四代村年公 宝永2年1月16日 - 享保20年5月28日
(1705年2月9日 - 1735年7月18日)
三代宗贇公の三男、母は中里氏(側室で宇和島藩士の娘)
正室は仙台藩主伊達吉村の娘、富姫
幼名は伊勢松、伊織、初名は宗貞(むねさだ)、貞清(さだきよ)
のちに義父の伊達吉村より偏諱を賜って村年に改名した
正徳元年(1711)父が亡くなり、七歳で封を継いだ
享保二十年五月(1735)参勤交代で帰藩途中、病に罹り
加古川駅で亡くなった 享年三十一歳
その政策は製紙を奨励し、植林を勧め濫伐を戒め
漁業、商業の発展に力を尽くすなど産業を奨励し、
藩の財政を豊かにするため努力した
享保の大飢饉の時は飼っていた鳥を放し、軍馬を減らし
侍の給料を減じ、銀、米を借り全力を
領民の救済に注いだのでひとりの餓死者も出さなかった
西墓所の門を潜り供養塔の前を通り真っ直ぐ進んだ突き当たり
左側に四代村年公の墓所
泰雲院殿宗山紹澤大居士
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(1705年2月9日 - 1735年7月18日)
三代宗贇公の三男、母は中里氏(側室で宇和島藩士の娘)
正室は仙台藩主伊達吉村の娘、富姫
幼名は伊勢松、伊織、初名は宗貞(むねさだ)、貞清(さだきよ)
のちに義父の伊達吉村より偏諱を賜って村年に改名した
正徳元年(1711)父が亡くなり、七歳で封を継いだ
享保二十年五月(1735)参勤交代で帰藩途中、病に罹り
加古川駅で亡くなった 享年三十一歳
その政策は製紙を奨励し、植林を勧め濫伐を戒め
漁業、商業の発展に力を尽くすなど産業を奨励し、
藩の財政を豊かにするため努力した
享保の大飢饉の時は飼っていた鳥を放し、軍馬を減らし
侍の給料を減じ、銀、米を借り全力を
領民の救済に注いだのでひとりの餓死者も出さなかった
西墓所の門を潜り供養塔の前を通り真っ直ぐ進んだ突き当たり
左側に四代村年公の墓所
泰雲院殿宗山紹澤大居士
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