書物からの回帰


          [ イタリア ピサの斜塔 にて撮影 ]

この湯川&梅棹の対談本は、1967年5月に出版されたものです。この文庫本を自宅に何故か二冊持っていました。それぞれ出版日が違いますので、恐らく、実家を離れて独身時代の一人暮らしのときに、また、この本を買い求めたのでしょう。

最近、IPS 細胞の生成に成功した山中教授の快挙が話題になりましたが、その反面、人間が科学の力で神の領域まで立ち入ってきた今日の状況を鑑みて、再度、この本を手にしました。

この対談が行われておよそ半世紀が過ぎようとしています。そのたったの半世紀で、まるで放物線のような加速度(傾き)で人間の歴史からすると人々の生活を一変するように科学は人類の進歩を支えてきました。

そして、生命、すなわち、発生のメカニズムは神の領域だと思われていたのが科学技術の向上によって人間はそこに立ち入り始めたのですね。

この二人の対談は直接的ではありませんが、科学がそうした状況を生み出す可能性を予見しての対談だったような気がします。

対談形式でまとめられた本は、テーマによっては散漫とした内容になることが多いのですが、「人間にとって科学とは何か」のようなテーマも、下手をするとそうなりがちです。それは、答えが出せない、すなわち、結論を導くことの出来ない話です。

しかし、この本を読めば人間にとって非常に避けて通れない大きな課題に対して、状況分析とひとつの整理をつけてくれた気がします。そして、新たな課題を出してくれています。

これが、文学にたずさわる対談者だったらこうも深く切り込めなかったでしょう。このテーマから物の考えを新たに教えてくれる内容もあって時代を経て現在に至っても参考になります。

目次から追っていきますと、「現代科学の性格と状況」という第一章があります。

この中には、三つの見出しがあり、そこで注目するのは、「情報物理学の可能性」というのがあります。

今は、まさに、情報の時代です。恐らく湯川さんや梅棹さんでも、こんな時代が五十年後に実現するなど想像は出来たとしても、具体的なインターネットの世界まで知るすべもなかったでしょう。

ここで、対談を引用してみますと、湯川さんが、「情報といっても、ずいぶん漠然としていますが、一般に情報という言葉で、どういうことが考えられますかね。あなたなんか、どう考えますか。」と、梅棹さんに質問されると、流石、一流の人類学者ですね。少し長い回答の中で、『可能性の選択指定作用のことだというような言いかたも考えてみると・・・』などと、思考を展開して行きます。

つまり、日常使うような情報の意味は、選択肢があって様々な可能性があるときにひとつの答えを選択して与えてくれるもの、それが一般的な性質の情報ではないかと。

そして、情報は秩序と関係があると言っています。つまり、無秩序あるいは混沌の状態にあるあるものに対して、何かの秩序を指定する。それが情報である。と、言い切っています。

これは、やはり、自然界の生物が無機物から有機物の世界に展開していくとき、そうした素材に対して遺伝子という情報でもって生き物の世界の秩序を形成しているという風な考えから言われているのかなあ~と思いました。

この梅棹さんの発言に対して、湯川さんは同感だといいつつも、ここで物理学のエントロピーの用語を用いて、エントロピーが情報の概念と関係があると言われます。すなわち、情報が集積されていく方向というのは、エントロピーが減っていく方向で、ありふれたものがありふれていないものにするということだというのです。

あと、情報については、アプローチの仕方として情報理論が当初、確率や統計という概念、つまり、数学的理論として出発してきているが、そうした理論にはその情報が伝達される手段というか、それを運ぶもののことまで考えていない、しかし、もし、物理学的アプローチとしての情報物理学を打ちたてようとしたら、情報を乗せる乗り物がどう変わるかみたいな側面まで考えることになれば、それは、まさに物理の問題ということになると述べられています。

無論、生物学においても情報伝達としてDNA、RNA、などの扱いとなれば、情報生物学といったことになるでしょうね。

そうして考えると、生物は物と情報の融合体として捉えることができますね。

その際たるものが、人間ですね。

そして、その人間が科学の力でもって、コンピュータなるものを発明し、ストレージに膨大な情報を蓄積し始めたのですが、どうして人間は止まることなくそのような方向に進み始めたのか?真に不思議です。

