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2015-08-06 21:03:02

9/26(土)第十一回東京電撃映画祭「恋愛死体ROMANCE OF THE DEAD」完成披露

テーマ:ブログ
第十一回東京電撃映画祭「恋愛死体 ROMANCE OF THE DEAD」完成披露上映



阿佐ヶ谷ロフトA
東京都杉並区阿佐谷南1-36-16ーB1
JR中央線阿佐谷駅パールセンター街徒歩2分

2015年9月26日(土曜)
OPEN 24:00 / START 24:30
※このイベントは18歳未満の方、および高校在学中の方のご入場はできません。当日、ご入場の際に身分証(免許証、学生証、パスポート、taspo、住民基本台帳カードなど公共機関が発行する証明書)の提示が必要となります。また、未成年者へのアルコールの販売も固くお断りします。予めご了承ください。

【上映作品】
「恋愛死体 ROMANCE OF THE DEAD」(2015)
「恋愛死体メイキング&インタビュー」(2015)

【トークゲスト】
若林美保
小司あん
鳴瀬聖人
友松直之(監督)
黒木歩(監督)

【ミニライブ】
KARAふる

【サンダーボルトガールズ】
高野駒子
玉姫はるか
bel.(ベル)


若林美保と小司あんと言えば、都内好きモノ諸氏にはお馴染みの二大カルト&セクシー女優であるが、このふたりは実は仲が悪い。クールビューティーVS脱法ロリであるからまさに水と油、仲がいいわけないのである。ところが、このふたりを競演させると非常に面白い化学変化があることは俺作品「尼寺~姦淫姉妹」(2013)「レイプゾンビ4(クローン巫女大戦)」(2014)「緊縛絵師の甘美なる宴」(2014)でもすでに証明済みである。夢の競演をまた観たいという声は多く、それではとばかりに完全新作「恋愛死体(ラブゾンビ)ROMANCE OF THE DEAD」を企画するから金を出せという話を今日もする。エロエログログロにゾンビに食われる若林美保を観たくはないか? あるいは逆にゾンビ化して男を食い散らかす小司あんを観たくはないか? 俺は観たいぞ。だがしかし昨今のVシネマ市場において、誰もエロ&グロのゾンビ作品など作りたがらないし作らせてくれない。我が渾身の企画書は虚しく紙屑の山となる。とりもなおさずテレビに売れないからエロとグロの融合企画はダメらしいのだ。テレビったって何も地上波に限らずCSでさえ放送できないのだから、レンタル&セル市場が壊滅的でCSでの回収見込みがなければ予算も立てられない昨今のVシネマ事情を考えれば、そりゃ誰も作れません。レイプゾンビシリーズをリリースしたアルバトロスでさえそうなのだ。では仕方がない。かくなる上は自主製作するしかあるまい。だから金を寄越せという話をしているのだ。若林美保と小司あんをダブルヒロインに迎え、彼女らを天秤にかける童貞ヒーローには、かの「きんたくん」シリーズで東京電撃映画祭に集うボンクラ親父たちの純真な心をわしづかみにした童貞監督・鳴瀬聖人をキャスティングした。うむ。これからの時代、観たい映画は自分で作るのが正しいジャンル映画ファンのありようであろう。製作費カンパ一口五千円。出資者には2015年9月26日(土)に予定する第十一回東京電撃映画祭「恋愛死体 ROMANNCE OF THE DEAD」完成披露上映の入場権を進呈する。第十一回東京電撃映画祭は本作のワールドプレミア上映であり、一般の入場券は販売しないので、参加するには出資するしかないわけだ。さらに二口以上の出資者には、本編DVDに加え、撮影現場の小司あん&若林美保に黒木歩が密着取材するメイキングとインタビューのオリジナルDVDを進呈しよう。振込先は、幻想配給社 友松直之 三井住友銀行新宿支店普通口座9218139だ。9月26日(土)の完成披露上映当日まで受け付ける。8月末日までの出資者については可能な限りエンドクレジットに名前を入れる(カタカナ表記)のでその際に問題のない名義での振込みをお願いしたい。まだ出資していない方は是非一口、すでに出資した方もさらに追加で一口、二口、三口、がっつり大口でカンパいただきたい。悪いことは言わんから俺に金を寄越せ。そして「恋愛死体 ROMANCE OF THE DEAD」に期待しろ。
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2015-07-22 08:59:10

