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2008-08-31 15:08:17

爲政第二-05

テーマ:ブログ

孟懿子問孝。子曰、無違。樊遲御。子告之曰、孟孫問孝於我。我對曰無違。樊遲曰、何謂也。子曰、生事之以禮、死葬之以禮、祭之以禮。

《訓読》孟懿子(もういし)孝を問う。子曰く、違(たが)うこと無かれと。樊遲(はんち)御(ぎょ)たり。子これに告げて曰わく、孟孫、孝を我れに問う、我れ対(こた)えて曰く、違うことなかれと。樊遲曰く、何の謂(い)いぞや。子曰く、生けるにはこれに事(つか)うるに礼を以てし、死せるにはこれを葬るに礼を以てし、これを祭るに礼を以てす。


《訳》孟懿子が「孝」とはどうすればよいか問うた。孔子が答えて、「違えてはだめですよ」と言った。(弟子の) 樊遲が御者をやっていた。孔子が御者に語りかけた。「孟孫(孟懿子)が親孝行とはどういうものか私に尋ねてきた。私はこう答えた。違えてはいけませんよと」すると(御者の) 樊遲が言った。先生それはどういう意味ですか? 孔子が言った。生きている人(殿様や親や目上の人)に仕える時は礼に決められた通りにし、死んだ人に対には礼に従って葬式を行ない、(神様や先祖の霊魂を)を祭るとき(法事)には礼に従って法事をするものだ。

孟懿子は姓は孟孫。魯国の家老の一人で魯国では殿様より権力を持っていました。

その権力者に孔子は礼の決まりを違えてはいけないと言っています。孟懿子は殿様より権力があったので、法事や葬式や結婚式が殿様より豪華で派手でした。それは当時の社会的なルールから外れていました。孔子は孟懿子の行動が礼から外れているので、礼の決まりに従うことが孝行だとたしなめました。

古代の日本人が漢字を持ち帰ったときに「孝」の意味が高級な行動であることが分かったので、「孝」の訳を「たかし(高し)」としました。高度な行動という意味です。今の我々は「孝」というものを狭く考えていて、親や目上の人をどう扱うかが「孝」だと考えていますが、孔子の考えていた「孝」は「人間としての正しい生き方」で人間としての立派な生き方全てを「孝」いっていました。

論語の編纂者は論語の編集をするときにテーマ別で編集しようとしましたが、いろんな所での孔子の雑談なのですっきりと整理ができませんでした。ですが元々の論語はテーマ別にまとめてみたらしい事が分かります。その痕跡がこの第五章から第八章までで、いろんな人が孔子に「孝」を問うていることです。こうやって並べてみますと、仏教の言葉で「応病施薬」(病人の症状に合わせて適切な薬を与える)であることが分かります。教育者や指導者は皆そういうところがあるらしく、相手の状況に合わせて教えていますので、各章を横に並べてみますとある種の矛盾が感じられます。

2008-08-29 16:05:11

爲政第二-04

テーマ:ブログ

子曰、吾十有五而志乎學。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而從心所欲、不踰矩。


《訓読》子曰く、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(した)がう。七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。

《訳》先生が言いました。<"ms>私は十五才で学問をしようと思った(六芸の専門家になろうとした)。三十才になった時に(六芸の専門家として)自立できた。四十才の時には惑わなくなった。五十才になった時、私はこれ(六芸)で生かされてきたんだとわかった。六十才になった時、何を言われても「はい結構です」と言えるようになった。七十才になった時、自分の心がしたい事に従っても(やりたいようにやっても)社会の規則を破らなくなった。

有名なこの章から十五才のことを「志学」、三十才のことを「而立(じりつ)」、四十才のことを「不惑」、五十才のことを「知命」、六十才のことを「耳順」というようになりました。



「四十而不惑」

孔子は四十才の頃、生国の魯で行政官として採用されない、隣国の斉でも採用されない大変落ちつかない日々を送っていました。実際の孔子はどこに勤めようか惑ってばかりのようでしたが、自分の心の中では六芸の専門家としてこの道以外にはないと思い定めました。孔子の頃の四十才は現在の六十才くらいで、今さら仕事を変えられないし、今まで六芸の専門家できたので、これからもこれでやっていくよりないなと思いました。


