効果的に効率よく愛す
優れたクリスチャンであるために、効果的に、あるいは効率よく神と隣人を愛したい。
そう願う人の中には、どれだけ愛を示したかを何らかの方法で量ってみたいと思う人がいます。
たしかに世界中で示された愛をなんらかの形で抽象化して見る事ができたら面白いですね。

さて、車がどのくらい走ったかは以下のように計算できます。
 
時速×時間=距離

長距離を走るためには速度を上げる、あるいは長時間走る、また時速を上げて長く走る必要があります。

時速50km/h × 2時間 =100km
時速100km/h ×1時間 =100km
時速100km/h ×2時間 =200km

 
では多くの愛を示すにはどうしたらいいでしょうか。
言うまでもなく愛を量ることはできません。
それである人たちは、示された愛の形と愛を示すために使った時間を計ろうとします。
 
示した愛の形×それにかけた時間=愛の量
 
愛に優劣なんて冒涜的だと思う人もいるかもしれません。
しかし、満腹時に嫌いな食べ物を人に譲るのはさほど難しくありませんが、空腹で死にそうなときに大好きな食べ物を人に譲るのはやさしいことではありません。
すっかり飽きたつまらないゲームを親友に貸すのと、買ったばかりのゲームを親しくもない知人に貸すのとでは大違いです。
後者のような貴重な犠牲は一瞬のものだとしても深い愛情の表明ということができます。
 
しかしこのような深い愛は神の目に明らかですが、人の目に明らかかというと必ずしもそうではありません。
客観的に計測可能なものでなければデータとして残して比較することは不可能です。
人の目に量れない深い愛が、愛を計測する人々の間ではあまり人気がないのも無理はありません。
 
あるものは百倍,あるものは六十倍,あるものは三十倍

それで愛を計測することに熱心な人の間では、愛を分類して時間で測って計測することの方が人気があります。 

内容のいかんによらず神に祈る×それにかけた時間
内容のいかんによらず子どもに話しかけてやった×それにかけた時間
内容のいかんによらず聖書の話をしてやった×それにかけた時間

 
という具合ですね。
ここでは一人に一時間愛を示すことを仮に1loveという単位で考えて見ましょう。

ところで、車を走らせるにはよい整備と燃料と時間が必要です。
私たちが個人的に愛を表すにも時間、体力、資力といった資源が必要です。
そしてこれらの資源はいずれも限りがあります。そこで限りある資源をいかに有効に使うか、という課題が出てきます。
 
このように考えると誰かに聖書を説いて聞かせることは、実にすばらしい愛情表現ということができます。
神について証しするなら、神と人の両方に一度に効率よく愛を示してあげられます。
一粒で二度美味しい。まさに一石二鳥というわけです。


(神への愛+隣人への愛)×それにかけた時間=愛の量
2時間 2(1+1)=4love
 
さらに神と聖書についての知識を継続的、包括的に与えてあげるなら、その人が神に献身する道を開く機会になり、さらに効率がいいと考えるかもしれません。


(神への愛+隣人への愛×悔い改めて救いを得るチャンス)×それにかけた時間=愛の量
1人に2時間 2(1+1∞)=4∞Love


その理屈でいくともっとすごいのは一人で一度に大勢の人に聖書を説いて聞かせることです。


((神への愛+仲間への愛×人数)+(隣人への愛×悔い改めて救いを得るチャンス×人数))×それにかけた時間=愛の量
50人のエホバの証人と2人の研究生に1時間 2((1+50)+(2∞))=106Love


30人より40人、100人より1000人に聖書を説いて聞かせる。
書面にすれば一度に何万人に説くことも可能です。倍率ドン、倍、倍でさらに倍という具合に愛の量が増えたとイメージすることができます!
このように考えると、すでに神に献身した人に聖書の話をして元気付けたり慰めたりすることはあまり効率がいいとはいえません。


