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2013年06月02日(日) 20時15分48秒 テーマ:森昌子エッセイ

森昌子「人生に乾杯」考

森昌子「人生に乾杯」考

作詞・作曲:浜 圭介 編曲:竜崎孝路
発売:2012年11月21日
新潟だより-人生に乾杯1

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A1 誰かが誰かを 愛してる
   私も誰かを  愛してる
A2 ひとりは心が 寒いよに
   私の心が ふるえてる
B   いろいろあるは 人生は
   きれいな服着て 出かけましょう
C1 赤・青・黄色 どの色も
   心に花を 咲かせてる
C2 ロマンティックな 人生に
   乾杯しましょう 笑いましょう
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A1 誰かが誰かに 涙して
   私も誰かに  涙して
A2 誰でも昔を  なつかしみ
   心に思い出  しまってる
B  いろいろあるわ 人生は
   不思議な出逢いを さがしましょう
C1 少し軽めな靴はいて
   緑の街に でかけましょう
C2 ロマンティックな 人生に
   乾杯しましょう 笑いましょう
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 歌謡曲や流行歌とは、いったいなんだろう?世代により、人により、そのイメージは違うだろうが、ある世代から若い人はもうこの言葉を使わない。定義しようとしても、とても一言ではいえないし、そもそも定義できそうにない。それは次のような事情によるものだと私は思う。

 日本固有のポピュラー音楽は民謡だが、明治時代に政府主導で西洋音楽が日本に入ってきた。学校の音楽教育にも取り入れられ、「長音階」と「短音階」からなる西洋音階でできた音楽を国民に定着させるべく、多大な努力が続けられた。しかし、西洋音階の大衆化はそう簡単には進まず、唱歌には歌いやすいように日本の五音音階に近い音階が使われた。いまでも歌われている「蛍の光」や「旅愁」は、日本の歌だと思っている人もいるかもしれないが、前者はスコットランド民謡、後者はアメリカ作曲家J.P. オードウェイの曲だ。日本人が西洋音階を受け入れるのがいかに難しかったかは、次のエピソードがよく示している。有名な「軍艦マーチ」の冒頭は「ドッミミミ ミファミレ」という旋律だが、「ミファ」という半音階は日本音階には含まれていない。あるレコード録音では、器楽では楽譜通りに演奏しているのに、奏者が歌う部分では「ドッミミミ ミソミレ」と歌っているそうだ。

 それでも20世紀に入る頃には、西洋音階は徐々に定着してきた。さらにラジオ放送とレコードの普及によって、新しいポピュラー音楽、すなわち流行歌が日本に出現し、昭和初期には大衆娯楽のひとつとして定着する。初期の歌手、佐藤千夜子(1897-1968)はクラシックの、二村定一(1900-1948)はジャズの出身であり、民謡にはないスイング感やストレートな歌い方が当時の日本人にはかなり新鮮に聞こえたのではないかと思う。戦前の歌手は音楽学校出身者が多かったのも、一般人にはまだそういう発声や歌い方ができなかったからだろう。しかし戦後は、西洋音階が大衆にも普及したためか、音楽学校出身者はしだいに減っていった。その意味で、美空ひばりのデビュー(1947年)は象徴的だ。

新潟だより-佐藤千夜子
佐藤千夜子(1897-1968)

新潟だより-二村定一
二村定一(1900-1948)

 昭和30年代になると戦前の歌手は第一線から退き、戦後デビューの歌手が中心となる。この頃、歌謡曲が大衆音楽の一様式として確立されたと考えていいだろう。しかし、戦後もジャズ、ロカビリー、ロックンロール、アメリカンポップ、シャンソン、カンツォーネなどの外国音楽が断続的に日本に入ってきて、歌謡曲もその影響のもとに常に変容していった。そのため、様式に基づいた分類や時代区分は難しい。が、大衆音楽としての隆盛期は、昭和30年頃から昭和末までと考えていいだろう。昭和40年代から50年代にかけて流行ったテレビの歌番組も1990年頃には終了することも、この頃ひとつの時代が終わったことを暗示している。その原因は、日本人の音楽趣味が多様化してしまい、「みんなが歌える歌を社会が必要としなくなってしまった」からだと、私は思っている。これ以降、歌謡曲はメインカルチャーとしての地位を失い、サブカルチャー化して古典的な大衆音楽の一様式となってしまった。引退前の昌子さんは、この歌謡曲隆盛期の最後のフェーズに活躍した大歌手のひとりだった。

新潟だより-さようなら(森昌子)
森昌子「さようなら」(1986.8.21)