コラム記事草稿「ゾンビ映画についての私見〜あるいは今更レイプゾンビ作品解説」

テーマ:ブログ
この度ゾンビカフェ委員会より、「日本のゾンビ」についてCafe of the Dead誌上に何か書けとご依頼いただき光栄至極。謹んで受けたはいいが、では何が書けるかというとたいしたことは書けない。俺ごときはただの作り手風情であり、評論家でも研究家でも好事家でさえない。もちろんゾンビ映画は大好きで、そもそも高校の部活でゾンビ映画を撮りはじめたのがきっかけで今の職に就いたわけだし、最初にメディアに俺の名前が出たのは当時(1985)創刊第二号だったVゾーンの自主映画特集の「屍の街」という俺自主ゾンビ映画の紹介記事だったし(隣のページでは「八岐大蛇の逆襲」で樋口真嗣特技監督が紹介されていたというのがいまだに俺の密かな自慢であったりする)、商業映画としても大槻ケンヂの「ステーシー少女ゾンビ再殺談」を原作にした「STACY」(2001)の他、「ゾンビ自衛隊」(2006)「君はゾンビに恋してる」(2010)「レイプゾンビ LUST OF THE DEAD」(2011~14)があり、他の同業の方々と比べても多少はゾンビ映画について詳しいかもしれず、そこを期待されての今回の原稿依頼でもあったのだろう。前記「レイプゾンビ LUST OF THE DEAD」は低予算(250万円)なりのヒットとなって(予算が低いと回収のハードルも低い)足掛け四年の製作でシリーズ5作を数え(2と3は二本撮り300万円、4と5は350万円)、2と3については再編集した「レイプゾンビ2&3 LUST OF THE DEAD アキバ帝国の逆襲」が、2013年にイギリスの「ビフォア・ドーン」カナダの「アンデッド・ウィディング 半ゾンビ人間とそのフィアンセ」オランダの「ゾンビ・クエスト」と並んで「ゾンビ・オリンピック」とタイトルされた企画上映の日本代表として劇場公開された。もっともこの「ゾンビ・オリンピック」は海外各作品の輸入元であるアルバトロスフィルムが「ただリリースするだけだとゾンビ映画ばかりでぶつかり合うかもしれず、どうせなら逆手に取ってまとめてキャンペーン的に宣伝しよう」と画策したものであり、当然日本代表にも自社作品を入れねばならない事情からレイプゾンビなどというキワモノが紛れ込ませていただけたのであって、けして同作が日本のゾンビ映画を代表すると目されたわけではない(社内でさえ反対する声があったと聞く)。実際、4「レイプゾンビ LUST OF THE DEAD クローン巫女大戦」と5「レイプゾンビ LUST OF THE DEAD 新たなる絶望」を再編集した「劇場版レイプゾンビ LUST OF THE DEAD 新たなる絶望」も池袋シネマ・ロサで一週間レイトショー公開(俺自腹興行)したが、各方面から黙殺無視されている。例えばウィキペディアの「日本のゾンビ映画」の項目にレイプゾンビは見当たらない。あまりに低予算過ぎて「ゾンビ映画」どころか「映画」としてさえ認知されていないのかもしれない。とりもなおさず日本の「ゾンビ映画ファン」の皆様は「日本のゾンビ映画」が嫌いである。「ゾンビ・オリンピック」のユーチューブにアップされた予告編集に書き込まれたコメントにも「日本代表以外は面白そう」「日本代表がクソ」「日本でゾンビ映画を作るとどうしてこうなってしまうのか。漫画やゲームにはいいものもあるのに」「そもそも土葬の日本でゾンビものは無理」「日本人の肌質が特殊メイクに向いていない」などといった否定的な意見が散見される。もちろん、クソなのはレイプゾンビであって日本のゾンビ映画を全否定しているわけでもないのだろうが、それでも「ゾンビ映画とは白人が作るもの」と考えるゾンビ映画限定人種差別主義者や白人優位主義者は多いようだ。なぜだろうか。まあ、そんなことを考察してもロクな考えは思い浮かびそうもないので、その問題は放棄して、俺がレイプゾンビを作る際に何を考えたかを開示することで、「日本のゾンビ映画について語る」という本稿の責を果たそうと思う。何、どうせ自分にしか興味のない俺(アイラブ自分)のことだから他人の作品を語るにしても俺ならこう撮るという語り方しかできないことだしな。さて、「レイプゾンビ LUST OF THE DEAD」の基本プロットは「童貞オタクをのぞく世界中の男たちが次々と意識を喪失した不死身のレイプ魔と化し、襲われた女は中出しの毒で即死。彼らレイプゾンビを撃退するにはキンタマを撃ち抜くかチンポを切り落とすしかない」という、まさに思春期男子なら誰でも思いつきそうな馬鹿ネタである。同作はエロホラー的なジャンルの枠で製作されたわけであるが、その手の複合ジャンル作品にありがちなホラー場面とエロ場面の乖離が俺は嫌いである。エロホラーならエロい場面がすなわちホラー場面であって欲しいじゃないか。はいエロタイム、はいここからはホラータイム、というのは避けたい。そこへいくとゾンビがレイプするというのは一挙両得である(むしろエロくも怖くもない! という突っ込みはスルーしよう)。そう言えばアメリカ製思春期ゾンビ映画「デッドガール」(2013)もそんな感じで高校生の主人公が廃墟病院の地下室ベッドで見つけたお姉ちゃんゾンビをダッチワイフ扱いでセックスしておりましたな。ところで走らない走れないゆっくり歩きのゾンビの恐怖は、単独では怖くないけど大勢だったり、こちらもケガをしていて走れなかったり銃が弾詰まりで撃てなかったりすると怖いという、実にドラマチックな基本設定に起因するが、我がレイプゾンビはズボンとパンツを足までズリ下ろしているからそれが引っ掛かって早くは走れないものとした。撃退法の「キンタマを撃ち抜くかチンポを切り落とすか」については言わずと知れたロメロ御大の諸作で語られる「頭を撃ち抜くか首を切り落とすか」のパロディ。物語展開としては、サバイバルする四人のヒロインが都会の死角である神社に篭城し、そこで観るテレビを通して社会の動きを描いた。