(神への愛+仲間への愛)×それにかけた時間=愛の量
一人に対して一人で2時間 2(1+1)=4love

二人で一人の人に会いに行き、話をするなら効率は半分になります。


(神への愛+仲間への愛)×それにかけた時間 /人数=一人当たりが示した愛の量
一人に対して二人で2時間 2(1+1)/2=2love


さらに、相手の話を黙って聞くだけで聖書について証する機会がない場合を考えてみましょう。
この場合は相手の話を聞いてあげただけで神の言い分を弁護したり賞賛したりしたわけではないので以下のようになると考えられます。

 
仲間への愛×それにかけた時間=愛の量
一人に対して一人で2時間 2(1)=2love


聖書に反する行いをしている人を戒めることはもっとも効率のいい方法です。
なぜなら戒めている人は神に対する忠節を示し、戒めれている本人への愛を示し、全世界の仲間たちを恐ろしい邪悪から保護していると考えられているからです。
ですから式に表すと以下のような計算になります。

 
(神への愛+審議されている人への愛+仲間への愛×全世界分)×それにかけた時間÷人数=愛の量


現在エホバの証人は全世界に700万人ほどいると言われています。
ですから人を一人排斥するということは、排斥された人も含めて700万人の人間と数え切れないみ使い、また神とキリストへの愛を示しているということになります。


2009年、一人に対して三人で2時間だったら 2(1+1+7,046,319)/3=4,697,614Love
※キリストとみ使い、また全世界の集会に参加しているエホバの証人ではない人々への愛を除く



算数大嫌いなみなさんお疲れさまでした。
でもエホバの証人と時間の計算は切ってもきれない関係といっても過言ではありません。
きっと大丈夫ですよね。
 
さて、では次にこの結論と愛が一致するかどうかを考えて見ましょう。
  「わたしにいわせれば、神さまの命令書もお持ちにならないで、
   よくもそれが神さまのご意思だなどと、おわかりになったものだといいたいくらいです。
   たぶん、神さまから、代理人としての委任状でもうけておいでになるのでしょう。

   そうでなければ、とくにこの仕事だけが神さまのご意思で、
   ほかの仕事はご意思にそうものではないなどと、おっしゃれないはずです。」

   マーク・トウェインがヘレン・ケラーの後見人として語った言葉。ヘレン・ケラー自伝

 
神のご意思は人が神と隣人を愛することだとイエスは言われました。神のご意思にかなう愛の示し方とはどのようなものでしょうか?
人は誰かを真剣に愛するようになると、その人のために最善のことをしてあげたいと思うものです。
しかしいったい何が最善かを見極めることはいつもやさしいわけではありません。
私たちは自己満足にすぎない安易なおせっかいで人を苦しめたいとは思いませんが、失敗を恐れて何もしない人にはなりたいとも思わないことでしょう。
ではイエスが弟子たちを愛したとおりに互いに愛し合うとはどのような意味でしょうか。-ヨハネ31:34
 
「神の名の下に」行われてきた悲劇と喜劇
多くの人々は神は善意に満ちておられ、互いに愛し合うことを望んでいると信じています。
ところが、ある人々は神の名の下にのために同じ宗教や思想を持つ敵国の人々を殺し、またある人々は違う宗教や思想を持つ自国の人々を殺します。
また別の人々は神の名の下に不条理な生活習慣を自分自身が遂行するだけでなく、他人にもそれを奨励、推奨します。
そこに見られる甚だしい矛盾とそれを合理化する奇妙な論理を客観的に見るとき、私たちは「思い込みとはなんと恐ろしいものだろう」と痛感するのではないでしょうか。
 
しかしそのような突飛な発想で周囲を唖然とさせる人は、必ずしも頭が残念な人ばかりではないことを忘れてはいけません。
立派な家に育ち、頭脳明晰、博識博学、理想に燃えて、驚くほどの博愛精神を持った人がそのようなびっくり理論で大惨事を引き起こすことはまれではないのです。
ですから私たちは謙遜に、自分の信仰が奇妙な思い込みに基づいていないか、ちょいちょい頭の棚卸をして、心を見つめる必要があります。
 
