no movie no life

・・・映画を見て思ったことをツラツラと。ネタバレです。

かなり昔に書いたのも。


テーマ:

この映画を論ずることは、日本の裁判制度そのものを論ずることになるんだろうと思う。
それくらい、「映画」と言うよりはリアルな現実を見せてくれた映画ではないだろうか。
そして、「これが日本の裁判」だとしたら、我々は現状を知らなすぎる。
周防監督は3年間の取材や裁判の傍聴などを続け、脚本を書き上げたと言う。


「痴漢したでしょ?」女子中学生の摘発で現行犯で捕まった青年(加瀬亮)。「ボクはやってない」そう言い続けた彼の行く末は如何に?


警察の捜査、検察による起訴、そして裁判に関わる裁判官、弁護士。
「人ひとりの人生がかかっていること」に対して、彼らはドライだ。彼らにとってそれは仕事、事務、処理のひとつ。確かにそういう側面を求められるべき部分もあるだろう。しかし「慣れ」はずさんさを生み、人の人生を扱う仕事と言うことを忘れてしまう。


だが、それに対して一般国民はあまりにも物を知らな過ぎ、また自分には無関係という風に決め込んでいる。でもこれは、いつ誰にでも降りかかるものかもしれないのだ。いきなり当事者になったら・・・?


一方で、世間が「容疑者」の段階で犯人と決め込む風潮があることも否めない。要因のひとつとして、マスコミの過熱報道もあるだろう。

今日もまた、冤罪の事件の報道がされた。失われた時間は二度と戻らない。


さて、訴訟大国アメリカでは1957年にすでに「12人の怒れる男」が公開されている。
以下は、自分が学生のころ書いた文章だが、2007年の今日観た映画とこの映画で書きたいことはほぼ変わらないので引用する。


「法廷もの」というより「陪審員もの」の最高傑作。

12人の陪審員が被告であるひとりの青年の生死を決める。
しかし結論は全員一致でなければならない。
当初、11人が有罪(guilty、ここでは死刑)1人が無罪(not-guilty)を主張。
11人はその1人(ヘンリー・フォンダ)を説得するが逆に説得され、
ひとり、またひとりと無罪が増え、最終的には全員が無罪になるという結末。


重要なのは、「有罪」と判断するのに、少しでも不確かなことがあれば例え99%疑わしくともそれはnot-guiltyであることだ。
日本語では「無罪」という表現だが、「罪がない」のではない。
「innocent」ではなくあくまでも「not-guilty(有罪ではない)」なのである。


本来、人を裁くのは神の領域である。
しかし、人がせねばならぬとしたら、根底にはperfectがなければならない。
そこに少しでも疑わしいものがあるならば、有罪にはできない。
完全に感情を排し、客観的事実のみを見つめる。
世の中にそういうことのできる人がどれくらいいるだろうか…

しかし、できなくても、人を裁くことの本質を知っているならば、冤罪はきっとなくなるだろう。


もうひとつ、この映画はいかに人を説得させるかがキイになっている。
厄介なのは、感情論に陥っている者、そして差別・偏見を持った者。
この映画でも、被告の青年が黒人だったことが、事を更に複雑にしている。…

訴訟社会アメリカの一片を垣間見れる映画。


(1994.10.2記事)



最後に・・・加瀬亮の演技は良かった。彼は微妙な表情の使い分けが上手だね。


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