御大の「ゾンビ」(1978)(「DAWN OF THE DEAD」)でご自身が演じたテレビのコメンテーターが撃退法(というかゾンビの基本設定)を語っていた姿になぞらえて、眼帯のコメンテーターにレイプゾンビの設定を語らせたり、同じく「ゾンビ」のバーベキューを&缶ビールを飲みながら射撃ゲームのようにゾンビを撃つドキュメントふう場面を意識して、拘束したレイプゾンビを的に(陰部破壊の設定を生かしてふんどしに射的の的を書いた)射撃訓練(というか射的ごっこ)する女たちの姿を描いたりした。これは、そもそもゾンビ映画は社会を描かなければいけないと考えたからでもある。そうなのだ。ドラキュラなりフランケンシュタインなりは伯爵とか博士とかが主役なわけだが、ゾンビは主役不在なのである。言ってみれば現象そのものが主役なわけで、キャラクターの不在が、かえってジャンルひとり勝ちというか、昨今の世界的ゾンビ映画ブームにもなっているのではないか。キャラクターものホラーは、キャラクターの魅力(映像表現も含む)が成否をわけるし、あまりにも荒唐無稽になってしまう危険がある。そこへいくとゾンビはウイルスパニック映画の側面を持つし、科学的教育を受けた現代人でも、ああ、そういうことってあるかもとぎりぎり思えるラインなのではないか。新キャラクターを創造するより金がかからないという裏事情もありそうだ。エキストラを集めて特殊メイクすればいいわけだし、特殊メイク的にも「白塗り&汚し」が基本のゾンビは安価に収まる(つまり狼男十人よりゾンビ百人の方が、着ぐるみだか植毛の手間を考えれば圧倒的に安い)。うむ。ゾンビ映画というのは安く作れるのだ(いやまあ、「レイプゾンビ」の250万円とか続編一本150万円というのは極端だとしても)。これは「ワールド・ウォーZ」(2013)を観ればわかる。予告編でもさんざん目にした大群衆ゾンビの壁登り場面は、人件費も特撮もさぞかし金が掛かっただろうと思われ、実際に圧巻であり効果をあげてもいるのだが、それでも同作のクライマックス場面は缶飲料が自動販売機からガタガタ散らかってドキドキとか、ゾンビがあっちを向いているうちにこっそり廊下を走れとか、全然金が必要のない展開になるのだ。そしてそっちの場面の方が壁登り場面よりも圧倒的にドラマチックに盛り上がる。ほら見ろ。ゾンビ映画に金はいらないじゃないか。ところで、同作では別の死病に罹患することでゾンビウィルスに侵されないようにするという、なるほど科学的! なプロットが用意されていた。ふむふむ悪くない。しかし、そこまで科学的にされても困るという気もしなくはない。ロメロ御大の諸作では一度もウィルスへの言及はされていない。御大が我が国のゲームが原作の映画「バイオハザード」(2002)の監督を依頼されて断ったのもTウィルスがお嫌いだったのではないかと考えてみたくもなる。そもそも「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」(1968)でロメロ御大は何がやりたかったのだろう。ジョンルッソによるシナリオ段階ではゾンビではなくイスラム教の食人鬼であるところのグール(屍食鬼)と表記されていたともいうが、なぜまたわざわざブードゥー教などというマイナー宗教の生きた死体の名前を持ってきたのだろう。先行するゾンビ映画と言えば「ホワイトゾンビ」(1932)以来結構あるようだが、ハマーフィルムの「吸血ゾンビ」(1965)(主役はあくまでもゾンビではなく死体をゾンビとしてよみがえらせるブードゥー教司祭だか魔導師だか農家のどら息子)のたった三年後である。「吸血ゾンビ」が特にヒットしたとも聞かないが、あやかろうとしたとか、意識したくなるような琴線に触れるものがあったのだろうか(とは言うもののゾンビという呼称が出てくるのは十年後の続編「ゾンビ」からなのだが)。とにかく御大が作り出し現在まで連綿と続くゾンビ設定の基本は「死体が生き返って動く」「人を食う」「噛まれた人もゾンビになる」の三つであり、単に死体を生き返らせて使役しようというそれまでの(あるいは本来の)ゾンビ像とはずいぶん違う。特に作劇上でも重要な「噛まれた人もゾンビになる」という設定はもともとゾンビのものではなく、ヴァンパイアというかドラキュラというか、吸血鬼ものの設定からの流用だろう。劇中でも引用される「死者がすべて復活」という聖書の黙示録の一節も気になるところだ。ジョンルッソが1999年に「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」の「完全版」と称して追加撮影と再編集をした同作では、噛まれたけど信仰心が強いからゾンビ化しなかった! という神父だか牧師だかが登場して信仰心の大切さをまくし立てたりもする(この「完全版」にロメロ御大は関与していないのだが)。何じゃそりゃあとひっくり返ったものだ。その神父だか牧師だかは狂信者のようなイッちゃった感たっぷりに演出されていたりもして、ははあ、やっぱり宗教的というか、オカルト色を残したかったのだろうか、と考え込んでしまう。ロメロ御大としては、科学一辺倒で世界観を矮小にすることなく、オカルト的な要素を残すことで奥行きというか広がりを持たせたかったのではないだろうか。ちなみに、今や完全に定着したゾンビウィルス設定の初出は、パロディ的続編(原案はまたしてもジョンルッソ)の「バタリアン」(1985)(「Return of the Dead」)だったりする(ウィルスというよりトライオキシン245という薬品なんだけど、軍開発の生物兵器で感染性があるらしいからウィルス性の薬品であろうと推察)。これはこれで最高に面白い作品だし軍事兵器という新発想(当時)も素晴らしいのだが、かたくなにそればかりが踏襲されていると違和感もある。いや、「バイオハザード」シリーズも素晴らしいし、ウィルス設定を突き詰めてもはやゾンビ映画ではないとの突っ込みもある「28日後」(2002)だって素晴らしいんだけどね。それでもふとスペイン製ゾンビ映画「REC/レック」(2007)で、感染源は悪魔憑きの少女で、その少女は暗黒の存在だから暗闇でしか目視できない(でも暗視カメラならモニター可能)などという素晴らし過ぎるプロットを提示されると、もう震えがくる。