 以上が私の歌謡曲観だ。その観点から「人生に乾杯」について考えてみたい。テレビという強力なマスメディアによる広報手段を失ったいま、残っている手段のひとつが「カラオケ」だ。大衆音楽のひとつの形として、いまでも存在感がある。大衆音楽は、いつの時代でも「鑑賞」する音楽ではなく、「自分で歌う」音楽だからだ。だから、かつての歌謡曲の流れを汲む曲は、カラオケを意識して作らざるを得ない。「人生に乾杯」もカラオケで歌うことを前提に書かれているように思う。浜圭介氏による歌詞はお世辞にも詩的とはいいがたいが、歌謡曲の歌詞は曲と一体化してはじめて意味をもつから、細かいことをとやかく言ってもしかたがない。全体としては「人生を長く経験しても、いつまでも夢をもって前向きに生きよう」というメッセージソングだ。上に示したように、歌詞はA、B、Cの3部分からなる。冒頭のAはA1・A2の繰り返しからなり、A1は2番の歌詞も同じだ。キーワードは「愛」「涙」「思い出」だろう。人生にはさまざまな愛や哀しみがあり、それがたいせつな思い出になっている、という内容だ。次のBでは、「いろいろあったが、決して後ろ向きにならず、今後も前向きに生きよう」と話を展開する。「きれいな服着てでかける」ことも「不思議な出逢いを探す」のも、心を生き生きさせ、気持ちを若くしてくれる。最後のCでは「心に花を咲かせ、軽めの靴で街に出て、ロマンティックな人生を謳歌しよう」と結論を述べる。中高年の世代に「たしかにそうだな、たまには夫婦でおしゃれして街に出かけてみようか」という気分にさせられる内容だ。歌謡曲らしい、いい歌詞だと思う。

 では曲はどうだろうか。結論から言えば、リズムののりが軽く、日本的な情緒もあり、かつ歌いやすい、カラオケ時代の歌謡曲だと思う。下の楽譜を使って細かくみてみよう。Aの部分は、冒頭の2小節のシンコペーションが全体のリズム感の基調になっている。4拍子は1拍目と3拍目が強いが、2拍目の八分音符と次の二分音符をタイでつなげることにより、強拍が半拍前にずれて、スイング感が生まれている。ジャズで多用される♪♩♪のようなシンコペーションは一般には歌いにくいので、このような措置をとったのだろう。出だしが「ミファファミ」は半音階の上下行であるため、これも曲に新しい感じを与えている。続く3・4小節は、四分休符の後「レドレミ」と続き、3拍目にアクセントが戻り、かつ旋律の動きも「君が代」の冒頭と同じことから、日本人に安心感を与えてくれる。A2は、リズムはA1とまったく同じだが、旋律は冒頭の小節(全体の5小節目)が全音高くなることと、最後のカデンツアで終止するところが違う。そのため、最初の2小節が全音下行のゼクエンツ(反復進行)となり、洋楽風の感じを与える。

新潟だより-人生に乾杯(楽譜)
「人生に乾杯」(楽譜)

 Bは歌詞の内容からしても展開部といっていいだろう。注目すべきは、リズムパターンがAと同じものが使われていること。違うのは2小節目(全体の10小節目)だけで、ここだけ付点四分音符と八分音符のリズムになっている。しかし、昌子さんは、八分音符を半拍早く歌うことにより、1小節目と同じリズムパターンに変更している。全体としてのまとまりを高めるための措置だと思う。最初の2小節は「ラシドレミファソ」の短音階の完全な順次進行だが、次は「ファファレファミ」と短3度跳躍を含む下行形だ。しかし、昌子さんは短3度の連続跳躍を嫌ってか、「ファミレファミ」と順次進行+短3度跳躍に変更して歌っている。たしかに、その方が前半とのつながりがいい。「きれいなふくきて」は「ララシラソソミソ」のヨナ抜き音階、「でかけましょう」は「ララソ♯ラシ」の和声的短音階だ。日本風だが新しさも感じさせる理由はそこにある。

 Cの結論部では、四分音符による力強い順次進行が多くなる。が、6小節目(全体の23小節目)と14小節目(全体の31小節目)では、シンコペーションが復活する。昌子さんは、さらに10小節目(全体の27小節目)もシンコペーションに変更して歌い、リズムが単調になるのを避けている。旋律をC1からみてみよう。「あかあおきいろ」は「ミレドミレミファ」の下行・上行音形の短音階で、跳躍は「ドミ」の長三度だけ。とても歌いやすく、かつ憶えやすい。次の「どのいろも」も「ラレミファミ」の五度下行+順次進行だ。和声は平行調の属和音F7と主和音B♭が付けられているため、明るく聞こえる。「こころにはなを」ではもっと単純になり、1小節目は「ララシラ」の旋律に平行調の下属和音が付けられている。2小節目はシンコペーションのリズムで「ソミソ」と長三度の連続跳躍、3小節目は1小節目の完全な繰り返しだ。C2 はC1の繰り返しだが、最後の2小節では和声的短音階で下降して主音に終止する。以上まとめれば、このサビの部分Cは、歌い上げて聴かせる音楽ではなく、唱歌のように親しみを込めて歌う音楽といえるだろう。つまり、みんなで声を合わせて歌いたくなる音楽だ。カラオケで歌うときは、ぜひみんなで手拍子しながら唱和してもらいたい。

 私の総合評価だが、この曲は、真剣に耳を傾けるべき名曲ではないが、カラオケで打ち解けた仲間がみんなで歌うような曲だと思う。こんな歌い方はどうだろうか。3人でカラオケ行ったとすると、AとBは3人が交互にソロで歌い、サビのCは3人で一緒に歌うというやり方だ。ぜひお試しあれ。

新潟だより-人生に乾杯2
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2013年03月31日(日) 20時36分38秒 テーマ:森昌子エッセイ