しかしある人たちは「そういう人は神の導きがなかったんだね」「ていうか聖書読めよ」と考え、聖書を読み、神の導きを得ている自分は安全に保護されていると感じるかもしれません。
では明らかに神の霊感を受けていた聡明なソロモン王はどのような晩年を送ったでしょうか。(列王第一11:7,8)私たちは誰もその種のとんでも理論による暴走から保護されていると考えるべきではないでしょう。
 
『その人の喜びはエホバの律法にある』
私たちクリスチャンは神のご意思は聖書に明らかにされていると信じます。言い換えれば神は人に聖書と矛盾するような方法で愛を示すようお命じになることはないと信じています。ですから私たちは人に愛を示したいと願うとき神のお考えによりいっそう注意深く聖書を調べます。(コリント第一2:15)「神は愛だからです」-ヨハネ一4:8
 
これは免許を取得した人が、どのような運転をすることを期待されているかを知るために教則本を読むのと似ています。
平均的な理解力がある人なら、教習所をパスするために制限時速を超えたスピードで赤信号を突っ切ることが求められているとは考えないことでしょう。
 
ところが、自分の優れたドライブテクニックを最高のものにするためには時にはそのような暴走行為が必要だと考え、公道をサーキットのように走る人は少なくありません。
このような人は「優れた運転とはいかにすばやく目的地につくことが出来るかで決まる」と考えているのかもしれません。
言うまでもなくこれは理性的な判断とはいえません。たとえその人の運転技術がスタントマンも真っ青なレベルだとしてもです。
 
このような考え方をする人は早年周囲を巻き込んで大事故を起こす可能性が極めて高いので、(本人の期待とは裏腹に)大半の人はそのような人には公道に出てこないでほしい、ドライビングテクニックを発揮するのはゲームの中だけにして欲しいと切に願うものです。
  
ではいかに短時間で長距離を効率よく走るかを追求するように、「優れたクリスチャンであるために、効果的に、あるいは効率よく神と隣人を愛する」ことを追い求めるとどうなるでしょうか。
神に対する信仰と聖書の知識をもとめていた幼児は、正しいことをしようと願っているうちに占いや魔術に夢中になり、十代に入ると毎日こっくりさんと呼ばれる交霊術を行う子どもになっていました。どうしてそうなったのでしょうか。

消えない染み
聖書に基づく絵本や教会の礼拝の時間を通して、私は神がきれいな心を愛するのだと考えるようになりました。そこで私はいつも正しいことをしたい、心のきれいな人になりたい、そしていつか神さまのおそばで神さまにお仕えしたいと願いました。
私は罪とは染みのようなもので、きれいな心とは染みや汚点のない真っ白なシーツのようだと思っていました。母親にそう言われたのかもしれません。人の心はもともと真っ白なシーツのように清潔ですが、何か悪いことをするとそこに黒い染みがつくのです。

私は染みを作らないように努力しました。家事を手伝い、買い物に行くと重い荷物をすすんで持ち、妹や弟の面倒を幼いなりに一生懸命にみました。私は手が真っ赤になるほど重い買い物袋を両手に持って、車が運転できない母と一緒に遠くまで家族の食料の買出しに行きました。
「あんな小さな子に重い荷物を持たせて、虐待していると思われるんじゃないかと思ったわ。でも『天国へいけるなら安いもの』って言ってたわね」と、母は当時を思い出して言います。