全身鳥肌もので、おお、もしやこれぞロメロ御大の正統的後継ゾンビ作品ではないのか! と感動に涙ぐんだりする。それがですよ、アナタ。これがハリウッドリメイクされたら悪魔憑き少女の自宅の横には軍の生物兵器開発施設があったってことにされてやがんの。あれには俺も地団駄踏んだものだ。同作の一番凄いところを改変(改悪)してリメイクするのはどこの馬鹿だよ。温厚な俺も怒り狂う。ゾンビはウィルスとか科学だけで語るべきではないのである。さて「レイプゾンビ LUST OF THE DEAD」である。宗教ね。はい。日本の宗教と言えば神道である。ヒロインたちが逃げ込み籠城する場所を神社に設定したのはそういう経緯での発想であった。で、無人と思われた神社だが、先客というかもともとの住人がいる。引きこもり神主である。男なのだがレイプゾンビ化していない。なぜか。信仰心か。いやいや、日本で既成宗教への信仰心を持ち出してもやっぱりピンと来ない。彼は童貞オタクだからレイプゾンビにならないのであった。オタク道こそ現代日本の宗教とも言えよう。これは仏教だが、達磨大師の面壁九年など現代ではニート扱いされるに違いない。つまり面パソ九年の引きこもりオタクこそは宗教的求道の極みと考えたのだ。ちなみにレイプゾンビは人を食わない。というか何も食わない。そういう設定にした。だいたいもともとのブードゥー教のゾンビだって人を食ったりしないじゃないか。ゾンビの「お食い初め」は「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」であり、ロメロ御大は「人が死んで最後に残るのは食欲」とお考えになったのだろう。俺としては二大欲求のもう一方をフューチャーして「人が死んで最後に残るのは性欲」としたのである。そんなレイプゾンビには男性ホルモン・テストステロンの異常分泌が見られるという設定。性衝動と暴力衝動の源であり、レイプホルモンとも呼ぶべきテストステロンだが、童貞オタクは性衝動を萌えで昇華する訓練を積んでいるからテストステロンの分泌が抑制されてレイプゾンビ化を免れるのである。おお、宗教的でありながら科学的だ。理にかなっている。これなら科学的教育を受けた現代人もにっこりだ。ちなみにセックスするゾンビはニュージーランド製ゾンビ映画「ブレインデッド」(1993)でも登場していた。神父ゾンビと看護婦ゾンビがゾンビ同士でセックスして赤ん坊まで産まれてその育児に追われる主人公の奮闘が描かれ、最終的なラスボスはマザコン気味の主人公の母親で、ゾンビ化どころか巨大なモンスター化して、主人公を食おうとするどころかぱっくり開いた太っ腹の中に戻そうとするという、生殖と母性の欺瞞性をも見据えた傑作であったが、監督はかのピータージャクソンであり、まさか後に「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズで世界的な大監督になるとは誰も予想しなかっただろうなあ。俺もぶったまげました。それはさておき。「レイプゾンビ LUST OF THE DEAD」では、レイプされながらも「先っちょだけ」の未遂で救助されたヒロインのひとりが懐妊する。何でじゃ。はい。これぞ新機軸。俺としては、なぜレイプゾンビ化現象が起こったかの理由を提示したかったのである。ウィルスはやめようよ。ウィルスも軍開発の生物兵器ももう飽きたよ。飽き飽きだよ。今更だよ。でも宗教的な味付けは味付けとして、他に科学的教育を受けた現代人にも納得できるトンデモ科学的な解説が欲しかった。そこで進化である。女権拡張とそれに伴う性犯罪の厳罰化は世界的な風潮であり、結果としての少子化もまた然り。求愛をセクハラ、片思いをストーカーと糾弾されては、男たちは萎縮もするさ。セックスを禁止すれば子供が産まれないのは当たり前。レイプを合法化して人工妊娠中絶を厳しく取り締まれば(そもそも人工妊娠中絶は日本の現行法で犯罪行為であるが拡大解釈でなし崩し的にまかり通っている)、もうそれだけで少子化は一挙解決であり、本稿はゾンビ映画を語るものでありフェミニズム論争をする気はないから反論は禁ずる。面倒臭いからいちいち反論するな。はい。そのような男女の断絶という世相を背景に世界全男性のレイプゾンビ化現象は起こったのだ。少子化で人類が滅ぶ前に絶滅回避プログラムが発動したのだ。毒精液の中出しで女は死ぬが、極微量なら進化人類を懐妊するのだ。先っちょだけの先漏れ毒精液でヒロインが妊娠したのは、進化人類だったのである。懐妊ヒロインを囲んで他のヒロインたちは殺すの殺さないのと仲間割れし、絶対産みますと懐妊ヒロインが神社奥の隠し部屋に引きこもると太陽が隠れて世界は暗黒に包まれる。言わずと知れた天の岩戸神話である。おお、宗教的だ。いや、あんまり宗教的になり過ぎてもいかん。そこで時を同じくして核ミサイルが飛んできたことにした。北朝鮮が世界的レイプゾンビ化現象は日本が世界に垂れ流したエログロ映画の悪影響だとして宣戦布告、テポドンを撃ち込んだのだ。暗黒は核爆発後の黒い雨を降らせる黒い雲のせいかもしれない。うむ、宗教と科学の融合展開ここに極まれり。これぞゾンビ映画の王道じゃないか。素晴らしさに自画自賛を禁じ得ない(アイラブ自分)。ちなみにこの「バイオハザード」でも踏襲された核爆発オチはもちろん「バタリアン」へのオマージュでもある。さて「レイプゾンビ LUST OF THE DEAD」であるが、一方でオタク神主を連れ出したヒロインの別のひとりが、脱オタしてセックスしようと誘惑したら、せっかくの童貞オタクもあえなくレイプゾンビ化してしまう。そして彼は、ショッピングモールの隠し階段を生前の残存記憶で突破するフライボーイのようにレイプゾンビの大群を引き連れて都会の死角であった神社に戻って来てラストバトルがはじまるのだ。残るヒロインの日本刀チンポ斬りまくりの末のダイナマイト自爆で神社崩壊。その瓦礫を掻き分けて産まれたばかりの進化人類を腕に抱いてヒロインが現れる。