エントロピー的にいえばエントロピーが減少していっている。つまり、秩序が構築されていっているのですね。でも、自然界は全体としては無秩序になっていっているという考えと相反しています。

どうも、「現代の科学の性格と状況」の章の締めくくりでは、科学が物理における鋳型のような法則の研究から生物の生殖としてのリプロダクションと情報の関係など、静的世界から動的世界を統一するような統一的世界観に向けて自然科学が進み出しているというお二人の認識が読み取れます。

次に、「科学における認識と方法」の章は、非法則的認識、納得の構造、科学の人類学的基礎、イメージによる展開のタイトルで構成されています。

非法則的認識とは、物理学にとって初期の頃は法則と実態を対として確かめながら学問が進んでいったのですが、素粒子の世界、つまり、量子力学になってくると、そうカンタンに認識できるものではなくなり、理論と事実の関係において統計的・確率的な対応をしていると考えないと成り立たなくなってきています。つまり、データが多ければ納得できるが少ないとそうはいえないという関係になっているのですね。

そこで、『法則性とは何か』ということも考えてみる必要があるということですね。中学、高校で習う程度の物理学では、法則とは必ずそうなるという随分はっきりした法則を学ぶわけですが、ここでは、たとえば歴史と言うものに法則的認識を取り入れて考えるという話も出てきます。つまり、トインビーがそれを試みたのですね。トインビーのように歴史的時間性を抜いた手法は確かに面白いですがどうかな?と思います。

歴史と言うのは、個々に当たってみると一回性の出来事ですから科学的手法によるみたいな法則の導きが果たして成り立つのか?と、思いますね。

『納得の構造』の話しが出てきたのはやはり、人間だから法則性においても万人に納得してもらわんといけない。その納得するとはどういうことか?を語り合っています。

物理学は数学的手法を導入して、法則の正しさを納得させてきたのですが、今日ではコンピューターの演算結果、もしくは、演算から言葉の変換による表現、或いは図形的シミュレーションなどで人はなるほどと納得するものです。

でも、そうした数学のツールで説明できないものもあります。よく、数式ではうまく説明できなくても、直感的に法則性を感じ取る場合がありますね。そうしたことを図や言葉だけで人に説明することで人がお互いに納得しあうことは日常では多々ありますから一般的には納得とはそんな曖昧さを抱えての納得なのです。

曖昧であっても、阿吽の呼吸で納得するのがコンピューターを超えた人間の為せる技なのです。

第三章は、「科学と価値体系」です。これは価値の発生、目的論的追及、むだと未完結性のタイトルが掲げられています。

この本の本題は、どうもこの辺から深く入っていっているようです。

「なぜ人間は科学を生み出すのか、生み続けるのか、それを問わねばならない。次から次へと科学的な思考法を積み重ねていく、次から次へと科学をやる人間が出てくる。これはどういうわけか。それこそ宇宙のジェネレーティブ・パワーみたいなものと、どっかつながっているような気がするのです。科学というものは、なにか根元的なところから出てきよる。その根元的な力は、いわゆる価値などというものから離れたものではないか、いわば科学が次々と出てくるのは、人間存在の根本原理としての一種の生殖作用の延長ではないか。」
と、梅棹さんが述べています。

価値と言う言葉を考えた時に、たとえば、価値とはある物体に価値があると思った人と価値がないと思った人がいたとしたら、それは、それを求めているかいないかのレベル差だと思います。

そのレベル差はどうして起きるかと言うと、欲しいから手に入れたいという目的が強ければ強いほど価値が高くなるからでその目的が無ければ、価値もなくなる。

丁度、需要と供給のバランスにおける価値の変動が、すなわち、それが商品だと価格の変動になりますし、必要性が問われるわけです。必要性とは目的がある無しですから、畢竟、価値は目的がある無しを問うのです。

ところが、「科学には目的がない。」と湯川さんが言われるのです。

日本の科学者としての第一人者である湯川さんがそうおっしゃるのですから、驚きですね。

だとしたら、多くの科学者がなぜその目的のない科学に取り組んでいるのでしょうか?

