサツさによるモノも大きい。しかし、彼が結婚したのは、想ったことを口にする自分のようなタイプではなく、おとなしくて我慢しがちな女性だった。

奥さんから、ズバズバ物言う自分は妬ましいと言われたことがある。最初は聞き間違いかと思った。妬ましいなんて、人に面と向かって使わない言葉と思っていたから。「それでも言えばいいんだよ」と返したのが、会った時に交わした最後の言葉だったかもしれない。

我慢をすることで何かがオーバーフローしたのだろう。言語化しないところで繋がっている感じがしたのだが、それは幻想だったのかよく分からない。ダンナにしても、一時でも彼女に愛情を欠いた瞬間はなかっただろう。「わかりやすく、密に」とはよく言われることだ。ただ、そうしなくても伝わる関係を彼が願っていたことは間違いない。

それは単なる省略だったのだろうか。

2007-01-28 22:37:39

玉川温泉にて。

テーマ:生き様ってやつ。
覚醒したのは、朝の4時。
目が覚めて、どこだっけと惑う一瞬が、旅先にいるのだと言うことを実感させてくれる。
目が冴えたらしく、二度寝ができそうにないので朝風呂に入る。

さすがにこの時間は誰も先客がいない。貸し切りと思うと、さらに気持ちが良くなるらしい。大浴場の手前には箱形に区切られた洗い場があって、奥に檜でできた大きな浴槽が4つある。手前の左の湯船は源泉50%のぬるま湯、その奥も源泉50%の熱めの湯。手前左側が源泉100%の湯なのだが、塩酸が主成分と言うことがあり皮膚刺激性が強く、物足りないぐらいぬるく設定されている。前日、一緒に風呂場にいた腫瘍のオヤジが言うには、性行為の後、その湯に入ると源泉に入ると、局部がひりひりして痛みが抜けなくなるのだそうな。その奥は、他とは泉質の違う湯が張られている。

かけ湯して、源泉50%のぬるま湯へ。深いところに腰を下ろし、頭を浴槽のヘリに乗せる。総檜風呂というと、なんとも嫌味に聞こえてくるものだが、作られて相当時間が経過しているらしく、木の色も黒ずみ、風呂の縁も全体的に丸みを帯びて柔らかい印象を与えてくれる。いい年の取り方をしていると思った。
打たせ湯に少しあたって、蒸し風呂へ。見た目はまるでゴミの集積場。穴の空いた観音開きの蓋を開けると、人が座れるようになっており、箱の中に入って穴から首を出すようにして蓋を閉めると体が温まるという仕組みだ。箱に入って、蓋を閉めようとすると体がつかえて蓋が閉まらない。どうやらデブは入るなということらしい。

蒸し風呂は諦めて、源泉に入ると、確かにお尻の粘膜が少し痛む。別に出すべきところから、逆流させて何かを入れたという覚えはなく、たんに丁寧に拭いただけなのだがそれでも痛い。貸し切り状態から、30分ほど過ぎると、旅館の従業員が入ってきた。風呂の清掃が終わる朝の2時から5時半までが仮眠の時間で、その時間にお風呂にはいるという。ここの従業員も雪上車に乗らないことには帰れないわけで、下痢をしようと熱が出ようと早退ができないある意味過酷な職場であると言うことを教えてくれた。

湯から上がると、外が白み始め、湯煙が激しく上がっているのが分かる。風呂から上がると、着替えて、外に出て源泉の噴出口を見に行く。大噴とよばれる噴出口は、毎分8,000リットルの熱泉を吹き出しており、単一の温泉としては日本一の油量らしく、煮える巨大な鍋を見ているようだ。硫黄が幾重にも堆積しており、深みに向かって黄色から緑と幻想的なグラデーションが形成されている。生命の営みが一切ないので、きれいと言うよりは、無機質で吸い込まれそうな感じがして怖い。飛び込めば、間違いなく死ねるスポットではある。