レイプゾンビたちは彼女を襲おうとはしない。それどころかあてもなく歩きはじめるヒロインの後につき従って行進をはじめる。エンディングのゾンビ行進の後ろ姿は、ルチオ・フルチ監督の「サンゲリア」(1979)(「ZOMBIE2」)へのオマージュであったりもする。はい。長々しく語ってしまったがまだ終わらない。そう。ここまでが第一作目であり、続編発注があったのである。続きなんて何も考えていなかったので途方に暮れたものであった。映画製作というものは製作費の中に人件費も含まれるものだが「レイプゾンビ」では有り金全部を現場に注ぎ込み監督料脚本料0円で作ってしまったので、続編を幸いに今度こそしっかりギャラを取って中身スカスカでピンポンダッシュ的に作り逃げする手もあったし実際そうしようと思っていたのだが、そうはいかなかった。ゾンビ映画を作りはじめると止まらないのが俺なのである。実際ノーギャラどころか百万円くらい自腹を切って追加で現場に注ぎ込んでしまった。ちょうど「飛べ! ダコタ」(2013)という真面目映画のシナリオを書く仕事があり、その脚本料で二百万円ももらったので、それを流用したのはいいがどうやって生活してるんだよ俺は。まあ当時高校生の息子のバイト料を盗んだり七十歳超えの老母の年金を騙し取ったり(実の息子に俺俺詐欺を仕掛けられる母の悲哀は想像に余りある)しているわけだが、それは本稿の主題とは関係ないので割愛。さて「レイプゾンビ2&3 LUST OF THE DEAD アキバ帝国の逆襲」であるが、同作で俺がやろうとしたことのひとつはキャラクターゾンビであった。ゾンビ映画はキャラクター不在であり現象そのものが主役と言った舌の根も乾かないうちに恐縮だが、「バタリアン」が名作として後続のゾンビ映画に多大な影響を与えたのは、実は軍事兵器、実はウィルスという新発想(当時)もさることながら、タールマンやオバンバといったキャラクターの魅力にもあったことは論を待たない。「バイオハザード」のカッコいいリッガーやネメシスも、その後継者と言えるだろう。よし、それやろう。キャラクターゾンビである。四つ割れチンポで四人の女を同時にレイプする最強レイプゾンビ・タケシと、ベッドに縛り付けられながら翻訳機を通して「ヤラせてもらえないことがどれだけつらいか」を切々と語る饒舌レイプゾンビ・スネ夫である。この語り場面では「バタリアン」の「もっと脳みそ(モア、ブレーン)!」のパロディとして「もっとマンコ!」と喚かせてみた。世界観としては、男たちのレイプゾンビ化現象が進行しており、世界は女性だけで運営されているが、女ごときにろくな社会が作れるわけもなく滅亡への道を辿っている。だが東京にはまだ男たちもレイプゾンビ化せずに多数生き残っている。なぜか。東京は童貞オタクの街だからだ。彼らは核攻撃後の廃墟の街に新国家を作る。前作で産まれた進化人類の赤ん坊とその母親たるヒロインを現人女神と崇め、アキバ帝国を名乗るのだ。ヒロインが歌うアイドルソングにサイリウムをオタ芸たっぷりに振るう彼らは、レイプゾンビを「リア獣」と呼んで使役し、生き残った三次元女を狩り立てる。「パシらせて」つまりレイプさせて毒精液の中出しで女たちを殺す。自分たちは猫型ロボット不在ののび太であり自分たちを馬鹿にし続けたリアル静香を生かしておけないというわけだ。ウラミハラサデオクベキカ。非モテの復讐である。女たちは豊島区に女村(アマゾン)避難所を作って徹底抗戦、男女の断絶はついに最終局面を迎える。ちなみに女村避難所は、レイプゾンビを研究する女性科学者の研究所も兼ねており、数名の女性自衛官によって防衛されている。イメージとしては言うまでもなくロメロ御大のゾンビ三作目「死霊のえじき」(1985)(「DAY OF THE DEAD」)の舞台となる地下施設である。メインストーリーは廃墟の街に生き残り女村避難所に逃げ込んだ夫婦を追う。この夫はオタクでもないくせにレイプゾンビ化しない。女性科学者はこの夫を研究しようとするのだが、ネタをばらすとこの夫婦はセックスレスだったのである。夫の性衝動は家族愛に昇華されて発動せず、絆ホルモン・オキシトシンがテストステロンの分泌を阻害してレイプゾンビ化しなかったのである。古女房となんか誰がヤるもんかというわけですな。だから夫は避難民女子高生に誘惑されてあっさり転んでレイプゾンビ化するという悲喜劇展開になるのである。ところで「死霊のえじき」と言えば、終末感、閉塞感、特殊造型&メイクの素晴らしさとともに印象的だったのは、博士の調教によってコミュニケーション能力を獲得し、人を襲わなくなったゾンビ「バブ」の存在である。ロメロ御大は三作目にして何をしようと思ったのであろうか。軍人たちの暴動で博士が殺されると、バブは拳銃でその軍人を撃ち殺す。ゾンビにあるまじき敵討ちである。びっくりだ。そういう変り種も面白いと思ったなどという軽いものではない。近年のゾンビブームの盛り上がりに満を持して製作された待望のロメロゾンビ映画の四作目「ランド・オブ・ザ・デッド」(2005)においても、ビッグダディと称される賢者ゾンビが登場し、花火のフェイクに騙されず自動小銃や他の道具を使いこなし水の中も恐れずに進むようになるという進歩を見せ、またそれを他のゾンビたちに教え、知識が伝播する様が描かれ「ゾンビも変わろうとしているんだ」と劇中台詞でも語られる。そうなのか。ゾンビは学ぶのか。進歩するのか。やはり御大はゾンビをただウィルスに侵されて死後も歩き回るだけの死体とは考えていない。冒頭でも「噛まれて死んだらゾンビになる。でも噛まれなくても死んだら人はみんなゾンビになる」とナレーション的な語りが入り、御大自身が「この設定ははっきりさせておきたかった」とコメントしている。やはり御大はゾンビを科学だけでは捉えていないのだ。宗教的黙示録的オカルト的ファンタジー的要素を重要視しているのだ。さて、御大の真意を忖度するのは他の評論家、研究家にお任せするとして「レイプゾンビ2&3 LUST OF THE DEAD アキバ帝国の逆襲」であるが、キャラクターゾンビの極めつけとして、俺も「女性科学者に調教されて女を襲わないレイプゾンビ」を登場させてみた。