森昌子「人生に乾杯」 コラボ企画 第2弾

森昌子「人生に乾杯」コラボ企画 第2弾
記念日本酒、芋の煮っ転がしの限定販売

新潟だより-特別限定酒

 森昌子さんの新曲「人生の乾杯」のコラボ企画の第2弾として、日本酒と里芋の煮っ転がしが特別限定発売された。第1弾は、居酒屋チェーン「和民」で有名なワタミフードチェーン(株)とのコラボレーション企画で、特大のハイボール「MEGA 森ハイボール」を期間限定で販売するなどのキャンペーンを行った。全国展開しているワタミは新曲キャンペーンにはもってこいの会社のように思えるが、今回は地方の食料品会社との企画という点でそれとは異なっている。が、限定商品の種類も質もこちらの方が上だ。酒は、純米大吟醸「梵」、純米酒「一本義」、生貯蔵「羽二重正宗」の3種類、里芋の煮っ転がしは、「麻奈姫の煮っ転がし」、「里芋の煮っ転がし」、「里芋の煮っ転がし かつお節まぶし」の3種類だ。ここで麻奈姫は福井産の高級里芋で、味付けは昌子さんの家庭の味という。企画販売は福井県の(株)大津屋だ。その社長さんは、ファンンクラブの一泊旅行のとき直接お話をうかがったことがあるが、根っからの昌子ファンで、ファン歴も長かった。今回のコラボ企画に、これ以上適した会社はないだろう。
新潟だより-芋の煮っ転がし

 日本の流行歌は、ラジオ放送の普及とともに発展し、その後も映画、テレビなどのマスメディアを通して「流行」が作られてきた。そのような音楽産業の構造も昭和50年代から崩壊が進み、国民がだれでも知っているような流行歌は、平成になるとほとんどなくなってしまった。つまり、日本のポピュラー音楽は、メインカルチャーの地位を失い、徐々にサブカルチャー化していった。現在の大衆文化の多様化を考えると、J-POPがメインストリームに返り咲くことはまずないだろう。それが音楽産業の営業戦略を難しくしている最大の理由だと思う。新曲をリリースしても、それを人々に広く知ってもらう方法論が限られているのだ。残っているマスメディアは、カラオケと有線放送くらいだろう。でも、これらの利用はどの歌手でもやっているから新規性はない。
新潟だより-大津屋コラボ

 この難しい課題に対して、昌子さんの「音楽工房」は果敢に挑戦しているように思える。「洗濯日和」をリリースしたときは、クリーニングチェーンの「ホワイト急便」とタイアップして、店舗にポスターを掲示したり、BGMとして流したり、CDを販売したりした。これがどのくらいCD販売に貢献したかわからないが、キャンペーンに全国展開している企業とコラボレーションするノウハウを蓄積できたのではないだろうか。40周年記念曲「愛は流れる」のときは、記念出版「それはじんせい…」(主婦と生活社)も発売して話題となった。今回のコラボ企画は、そのような流れの一環として行われた。その成功を祈りたいが、まずは新しい販売戦略に取り組む積極的な姿勢に対して、心から敬意を表したい。
新潟だより-限定生酒
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2012年11月04日(日) 00時20分50秒 テーマ:森昌子エッセイ

森昌子コンサート 〜甦る昭和の名曲たち〜

森昌子コンサート
~甦る昭和の名曲たち~

日時:2012年10月15日(月)
会場:かつしかシンフォニーヒルズ・モーツァルトホール
時間:昼の部 開演14:00、夜の部 開演18:30
料金:SS席 6,500円
主催:文化放送
新潟だより-かつしかチケット

プログラム
1.「バラ色の未来」(2006)
  作詞:なかにし礼、作曲:浜 圭介
2.「孤愁人」(1986)
  作詞:石本美由起、作曲:三木たかし
3.「北寒港」(1981)(10周年記念)
  作詞:さいとう大三、作曲:浜 圭介
4.「ふるさと日和」(1983)
  作詞:杉紀彦、作曲:森田公一
(挿入歌)
 「ふるさと」(1914)
   尋常小学唱歌(第六学年用)
 「母さんの歌」(1958)
   作詞・作曲:窪田 聡
5.「おかあさん」(1974)
  作詞:神坂 薫、作曲:遠藤 実
------甦る昭和の名曲たち----------------
6.「青い山脈」(1949)
  作詞:西条八十、作曲:服部良一、歌手:藤山一郎、奈良光枝
7. 「星影の小径」(1950)
  作詞:矢野 亮、作曲:利根一郎
8. 「港の見える丘」(1948)
  作詞・作曲:東 辰三、歌手:平野愛子
9. 「ああ上野駅」(1964)
  作詞:関口義明、作曲:荒井英一、歌手:井沢八郎
10.「真赤な太陽」(1967)
  作詞:吉岡 治、作曲:原 信夫、歌手:美空ひばり
11.「恋のフーガ」(1967)
  作詞:なかにし礼、作曲:すぎやまこういち、歌手:ザ・ピーナッツ
12.「恋のバカンス」(1963)
  作詞:岩谷時子、作曲:宮川泰、歌手:ザ・ピーナッツ
13.「秋桜」(1977)
  作詞・作曲:さだまさし、歌手:山口百恵
14.「ルビーの指環」(1981)
  作詞:松本隆、作曲:寺尾 聰、歌手:寺尾 聰
15.「また逢う日まで」(1971)
  作詞:阿久悠、作曲:筒美京平、歌手:尾崎紀世彦
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16. 学園3部作メドレー:
 「せんせい」(1972)
 「同級生」(1972)
 「中学三年生」(1973)
  作詞:阿久 悠、作曲:遠藤 実
17.「愛傷歌」(1985)
  作詞:石本美由紀、作曲:三木たかし
18.「なみだの桟橋」(1977)
  作詞:杉紀彦、作曲:市川昭介
19.「彼岸花」(1978)
  作詞:阿久 悠、作曲:出門 英
20.「人生に乾杯」(2012)
  作詞・作曲:浜 圭介
21.「哀しみ本線日本海」(1981)
  作詞:荒木とよひさ、作曲:浜 圭介
22.「立待岬」(1982)
  作詞:吉田 旺、作曲:浜 圭介
23.「越冬つばめ」(1983)
  作詞:石原信一、作曲:篠原義彦
24.「子供たちの桜」(2009)
  作詞:荒木とよひさ、作曲:都志見隆
新潟だより-かつしかチラシ