湯川さんの注目すべき発言に、次のようなものがある。

「実は科学は、そういう無目的な生殖作用みたいなものとつながっている。世界を合理的に納得ゆくように把握し、配列し、記述するような力、そういう性質は、生命のかなり深いところに内在しているように思える。子供を生むのと同じように、理性を働かすのは、生命の大変根元的なところからきているという考え方です。つまり、人間には根元的目的性と根元的合理性とが共存しているんです。ここの構造がもう一つわからんけれども・・・」

これは、とても難しい話ですが、科学は今となっては生命と同じで連鎖的存在になっています。ただ、科学は人間という生命存在の延長線上にあるんですね。

だから、今となっては人間が存在する限り科学は果てしなく突き進むのですが、その科学には目的がないというのだから不思議なものです。

むろん、一般的な思考だと、「何を言っているのだ、科学は目的があるではないか、人類を幸せにする!」なんてことになりますが、湯川さんたちが言っていることは、そんなことじゃありませんね。道具としての価値のある科学のことを言っているのではないのです。

科学を道具という事に限定すれば道具には使う目的がありますから、道具は目的のためにこしらえられたことになるし、目的をもっているように思えます。しかし、本当にそうでしょうか?たとえば、日本刀は、武士の時代にはもちろん武器ですが、現在となっては博物館においてあれば、骨董品ですね。しかし、これをヤクザが振り回せば凶器ですね。(笑)

つまり、それそのものには実は目的が無く、その運用の仕方で目的が決まるのです。道具とはそういうものですね。

もうひとつ考えてみると、経営の世界ではストラテジーがとても重要です。つまり、語訳では『戦略』ですね。経営学はアメリカが盛んでしたから、英語で表記されることが多いです。で、人は戦略とは何か?とあらためて問いかけた時、「それは、目的だ!」と、言う人がいます。戦略は目的を達成する為の手法であるのに目的だというのです。少し、おかしい気がしますが、その人は、「目的が達せないようなものは戦略にあらず」と言いたいのでしょう。

戦略は目的と合致していないといけないということですね。

科学に目的がないという意味は、科学そのものには自主性がないということですね。それに対して組織的宗教は自主性があり、人を導き、そして、囲うのです。

しかし、科学はあるがままの存在ですが、ふと気が付いたら人間は自然とその虜になって行っている状況になりつつあります。、それも、人間がこの世界から法則を見出して、それを道具にまで仕立て上げ人類の文化に活用するようになってからは、もう、科学を手放すことは出来ず、それを広げていくばかりです。つまりどんどんエントロピーが減少して行っているのですね。

「むだと未完結性」のところで、科学と宗教の面白い対比があります。

科学は、ものごとを説明できないことが非常に多い。それに対して、宗教は、神の恩寵、仏の慈悲でなんでも全部説明できると、梅棹さんが言うのです。笑ってしまいました。

宗教は、そうだなとは思いますが、科学は説明できないものが多いとは、一般人はそう思わないでしょう。すべて科学の力で説明が付くと思って、科学に取り組んでいますからね。つまり、いつの日か?ですけれど、(笑) 賢人というのはとても謙虚なんですね。

もうひとつは、宗教は完結しているが、科学は完結していないそれは丁度生命の継承連鎖と同じみたいなことを言っていますね。

湯川さんは、そこで孫悟空の話を出してきますが、どんなに頑張ってもお釈迦様の手のひらの中、という話です。科学は常に手の外はどうなっているか?まだなんぞあるのだろうか?そんなことを気にするのが科学者だと言っています。

組織宗教は閉じた世界ですが科学は果てしない広がりをもっていますから科学はエンドレスなのでしょう。組織宗教を固体だと考えると、科学は気体を液化あるいは固体化する作業なのかもしれませんね。

