お泊まり恋愛詩

恋愛詩を集めたブログです。彼氏視点です。

かなりえっちな内容のものも少なくないですが、年齢制限せずにすむよう、端正で遠回しな表現に収めています。また、旧作に手を加えている作品が多いので、現在進行形のものはほとんどありません。更新休止中です。

現在の所、恋愛詩とかな入力方式の「新下駄配列」の主に2つのコンテンツがあります。棲み分けのために、ここにリンクを貼っておきます。よろしくお願いします。

恋愛詩 / 13日間新下駄配列マスターコース

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一々例示して炎上を誘いはしませんが、きょうびの小説作法には、「冒頭部で設定をずらずら書くのは小説ではありません」という趣旨の解説がなされることが少なくありません。説明を嫌い、描写を好む傾向も見受けられ、私はそれらを同根の現象だと考えています。この性向を「説明嫌い」と呼ぶことにします。

この「説明嫌い」は、プロの作家も少なからず冒されているように感じます。しかし、明快な説明で済ませれば表現できるものを、むやみに含蓄を持たせた事例を以て語ることを、私はよしとしたくありません。必要最小限の情報を明確に書くのではなく、不必要な曖昧さや不要な情報を散りばめるのは、芸術家の営為ではなく売文家の小細工です。

可能な限り明確に書く技術によって書かれながら、曰く言いがたいものをも伝えずにはおれなくなり、その結果として読解の難度が高いひとくさりが生まれるのであれば、尤もな事情ですが、伝えるべき内容が簡潔な説明で済む内容ならば、小説であれなんであれ説明で済ますべきです。もし一篇の小説で伝えようとする内容が、説明だけで完結するのであれば、描写や会話が皆無でも構わないはずです。(もちろん、説明だけで完結するということは、ある種のディテールを持たないということですから、チープにならないためにはかなりの工夫が必要でしょう)

もちろん、ノイズを含めるべきではありません。伝える必要のない情報が説明されれば、読者は混乱します。伝達にかかる費用対効果は劇的に悪化します。ですから、必要最小限の内容に絞って、説明をすべきです。しかし、例えば「国内随一の町は大陸の西岸にあり、その北東早馬で3日の距離に荒れ果てた古城、南に5日の距離に現在の王城があった」という環境設定があったとして、それをそのまま書くのではなく、漸次キャラクターの行動や発言を通じて語るべき、などという主張は不適切です。

他に例えば、「彼女は何かにつけそそっかしかったが、可憐な容貌のおかげで許されるのが常であった」「彼は賢い少年であった」という説明を嫌い、エピソードで語るべき、というような主張に対しては論外です。敢えて費用対効果を下げてどうする、としか言えません。もちろん、ここでの費用とは読書の工数、効果は伝達効果です。謎めいた「含蓄」は効果とは言えません。

説明で始まる物語の好例として、中島敦の「山月記」冒頭部分を見てみましょう。
隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山、カク(「埒のつくり+虎」)略に帰臥し、人と交わりを絶って、ひたすら詩作に耽った。下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。
簡潔に、李徴の経歴と性格が説明されています。もしこれをエピソードによって描写するなら、文庫本数冊くらいは費やせるでしょうが、そんなに密度の低い物語を世の中に放流したら、読書家の時間をかなりの程度、無駄遣いさせることになります。

「説明嫌い」の方にもう一つ実例を見て頂くとすれば、「阿Q正伝」の冒頭でしょうか。言語特性に依らない部分ですので、当然日本語訳で構いません(「青空文庫」にも収載されています)。「阿Q正伝」は冒頭の一章をこの風変わりな表題の説明に費やしています。この物語に対する読者の最初の興味は、この風変わりな表題であるはずですから、それを説明することから始めるのが最適解なのです。