 なんと充実したプログラムだろうか。昌子さんと工房の意気込みが伝わってくるような構成だ。自分たちのやりたいことと一般向けのコンサートとして価値がほどよくバランスしている。私としてはもっと昭和歌謡を前面に出して欲しいところだが,全国ツアーを考えれば,じゅうぶん納得できる内容だと思う。まずは全体の構成から詳しく見てみよう。プログラムは大きく3部に分かれている。上記の曲番号の第1曲から第5曲までが第1部の導入,第6曲から第15曲が第2部「甦る昭和の名曲たち」,第16曲から第24曲までがフィナーレの「オリジナル名曲選」となっている。以前の「昭和歌謡史」は2部構成であったことを考えると、今回のコンサートは構成的には「森昌子デビュー40周年記念コンサート」の第2部を拡大したものとなっている。それに伴い、曲数も20曲から24曲に増えている。
新潟だより-バラ色の未来
「バラ色の未来」(2006)

 驚くべきことに、第1部は「森昌子デビュー40周年記念コンサート」とまったく同じ構成だった。はじめは不思議に感じたが,よく考えてみると,このコンサートが前のコンサートの延長線上にあることを示しているのではないかと思えてきた。40周年記念コンサートも、その前の「昭和歌謡史」の延長線上にあった。第2部は、サブタイトルの「甦る昭和の名曲たち」だ。「40周年記念コンサート」での昭和の名曲は次の5曲で,戦前から1曲,昭和20年代から2曲,昭和30年代から2曲と,バランスよく選ばれていた。
「青春日記」(1937)
 作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀 政男、歌手:藤山一郎
「異国の丘」(1948)
 作詞:増田幸治(補作詞:佐伯孝夫)、作曲:吉田 正、歌手:竹山逸郎、中村耕造
「青い山脈」(1949)
 作詞:西條八十、作曲:服部良一、歌手:藤山一郎、奈良光枝
「ガード下の靴磨き」(1955)
 作詞:宮川哲夫、作曲:利根一郎、歌手:宮城まり子
「東京のバスガール」(1957)
 作詞:丘 灯至夫、作曲:上原げんと、歌手:初代コロンビア・ローズ
それに対して今回のコンサートでは、はじめの曲目リストに示したように、2倍の10曲に拡大されている。それだけでなく、昭和20年代から3曲,昭和30年代から2曲、昭和40年代から3曲、昭和50年代から2曲と、時代も40年代、50年代まで拡大されているのだ。「昭和歌謡史」でも昭和40年代の曲は1曲もなかったから、曲の構成の面からも、「昭和歌謡史」、「40周年記念コンサート」の延長上にこのコンサートはあることがわかる。第3部の曲目も第1部と同じように40周年記念コンサートとほとんど同じだ。違うところは、学園3部作メドレーと「愛傷歌」の間に挿入されていたアトラクションの「ものまね」が除かれていることと、「愛は流れる」が11月発売の新曲「人生に乾杯」に替えられていることの2つしかない。以上の曲目リストとプログラム構成から考えれば,昌子さんは、「昭和の歌謡」をコアとして,それに自分の持ち歌を加えたプログラム構成を、少しずつ進化させていきたいのではないかと思う。目先の新しさを追うのではなく,「自分の歌を昭和歌謡の流れの中で時間をかけてじっくりと深めていきたい」という強い思いが感じられる。もちろん私は大賛成だ。
新潟だより-孤愁人
「孤愁人」(1986)