しかしときには弟をぶったり、嘘をついたり、親の言いつけを守らなかったりすることもありました。そんなとき、私は自分の心に黒い染みがついたと考えてがっかりしました。そして恐ろしいことに染みは毎日増えていきます! 私は染みを消す方法を知りませんでした。私は自分のよい行いで罪が帳消しになるとは考えていなかったのです。
残念なことに幼い子どもがどんなに自分の罪を重く受け止めているのか、気づく人はいませんでした。やがて私はやさしい神父さまのお顔を見ることさえやましくなって来ました。そして神さまと直接話せる祖母のようだったら、神が自分をどう思っているか知ることが出来るのに、と切実に思いました。
そして小学校に上がるころ、私は心霊術に興味を持ちました。ちょっとした怖い話がそのきっかけになったのです。
妹をお与えくださいという祈りをきかれた私は、毎日カトリック幼稚園でイエスさま、マリアさまに祈り、神と聖書に対する知識を深めていきました。しかし仏教徒の両親のもとで幼い少女が聖書を学ぶにはどうしたらよいのでしょうか。

祈りと個人研究
神が祈りをきかれると確信した私は、幼稚園だけでなく家でも食事の前と寝る前にお祈りをするようになりました。あどけない信仰心を微笑ましく思ったのか、母は新聞の口絵にあった美しいマリアの絵を切り抜き、花模様のテープを絵の周りに額のように縁取って私のベッドの枕元に飾ってくれました。

幼稚園ではときどき礼拝堂へ行き、神父さまから神さまについてのお話を聞く機会がありました。おそらく週に一度くらいの頻度でだったと思います。そのほかにはクリスマス会に聖劇と呼ばれる、イエスの誕生を劇にしたものを年に一度上演しました。それが直接聖書について教わる機会のすべてでした。

私は月に一度幼稚園でもらう“こどものせかい”という冊子が大好きでした。冊子にはやさしい言葉で聖書のさまざまな物語や、神について、愛についてのお話が書かれていました。それらは私の生涯に大きな影響を及ぼしました。

たとえばこんな話がありました。ちいさな布団に入った子どもが一人、青い静かな暗がりでなにか考えている絵があります。反対側のページには「ひとりでいても さびしくないの かみさまがいっしょだから」と書いてあります。私は目に見えない神に守られる幸せについて考えました。
またあるとき夏休みの宿題に絵を描くように言われました。
「おひさまをかきましょう」。私は反対側のページに真っ黄色の大きな太陽を描きました。そのページには「だれがおひさまをつくったの?」と下のほうに書いてあります。続いて次のページを開くと「かみさま おひさまをありがとう」と書いてあります。その次のページには「き をかきましょう」と書いてあります。もちろん樹を作ったのは神です。私はその宿題を終えるまでに神がお作りになったさまざまな創造物、そして自分と家族に深く感心し、また感動しました。

また両親は仕事の関係で“アーチブック”という子供向けの聖書物語の絵本も定期購読していまいた。これは薄いつやのある紙をホチキスでとめた本で、欧米の戯画化された挿絵がついていました。私はこの絵本を通してたくさんの聖書中の人物やたとえを知りました。そしてもっと聖書を知りたい、読んでみたいと思うようになりました。そしていま思うと、私は聖書と神のお考えに関する正確な知識が、特に罪と贖いについての知識が早急に必要な状態にありました。
かしわ姉妹は未信者やエホバの証人をどのようにみなしますか

     「まさかあなた、町で出くわすごく普通のひと、文字どおり市井のひとたちに
          ―まあ言葉は悪いかもしれませんが―
     いいドイツ人と悪いドイツ人の区別がつく、なんて思っているわけじゃないでしょう?」

     NかMか アガサ・クリスティー


私たちは誰でも個人として選択のしようのない事情により、人種や教育、宗教的背景によってさまざまなグループの一員とみなされます。しかし誰もがよく知っているように、人はみな違った個性を持っており、自分を誰かのコピーのようにステロタイプにとらえられるとうれしくないものです。