その気体を無限と考えるとそうした作業も無限大となるでしょう。

そして組織宗教としての固体は有限だから、もうあとは液化か気化しかないですね。それは、組織の崩壊によってエントロピーが増大する方向になりますね。

しかし、もともと、宗教も組織として確立するまではやはり、気体から液化、そして固体化の方向でエントロピーが減少して行ったのでしょう。

いよいよ、残り少なし、第四章になりました。

「科学とヒューマニズム」というテーマですね。それは、自己拡散の原理、執念と不安、非科学という事、人間中心主義の根拠という四つの話で構成されています。

『自己拡散の原理』の冒頭は面白いスタートです。

梅棹さんが、湯川さんに「先生は小説をお書きになったことがありますか。」と、問いかけると、湯川さんは、「童話ぐらいやったら書けるかもしれませんけれども、小説までは一度も考えたことはないです。一つは小説を書くというのは、結局九十パーセントまで勇気の問題やね。自分の中の障害を突破して書く。これをしなきゃいかんでしょう。一種の捨て身ですわね。そうしなければ、おもしろいものができない。詩や俳句となると話は違うでしょうが・・・・そういう勇気の問題があります。科学というのはあまり勇気と関係ない。」と話されます。それに梅棹さんは同感するのですが、流石一流の学者は達観していますね。

小説を書くには勇気がいると!

それから梅棹さんは、いきなり、科学とは一種の自己拡散の原理であると言い出します。

つまり、自己を消し去って、自己とは無縁な世界に入っていくのですね。極微の世界、無限の宇宙へと関係を持とうとして行くのだというのです。

学者にとっては、日常のことの方がうまく説明できないと言います。だから、小中学校の先生より大学の先生の方がそうした日常の説明をしなくて済む。もっと大事なことをやっていると称している。(研究でしょうね)だから楽になると言っています。(笑)

梅棹さんの雑談ですが、家で猫を飼っていたら病気して、それで、「どうしょうもないと言ったら、奥さんが「動物学者やないか。猫の病気がわからんはずがない」と怒られたそうです。

まあ、極端な例ですね。(笑)

すると、今度は湯川さんが、負けずに、「私の知っている物理学者で、初め大学で電気工学をやった人がある。一級の電気技師の免状をもらった。その人の家があるとき停電になった。そしたら、その人は「連続方程式がなりたっとらん」と、宣言した。つまり、どこかでつながりが切れたということだ。そういうただけでなにもしない。という笑い話を出しました。

まあ、厳密に言えば確かにどちらも専門家ではあるが、その専門もさらに細分されて行きますから、自分の担当外だと皆目検討が付かないものです。

科学が発達すればするしこ人間の仕事は細分化されていく。それは、職業として専門化していくということです。しかし、そこで大きな落とし穴がある。全体を見渡すことが個々の人間には難しくなってくるということですね。

ところで昨年末から、忙しくてこの記事を書き伸ばして怠けていたのですが、そうしているうちに福島の震災による原発事故のその後の原因究明と今後の対策の現状を特集で放映していましたが、驚くべき事実が明らかになっていることを知らされました。

原子力発電というものに対しての運転に関する制御技術は、完成されていますが、万一の事故対策においては放射能の脅威を取り除くことは、現在の科学力で不可能なのですね。

つまり、事故は起きないという前提での運用には問題ないが、大事故が起きるともうどうしょうもないほどの年月が掛かるようです。今回の事故も修復には四十年間掛かると言われています。

そうした状況を鑑みるとやはり、梅棹さんの発言で、「科学をヒューマニズムで操縦することはできない。ただし科学をヒューマニズムでチェックはできる。そういうことでしょうか。」と、言うと、湯川さんが「しかし、それでは手遅れになる恐れがあるわけですね。そこがきわどい話で、わからんものにはチェックできないでしょう。わかったときにまだ手遅れでないなら、それは大いにコントロールすればいいけれども、しかし、わかったときには手遅れやったという事態にならんとも限らん・・・」と、指摘しています。なんだか、福島事故のことを半世紀前に指摘しているみたいですね。

科学は、日常の身近な生活を便利にはさせてくれますが、それに安住していて気が付いたらヒューマニズムではなんともならない状況に人間を追い込む可能性があるということですね。