 第1部については、「森昌子デビュー40周年記念コンサート」の中野サンプラザでの公演(2011/8/26)、フレサよしみでの公演(2012/3/17)、渋谷公会堂でのファイナル(2012/6/28)の計3回に渡ってすでに詳しく述べた。ここではいくつか要点だけ復習しておきたい。再デビュー曲の「バラ色の未来」に始まり、「孤愁人」(15周年)、「北寒港」(10周年)と節目節目の曲が続く。最後は「ふるさと日和」、「ふるさと」、「母さんの歌」、「おかあさん」と続くことから、私は第1部の隠れたテーマを「母への感謝」と考えている。昌子さんは、母の大きな愛を感じながら、再デビューから過去に思い出をさかのぼっているのではないだろうか。昌子さんの歌い方はより自然になり、声もよく伸びていた。「ふるさと日和」では「ふるさとに来よう」を「葛飾に来よう」と替えて歌い、会場の雰囲気を和らげていた。全国行脚でもこの「ふるさと」が町の名前に替えられていくのだろう。鮮やかな青色のドレスに、ロングヘヤーがよく似合っていた。「母さんの歌」の後、会場から咳のような唸りのような声が響いて雰囲気が少し悪くなりかけたが、昌子さんはすかさず「だいじょうぶですか~?」と優しくその方向に向かって話しかけていた。昌子さんらしい機転の効いた対応に、会場の雰囲気はすぐ元に戻った。
新潟だより-ふるさと日和
「ふるさと日和」(1983)

 第2部の「甦る昭和の名曲たち」は、私が最も楽しみにしていたコーナーだ。開幕直前、お隣の席の方と「前は昭和20年代、30年代が中心だったから、今回は40年代以降に広げるのでは?」と話していたが、その予想はみごと的中した。が、幅広い年代のお客さまに対応するために、昭和20年代、30年代の曲も残したのはさすがだ。昭和20年代の曲は、「青い山脈」(1949)、「星影の小径」(1950)、「港の見える丘」(1948)の3曲だ。「青い山脈」は40周年記念コンサートでも昭和歌謡史でも歌われたが、残りの2曲は昭和歌謡史だけで歌われた曲だ。後者の2曲は、ジャズ風のスィング感のある曲なので、おそらく昌子さんのお気に入りなのだろう。昌子さんのグレーのドレスも懐古感を醸し出していた。昭和30年代の曲は「ああ上野駅」(1964)、「恋のバカンス」(1963)の2曲だ。前者は昭和30年代を語るときに欠かせない曲のひとつだろう。この歌を聴くと、「高度成長」「集団就職」「金の卵」ということばが脳裏に浮かんでくる。後者はザ・ピーナッツの曲として取り上げられているので、また後で述べる。
新潟だより-恋のバカンス
「恋のバカンス」(1963)

 昭和40年代の曲は、「真赤な太陽」(1967)、「恋のフーガ」(1967)、「また逢う日まで」(1971)の3曲だ。「また逢う日まで」は第2部の最後におかれていた。今年の5月30日に他界した尾崎紀世彦氏への追悼の意味を込めた配慮だろう。美空ひばりさんの「真赤な太陽」は、コンサートツアーでは取り上げていないが、2010年に開催された「美空ひばり 熱唱! メモリアルコンサート」中では歌われた。ひとつ前がしんみりとした曲だから、40年代のひばりさんの元気のいい曲となれば、この曲しかないだろう。昌子さんのひばり風の歌い方が懐かしさを誘った。次にザ・ピーナッツの曲が2曲も続いた。この特別扱いも、今年の6月15日に他界した伊藤エミさんへの追悼の思いからだろう。両曲とも何回もカバーされている昭和の名曲中の名曲だ。ふたりのハモリが売りの曲だが、それを昌子さんは一人二役でハモっていた(ひとり分は録音)。しかし、これらの曲は今回が初登場のためか、まだ未消化のように感じられた。ザ・ピーナッツの歌い方は、飾らないストレートな胸声表現がもち味のため、昌子さんの歌唱スタイルとは大きく異なる。その辺りに原因があるのではないだろうか。
新潟だより-真赤な太陽
「真赤な太陽」(1967)

 昭和50年代からは「秋桜」(1977)と「ルビーの指環」(1981)の2曲が選ばれていた。前者は「ふるさとコンサート」で歌い続けている昌子さんお気に入りの1曲だが、後者は意外な選曲だった。でも、よく考えてみれば、「ルビーの指環」はオリコン・シングルチャート10週連続1位、ザ・ベストテンでも12週連続1位(最長記録)、第23回日本レコード大賞・大賞という、記録的な大ヒット曲だ。昌子さんは、こういう軽くスウィングするリズミカルな曲を歌わせると抜群にうまい。サングラスをかけて歌う姿も印象的だった。先に述べたように、第2部の最後は40年代に戻って「また逢う日まで」(1971)で締めた。この曲もまた、オリコン・シングルチャート9週連続1位、第13回日本レコード大賞・大賞、第2回日本歌謡大賞・大賞という大ヒット曲だ。しかし、故尾崎氏の張りのある声と表現があまりに優れていたため、昌子さんでもまだ自分なりの表現ができていないように思う。でも、そんなことは百も承知の上で、故尾崎氏に捧げるレクイエムとして歌ったのだろう。今後の熟成に期待したい。
新潟だより-また逢う日まで
「また逢う日まで」(1971)