名前はバブをもじって「さぶ」とした。はい。もう、おわかりですね。これはその筋では有名な老舗のホモ雑誌名にも掛かっており、つまり「さぶ」は女ごときに調教されたのではなく、単にホモだったから女を襲わなかったというオチである。クライマックスではアキバ帝国が女村避難所に総攻撃を仕掛け、女性自衛官の抵抗空しく避難民は全てレイプゾンビに毒精液の中出しで殺され、生身の男であるアキバ帝国民たちは絶倫「さぶ」のアナルレイプによって全滅する。男も女も誰も生き残らない。並行するサイドストーリーとして、進化人類を抹殺する為にアメリカから派遣された女性型アンドロイド米兵の暗躍も描かれるが、こちらの決着は次回に持ち越した。そして4「レイプゾンビLUST OF THE DEADクローン巫女大戦」と5「レイプゾンビLUST OF THE DEAD新たなる絶望」の二本撮りで挑むさらなる続編にして完結編(劇場版はこの二作を再編集して「劇場版レイプゾンビLUST OF THE DEAD新たなる絶望」としたのは前述の通り)。まずゾンビ映画としてやりたかったのは、基本中の基本、「ゾンビに襲われるサスペンス」であった。前述したが、ゾンビはのろのろ歩きが基本であり動きも鈍く、こちらが万全であれば逃げることも殺すこともできる。だが転んでしまったり拳銃が弾詰まりで撃てなかったりするとそうはいかない。トリフィドみたいなものだ。そこに観客のドキドキハラハラが生まれる。それをしっかりやってみたかった。ええと、ゾンビの動きについて、走るゾンビはファンの評判が悪いようだが、あれはあれで確かに怖い。問答無用な感じがして悪くない。だがやはりゾンビにはゆっくり歩いていただいた方が死んでる感が強調されて情緒がある気もする。「バイオハザード」では、医者とダンサーが共同でゾンビの動きを考案し全エキストラに対して振り付けをしたのだとか。なるほど。肉体のプロがそれぞれのアプローチで検証するわけだ。医者は、脳が死んで神経が麻痺して死後硬直もあるからここはこうなるとかああなるとか、ダンサーは、それを受けてこうしたら見栄えがいいとかどうとか。ははあ、そこまでやりますか。さすが。と感心していたら、そのアンサーでもあるまいがロメロ御大が「ランド・オブ・ザ・デッド」のインタビューで、「ゾンビの動き方にいちいち演出なんかしない。そんなことをすればみんな同じになって個性がなくなる」と語っていた。これはこれでまた、なるほどなるほどである。まあ、固定観念にとらわれずに、作品ごと場面ごとの必要に応じた動きをしてもらうのが一番なのだろう。さて「レイプゾンビ LUST OF THE DEAD 新たなる絶望」であるが、アンドロイド米兵との対決バトルを描くことも宿題として積み残していた。それからあとは、人類進化の決着を描きたかった。女権拡張と性犯罪の厳罰化による少子化で滅亡に向かう人類の、絶滅回避プログラムとしてはじまった全男性のレイプゾンビ化現象であるが、微量の毒精液で産まれた進化人類は当然「両性具有」であった。単為生殖も可能であり、もうジェンダー闘争の必要はなくなるのだ。進化とは滅亡理由の克服の方向に進むはずと考えたからだ。ヒトは進化人類に後を譲って絶滅するのか、それとも男女の断絶を乗り越えて男と女が相互理解し合うことで延命するのか(まあ、サブタイトルが「新たなる絶望」なんだから結末はすでに読めているが)が語られなくてはならず、それにからめて主人公のレズビアンカップルの愛の行方も描かなくてはならなかった。なかなか完結編にふさわしく、伏線回収というか広げた風呂敷は全部畳んだつもりではある。ついでにシェイクしてツイストして世界観丸ごとぶっ潰すことも忘れていない。ああ、何て面白いんだろう(アイラブ自分)。まあ、この4と5についてはまだレンタルショップの店頭に置かれていることだし、これ以上の言及はやめて興味のある人にはレンタルしていただくとしよう。それと言うのも、数年前からツタヤなどの大手のレンタルショップは、DVDをメーカーから買い取るのではなく一年間のリース契約で借りるスタイルになっており、店頭に置かれるのはその期間だけで、あとはメーカーに返却されて廃棄処分となる。たった一年の短い命である。レイプゾンビも1、2、3はとっくにショップ店頭から撤去されて見かけることはない。こんな短期商売でちゃんと回収できるのか心配してしまうが、まあ俺が心配しても仕方ないのでやめておく。ともかく4と5はまだ間に合います。是非レンタルを。という話はさておき。今後の「日本のゾンビ映画」がどこへ行こうとしているのかを想像することはできないが、多くの作品で残酷描写がおざなりになっているような気がして、そこは残念である。もちろん予算のことはあるだろうが、人体破壊描写はゾンビ映画の命である。予算がないならないなりに、特殊造型の工房を回れば他の作品で使用された人体部位が保管してあったり廃棄待ちだったりするじゃないか。頼み込んで拝み倒してもらったり借りたりして、リペイントして使うことはできるはずだ。何なら学生が授業やサークル活動で作ったものを「使ってやる」とばかりに借りることもできるだろうし、いっそ自作するのもよかろう。内臓なら精肉卸業者の店に行けば五千円も出せば結構な量の腸でも肝臓でも手に入るじゃないか。血飛沫にしても大掛かりなコンプレッサーなど必要なく、菜園用の手動噴霧器は数千円だし、その金もなければ百円ショップで入手可能な灯油ポンプ(醤油ちょろちょろ)で逆噴射させれば充分に素敵な血飛沫が飛ばせる。大量噴射には水道にホースをつないでホース内に漏斗で血糊を入れておいて蛇口をひねれば水圧で噴射できる。ホース内の血糊が出切れば透明な水になるから、カットの長さに応じてホースの長さを調節すればよかろう。確かに血糊をブン撒くのはセットを汚すが、食紅(赤に黒を混ぜ、さらに少量の緑を足せばいい発色になる)を使っておけばカビキラーで脱色清掃することができる。とろみのある血糊が欲しければ片栗粉を溶いた水か、オナニー用のローションを混ぜればいい。