湯川さんも梅棹さんも、科学は人間主義を裏切っているとずばり言っています。それは、科学技術の発展が実は人間にとって不幸な事態になることを意味するのだろうか?と考えてしまいます。

福島の事故はそれを物語っているのかもしれません。

この間、テレビで鶏の解体を全自動でやってのける食品加工機械による生産過程を見ました。首のないそして羽毛も毟られた鶏がオートメーションで次々と加工機の中に入っていく。。。そして、出てきた時には、見事、色々な部位に分かれて人間の手で切り分けしたみたいに高速でパック詰めされて出てくるのです。それは、私たちがスーパーの陳列棚に並んだ鶏肉のパック商品そのものなのです。

これを見て、リポータも番組の司会者も一緒に笑って見ていましたね。そうです、そうした多量の生き物が次々とマシンに送り込まれて人間の食料として加工されて行くその情景をなんとも思わず楽しそうにリポートしているのです。

深く考えるとある意味でおぞましいことですね。

恐らく、こうした番組の出演者でも、あるときはテレビのドラマやあるいは映画で動物の悲しい物語に涙することもあるでしょう。

つまり、人間の心は科学を手にしたことで二面性をもつようになってしまったのですね。

科学技術とヒューマニズムの融合というのはこういうものを指すのかと思いました。

もう、鶏は人間にとっては生命をもった生物という感覚はなく食品なのです。しかし、それを日々食べている自分という存在を考えると変な立場にあると言えます。

最後の第五章、「科学の未来」は、当為と認識、科学の社会化、究極にあるもの、永夜宵何所為のタイトルで話が進められています。

当為と認識では、冒頭から宗教と科学の大きな違いをお二人は述べられています。

それは、前にも述べられていたように、「・・・宗教は、何でも説明する。一方、科学は何か確信的でない・・・つねに疑惑に満ちた思想の体系なんですね。」と、梅棹さんが言い切り、それに判子を押すように「それが本質だね」と湯川さんが同感される。

それでいくと、未来というものに対する扱いが随分と違っていると言い切ります。宗教においては、未来というものは、だいたいこういうものと断定している。つまり、未来になってみないとわからないという説明はない。たとえば宗教家には、終末観、末世観、あるいはまったく逆の観という色彩が強く、いずれにしてもこうなると言い切るところがあるというのでしょう。

そうでないと宗教としての権威が保たれないと言っていますから、笑ってしまいます。そうでしょうね。先のことはわからない・・・と言えば、歌の文句じゃないけど、「ケ・セラ・セラ」になってしまいますね。

そうした「権威が保たれない」というところはとても、ヒューマン的ですね。その点、科学は未来についてはわかりそうなことも、なってみないとわからないという不確定的な推論しかできないことを認めているわけです。

ここで、もともと人間には『現在』という意味には過去も未来も入っていたものが、科学によって過去、現在、未来というあらたな意味を持つようになったと言われます。これは、なかなか、考えさせられることですね。

さて、ここで梅棹さんは、当為と認識についてかなりの持論を展開されます。特に、『当為』という言葉は日常では使いませんから、少し考えさせられるところです。ここでは、どうも私たちが生きている現在においての『奮起』の方向ということになります。

梅棹さんは、こう言われています。「・・・生命の流れがあるでしょう。現在はこの時点です。 (図には、正規分布図のような作図があって、中央の現在点のピークが当為の方向になっていて、左側が過去に対する認識、そして、右側が未来に対する認識になっています。) そうすると、生命の長い歴史がもっているエネルギーのすべてを、おのれの存在するこの一点において集積し、放出しょうということです。客観的にいえば、ほんとうのところは、どこがどうなっているのかさえもわからない。にもかかわらず、現在の時点でエネルギーのピークをつくろう。それによって、おのれの命は、永劫の未来まで充実し、波及してゆくであろう。実際に波及してゆくかゆかないか知らないけれども、ゆくものとして、自分のところでとにかく全部使ってしまおうという原理なんですこれが『当為』の原理だと思います。・・・・」と、とても重要な発言をされていますね。