 第2部ではステージ構成上でも新しい試みがあった。曲と曲の間を司会者がつなぐのではなく、録音された昌子さんのナレーションが使われていた。その間、黒子姿の司会者の牧野氏と昌子さんの二人が軽妙な無言劇を演じていた。「ルビーの指環」のときはサングラスを、「また逢う日まで」では尾崎風のモミアゲを黒子がもってくる、という具合だ。このアイデアは、無言劇のもつ軽い緊張感、ナレーションの落ち着き、さらに曲数を増やした昌子さんの喉への負担を減らす効果があるように思う。第1部は昌子さんのひとり舞台、第3部は牧野氏の司会入りだから、3つのステージ間に巧みに変化がつけられていた。

 第3部の諸曲については、これまで何度も述べてきたので、今回は概略だけ述べる。学園3部作メドレーでは、セーラー服が「夏服」から「冬服」に替わっていた。セーラー服が似合っているどうかは微妙だが、うれしそうにはしゃいでいる昌子さんは、なんとも愛しかった。「愛傷歌」からは真っ赤なドレスに着替えた。「なみだの桟橋」は、ますます歌唱に磨きがかかり、2番の歌詞の自由で力強い表現が胸に迫った。「彼岸花」では、スクリーンに映された真っ赤な彼岸花が印象的で、前曲とは正反対に脱力した表現が心にしみた。
$新潟だより-彼岸花
「彼岸花」(1978)

 次の曲は11月21日に発売する新曲「人生に乾杯」だった。一部のファンには、先のバースデーパーティーで披露されていたが、コンサートではこれが初登場だ。アップテンポの曲で、会場の大きな手拍子の中、昌子さんは軽快にステップを踏みながら楽しそうに歌っていた。しかし、歌唱にはまだ固さが残り、細部の詰めも甘いように思われた。が、発売前ではいたしかたないだろう。熟成はこれからだ。
新潟だより-人生に乾杯
「人生に乾杯」(2012)

 最後のステージでは、ドレスは純白となり、曲によって青、黄、赤、白のライトが使い分けられ、フィナーレにふさわしい華やかさを演出していた。「哀しみ本線日本海」「立待岬」「越冬つばめ」の3曲では、多少疲れが見えたものの、スケールの大きな気持ちの入った歌唱だった。特に「立待岬」のサビでの表出性の高い表現が強く印象に残った。最後の「子供たちの桜」では、日常感覚に戻されて、いつもほっとさせられる。最後のささやくような歌唱は、何回聴いても心にしみる。これがいまの昌子さんの飾らない姿そのものだからだろう。
$新潟だより-立待岬
「立待岬」(1982)
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2012年10月10日(水) 21時24分29秒 テーマ:森昌子エッセイ

昌子さん’s バースデーパーティー

昌子さん’s バースデーパーティー

日時:2012年10月7日(日)会場12:30、開演13:00、終演15:30
会場:シーバンスホール(東京都港区芝浦1-2-2、シーバンス・ア・モール 3・4F)
会費(後援会員限定):7,000円
主催:森昌子後援会
プログラム
1. 昌子さんトークショー
2. バースデーケーキ
3. 昌子さんにプレゼント!一発芸発表会
4. サプライズ合唱:「子供たちの桜」の替え歌
5. 公開厳禁
6. プレゼント・握手会
7. 昌子さんライブ:「子供たちの桜」(2009) 作詞:荒木とよひさ、作曲:都志見 隆
新潟だより-誕生会チラシ

 誕生日のイベントは、2010年10月13日以来の2年ぶりだ。昨年度は40周年記念コンサート開始直前の8月5日(金)に「40周年記念スペシャルイベント」が五反田文化センター・音楽ホールで開催されたが、誕生日会はなかった。コンサートに全力投球していたためだろう。今回も新しいコンサートツアーを一週間後に控えた10月7日(日)に「バースデー・パーティー」が開催された。昨年のスペシャル・イベントは盛りだくさんの内容だったが、今回は内容が整理され、家族の誕生日を祝うかのような親密で温かな雰囲気があった。当日の13日ではなく、参加しやすい直前の日曜に開催してくれたスタッフの心遣いに感謝したい。

 小雨の中、JR浜松町の駅から10分くらい歩いて、シーバンス・ア・モールに着いた。パーティー会場のシーバンスホールは、その3階にあった。横長の小ホールで、仮設の舞台はその中央にあった。その上には、

Happy Birthday♪
2012, 10, 13 Mori Masako
森昌子後援会


の大きな看板が掲げてあった。ベースの色は昌子色のピンクで、その周りは学園祭でよくみるペーパーフラワーで飾られていた。会場の飾り付けは後援会員のボランティアが行った。それも手作り感があっていい。その一方で、スポットライトや本格的な音響設備を準備したところは、おんがく工房らしい「音」へのこだわりだ。会場は約200人のファンでいっぱいになった。私の席は、ステージに向かって一番右側のセクションAの前から2列目だった。
 受付に時間がかかり、10分ほど遅れての開始となったが、司会者の牧野氏の機転のきいたアナウンスもあり、みな静かに開演を待っていた。いよいよ昌子さんの登場だ。ステージ反対側のカーテンの後ろから、スポットライトを浴びて現われた。いつもの人懐っこい笑顔に、会場の空気が温かくなったように感じられた。
新潟だより-誕生会はがき