ただしこれをするとカビキラーが効かなくなったり(特に乾燥するとまずい)、そもそも絨毯や表面加工のない木の床や壁や柱は染み込んでしまうと清掃が難しい。そういう場合は俺が「ゾンビ自衛隊」でやったように最初から透明ビニールシートを敷いたり貼り付けたりしまえばいいじゃないか。整合性や体裁よりも血飛沫は重要なのだ。あるいは、血糊場面をオープンやタイル張りのセット(風呂場とか)に持っていくように作劇するのもよかろう。とにかくその気になれば工夫次第で残酷場面は金がなくても作れるのだ。もちろん規制の問題もある。人体破壊描写をやればまず映倫にR15指定とされるご時世だ。そもそも小中学生がゾンビ映画を観に来るかどうかは疑問だが、問題は映画館だけのことではすまない。残酷描写はセックス描写以上にテレビ放送(CS含む)ではご法度なのだ。そう言えば「レイプゾンビLUST OF THE DEAD」第一作はニコニコ生放送の公式で2013年の夏に「ニコニコホラー百物語」として百本の内外のホラー映画とともに放送されたが、あまりの視聴予約数の多さに当初平日だった放送日を日曜日に変更し、ニコニコ名物の画面コメント書き込み数の多さは百本中でも一桁に食い込む勢いの大反響であった(まあ、突っ込みどころだらけの作品であるから当然コメントは盛り上がる)。にも関わらず、翌年の同企画では「スポンサー判断で」エロ表現と残酷描写があるR15作品はラインナップから外すことになり、2以降の続編が放送されることはなかった。これこのように世間の偏見は強い。自由度を誇るニコニコでさえそうなのだ。CS局は言うに及ばず。番組として作品が売れないということは市場を狭めることに他ならず、これは回収の難易度を無駄に上げることになる。また、それ以前に製作時のキャスティングに難儀するという事情もある。R15指定になると例えばアイドル系のタレントは絶対に使えない。「うちの○○には小学生や中学生のファンもいますからね。ファンに見せられない作品には出せません」と来る。まあ連中も商売なのだから当然なのだろうが、それにしても了見の狭いことだ。プロデューサーどもは回収を見据えてそれなりのキャスティングを求めるだろう。それでも、である。人体破壊描写のないゾンビ映画などゾンビ映画と言えるだろうか。ここは何としても死守したい表現の砦ではないか。しかしながら驚いたことに観客の中にもゾンビ映画に残酷描写が必要ないと考えている馬鹿は結構いるようなのだ。あ、いやいやいかんいかん。観客様を馬鹿呼ばわりしてはさすがに問題がある。御馬鹿様くらいにしておこう。「STACY」は3500万円という一本150万円~250万円の「レイプゾンビ」シリーズに比べると実に十五倍から二十倍予算で製作された。「十五歳から十七歳の少女だけがゾンビ化し、殺すためには百六十五分割しなければならず、家族と恋人だけに『再殺』の権利が与えられる」という大槻ケンヂの原作小説はゾンビものとしてもサブカル恋愛小説としても非常に評価が高く熱狂的なファンも多い。だが、当時十五歳の加藤夏希が主演した俺映画版については(「寄生獣」などで知られる染谷将太の子役デビュー作でもある)、2001年のリリース当時はまだVHSが主流であり、DVDもセル用のみ発売されたがとっくに絶版となり、アマゾンに少量の中古が出回る程度で忘れられたこれはこれで不遇な作品である。2012年にモーニング娘。が演じる舞台にもなり、ファンの絶賛を受けたが、俺も観に行ったし普通に面白かったのだが、舞台だから当然残酷描写はないし血飛沫も飛ばない。まあ、それはいい。舞台と映画は方法論からして違うのだから当然だろう。しかしながらネット上で交わされるファンたちの会話を見ていると、普通にほめていればいいものをわざわざ俺映画版「STACY」を引き合いに出してコキ下ろすことで舞台版をほめるという手合いが多く見られた。「もともと原作ファンだけどグロテスクで汚いだけの映画版とは違って今回の舞台版はとてもよかった」「舞台版で感動したなら映画版は絶対観ないほうがいい」「原作者も映画版はクソだと言っていたが今回の舞台版は気に入ったようだ」といった具合だったが、やはり彼らが最も気に入らないのが「残酷描写がグロ過ぎる」ということであるようだった。グロくない残酷描写って何だよ! と突っ込まずにはいられない。きれいなだけのゾンビ映画なんかゾンビ映画と言えるものか。「STACY」は原作からして切なさがテーマの純愛ゾンビものではあるが、だからと言って残酷描写を省略していいものではなく、残酷描写があってこそ際立つ切なさだってあるじゃないか。なぜわからんのだ。御馬鹿様どもが。くそ。彼らはアイドルファンだからそういう感想になるのかもしれないが、だからと言って「STACY」がガチのゾンビ映画ファンに評判がいいかというと全然そんなことはなく、日本のゾンビ映画研究者の第一人者、伊東美和は著書「ゾンビ映画大事典」の中で「甘ったるいセンチメンタリズムや少女趣味はホラー映画としてのゾンビ映画を期待する人々には邪魔でしかない」「筒井康隆演じる犬神博士の研究室は『死霊のえじき』的に血まみれ、内臓まみれであり、それだけはゾンビ映画好きにも受けるとは思うが、本当にそれだけ」とクソみそである。さらには「(友松は)『STACY』撮影中に妻と離婚し、その原因になった愛人にも見捨てられて、相当センチな心境にあったらしいが、それが少なからず影響しているのかもしれない」って、関係あるか! ケンカ売ってんのかこの野郎、という話はさておき。ともかく我々は規制の強化や世間の無理解やキャスティングや回収の難しさにめげることなく、またゾンビ映画限定白人優位主義者どもからの不当な差別に負けることなく、面白い「日本のゾンビ映画」を模索してゆかなければならないのだ。なぜかというと俺はゾンビ映画を作ることが好きだからである。模索するのが楽しいのだ。文句あるか。
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2015-06-29 15:30:06