そして、『当為』は、生命が根元的に身に備えた性質の一つで、奮起というのはその中でも一番きつい場合だと付け足しています。

そこで、科学と宗教の違いを結論付けています。

宗教は、まさに、その当為を自己凝縮の原理で、科学は自己拡散の原理だと結論付けていますね。

しかし、『科学の社会化』のところでは、科学も宗教と似てきているのかもしれないと、問題を提議していますね。つまり、ひと昔と違って現代には多くの科学者がいて、個人でひっそりとやるような時代から、大勢で取り組む状況になってきていること、それがすなわち、社会的にも組織化となり、当為としてのエネルギーの励起を促している。それは、宗教がたどった道と同じみたいだというのです。

そして、科学の社会化とは、科学がルーティン化しつつある傾向を指しています。二つの言葉で言えば、仕事と作業は違うと言っていますね。

この視点も面白いですね。ルーティン化 = 『作業』 = サラリーマン化という見方です。学者と言うのは、本当によく見抜いていますね。

僕は、気が付いたら教育に深く関わってきたのですけれども、今の子供たちが受験勉強で学習塾なるものに通っているのは、受験に合格する為の教育、その効率化、それはまさにルーティン化 = 『作業』 = サラリーマン化への道にまっしぐらなのです。日本の教育が駄目なところは、ここですね。受験中心教育は、創造的人間喪失の方向に向かっています。

僕が、このことを感じたのは、今から約五十年近い前ですが今は益々そうした教育産業に拍車が掛かって、創造性に富んだ子が少なくなっている気がします。教育産業は、儲かる産業のひとつですからね。それは、子供を担保して親から限りないお金を絞りとれますから。

でも、そんなことで騙されるのはやはり、親が莫迦だからでしょう。本当に賢明な親はそうした教育に惑わされずに真の教育を子供に与えているはずです。

読書をしっかりしておけば、受験の為の塾なんて行かなくてもいいのに。。。(笑)

さて、脱線したので話を元に戻しますと、宗教が社会事業化しているのと同じで、科学も社会事業化していっていると位置づけています。ただ、そうした中で、宗教とは違うものがあると言っている。

それは、科学は常にわからないことをいつでも持っている、すなわち、開かれた体系だということです。

それは、ある意味で完結していなくて不安に駆られるというのです。これは、科学が常に、「何故?」を繰り返すことが科学であるからでしょう。これをやらないところが宗教と大きな違いでしょう。

宗教と科学との類似性においての指摘で、「宗教がある時代には大変野生的で、人間の未来を開くかと思えた。それが社会化してしまった。」と、あります。つまり、それが宗教の文明化であるわけですが、科学も同じ道をたどり始めているのは、二人の指摘通りですね。

薬の話!

対談の終わりごろになって、ふたりは"くすり"の話をし出します。どんな話かと言うと、科学の万能性をはっきりさせる決定的なもの。。。それが、くすりだと言うのです。

つまり、人の心をコントロールできる薬!最近は、精神障害者に対しても薬を処方しますね。しかし、ここでは、それとは別に人の心をハッピーにさせるくすりを取り上げていますね。

つまり、安心立命の究極の処方としてくすりがもっとも手っ取り早いというのです。LSDやアヘンは副作用があって身体を壊しますが、もし、科学の力でまったく身体に無害で心に作用できるくすりを人類が手にしたら、もう、宗教も要らなくなりますね。

苦しい修行をしなくても涅槃に入れる。。。涅槃の薬!そんな笑える話が出てきました。これだと、貧富の差があっても、くすりを飲めばみんなハッピーになって、おれますから、そうした社会問題も解決ですね。犯罪も起きませんね。

身体に無害であれば誰だって飲用したくなるでしょう。ストレスがたまったら、はい、一錠!ということで、解決です。

科学技術がそこまで到達したら、人間の生き方はがらりと変わるかもしれません。それは何を意味するのか?ということになります。もし、科学の成果がそうであれば、人間の死に対しても気持ちよく死ねる薬を当然用意するでしょう。

それが、善なのか悪なのか?