ある人の属するグループを知ることは人を理解するヒントになりますが、

「赤文字雑誌を読んでいる = スイーツ(笑)」
「アラフォー = お局」
「オタ = 非モテ」

といった具合にその人の人となりを決め付ける根拠にすることは避けたいと思います。

「エホ証 = マジキチ」
「自分の宗派以外の宗教 = 邪教」
「未信者 = 不道徳」
「排斥者 = 悪行者」
「背教者 = 嘘つき」
「断絶者 = エホバを愛してない」

という偏った見方は不正確で乱暴です。

どのような団体に属している、あるいは属していないということは友情を築くための絶対的な根拠になるわけではありません。
「どの国民でも神を恐れ、義を行う人は神に受け入れられるのだということがはっきりわかります」とペテロは述べました。(使徒10:35)
価値観や背景の違う人同士は往々にして物事について違う意見をもつものです。
そのような意見の相違を認め合い意見を交換することは、一人では達し得なかった価値ある見解を見出すのにたいへん有益なことも少なくありません。

友情や愛情は合意を強制するものではない
しかしあるグループに属している人々が知識の不足や思い込みによって明らかに間違った見解を信じている場合はどうでしょうか。
そのような場合いくら仲良しこよしで義理があってかわいそうな事情があっても、その団体の公式見解やそこに属する個人の見解には同意しかねます。
友好的な雰囲気の元で話し合い、自分自身が性急な思い込みで勘違いをしていないかもふりかえりつつ誤解を解く必要がある場合もあるでしょう。

とはいえ異なる見解を持っているからといってその人を無知で考えの浅い人、さらには邪悪な人であるかのように考えるならそれはたいへん危険なことです。

イエスは「一人の改宗者を作るために海と陸を行き巡り、それができると、これを自分に倍してゲヘナに行くべきものと」した書士とパリサイ人を強く非難しました。(マタイ23:15)
イエスの弟子として神に献身したものであれば、神とキリストが愛する人を独善的に裁いて非難することなど決してしたくないと思われることでしょう。
「すべての知識に通じていても…愛がなければ、何の価値もありません」とパウロは述べています。コリント第一13:2
 
右の頬を打たれたら
では相手の論議や信条が完全に間違っているばかりか邪悪ですらあるように思える場合はどうでしょうか。
あなたの見解が100%正しい場合は公然と、あるいは匿名でブログコメントや掲示板に
「マジキチ」「死ね、氏ねじゃなくて死ね」
と先方をいやあな気持ちにさせるようなことをはりきって書き、個人的制裁を加えるのが神に献身したものとしてふさわしことでしょうか。
イエスはこのように言われました。

「だれでも言うまじき侮べつの言葉で自分の兄弟に呼びかける者は最高法廷で言い開きをすることになります。だれでも卑しむべき愚か者よ!と言う者は、火の燃えるゲヘナに処せられることになるでしょう」マタイ5:22

私たちは自分が神に代わって人に裁きを下す権利があるかのように振舞いたいと思わないことでしょう。
むしろ「復讐は私のもの、わたしが返報する」という神のご命令を思いにとめ「すべての人にたいして平和を追い求め」たいと思います。ローマ12:19,ヘブライ12:14

また「彼は間違っているから神に撃たれるべきだ」と神の復讐の形にリクエストを出して裁きを要請するようなことのないように気をつけたいものです。「あなた方が裁いているその裁きであなた方も裁かれることになるからです」。マタイ7:1

とはいえ一度目にした誹謗中傷暴論罵倒を温和な気持ちで見つめなおすのは相当な労力を消耗します。
ですから釣られそうになったときはソロモンの次の言葉を思い出すのが得策です。

「人々が話すかもしれないすべての言葉に心を向けてはならない。…あなたの心はあなた自身も幾度となく他の者たちの上に災いを呼び求めたことを知っているからである」伝道の書 7:21,22

そしてブラウザを閉じる、問答無用でコメントを削除するなど精神衛生の維持に寄与することを行います。


というわけで、このブログに寄せられたコメントやメッセージの一部は私の気分で削除されることがあります。あらかじめご了承ください。


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