大噴の周囲は地熱が高いので雪が積もることはないが、硫黄を含んだ水蒸気が、そこかしこから吹き出している。硫化水素の濃度が高く、長時間の滞在を戒める看板を見つけた。人知れないところで硫化水素の濃度が上昇して人が死んだ乳頭温泉は、ここから5kmも離れていないことを思い出した。

朝の7時になって朝食。鰯のめざしを2匹、スクランブルエッグ、とろろ、サラダ、みそ汁と麦飯と牛乳。自分の隣には、やはり昨日の夕食と同じ癌患者のグループが陣取る。グループと言うよりは、個人個人でなんとなく示し合わせて集まっているらしい。と感じたのは、いつも来ている一人が来ていないらしく、「背の低い人、何時も来ているのに今日いないのは調子悪いからかしら? 」という会話で始まるのだが、誰もその女性の泊まっている部屋の番号も知らなければ、名前すら誰も知らないのだ。

8時50分、雪上車が出発する時刻、荷物をまとめてフロントに行く。値段は田沢湖駅までのバス代を込めてちょうど1万円。雪上車に乗ると大噴の湯煙が遠くなっていく。次にこの温泉に来るときは、癌になったときか、死にたくなった時かもしれないなぁ、と思う。いくら奇跡の湯だと言っても、温泉に浸かることで腫瘍が治るとはとても思えない。ただ感じたのは、同じ現実と向き合い、同じ恐怖を共有できる仲間がいる空間って、そうはないような気がする。健康な人が病人を思う気持ちと、病人が病人を思う気持ちは、同じ相手を思い合う気持ちであっても、決定的に何かが違うと思われる。当事者意識の連帯というと言葉は強いが、共有し会う何かはあるはずなのだから。

とは書いては見たものの、一泊だけ泊まって、何を言ってるのアンタ?という声も聞こえる。そこまで整理しなくても、そう思う何かはあった、と言うことだけにしておいた方がいいのかも知れない。
2006-11-23 01:34:12

悲惨を悲惨の一言で片づけさせないために

テーマ:たまには考えるさ

クリント・イーストウッドの「父親たちの星条旗」を見る。

全体を見終わって、第一に感じたのはアメリカという国は、身の回りに戦争をよく知っている人がいて、感情とは別な部分で戦争を語れる人が少なくないと言うことだ。自分の解釈ではあるが、この映画自体は、別に戦争を否定も肯定もしていない。もちろん、戦争を積極的に肯定するということはあり得ないだろうから、否定されるべき戦争であっても、事実から目を反らさないという意味であって、戦争反対とか主張とは一線を画してあるように思えた。海兵隊にとって硫黄島の戦いがどれたけ過酷だったか、アメリカ国民がこの戦いの帰趨にどれだけ熱狂したのか、その熱狂を利用して戦争を遂行するために政府は如何にして国民に戦時国債を買わせたか、戦時国債のPRに利用された「英雄」とされた兵士たちの傷と苦悩、それを徹底的に描写することを主眼に置いている。

 映画が始まってほどなく、自分の隣で見ている女性が、時折顔を伏せるのが気になった。主に顔を伏せていたのは、被弾シーンでひとつの肉体がそれぞれのパーツに別れて地に舞ったときや、日本軍の兵士が最後に自決した後の肉体の描写などの時に顔を伏せるのが分かった。見たくないから見ないというのは理解できるし、映像の効果としてそうした気分になるのも理解できないわけでもない。ただ、見たくないから見ないというのは、見たいものしか見ないことだと言い換えることができるわけで、この人はこの映画に何を期待しているのだろう。