現代は映像が氾濫していますし、物語を映像の形式で空想するところから創作を始める人が多いのでしょう。だからこそ描写の過大評価が目に付くのだとは思いますが、第一義的に文章は、画像や動きを伝える媒体ではなく、言語音と意味とを伝達する媒体です。ですから、「説明」は文章に最も向いた表現方法であって、軽んずるべきではありません。

文章を売る、という観点からは、説明を適切に用いると「本が薄すぎてしまう」という問題が生じることも考えられますが(実際、いくつかの本が思い浮かびます)、本の厚みに応じた内容を盛り込めば良いだけです。
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話題に乗り遅れたまま、コメントします。@boin_masterさんの界隈で話題のカギ括弧の重ね書きについての議論です。(2014/7/7追記)元発言者のnoteもご覧下さい。

まずは、元発言に同意できる点について書きましょう。元発言の「かぎ括弧の重書きが書き手に与える視点」で主張されている議論を一般化すると、「文章力の範疇外に属する技法を選択肢として持てば持つほど、同じ時間の修練によって得られる文章力の成長は少なくなる」と言えると考えています。単にリソース配分の観点ではありますが、この観点で、元発言には同意します。

ただし、それが「ズル」と呼ぶにふさわしいのかは疑問です。ここが、同意できない点となります。

保留すべきすれ違いの余地として、
①どこまでを文章力と見なすか?
②文章力以外にどのようなスキルセットを習得したいと考えるか?
の二つがありますが、後者については、物語書きにとって付加価値のあるスキル>文章力 という前提に立って考えています。というのは、例えば、興味深いストーリーに発展しうる初期設定を着想する能力などは、文章力の範疇とは考えづらいからです。

狭義の文章力は、
語彙
 文法
 構文
 修辞
センテンス、パラグラフおよび順次巨視的な構造を形作る構成力
からなると私は考えています。なお、カギ括弧の重ね書きがなぜ修辞の一部分と見なせないのか、については後述の結論がそのまま私なりの根拠となります。

さらに、上記から逸脱する領域、すなわち議論的な領域をざっと分類すると、
 形式に属する境界的な要素
 記号使用(カギ括弧による発話表現、カギ括弧の重ね書き、ふりがな、傍点、数式の使用など)
 レイアウトや文章外の構造の使用(改行・段組・見出し・脚注・挿絵配置・章扉・ノンブルなど)
 タイポグラフィ など
 内容に属する境界的な要素
 論理および意図的なヒューリスティック
 援用・参照源としての教養
 魅力的なキャラクター作り
 社会・組織・人間心理への見識 など
 上記の2カテゴリに収まらない要素
  論文など、各種文体の暗黙のルールの理解
  ネイティブにとって違和感のない方言
  執筆速度 など
となります。別にまだMECEにはなっていません。簡単に束ねた程度の例示集だと思って見て頂ければ結構です。余談ですが、文章の表現する内容の良し悪しが果たして「文章力」に含まれるのかどうか、そこが最も意見の分かれるところだと思いますが、いずれにしても上記のものは文章に付随する要素ではあるものの、それぞれが「文章力」に属するかどうかについては議論的です。

では、こうした境界的な例が様々にある中で、とりわけカギ括弧の重ね書きを否定する理由があるでしょうか。私はありうると考えています。

まず、カギ括弧の重ね書きを採用することによってスポイルされるのは、同時発言のリズム感やおかしみを別の方法で表現する工夫だけです。それはさほど大きなものには思えません。なぜなら、同時に発言されただけではおかしみが生じることはなく、それがなにがしかの前提の上で同時発言されるか、同時発言がなにがしかの影響を生じるかが必要であり、それゆえ、同時発言のおかしみは発言の前後の文章表現に依存しているからです。