ということをつい考えてしまいますが、人間の究極の悩みを科学の力で、くすりという処方で解決できることがどうして悪いといえるのか?と、思ってしまいます。

科学は目的があってはじまったものではなく、できてしもうたもので、そういう意味では、非常に根元的、生命的なものだと梅棹氏は言っています。

それは、人の誕生と同じですね。

そして、生まれてしもうた以上は幸せになりたい、そして結末は、やすらかな死を望むというのはみな同じ願いだから面白い。

最後のところで、梅棹さんがこう言い放ちます。

「私は、神というものの存在が科学によって初めて実体的なものとして考えられるようになったと思う。そういういい方をしてもいいように思います。科学によって初めて、神の実在の可能性を考えることができるようになった。人間自身を相対化し、地球を相対化し、太陽系を相対化する。そういう徹底的な相対化による人間自身の客観化、そしてその結果、なにか人間を超える生物のようなものだって、宇宙のどこかには当然あり得るのではないかという認識が生まれてくる。もしそういう超人間的生物が存在するとすれば、それはまさに「神」ではないか。宗教の場合は、神を『考える』ということとは違うでしょう。宗教では、神というのは、すでに在るんです。神の存在は既定のことです。ところが、科学の場合は、神は考えられるものです。科学によって初めて超人間的存在の可能性が考えられるようになった。まえに出た話でいえば、人間は神と関係を結ぶべからざる存在です。たてまえとしてはそうです。そのはずですけれども、人間は科学によって理性の段階で関係を持つことが可能になってきた。神は、どこかにいるかもしれない。先生はどうお考えですか。」と、言って湯川さんに問われます。

「人間にとって科学とは何か」というこの書物は、人間は究極、何を見出して、そして、何処に行くのだろうという気持ちを引き起こさせます。

それは、人類としての未来を想像するのですが、自分という存在からしてみれば、人類の寿命よりはるかに短い命ですから、もう、あと何年もしくは、あと数十年の残された人生だから、まだまだ科学は発展し、かつ、多くの謎解きに躍進するだろうという気持ちだけですね。

でも、自分の死後というものを考えたとき、神という存在が己を単に有機物としての存在だけで終わらせるということ。。。ただ、それだけなのか?という疑念があります。僕の魂はどうなるのだろう?みたいなことも考えますね。

しかし、大切なことは自分における当為という言葉と奮起について、今やっていることが(教育)まさに、その部分に来ていると実感しつつ、それを成し遂げることだと思っています。

<エピローグ>

この本は、昨年12月に読んだのですが、年を越して五ヶ月後にこの感想を書き終えました。たんなる感想文ですから別に難航したわけでもなく、理由は僕の行動が一変したからです。読書やこうした文章を作ることから、少し遠ざかって行動による経験そのものを大切にするために時間配分が変わったからです。

四月にイタリアに行って来ましたが、やはり、ヨーロッパは何度行っても歴史の古さに圧倒されますね。そして、しっこいくらいの教会の数と荘厳な装飾!まさに、宗教あっての文化です。

ヨーロッパの石畳とレンガの建造物がある中での生活と比べると日本は草むらのまさにうさぎ小屋の生活みたいです。

でも、帰って来るとなんとなくホッとしますね。

そのウサギ小屋的生活人が、科学立国の国民なのですから面白いものです。日本人は、なんといっても平和が好きですね。とても、すぐれたうさぎです。ヨーロッパの文化遺産を見ると、古代日本は千年の遅れを感じさせますが、今は国際的に、立派にすぐれた生活を営んでいます。

日本は治安がいいし、料理も美味しいし、宿泊のおもてなしはよいですね。何が足りないかといえば、あまりに謙虚なので自己主張がないてところでしょうか?平和主義は、思いやりや、譲り合いといった遠慮から来ているのでしょう。

日本人の長所を失うことなく、国際社会にアピールするには、やはり、まだまだ、科学立国としての地位がいりますね。

実直な国民性が科学に対する取り組みにはうってつけですから、若い人の科学に対する取り組みが楽しみです。

そして、ただ科学ばかりに取り組むのでなく、芸術を身近な生活とした環境の中でやることが大切な気がします。科学は芸術と共に育まれる人によって、きっと、変な方向に行かない気がします。

by 大藪光政