リョウの自転車

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リョウと遠出の散歩ができるようにネットでオーダーした自転車が、本日ようやく届きました!
早速、いつもより少し遠いところにある公園に散歩に行って来ました。





リョウは、とてもこの自転車、気に入ったみたいで、怖がることもなく、ハンドルの真ん中にあるバッグの中から、進行方向の景色を楽しんでいました。





今日は中大江公園へ。
この公園には、宇野浩二(1891年~1961年)の文学碑がある。
天王寺中学校(現、天高ですね!)を経て、早大英文科に進む。
東京に移るまで、多感な青年期までを大阪で過ごした。
大正2年、最初の小説「清ニ郎 夢見る子」を出版する。



 なんか自分の書いたブログやそれを読んで下さった方のコメントなどを久しぶりに読み直してみると案外アメブロもいいところあるな!なんて思い始めた。最近は、ほとんど facebook に偏っていた自分。あちらは実名、アメブロは匿名。匿名だから、心の正直な部分を吐露することもできる。ときどき、アメブロも書いてみようかな。昔のまだお会いしたことのない私の数少ない読者も戻って来てくれると嬉しいな。

 ところでこの今週行われた写真のパーティで、どう見ても小、中学校時代の同級生だと思われる人物を発見した。もし、そうだとすると15歳の時以来だから、うん十年ぶりの再会となる。とにかく、名前が浮かぶのだ。しかし、確かめようもない。私は勇気を出して、失礼ですが、○○さん?相手はびっくりした様子で、あ、そうですが・・・と答えてくれた。やっぱりそうだ。僕だよ、XXだよ!もちろん、思い出してくれた。なんと「天才のXX君やん!」って過分の表現をしてくれた!(すみません、厚かましいとは思いましたが、本当にそう言われたので・・・。多分、相撲の天才!を言いたかったのかもしれません。) 私の家に遊びに来てくれたことも懐かしそうに思い出してくれた。

 いやぁ、ほんまに凄い偶然だ。それにしてもそろそろ認知症が始まって来ているのではないかと思うような年齢に差し掛かってきたが、小学校や中学校の時の記憶はしっかり脳に焼き付いているものなんだな。 名刺交換すると、彼は、大阪では誰もが知っているレストランの重役さん。私と仕事の関係もできそうなので、今度、あらためて会うことになった。

 運命とはやっぱり自分で切り開いていくものなんだな。勇気をださなければもう二度と会うことのない同級生だったかもしれない。


出張中の出来事

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私が汗をかきかき出張中、リョウは保育園で淋しくしていないかなと思っていたら、とんでもない!ナナちゃんと、もうこれは、恋人同士の何物でもないではないですか!先程二日ぶりにリョウと再会。まさかリョウは私が保育園からの報告でこんなことを知っているとはつゆも知らず私の帰りを最大限の喜びの表現で出迎えてくれました♪ ま、いいか。リョウの幸せが私の最大の喜びだから! 

Mother's day

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保育園から、「リョウ君から母の日のプレゼント」ですって戴きました。

でも、リョウは大阪で私と男同士の生活でお母さんはいません。私が母親代わりのようなことをしていることには間違いがありませんが。

リョウの本当のおかあさんは、奈良のブリーダーさんのおうちでまだ健在だと思います。思えば、生後三カ月でお母さんから私がリョウを奪って来たのでした。その日からリョウは私を頼りに生きています。

一度リョウの本当のおかあさんに会わせてあげたい気がします。リョウのおかあさんに私からもリョウを産んでくれてありがとうってお礼を言いたい気持ちで一杯です。

私を産んでくれた母は・・・、いま東京で頑張って生きてくれています。今週末は大阪で仕事があるので東京に見舞いに帰れません。大阪から元気になってくれることをただ祈るばかりです。感謝の気持ちが届きますように・・・。



別離

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きょとんとしたリョウの顔。

実は、なにも知らないリョウです。

今日のこの写真のテーマは「別離」です。

私はまた出張で島根県に来ています。

それでリョウは保育園にお泊り。

彼女が今朝リョウを迎えに来てくれました。

実は、このリョウの大好きなお姉さんとの別れが近づいています。

4年以上もお世話になったリョウの一番大好きな、

誰よりも大好きなおねえさんです。

私は今朝彼女に最後のお別れの言葉を述べ、

お祝いの品を受け取ってもらいました。

彼女は和歌山県の方に嫁いでまいります。

心からおめでとうと申し上げました。

しかし、なにも知らないリョウは

明日が彼女に遊んでもらえる最後の日だということを知らない・・・

この記念撮影の意味も。


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希望の光

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物はそれぞれ固有の色をもっており、いかに光が満ち溢れていても、物自体に色が存在しなければ色として認識することは出来ないが、私は、また、元の色は同じでも当たる光によって色の感じ方は変わるのではないかとも思う。気持ちの問題かも知れないが、夜明けの朝の光を受けた物体には希望が満ち溢れているように思う。この写真の手すりにさえ躍動を感じるのは私の誤解だろうか。

