その日、岩橋が僕を呼んだ。
 「わたなべくん、明日、水海道に行って来て」
 「え、みつかいどう...すか?」
 「茨城県の水海道ってとこだよ」
 「いばらぎけん?」
 「いばらぎって...いばらきのきは濁音が入んないんじゃないのお!!」
 「あ、そうなんすか?」
 「編集長、いばらき...って、大阪の茨木市みたいなもんですか?」
 穂田がニコニコしながら話に割って入って来た。穂田の好奇心の強さだけは人三倍だ。
 「筑波嶺(つくばね)連合会の1000キロレースで総合優勝した鳩の取材だよ」
 「ええ、でも明日は日曜じゃないですか。それに、そんな遠くまで嫌ですよおおおお」
 「何言ってんのよお...。オレなんか明日から大阪の花野井さんとこに3日もつめなきゃなんないんだぜ。日曜なんか認めないよん。旅行できて、いいんじゃないのお!!」
 「旅行? って茨城すよ! ちょっとそこまでって感じじゃないすか? それに編集長は大阪にギャンブルと女買いに行くんじゃないすか...」
 「なに言ってんのよお!!変な言いがかりつけないでよおお!!これでも大変なんだから...へへへへ」って言いながら月刊「アララ」のグラビアページを眺めている。「蜂のひと刺しおばちゃんのヌード」が掲載された号で、書店ではすぐに売り切れちゃったらしい。
 「ああ!蜂のひと刺しヌードじゃないですか? この人...おばちゃんだけどなかなかですね」穂田が嬉しそうに岩橋の横で「アララ」を覗いている。
 「穂田さんは?穂田さんが行けばいいじゃん...」卑怯な僕は穂田にふろうとした。
 「なああに言ってんのよおお! 穂田くんは上総連合会の岩田さんのとこに行かなきゃなんないでしょ?」
 「え、穂田さんは茂原に行くの?」
 「へっっへえええ...なんなら変わる?」ニヤニヤしながら穂田が言った。穂田は少し放浪癖があるから知らない土地に行けるならばどこでもいいのだった。好奇心だけで生きている様な男なのだった。
 「水海道も茂原も変わんないよ。いいすよ...。水海道に行きゃいいんでしょ?」 僕はふてくされて岩橋に向かって言った。
 「なに、その態度...文句あんのおお?」岩橋がアオッチロイ顔を赤くして言った。
 「わーっりましたよ!水海道に行ってきまあすっよ!!!」
 「いい返事...いいんじゃないのおっ!!!」
 「ふぁあいいい...」
 「編集長...おばちゃんって最高すね」
 「そうでしょお? 40歳超えると脂が乗ってくるんじゃないのお!」
 「あ、オレはカメラ準備しようっと...」
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 凄い!久々の邦画大傑作である。邦画...正確には朝鮮系の方々が演出と監督を務めているので純粋な邦画とは言えないかもしれない。それはまたあとで...。

 「フラガール」...これは昭和40年の福島県いわき市(当時は平市だった)でのお話である。昭和40年といえば僕は8歳である。オナニーも知らない純粋チルドレンであった。僕はそのいわき市生まれなのだが、僕たち一家は生まれてすぐにいわき市を離れ、福島県内だけでなく東北地方内を彷徨うことになるのだ。移民の歌である。ツェッペリンである。あ、叔母さん(父の妹)は今でもいわき市に住んで幼稚園を2件営んでいるのよ。僕たちが放浪生活したのは、父が「太平住宅」っていう会社の営業課長だったので4年毎に転勤を強いられていたのだ。

 昭和40年の頃には福島県(その頃は福島市)から青森県(青森市)に引っ越した頃だ。僕たちは父の運転する三菱自動車製(多分)の白いクーペ? で福島市から青森市へ向かった。途中の岩手県一関市には母方の親戚が住んでいるのでそこで一泊して、翌日青森市内に到着したっけなあ。

 おっと脱線した。常磐ハワイアンセンターだった。僕が青森に引っ越した同じ頃に常磐ハワイアンセンターが完成したのだ。だからその勇姿?を拝むことができなかった...っていうか子供だからそんな意識ないしねえ。知らなかったよね。

 そんな僕が常磐ハワイアンセンターに行ったのはいくつの頃だったのか忘却したなあ。青森か秋田に住んでいる時でも父が毎年、自分の生まれ故郷の会津(福島県猪苗代町翁島)や母の故郷である一関に帰郷していたので、もしかしたら会津に帰ったそのついでに出かけたのだろうか? うーん思い出せない。でも、うっすらと、いわきの叔母たちと一緒に出かけた記憶がある。いくつの頃かなあ...? でも、ハワイアンセンターに行ったのは、その時のたった1度だけだ。 

