上甲振洋(じょうこう しんよう) 1817~1878
振洋は幼少の頃から学問がすきだった
父の拙園(せつえん)について十数年間勉強した後、
本を入れる箱を背負って諸国の師を尋ね、勉強を重ねた
帰郷してからは学問をもって宇和島藩に仕え、貢献した人である
のち安政の頃には八幡浜で私塾を開いて約十六年間、
子弟を教育したが、その学徳を慕って門人となった者が
数千人にも及んだということである
藩校であった明倫館を明治初年(1868)になって明誠館と改めた
この時招かれて再び宇和島に帰り、この明誠館の教頭となった
明治十年(1877)西南の役が起きると振洋は西郷隆盛の立場を
応援した為に政府に捕われ、日夜責問を受けた
振洋はときの政治や教育に欠陥のあることを指摘して
責問に屈しなかった
時の県令(今の知事)岩村高俊は振洋が優れた人物であることを
惜しんで、獄舎に書籍を送って振洋を慰めたということである
振洋は晩年になって中風を患って身体も言語も不自由になったが
尚も筆書きで子弟を教育して教授を辞めなかったという
習字の門下生のみを数えても三千人にも及んでいた
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振洋は幼少の頃から学問がすきだった
父の拙園(せつえん)について十数年間勉強した後、
本を入れる箱を背負って諸国の師を尋ね、勉強を重ねた
帰郷してからは学問をもって宇和島藩に仕え、貢献した人である
のち安政の頃には八幡浜で私塾を開いて約十六年間、
子弟を教育したが、その学徳を慕って門人となった者が
数千人にも及んだということである
藩校であった明倫館を明治初年(1868)になって明誠館と改めた
この時招かれて再び宇和島に帰り、この明誠館の教頭となった
明治十年(1877)西南の役が起きると振洋は西郷隆盛の立場を
応援した為に政府に捕われ、日夜責問を受けた
振洋はときの政治や教育に欠陥のあることを指摘して
責問に屈しなかった
時の県令(今の知事)岩村高俊は振洋が優れた人物であることを
惜しんで、獄舎に書籍を送って振洋を慰めたということである
振洋は晩年になって中風を患って身体も言語も不自由になったが
尚も筆書きで子弟を教育して教授を辞めなかったという
習字の門下生のみを数えても三千人にも及んでいた
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