その表れとして注目したいのは、なんとなれば、カギ括弧の重ね書きを伝統的なカギ括弧に置き換えても、大して効果は変わらないという事実です。

  「「「それだ!」」」
  声が重なって、誰からともなく笑いが起こった。

  「それだ!」×3
  声が重なって、誰からともなく笑いが起こった。

  「それだ!」
  声が重なって、誰からともなく笑いが起こった。

さほどの違いはありません。もちろん、ここで互換なのは、声が重なったことによる影響に言及しているからですが、逆に、声が重なっただけでそれによる影響が描写されない場面でこの技法を用いても、なにがしかの感興を催す可能性は低いのではないでしょうか。

そんなわけで、私は、カギ括弧の重ね書きを「ズル」と呼ぶのは不適切だと考えます。それはどちらかというと「オマケ」であって、技法として目にとまりやすいものの、文意の理解しやすさの工夫に留まるのではないかと思います。伝統的な表現技法の中で近いものを挙げるならば、傍点がそれにあたると感じています。この技法は修辞とは言いがたいと考えるのも、それゆえです。
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新下駄を打ってきて、同時打鍵の正確さに律速されているな、という感じがあります。タイプ速度が上がれば上がるほど、同時打鍵の正確さに割く神経が大きくなっていくような気がします。

だから、常時左右同時打鍵の方が、最終的には速くなるような気がしています。常時左右同時打鍵であれば、同時打鍵の正確さは必要ない。余った分はキューに溜めていって、揃ったところまでを出力すればよいので、どんなに不正確でも、極端な話、片手で左右交互打鍵しても解釈が乱れることはないわけです(新下駄のように、片手では無理、ということが無くなります)。

つまりこういうことです。
 右→I P H O J K
 左→E G F S D D
こういう入力列があったとして、
 右→      JK
 左→ G   S   DD

こんなタイミングで入力されたとしても、赤文字の時点で左右のペアが揃うので、誤認識しないというわけです。

常時左右同時打鍵の、こういう非常に「ユルい」性質は、NICOLAの打ちやすさの根幹なんじゃないかと思えるシフト操作の「ユルさ」と、同時打鍵の情報密度を兼ね備えられる最高効率配列なんじゃないだろうか、と思うのです。動作数と打鍵数を別に考えなくちゃいけないよ、というkouy氏の指摘も、実は単打と同時打鍵が入り交じっているから議論になるポイントであって、常時左右同時打鍵なら、Qwerty並にざらざら打てるんじゃないかと思うのです。

常時同時打鍵なら、Qwertyで言う左手を「Q~R」「A~G」「X~B」、右手を「U~P」「H~;」「N~.」だけに制限しても、おつりが来る。いっそ、かなと日本語の基本的な記号とENTER/SPACEあたりを「Q~R」「A~G」「B」と「U~P」「H~;」「N」までに限定して詰め込んで、後は左右同時打鍵2ストロークに漢字と省入力を詰めこんでも良いかも知れない。数字は1段目のままでいいし、1段目その他のキーの同時打鍵に特殊記号は余裕で入るはずだし。

新JIS7000字くらいでしたっけ? 13キー×13キーの2ストロークで余裕で全部入りますよね。1ストローク目で確定しないキーセットが入力された場合には、そこから繋がる漢字の中で、直近入力されたセットを画面に出す機能があれば、学習も楽かも知れない。読みが2音節の漢字って多いから、リズムとしてもとても自然なんじゃないだろうか。

この手の、左手分、右手分の入力を内部的にキューに溜めてくれるタイプのキー配列変更ソフトってあるんでしょうか。設定だけで何とかなるなら、折角Googleが日本語Nグラムなんていう素晴らしいものを出してくれているんだし、あれを買って漢直部分を含めて根性で設計してもいいんですが、0から自前で創るのは辛いなあ。多少心得があるとは言え、姫踊子草作者のように、ソフトも配列も、というのはちょっと私には荷が重いです。

配列について、ちょっとチラ裏な話を書いてみました。自分で創る方はどこまでできるか分からないけれど、誰かが創ってくれたら絶対に愛用します。
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