なごやんのBCL史(47)白色革命の末期(まつご)
第45回はアジアです。西アジアのイランへ来ました。
【背景】
歴史を振り返る時、西アジアはどの国がどこにであったか理解するのが難しく、イランはその最たるものです。
中高生時代にはアケメネス朝だのササン朝だの、当時の私は頭が混乱したものです。何しろ、最も苦手な教科が歴史でしたので。
とはいえ、私が生徒だった頃には今のイラン国土になっていて、パフラヴィー朝の時代でした。
政権を握っていたのはモハンマド・レザー・シャー(皇帝)・パフラヴィーで、日本ではパーレビー国王などとも呼ばれていました。
イランを統率するモハンマド・レザー・シャーは女性開放路線を敷くなど「近代化」をすすめましたが、一方で米国のFBI や悪名高きCIA との"連携"を密にし、「白色革命」の名のもとに、反対勢力の弾圧を行うようになりました。そういった動きは一般市民の反発を買うようにもなっていきました。
【ラジオ・イラン】
そんな時代に私はイランからの放送を聴きました。私はペルシャ語が全く理解できませんが、ラジオ・イランには外国向け英語放送がありましたので、私はそれを聴いていました。
受信状態はそれほどよくなく、良好な時でもどうにか「聞こえる」程度でした。
英語放送の場合、弦楽器(楽器名不明)によるインターバルシグナルがあり、その後ペルシャ語、次いで英語で「This is Tehran,Radio Iran. It is △△ hours local time. We begin now our English language broadcast.」とアナウンスされました。
ニュース番組は「政府広報」の色彩が強く、この地方の情勢に疎い私はそれほど関心を持つには至りませんでした。それでも、わかる範囲で受信報告を送りました。
受信報告に対しては当時、カードは送られてこず、手紙で受信確認されました。
時にイラン国旗が送られてきたこともあります。布製の立派なものです。もちろん、「イスラム革命」後の今の国旗とは異なります。「送ってください」とお願いしたわけではありませんが・・・
【その後】
1970年代に独裁傾向をより鮮明にしたモハンマド・レザー・シャーはイスラム原理主義者のみならず、共産主義者の反発も招き、1979年にエジプトへ亡命しました。
その後すぐに亡命中のホメイニ師がイランに戻り、「イスラム革命」を成し遂げました。これまでの君主国から共和国に変わったイランは、国名も「イラン・イスラム共和国」になりました。
ラジオ局も「イラン・イスラム共和国放送」とし、イスラム色の強い放送局になりました。
1999年に日本語放送も開始しましたが、その時代になると私はBCLから離れてしまい、日本語放送を聴いたことはありません。
今は結構立派なウェブサイトを持っていますので、ラジオを聴くまでもなく、情報は豊富です。
次回はヨーロッパをスキップし、「その他の地域」へ行く予定です。
なんとなく、「なごやんのBCL日記」の中にアルビネタが混じっているという感じですが、「BCL史」は100回くらいのシリーズを予定していますので、チンタラやってると何年もかかってしまいます。開始からすでに1年半くらい経過していますし。
これまでのBCL史はこちらをご覧ください。
相互リンク⇒アクティブなごやん(どうなる苦境のHSV)