2007-12-20 00:00:00

【宗次郎と神谷道場】 現代を生きる活心流道場

テーマ:続・るろうに剣心
瀬田宗次郎が上京したのは1910年のことである。宗次郎は52歳、剣心は60歳(還暦!)であった。剣心の方は飛天御剣流を使えなくなって久しいばかりか、腰痛も患っており、長いこと道場で稽古をするには辛い身体になっていたが、宗次郎はすこぶる健康であった。が、寄る年並みには不安を隠せなかったようで、そろそろほとぼりも冷めている頃と思いつつ上京したようである。

二人は京都での戦い以来、ただの一度も会ったことはなかったが、剣心は彼の来訪を心から喜び、道場をあげて歓待したという。また、どちらから申し出があったのかは定かでないが、門下生に稽古をつけるかわりに、神谷道場に居候することになった。この時期、師範代である塚山由太郎は政務の都合上、正式に脱退し、目録の新市小三郎も肺炎のために一年間ほど道場を離れている。こういった状況をかんがみれば、宗次郎の滞在を望んだのはおそらく剣心の側であろう。

宗次郎はここでしばらく教えてみて、剣術の限界を感じ始めていた。確かに現代流の竹刀剣術は軍人や学生を中心に栄えており、当面衰える気配はなかったが、単なる娯楽や精神修養の目的に変化しているのは否めず、実践的な武術とは言いがたくなってきた。もちろん、彼の得意技である「縮地」や飛天御剣流の神速をもってすれば、相手が大砲だろうが機関銃だろうが怖い物なしなのだが、誰一人として習得できる見込みのある人間はいなかった。

ここで宗次郎は、実践的であることに重きを置いて、体術中心の研究を始める。この頃から神谷道場の稽古項目は大きく変化し、竹刀でパシパシ打ち合う練習は少なくなり、むしろ防具を取って乱取を行うことが多くなった。こうしたことについて師範の薫は特に文句を言わなかった。宗次郎の力量は十二分にわかっていたし、自身の身体もすでに思うように動かなくなり、稽古のほとんどを彼に任せていた。

そして、神谷道場は運命の1926年を迎える。この年、先だって触れた植芝盛平(合気道開祖)が上京したのである。宗次郎はこの報を聞くや否や、手紙を出して道場を訪れるよう伝えた。彼の来訪は7月か8月の暑い日だったと、新市小三郎の日記に記されている。小柄ではあったが、がっちりとした身体で、顔つきは精悍、眼の輝きは稲光のごとしだったという。緋村夫妻はこの若き(といっても43歳だが)武道家を、手厚いもてなしで迎えた。剣心76歳、薫65歳の夏であった。

植芝は、宗次郎が北海道時代、もっとも才能のある男として認めた人物である。剣術、体術は言うに及ばず、棒術や槍術といった、あらゆる武術に通じていた。彼は請われてしばらく道場に滞在し、門下生に稽古をつけることになった。緋村夫妻は植芝の力量だけでなく、その高い志に強く打たれ、やがて彼に活心流の精神を託すことを決意する。が、剣心は翌年、肺炎を患い、活心流の継承を見届けることなく帰らぬ人となった。享年77歳。同年、宗次郎も逝去。享年69歳。死因は不明で、葬儀が神谷道場で行われたことだけが記録に残っている。

それから4年後の1931年3月11日、緋村薫は神谷活心流の師範を正式に引退するとともに、道場の看板を下ろす。そして、道場を含む家屋敷の所有権を全て植芝に譲り渡し、自らは文が嫁いだ島本家の隣に家を借りて隠居し(神楽坂4丁目)、翌年に逝去。享年71歳。植芝はこの道場を「皇武館」と号し、史上初の合気道道場が誕生する。戦後「合気会」と名前を変え、現在に至る。道場移転があったため、現在の合気会本部道場は昔の神谷道場があったところより500メートルほど北に位置しているが、道場跡地は現在神社の敷地の一角になっており、そこには「神谷活心流道場跡」という小さな石碑が据えられている。また、活心流の看板は飾られてはいないものの、植芝家に伝わる品として、本部道場に保管されているということである。
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2007-12-12 00:00:00

【宗次郎と神谷道場】 神谷道場の存亡

テーマ:続・るろうに剣心
漫画では描かれていないが、剣心は雪代縁との戦いの後しばらくして、神楽坂の小さな店舗を借りて薬屋を始めている。幕末に逃亡生活をした頃に薬屋をやっていたように、彼は元来薬草関係には詳しかった。それもそのはずで、戦国時代に発展した飛天御剣流の教えの中には刀傷や病気を迅速に治すための実践的な処置法が含まれていたのである。奥義伝授の後、比古清十郎は自分が調合した薬を「エセ薬」などと言うシーンがあるが、これはもちろんただの冗談で、彼が調合したのはジギタリスを使った本物の強心剤である。

剣心はその後心太郎と改名し(紛らわしいのでこの後も剣心で統一する)、学校にも通って西洋の薬学を学んだ。誠実な人柄のおかげもあって、彼の薬局は当時かなり繁盛したらしい。当時の業務記録を見ると店員を3人も雇い入れており、そのうち1人だった島本喜平が剣心の娘である文(あや:1886年生、長女。緋村家は剣心、薫、剣路、文、夏美の5人家族)と結婚してこの薬局の跡取りとなった。当時の店舗はなくなってしまったが、同じ場所にあるビルの1階には今でも「島本薬局」というのがあり、店内には「創業明治11年、創業者緋村心太郎」という古い看板が飾られている。漢方薬の処方も取り扱っているのが、当時を思わせる。