昌子さんトークショー
 パーティーは司会者の牧野氏の司会によるトークショーから始まった。導入はコスプレ話題だった。会場の雰囲気を柔らかくするためだろう。銀座のママ,セーラー服、ミニスカサンタ、一日警察署長、吉本興行での漫才など、話題には事欠かない。新しい情報は、セーラー服が夏仕様から冬仕様に変わったことだ。吉本興行の公演では西川きよし師匠とみごとな漫才を演じたとのこと。内容は分からないが、その衣装は、くるよ師匠風の派手な赤いドレスだった。私は眼が点になってしまったが、話題性の面からは成功したといえるだろう。昌子さんはその衣装をもらえないかとお願いしたらしい。が、当然のことながら吉本興行からはまったく返事がなかったそうだ。自伝出版についても話しがあった。「プライベートな自分をもっとファンに知ってもらいたかった」という言葉が印象に残った。次は意外にも食べ物話題だった。昌子さんの「偏食」は有名だが、最近、生寿司が食べられようになったと告白。いか、ねぎとろ、いくらというから、まだレパートリーは限られるようだが、大きな進歩には違いない。お母さんが「見た目だけで嫌がらないように」と助言したことがきっかけだったそうだ。次は大震災被災地への慰問話題だった。いまだ気仙沼にはあちらこちらに爪痕が残っているそうだ。でも、ステージを見る人々の目は輝いていて、あるおじさんが「マーちゃん」と大きく呼びかけてくれた、と昌子さんは嬉しそうに語っていた。

 最後は、次のコンサートツアーの話題だった。昌子さんのオリジナル曲に加え、今回も「甦る昭和の歌」が入るとのこと。春のバスツアーのとき工房長から聞いてはいたが、私にはいちばんのニュースだった。昌子さんには昭和の名曲を歌い継いで欲しい、というのが私の願いのひとつだからだ。それが完璧にできるのは、いまや昌子さんしかいない、と私は思っている。実際、「昭和歌謡の継承」は昌子さんのライフワークのひとつといっていいだろう。コンサートに挿入される寸劇も話題となった。それには司会の牧野氏も出演するが、その芝居の上手さを昌子さんは褒めていた。私もまったく同感だ。昭和歌謡史でのお父さん、40周年記念での労務者、ともに役になりきっていた。並のコメディアンよりもよほど上手い。次のコンサートでもまた、昌子さんとの軽妙なやりとりを展開してくれるだろう。
新潟だより-誕生会バッジ

バースデーケーキ
 次のイベントは、バースデーケーキだった。以前は公共のホールでの開催だったため、火は使えなかったが、今回は2本のキャンドルに火が灯された。なぜ2本かというと、キャンドルそのものが「5」と「4」の文字になっているからだ。ケーキもフルーツタルト風の美味しそうなものだった。私の席の横を通って工房のSさんが運んだので、よく見ることができた。おもしろかったのが、それに続くアトラクションだ。クイズで選ばれたファンに、そのケーキを昌子さんが食べさせてくれるという大胆な企画。選び方は、まず全員が起立し、条件を満たした人だけが勝ち残り、それ以外の人は座るというのが基本だ。その選択条件は、司会者が内容を読み上げ、それがイエスかノーかを昌子さんがボールをひいて決める。なんとも凝った手順だが、ユニークでおもしろい。最初は「昌子さんと同い歳、ないし歳上」という条件だった。昌子さんが◯のボールをひいたので、この条件を満たす人だけが残った。いくつかの条件をクリアして最後まで残ったのは、女性2人だった。偶然にもその一人は隣席の岡山の方だった。昌子さんがケーキをきり、その一部をお二人にフォークで食べさせてくれた。勝ち残ったのが女性でよかった。男性だったら、とても正視できなかっただろう。
新潟だより-誕生会イラスト

昌子さんにプレゼント!一発芸発表会
 次のイベントは、新企画の「ファンによる一発芸発表会」だ。参加希望者が多数だったため、その中から抽選で選んだとのこと。私はこれまで、何回かカラオケ大会に応募したが、一回も当選しなかった。今回も外れると思って気楽に応募したのだが、あっけなく当選してしまった。私の「芸」といえば、リコーダー演奏と歌うことしかないので、迷うことなく前者のリコーダー演奏に決めた。歌は誰かがカラオケでうたうと思ったからだ。普通にやってはおもしろくないので、たまたま次の演奏会のために友人から借りていたクルムホルンも使うことにした。ルネサンス期のダブルリード楽器だが、音色が愉快なので、会場の手拍子で舞曲を演奏できるからだ。リコーダーは、アルトリコーダーを4本使うことにした。1本はルネサンスつながりで、ルネサンス型の楽器に決めた。他の3本はバロック型とし、それぞれ特徴が違うフランスの楽器1本とイギリスの楽器2本とした。すべて当時の楽器のコピー楽器だ。イギリスの楽器のひとつは桜材で作られていたため、メインはそれで「子供たちの桜」を独奏することにした。他の楽器は音を聞いてもらうために、明るい音色のルネサンス型で「バラ色の未来」、落ち着いた音色のフランスの楽器で「哀しみ本線日本海」、切れのいいイギリスの楽器で「おかあさん」をさわりだけ演奏することにした。