7/24(金)第十回東京電撃映画祭 小司あんVS若林美保「恋愛死体」製作発表

テーマ:ブログ
第十回東京電撃映画祭 小司あんVS若林美保
東京電撃映画祭プロデュース作品「恋愛死体 ROMANCE OF THE DEAD」製作発表



阿佐ヶ谷ロフトA
7月24日(金曜)
OPEN 24:00 / START 24:30
前売¥3,000 / 当日¥3,500(飲食代別)
前売はローソンチケットおよび阿佐ヶ谷ロフトWEB予約にて7/3(金)発売!
阿佐ヶ谷ロフトWEB予約ページ
※このイベントは18歳未満の方、および高校在学中の方のご入場はできません。当日、ご入場の際に身分証(免許証、学生証、パスポート、taspo、住民基本台帳カードなど公共機関が発行する証明書)の提示が必要となります。また、未成年者へのアルコールの販売も固くお断りします。予めご了承ください。

【上映作品】
「緊縛絵師の甘美なる宴」(2014)
「痴漢株式会社」(2000)
「きんたくん第3話」(2015)

【トークゲスト】
若林美保
小司あん
有末剛(緊縛師)
石川二郎(監督)
友松直之(監督)
鳴瀬聖人(監督)

【サンダーボルトガールズ】
黒木歩
高野駒子

※上映&トーク終了後、新作「恋愛死体」の撮影となり、希望者はそのままエキストラ参加していただけます。

若林美保と小司あんと言えば、都内好きモノ諸氏にはお馴染みの二大カルト&セクシー女優であるが、このふたりは実は仲が悪い。クールビューティーVS脱法ロリであるからまさに水と油、仲がいいわけないのである。ところが、このふたりを競演させると非常に面白い化学変化があることは俺作品「レイプゾンビ4(クローン巫女大戦)」や、今回上映する「緊縛絵師の甘美なる宴」でもすでに証明済みである。夢の競演をまた観たいという声は多く、それではとばかりに完全新作「恋愛死体(ラブゾンビ)ROMANCE OF THE DEAD」を企画するから金を出せという話を今日はする。エロエログログロのゾンビに食われる若林美保を観たくはないか? あるいは逆にゾンビ化して男を食い散らかす小司あんを観たくはないか? 俺は観たいぞ。だがしかし低迷するVシネマ市場において、誰もエロ&ゾンビ作品など作りたがらないし作らせてくれない。我が渾身の企画書は虚しく紙屑の山となる。とりもなおさずテレビに売れないからエロとグロの融合企画はダメらしいのだ。テレビったって何も地上波に限らずCSでさえ放送できないのだから、そりゃ誰も作れません。レイプゾンビシリーズをリリースしたアルバトロスでさえそうなのだ。では仕方がない。かくなる上は自主製作するしかあるまい。だから金を寄越せという話をしているのだ。うむ。これからの時代、観たい映画は自分で作るのが正しいジャンル映画ファンのありようであろう。製作費カンパ一口五千円。出資者には9月26日(土)に予定する第十一回東京電撃映画祭「恋愛死体(ラブゾンビ)」完成披露上映の入場権を進呈する。二口以上の出資者には、本編DVDに加え、撮影現場の小司あん&若林美保に黒木歩が密着取材するメイキングとインタビューのオリジナルDVDを進呈しよう。振込先は、幻想配給社 友松直之 三井住友銀行新宿支店普通口座9218139だ。2015年7月1日から、完成披露上映当日まで受け付ける。7、8月中の出資者については可能な限りエンドクレジットに名前を入れる(カタカナ表記)のでその際に問題のない名義での振込みをお願いしたい。さておき「恋愛死体(ラブゾンビ)」には若林美保演じるヒロインのダンスステージ場面があり、これを我らが愛と青春の阿佐ヶ谷ロフトAで撮影する。来たる7月24日(金)24時から朝まで第十回東京電撃映画祭として前述の「緊縛絵師の甘美なる宴」(2014)を上映する(緊縛を担当してくださった当代きっての緊縛師・有末剛先生にも当日はトークゲストとしてご参加をお願い中)。もう一本は好評だった石川二郎初期作品発掘企画として「痴漢株式会社」(2000)を上映。さらにファン待望の「きんたくん第3話」(2015)もかける。上映はこれで切り上げ、そのまま怒涛のなし崩しで「恋愛死体(ラブゾンビ)」の撮影をはじめる。深夜3時頃となる予定だから、上映だけ見て帰ろうにもすでに電車はない。そのまま強制エキストラとして観客席から撮影に参加するがいい。さあ、悪いことは言わんから、イベントに来るがいい、そして同時に金を出せ。観たい作品は自分で作る。東京電撃映画祭プロデュース観客参加型作品「恋愛死体(ラブゾンビ)」に参加しろ。(文責友松直之)
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