「五十而知天命。六十而耳順。」

孔子はキリストやブッタと違い神様や仏様から布教しなさいと示された訳ではありませんが、五十才になって「これで人並の生涯が終った」と思った時に何かを感じました。それを表現するのに「知天命」を使いました。残りの人生は当時の寿命からすると余命です。それをどう表現しているかというと「耳が素直になる」と言っています。六十才というのは孔子にとって、もう何を言ってこられても何があっても「はい結構です」と言えるようになったにちがいありません。


「七十而從心所欲、不踰矩。」

矩・・・・ものさし、一定の規則、決まり事、社会の約束

ある年令まではここまでやりたいと思っても、社会のルールに背く事があると自制心を働かせます。孔子は七十才を越えたらやりたい事とやっても社会のルールを破らなくなったと言っています。ということは孔子はやりたい事をやってルールを破らないのですから、十分満足し、心に不足を思わなくなったということです。

この章で感じることは、こういう生き方ができればよいと思うことと、孔子が特別だったり、神秘的であったりしないということです。それが孔子や論語のよいところだと思います。孔子の人生は我々にも手の届く人生だと感じます

2008-08-28 14:31:43

六芸

テーマ:ブログ

論語時代からあり、江戸時代まで常識になっていた言葉で「士農工商」があります。日本では「士」のことは「侍」の事になってしまいましたが、古代の国家で基幹産業である農業に大多数の人が属していて、そごから税金を取り立てたり、戦争になると徴兵したりという国家の仕事をする公務員が必要になってきます。その公務員のことを「士」といいました。「士」は現代風にいうと、人の上に立って治める行政官のことです。

「エ商」が江戸時代までは「士農」より下に来るのは、そんなに人数が多くないことと、工業をする人、商人、漁師、猟師、医者・占師、芸人などさまざまな職業の人がいて、土地に定着しないで、税金がなく、場合によっては捕虜になった人や奴隷達もいたので、職業差別とは少し意味合いがちがいますが「賤民」と呼ばれ一段低くみられていたからです。一方、農民は税金を納め、平時は農作業をし、戦争になれば兵隊になるということで、まともな国民という意味で「良民」といいました。

「士」は日本では江戸時代に侍のことに定着しますが、中国では一定の教養があれば身分に関係なく「士」に取り立てられました。孔子は多くの若者に「士」になるための基本教養を教えている先生でした。孔子が教育者だということはそういこうことです。

「士」の教養とは六芸(礼・楽・射・御・書・数)です。礼とは儀式のやり方・立ち振る舞い、楽とは音楽(神や先祖の霊魂を動かすには音楽が必要とされた)、射とは軍隊で指揮官になる為の弓を射ること(軍事学)についての素養、御とは同じく馬に乗ること(これも軍事学)についての素養、書は読み書き、数は算数のことです。

論語はこの六つの事を教えている間の雑談のようなことを記録したものです。六芸を身につけていれば、士としての基本的な修養があるという共通の考え方がありました。


古代の中国の各国には貴族の子弟を教育する学校がありましたが、庶民のための学校がありませんでしたので、孔子は庶民を集めて六芸の教育をしました。そして孔子の下で勉強をした人々が各地に行って殿様に仕えるようになりました。司馬遷の「史記」には、孔子の弟子達のことを度々「この人は賤民の出身」と書いてありますように、孔子は農民だけではなく「エ商」の人々にも教えていました。

孔子は一時期行政官になりますが、それ以外の時というのは生涯のほとんど私塾を開いて多くの人々を教え、その月謝で生活をしていました。

「士」とは人の上に立つ人々ですから、その人々の文化がその国家の文化となり、すなわち「六芸」がその当時の文化ということになります。

六芸を全部いわなくても「礼学」というだけで全部収まります。さらに縮めれば「礼」となります。

「六芸」は当時の人の上に立つ人の共通の教養でした。今の日本では公務員には公務員試験があり、裁判官や弁護士には司法試験があり、税理士や会計士にもそれぞれ試験がありますが、試験がなく教養の範囲が決まっていない私などは、「六芸」の「書」の中にはいる古典的教養、特に定めにくいのが礼の問題で、合氣道の修行者として自分の立ち振るまいや身の処し方については常に厳しくしていくよう自分自身で戒めています。

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