黄昏の風景に沈む物の色には人生の晩年のような哀愁が満ちており、それはそれで美しく物悲しくもあり、私は嫌いではないが。 ダイヤモンドは輝くから魅力があるのではなくて、光を集めるから美しいのだとある人が言った。

そのような人になりたいものだ。

許す

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皇后美智子様が、まだ皇太子妃だった頃、レバノン大統領から贈られたハリール・ジブラーンの詩集『預言者』を愛読されていたという。

 

その1883年レバノン生まれの詩人でもあり画家、彫刻家でもあったハリール・ジブラーンは言っている。

 

「あなたを救う唯一の道は、他者を救うことだ。」と。

 

私は、流行に遅れることなくミュージカル映画「レ・ミゼラブル」を見、ご多分に漏れず、思い切り涙腺を緩めて来た。

 

ビクトル・ユーゴーがこの大長編小説で書きたかったことは、「人を許す」「人を救う」というテーマではなかったか。主人公のジャン・バルジャンは、仮出獄後に再び盗みを働いてしまうが、罪を見逃してくれた司教に感銘を受け改心する。神から与えられたこの命、神との信託によって与えられたこの命であり、神が全ての人を許し給うものなら、また、人も全ての人を許さなければなるまい。

 

許すということは、どんな人をも差別なく愛し救うことでもある。

 

私はキリスト教信者ではない。さしてなんの値打ちもない自分が人を許すなんておこがましいことを言う気もないが、どうしても許せない人がまだまだこの世にはいる。まだまだ小さな心を持ち合わせているのではないかと思う。人間なかなか達観などできないものである。

 

しかし、人の一生とはそんなことと悶々と闘っていく人生ではないのか。そんなことを考えさせられる奥の深い映画であった。

 

それにしても、歌の効果は大きい。歌舞伎などの長唄や、 語り物である浄瑠璃囃子と同じ効果だろうか。ジャン・バルジャンが、コゼットたちに見守られて天に召される場面。物語の主人公の死を迎える劇的な瞬間、その彼の一生の色々な回顧の場面が、なんか歌のチカラで強引に輻輳されて、泣かせます。嗚咽している人もいた。いや、私もそんな風だった。芸の力を知る。感情を昇華させ耳や目を通じて脳に本来のもの以上に感動という刺激を与えるものが芸術なのか。文学や音楽などの芸術というのは本当に素晴らしいものだと思う。

 

結局、コゼットが他の登場者の誰よりもそれほど不幸であったろうかという外野の声は別として・・・

 

人の苦難の一生を3時間に縮めることは脚本上あるいは演出上色々と限界もあるだろう。歌の素晴らしさが与えた感動には、そんなことをあまり気にさせなくする効果が、余りあるほどあったようだ。

 

たまには涙によって心を浄化することもいいことだと思う。

 

人を許すためにも。そして、自分を許してもらうためにも。

 

ところで、そのハリール・ジブラーンの詩に、次のようなものがある。

 

 

について   (神谷美恵子 訳)

 

今度は死について伺いたい、とアルミトラが言った。

彼は言った。

死の秘密を知りたいのですか。

しかし、生の只中にこれを求めないで

どうやって見つかるでしょうか。

 

闇に慣れた梟は盲(め)しいていて

光の神秘を明らかにすることができない。

 

もしほんとうに死の心を見たいと思うなら

生命そのものに向かって広く心を開きなさい。

なぜなら川と海とが一つのものであるように

生と死は一つのものなのだから。

 

あなたの希望と願望の深みに

彼岸についての沈黙の知識がある。

 

雪の下で夢みる種のように

あなたの心は春を夢みている。

夢を信じなさい、

なぜなら夢の中にこそ

永遠への門が隠れているのだから。

 

死ぬとは風の中に裸で立ち

陽の中に溶けることではないか。

呼吸をとめるとは絶え間ない潮の動きからこれを放ち、

何のさまたげもなく昇らせ、ひろがらせ、

神を求めるようにさせることではないか。

沈黙の川から飲むとき

そのとき初めてあなたは真に歌うだろう。

山の頂きに辿りついたとき

そのときこそあなたは昇り始めるだろう。

からだが土の中に横たわるとき

そのときこそあなたは真に踊るだろう。

 

 

難しいことだけど、死というものがなんとなく生きることの目的と100%合体一致するものであるならば、死に対する恐怖は確かに少しばかりは薄まるような気がする。しかし、このような境地に達するためには、今を生きるということをもっと真摯に真剣に深く捉えていかねばならないような気がする。死が怖いということはまだまだ真剣に生きていないのだ。もっともっと人を愛さねばならないのだ。

 

 

 

ジャン・バルジャン(ヒュー・ジャックマン)とフォンテーヌ(アン・ハサウェイ)の鬼気迫る歌が特に素晴らしかった。