 その頃、いわきって町は常磐自動車道も開通していないので、まだまだ田舎だったのだ。遊ぶところは常磐ハワイアンセンターしかなかったのだ。いわき市内だけでなく福島県内を探しても、いや東北中を探しても、いやいや、日本中を探しても...当時はあんなに広大なリゾート施設はなかったのだ。だから画期的で驚異の施設だったのだ。常磐ハワイアンセンターでハワイアンダンスを踊るのは地元の常磐炭坑の方々(娘さんたち)であった。昭和41年1月15日にオープンしたハワイアンセンターは常磐炭坑の地熱および温泉を利用した日本初(だってさ...凄い!)のリゾート施設だった。

 東北と言えば“寒い”のが当り前だが、いわき市は海側に位置するので冬でもなかなか雪は積もることがない。暖かいのだ。福島県というのは奥の会津、そのいわきには常磐炭坑があった。当時まで100年以上にわたって石炭を採掘し続けていた。だが、昭和40年にもなると石炭から石油へと燃料の世代交代が行われつつあった。当然、蒸気機関車も電気で走る電車へと移り変わる時だ。炭坑にとっては辛い時代だ。そういえば総入れ歯...おいらの義父(かみさんの父)も福岡筑豊の炭坑夫出身なのだった。義父は筑豊炭坑の廃坑によって、遥か遠くの千葉まで仕事を求めてやって来たのだ。義父にこの映画を見せたら別な意味で涙することだろう。
 
 常磐炭坑は、会社存続のために次の一手を考えた。それが常磐ハワイアンセンターという一大リゾート施設だったのだ。

 炭坑では掘削時に温泉が湧くようだ。温泉より石炭...と、長期にわたって温泉を捨てて石炭を掘っていたようだ。そこで、その温泉と地熱とを利用して東北のハワイを作ろうとした。ハワイと言えば南方の植物だ。地熱を利用して暖かいところでしか育成できないヤシやソテツやバナナの木を育てた。当時、バナナと言えばまだまだ高価でさ。そのバナナが実を付けているところを見ることができるなんてことは信じられないことだったんだね。バナナを見るために長蛇の列ができたそうだ。
 
 なんだ脱線ばかりだ。すいません。
 
 ハワイアンセンターに行ったことはほとんど忘れちゃっているけど、センターの中に一歩入った時のことだけはよく覚えている。それは...匂いだ。施設内には地熱を利用した大きな温水プールやいくつもの温泉風呂があって、沢山の人の汗のような排泄物のような酸っぱい匂いがしていた。その後、学校でプールに入った時に同じ匂いがしたので...あれは「人の匂い」なのだ。つまり、清潔な匂いではないのだ。

 ハワイアンセンターで凄かったのはハワイアンダンスだ。ズッドドンドンドッドドン...ズッドドンドンドッドドン...てリズムにパッキャッキャッキャって竹の様な打楽器の音が相まって、精神高揚...。舞台の袖からたくさんの女性が現れて、嬉しそうに大きく腰を振って踊るのだった。子供心に恥ずかしくて正視できないのだが、なかなか...めでたいその踊りっぷりに感心したモノだ。

 映画「フラガール」では、僕の微かな記憶通りに女性たちが踊っていた。これがなぜか...凄く嬉しかった。涙が止まらなかった。映画館でもあちこちですすり泣きが聞こえる。僕とは違った思いがそれぞれにあるのだろうが、「人が死ぬことで泣かせない」映画であるから(一部にはあるんだが)この涙は偽善的ではないのだ。

 僕の記憶にあるものではいわきの言葉(方言)だ。「オレがあ...いずでもいっでっぺえ→(語尾発音あがる)」みたいな言語が主役を演じる蒼井優って鼻がつぶれた(でもかわいいの)女の子の口からどんどん発せられるのだ。この子の訛りが一番うまい。プロフィールを見たらこの子...福岡県出身だそうだ。僕ら夫婦も福島×福岡なので互いにこの子には感心した。他の人たちの...特に豊川悦司ってのは何を演じても大根なのだ。女引っ掛けるのはうまいのにさ。トヨエツ...最近は何でも出てる。もううんざりだ。ただし...この映画でもギャグなシーンを演じるのはいいのだ。大根トヨエツもギャグ映画だったりするととってもいいのだ。だからこの映画では惜しい、実に惜しいのだ。方言が下手なのと演技が他と同じってのが駄目なのだ。
 