実を言うと緋村家の家計はほぼ100%がこの薬局によって賄われており、神谷道場は採算が全く取れていなかった。弥彦が師範代に昇格した頃には確かに門下生が30名ほどおり、薫の父である越路郎の頃の勢いを取り戻しつつあったかに見えたが、門下生のほとんどは食うにも困っている学生や奉公人のような身分の者たちで、月謝を納めていたのは警視庁勤務の新市小三郎や実業家の御曹司である塚山由太郎など十指に満たなかった。さらにこういった貧乏門下生が食客として居座ることもあったため、完全に赤字経営だったらしい。居候を許すのは大抵が剣心で、薫は彼のこのような措置に随分不満を持っていたが、最後には拝み倒される形で許すのが常だったという。

後にこの赤字道場にも存亡の危機が訪れる。弥彦の死である(1894年。関連エントリーはこちら )。緋村夫妻にとって彼の死ほどショックだったことはないだろう。二人は1ヶ月もの間、ほとんど食事が喉を通らなかった。現実的なことをいうならば、彼の死が活心流の未来に大きな影を落とすことは間違いなかった。彼以外は他に職を持っている者ばかりで、また道場を継ぐだけの力量もなかった。唯一十分な力量を備えていたのは塚山由太郎であるが、彼はすでにこの頃政界に転身しており、剣術どころではなくなっていた。また息子の剣路は神谷活心流を修めたが、家出しており行方知れずだった(詳細については後述)。

弥彦の死から十数年。後継者の当てもなく、当主の薫も老いるばかり。その折に意外な男がひょっこり道場を訪れた。瀬田宗次郎である。


(つづく)
2007-12-10 00:00:00

【宗次郎と神谷道場】 瀬田宗次郎、北海道へ

テーマ:続・るろうに剣心
志々雄一派の幹部クラスで政府の手を逃れた一人である瀬田宗次郎は、読者の方々のご想像通り、北海道に向かった。最後の登場シーンで、これから暑くなるから北にでも行こうなどと悠長なことを言っていた彼だが、実際のところは政府の追及を逃れるための仕方なしの行動であった。逃げ足だけは速いので(この当時は剣心の影響を受けて、殺生を控えるようになっていた)、捕まることはなかったのだが、執拗に追いかけ回るのには閉口したらしく、僻地に引っ込んでしまった。

この地で彼がどのように生活していたかは定かでないのだが、住んでいたのが現在の札幌市緑区美方町であることが一昨年になって確認された。実は新井赤空作の日本刀を所蔵しているとして、以前に紹介した寿谷博物館(関連エントリーはこちら )はこの隣の上坂町にある。この刀は表向きは寄贈主不明とされているが、現在の館長の祖父に当たる初代館長三田玄十郎氏の意向で秘匿されているというのが定説である。三田氏は宗次郎とかなり親しい間柄だったそうで、この刀が彼から寄贈された可能性はかなり高い。

宗次郎は北海道の地で様々な武道家と出会い、親交を深めたというが、その中に合気道の創始者である植芝盛平がいた。3人が親交を持ったのは日露戦争が終わった後の1908年頃のことで、当時植芝が25歳、宗次郎はなんと50歳であった(生年は宗次郎が1858年、植芝1883年である。剣心と戦いの時点で彼はちょうど20歳)。二人の間には次のような面白いエピソードがある。

植芝が60を過ぎた頃、入門して間もない者の中に貞方源之助なる人物がいた。彼は警察官だったが、どうも師匠や兄弟子の技について信用してないらしく、口答えばかりしていた。そのことを憂いた植芝は、彼が勤務中の頃を見計らって会いに行き、その腰に下げている拳銃で自分を撃ってみろと言った。貞方は仰天して、そんなことできるかと言ったが、植芝は頑として聞かない。何が起きても自分の責任だから、遠慮せずに6発ともこちらへめがけて撃てと言った。

彼の勢いに押されたのか、貞方はおもむろに銃を引き抜き、植芝に心臓に照準を合わせた。距離にして約10メートル。貞方は射撃の腕には自信がある。当時の警視庁射撃訓練大会で3位に輝いた。意を決して引き金を引いた。が、その瞬間、植芝は目にも留まらぬ速さで銃弾をかわすばかりでなく、貞方との距離を半分までに縮めている。慌てた貞方は二発目を発射、これも当たらない。その隙に植芝はもう手の届く位置まで来ている。三発目、と思った瞬間に貞方は植芝に取り押さえられ、地面の上にうつぶせにさせられた。

この驚くべき神業に、貞方はただただ敬服するのみであったが、植芝は、「自分などただピストルの弾を少しかわせるくらいでしかない。若い頃に北海道で知り合った瀬田という男は機関銃の弾を数分にわたってかわしつづけてなお、涼しい顔をしておった。私も彼には到底及ばない。」と言ったそうである。この話は貞方玄十郎の日記に記されている。


(つづく)

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