僕は講談社の文芸文庫が好きです。といってもそんなに買って読むわけじゃないですけどね。ほんの10冊ぐらいですね。でも今は純文学ってあまりないねえ・・・。この文庫シリーズって普通の文庫本より高いんですよ。高い理由がわからないんですけどね。

後藤明生の「挟み撃ち」と「首塚の上のアドバルーン」を連続で読みました。変わった小説ですよ。僕は昔の探偵小説や怪奇小説が好きでよく読むんですが、島田荘司以降の新本格と呼ばれる最近のモノは、ほとんど読みません。少し読んだのもありますが、やたら長いだけだったり、幼稚な動機で人殺ししたり、馬鹿みたいなトリックだけだったり・・・で結局「読んだ実感」ないし、お金をドブに捨てるようなものです。あ、ドブに捨てるのは大好きだけどね。

さて、後藤明生です。これは探偵小説でも怪奇小説でもありません。ただし、雰囲気はあります。「首塚の上のアドバルーン」は、主人公が幕張のマンションに引っ越してきてからの話です。近所にこんもり繁った丘があり、そこに出掛けてみると馬加康胤という人物の首塚らしい。「まくはり」と「まかやすたね」?もしかしたらこの地名は、これからきているのだろうか?それから話は首塚に移り、京都へと話が飛ぶ。太平記から新田義貞の首塚、秀次の首塚、雨月物語、滝口入道、平家物語、また太平記・・・とめまぐるしく脱線していきます。結局、何が書きたいのか?僕のアタマではわからない。

「挟み撃ち」は、もっとわけがわからない。書き出しはこうだ。
『ある日のことである。わたしはとつぜん一羽の鳥を思い出した。しかし、鳥とはいっても早起き鳥のことだ。ジ・アーリィ・バード・キャッチズ・ア・ウォーム。早起き鳥は虫をつかまえる。早起きは三文の得。わたしは御茶ノ水橋の上に立っていた。』なんじゃこりゃ?延々とこうなのである。

話は御茶ノ水橋の中ほどで始まる。主人公はなぜここに立つのか?主人公は、自分が立つ橋の名前さえ知らない。橋の名前は何だろう?から白鬚橋からゴーゴリの「鼻」へ、そして「外套」へ。僕は読んだことないロシアの作家や作品の名前が続々と登場する。わかんねえよ。この人、思想だけ元左翼だからね。でも徒党組んで活動したことないらしいから好感がもてるのである。人が決めた哲学とか思想とかいらねえよ。自分で考えろって。徒党組む奴は自分の責任は問わず、人のせいにばっかしてっからな。

主人公は、いきなり橋の名前を思い出し、御茶ノ水橋を「お金の水橋」だなんて言う。それから自分が九州から上京してきた時に着ていた外套に思いを馳せ、今はなくなってしまった外套探しの旅が始まる。といっても、主人公が住む草加から自分がこれまでに移り住んだ蕨、亀戸へと近郊に赴き、わけのわからないことを思い出したり考えたりするだけの旅なのです。「外套」が「グアム島」に、「先輩」が「シェンパイ」になど、言葉の聴き違いや方言などをしつこく考えてみたりしてね。でも読み進むうちにその映像が浮かんでくるから不思議です。まるでATGの映画のような光景が僕の頭の中でぐるぐると渦巻くんです。自分が立つ橋の向こうにも橋が見える。あれはなんという橋だろう?って聖橋だべっ!湯島天神とかあちしの会社の近くにも話が飛ぶんで苦笑・・・。

一体、これは何なのでしょう?