セントラル・ステーション(98・ブラジル)
駅、電車、バス、トラック・・・都市にあっては整然とした風景、そして地方にとっては穏やかな自然の風景。思わず旅に出たいと思わせるロード・ムービー。最近見た映画でもあったな・・・などと思っていたら同じ監督の作品だったんですね。若き日のチェ・ゲバラを描いた「モーターサイクル・ダイアリーズ
」のヴァルテル・サレス監督。本作はブラジル映画史上初めてのベルリン映画祭金熊賞受賞作品。
リオ・デ・ジャネイロの中央駅で「代筆業」を営む初老の女性、ドーラ。字が書けない、読めない人たちのために手紙を代筆すると言う仕事だ。彼女の元には、家族に、恋人に、友人に手紙を出したい人々が集まってくる。とある日、アンナとジョズエ母子がやってくる。「あなたを愛してる。もう一度一緒に暮らしたい。ジョズエも父親に会いたがっている・・・」しかし、アンナは不慮の事故で死に、残されたジョズエ。成り行きで、ドーラはジョズエ少年とともに、手紙の住所をたよりに、父親を探す旅に出ることになる・・・
ドーラは決して「完全な善意の人」ではない。代筆人でありながら、託された手紙を投函しなかったりもする。ずるいところだってあるし、旅の途中でお金を託してジョズエから離れ、リオに帰ろうともする。しかし、結果的に、無一文になっても、ヒッチハイクをしながら、時には代筆業をしてお金を得ながら、ケンカをしながら、ジョズエと共に旅を続ける。しかし彼の父親は、転々と住所を変えていて、見つからない。
少年は父親の顔もよく覚えてはいない。そんな彼にドーラはなぐさめのように言う。
「写真なんかないほうがいい。忘れることができるから」
交通網が整備され、リオから遠く離れた地方においても家や道路がどんどんと作られていく。そして、電話、カメラ、テレビ・・・発展してゆく国のあり様。
しかし、当時の識字率はまだまだ低い。ドーラのような代筆業が成り立つのもそのゆえんだ。
しかも、人に頼んで手紙を書いたとしても、無事に届くかは分からないし、相手が手紙を読めるとも限らない。それでも、人々は手紙を出したがる。何故なのだろう。
自分の率直な思いを伝えたい。そして、その思いが、今すぐにではなくても、きっと相手に伝わるだろう。そう、信じているからだ。時としては、手紙の中身が読めなくても、手紙が届くことが重要なのだ。そして、読めなくても、届いた手紙を大事に持っている。
識字率はほぼ100%、一人ひとりがケイタイを持ち、いつも「つながっている」と錯覚しがちな現代日本に住む自分。私自身、便利だとは思うし、メールは簡単なので、もはや文字で会話している感覚に近い。裏返せば、非常に刹那的で、一過性のものだ。保護しない限りはケイタイのメールは消えてゆく。「手紙」のような重みはない。便利さの影で、私たちは、非常に薄っぺらい、ある意味非感情的で刹那的な、味のない世界に住んでいるのだなあ、と、この映画を見て思った。ケイタイによって「つながっている」のではなく、「つながれている」場合だってある・・・
しかし、この映画の中では、人々は深く、人と人とのつながりを信じている。神と人とのつながりも信じている。
旅の終わり。ジョズエの異母兄弟の家を探し当てたドーラは、早朝、持参してきたジョズエの母親の手紙と、その家に届いたと言う父親の手紙をそっと並べて、リオ・デ・ジャネイロに帰ってゆく。その家に、手紙を読める人間は誰もいない。それでも、手紙があることが重要なのだ。きっと後で、重要になってくるのだ。
帰りのバスの中、ドーラは、他人のためではなく自分のために、文字の読めないジョズエに当てて手紙を書く。親子以上に年の離れた2人のは、「手紙」によって、「写真」によって、たとえもう二度と会えなくても、つながっている。静かなラストシーンが、それを証明している。







1 ■手紙^^
カオリさん、こんばんは(^_^)/
カオリさんのレビュー、うん、うん、そうだよな~と噛みしめながら読ませて頂きました。日本とブラジル(公開当時の)の一般人の置かれてる状況の差も感じましたね・・・ 万引きくらいでも撃たれてしまったり・・・・
手紙って後々まで残るし、良いもんですよね~。私はこの映画、とても大好きです!