 南海キャンディーズのシズちゃんってのも演技が下手なわりには凄くよかった。雰囲気なんだろうね。この映画では重要な女優さんであるよ。頑張ったね。あとテレビドラマ「温泉へ行こう」シリーズなどにレギュラー出演している福島出身の池津祥子って女優さんがいい。自分の故郷の映画だから頑張ったんだろうな。公式サイトではレッスン日記を書いています。

 製作は在日朝鮮人の李鳳宇(り・ほんう)。60年に京都で生まれた。韓国映画の「シュリ」や「JSA」などを日本に紹介している。崔洋一監督の「月はどっちに出ている」で邦画制作にも進出した。僕の嫌いな井筒和幸監督の「パッチギ!」もそうだって。

 監督は同じく在日朝鮮人の李相日(り・さんいる)で、74年新潟県生まれ。高校まで横浜の朝鮮学校に通っていたそうだ。大学を卒業すると、今村昌平監督の日本映画学校(新百合が丘にある。当時は僕も従妹と同棲していた町だ)に入学した。同校の卒業制作作品「青~chong~」が、ぴあフィルムフェスティバルでグランプリを含む史上初の4部門を独占したそうだ。その後、02年に「BORDER LINE」、続いて村上龍原作、宮藤官九郎が脚本を書いた「69 sixty nine」の監督に抜擢された。

 「フラガール」では、当時の常磐炭坑夫たちが住む長屋式の町並みやボタ山が出てくる。大半がCG(これがいけない。なんでもCGで済ますなよ)のようだが、妙に懐かしかった。夜の町のシーン...これが韓国映画の「殺人の追憶」の町並みのようだ。炭坑の映像も暗く...昔のフィルムを使った様な物凄い色をしているのよ。色褪せたってかね...。だから冒頭書いたようにこの映画は邦画とは言いながら...制作と監督の二人が在日朝鮮人の方なので、その描きかたが、なんだか韓国映画みたいな雰囲気があるのだ。だからいい。凄くいい。

 なんだかまたまた長くなってしまって申し訳ない。とにかくこの「フラガール」いろいろな意味で昭和40年映画終焉時以来の最高傑作である!!!のだ。だからみんな...見なさいね。というか昨日もがらーんとしている映画館なのに物凄い人がレイトショーに押し寄せていたよ。大ヒットだ!!!
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京橋にある登亭京橋店で食べた「うな重」竹


 最近は内臓脂肪を取ってくれるという「ナイシトール」って漢方薬を飲んでいる。今は2瓶目となる。ま、要は便秘薬なのだ。同様の便秘薬と成分は一緒。だから毎朝のウンの出がよろしい。気分だけ・・・スリム化だ(笑)。

 

 それと・・・やたら疲れるのでよく鰻を食べるようにしている。先週は豊洲から会社への帰り道・・・銀座一丁目駅から歩いて京橋辺りをうろついた。ここらは昔、大好きな国枝史郎先生(神州纐纈城、蔦葛木曽桟ほか)の奥さんの喫茶店だったか、国枝先生自身のダンス教室があったあたりだ。


 先週の金曜(15日)には1年ぶりに会った外資系ベンダのお兄ちゃん(性格良)と秋葉で飲んだ。だいぶ前だが、クリムゾンやデフ・レパードやイエスなんかを前の席で鑑賞できたのは彼のおかげである。

 

 昨日(17日)は、津田沼ディスクユニオンにまたまたCD&DVDを売りに行って、その足で、西葛西のナマコの実家に出かけて、義父の誕生会を行う。西葛西駅前の食い放題しゃぶしゃぶの「温野菜」でオーストラリア牛肉&豚肉食い放題コース」を食べた。追加牛肉は6皿に豚ロース6皿に豚カルビ1皿・・・に、ごはんときしめんで締めた。沢山食った食った・・・。会計をしているときに義父とふたりになって「誕生日おめでとう」って言ったら照れていた。帰りに船橋で横浜六角ラーメンを食べる。不味い!!!頭にきたから、ブドウ2房(写真参照)を衝動買い(笑)した。


 

 今日(18日)は義父の誕生日。別に何もしないで寝てばかりいた。クリーニングをとりにジャスコに行ったくらい。あ、ジャスコで温玉うどんとたこ天ぷらを食べた(笑)。しかし・・・せっかくMTR買ったのに・・・何してるんだ俺?昨日船橋で購入したぶどうを食った。さわやかに甘くてうまいが、あまり食えない。

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