 戦争とは何か。何となく私たちは知識を駆使して、それは説明できることは可能と思われる。国家が武力を持って、自分たちが有している意志を貫徹させるための武力行為、というように。戦争の状況であっても、これまで数多くの戦闘シーンがスクリーンの向こうで展開されている。戦車をブチ抜くための反動砲(バズーカ砲ともいう)に人が当たれば、確実にその肉体は砕ける。毎分400発の弾を発するブローニングM2重機関銃の前に踊り立てば、生きて帰ってくるものは誰ひとりしていないと言うことも知っている。蜂の巣どころか、集中的に打撃された肉体は欠損し、もはや人間の体をなさないときもある。そういう状況を指して、私たちは「戦争は悲惨だ」とか、「戦争とは、そういうものだ」と私たちは何気なく使う。おそらく、その言葉の使い方としても大きく間違ってはいないはずだ。「父親たちの星条旗」を見て気付いたのは、恥ずかしいことだけれど、「悲惨」とか「そういう」という言葉で形容されがちな、実際の戦闘行為について具体的なリアルなイメージを持っていなかった自分の姿だ。頭を撃たれれば、脳漿が飛び散り即死する。といつつ、平時に生きる私たちにそれができるかというと、難しい側面がある。

 いつのことだろう、旧軍で実際の戦闘を体験したお年寄りに対し、若い人が「その戦闘に意味はあったのか」と、お年寄りに詰め寄り絶句させる討論番組をテレビで見たのは。合理性で判断するために若者が何気なく使った「意味」という言葉。負けた戦闘に意味はあるのかというと、意味がないと言っていい。戦争とは目的を遂行するために行われるもので、負けてしまえばその目的は遂行できないからだ。日本軍の戦いの多くは、戦争が拡大して行くにつれて勝つ見込みのない戦いが多く、合理性を示す意味を有しているとは思えない。現場で知っていたかどうかは別にして、戦場で戦った多くのお年寄りにとっても平時である現在、それは自明のことと思われる。しかし、戦場では多くの戦友が死んでおり、その死の質を意味の有無で判断されるのは、お年寄りにとっては我慢ならなかったのだろう。この映画で印象的だったのは、「厳しい戦場をより知っている兵士ほど、戦場について語ることはない、多くの兵士が忘れたがっているからだ」「兵士は国のために戦い、戦友のために死んでいく」という意味の冒頭とラストのナレーションだ。「父親たちの星条旗」とは、この二つのメッセージの間を埋める映画であったということもできる。

梯久美子の「散るぞ悲しき・硫黄島総司令官・栗林忠道中将」を底本とした「硫黄島からの手紙」は当初、日本人にメガホンを取らせる予定だったとインタビューでクリント・イーストウッドは語っていたらしい。最終的にクリント・イーストウッド自身がメガホンを取るのだが、自分が思うに、感情以外に戦争に対してリアルで積極的に想像力を働かせられる日本人スタッフが皆無だったからじゃないのか。イーストウッド本人に聞いた訳じゃないから分からないけど。
戦後、60年他国に対して軍隊を派遣しなかったことは、素晴らしいことだし、そのこと自体は誇りに思っていい。一方で、「戦争」に対するリアルな想像力の欠如は、これらの映画が話題になる前、日本における硫黄島の認知度と関心の低さと、靖国論争代表されるように矮小化されてしまう戦争の総括的の徹底的な欠如に端的に現れている。
 多くの国は、戦争について本当に「必要なのかそうでない(不要)」のかという現実的な視点で判断するのに対して、日本の場合だと好きか、その数歩手前である嫌いかで戦争を判断する傾向が強い。戦争は手段であって目的ではない。核兵器にしても持つことが目的のような書かれ方をしている(保有論議すらいけないという論調とか)が、核兵器を持つことによってもたらされる何かが大切なのであり、核はそのツールにしか過ぎない。戦争や核兵器が許されないのは、言うまでもない。だからといって戦争の具体的な中身を知らなくていいというわけではないだろう。「父親たちの星条旗」や「散るぞ悲しき・硫黄島総司令官・栗林忠道中将(硫黄島からの手紙)」の意義があるとすれば、戦争・戦闘というの具体的に描写することで、その本質であるとか、戦いに望む人の心の動きを知らしめてくれることだろう。しかし、戦争を「悲惨」の一言で済ませたい人たちが多い日本で、どれぐらいの評価が受けるのだろうか。

確かに戦争は悲惨かもしれない。しかし、悲惨なことを悲惨の一言で片づけるのは、もっと悲惨なのではないか、漠然とそう考えている。

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