 会場に行って驚いたことは、出場者が3人だけで、その中のトップバターだということ。ステージ上で緊張することはないのだが、隣に昌子さんがいて、かつ昌子ファン200名の中での演奏は、普段よりもずっと緊張した。昌子さんにも演奏してもらおうと思い、足につけて演奏する打楽器も持参したのだが、とても頼めるような雰囲気ではなかったため、急遽、知人のKさんにお願いした。しかし、Kさんは使い方がわからず、困惑したようすだった。この場を借りてお詫びしたい。それでも、昌子さん、Kさん、および皆さまの手拍子の中でスペインの舞曲「サルタレッロ」を楽しく演奏できた。上述のように、いろいろなリコーダーを演奏したが、ちょっと長かったかな、と反省している。メインの「子供たちの桜」は、サビの繰り返しの部分だけ、バロック音楽風に装飾つきで演奏してみた。場違いとは思ったが、それくらいしか芸がないので、ご容赦いただきたい。

 それに対して他の2組の一発芸は、いかにも誕生会らしい楽しい趣向だった。二人目の高校の先生は、素人離れしたマジックを披露した。学校でも生徒を前にして演技しているそうなので、ステージ慣れしていて、本格的なマジシャンに見えた。手さばきも鮮やかで、近くで見ていた私でさえ、いったいどうやっているのか、さっぱりわからなかった。会場が大いに沸いたのはいうまでもない。みごとな一発芸だった。三人目は、女性3人のグループ「半熟トリオ」がコントを披露した。前半は漫才、後半は昌子さんが紅白歌合戦で「哀しみ本線日本海」をトリで歌ったときの再現だった。前半の漫才は主婦の日常会話のように流暢かつ自然で、台本を感じさせなかった。ここまでよく長い台本を自分のものにしたものだと、感心してしまった。もちろん内容もおもしろかった。後半は衣装を替えて、ひとりが司会の黒柳徹子役を、もうひとりが昌子さん役を演じてカラオケで「哀しみ本線日本海」を歌った。昌子ファンしかできない隠し芸に、昌子さんも大喜びだった。半熟パワーに圧倒された5分間だった(完熟パワーか?)。
新潟だより-誕生会ドレス黒

サプライズ合唱:「子供たちの桜」の替え歌
 次は昌子さんには秘密の企画だった。会場全員で「子供たちの桜」の替え歌をルミカ(ペンライト)を振りながら合唱するという趣向。替え歌といっても下の歌詞カードにあるように、「あなたたちは私だけの こころの桜です」を「昌子さんは私たちの こころの桜です」に置き換えただけだ。配られた歌詞カードに「恥ずかしがらずに大きな声で歌いましょう!」と書いてあったせいか、会場は大きな歌声に包まれ、暗転した会場の中でゆれるルミカの灯りがとても幻想的だった。その非日常的な雰囲気の中、昌子さんひとりがステージ上で合唱に聴き入っていた。その姿がさらに会場の幻想性を高めていた。
新潟だより-誕生会替え歌

プレゼント・握手会
 次はいつもの昌子さんへのプレゼント贈呈と握手会だった。プレゼントの内容は千差万別だ。前述のKさんは出身地山形のお米を2kg、私も出身地長岡市の名菓、「越の雪」と「飴もなか」の2つをプレゼントした。昌子さんのイラストをプリントしたケーキをプレゼントしていた人もいた。昌子さんは、いつものようにひとりひとりに両手で丁寧に握手していた。いつも思うのだが、その手のひらはびっくりするほど柔らかい。昌子さんからのお返しは、絵はがき3枚とバースデー缶バッジだった(写真)。印象的だったのは、車いすで参加した会員のところへ昌子さんが出向いていったこと。あたりまえのことだが、なかなか自然にはできないものだ。心温まる光景だった。
 最後の挨拶では、「私はひとりではなにもできません。声がでる限り、心に響く歌をうたっていきたい」と語っていた。虚飾のない心からの言葉だと思う。誕生会のしめは、昌子さんからのお礼として、「子供たちの桜」のフルコーラスの歌唱だった。この会のエンディングとして、これ以上に適した曲はないだろう。参加者ひとりひとりの心に温かな余韻を残して、散会となった。晴れ晴れとした心に合わせてか、外の雨もすっかりあがっていた。
新潟だより-誕生会ドレス白
2012年07月01日(日) 06時25分50秒 テーマ:森昌子エッセイ

森昌子デビュー40周年記念コンサート(渋谷公会堂、2012/6/28)

森昌子デビュー40周年記念コンサート
「ありがとう そしてこれからも…」

日時:2012年6月28日(木)
会場:渋谷公会堂
時間:昼の部 開演14:00、夜の部 開演18:00
料金:全席指定 SS 6,500円
主催:文化放送
$新潟だより-チケット
プログラム
1.「バラ色の未来」(2006) 作詞:なかにし礼、作曲:浜 圭介
2.「孤愁人」(1986) 作詞:石本美由起、作曲:三木たかし
3.「北寒港」(1981)(10周年記念) 作詞:さいとう大三 作曲:浜 圭介
4.「ふるさと日和」(1983) 作詞:杉紀彦 作曲:森田公一
(挿入歌)
 「ふるさと」(1914) 尋常小学唱歌(第六学年用)
 「母さんの歌」(1958) 作詞・作曲:窪田 聡
5.「おかあさん」(1974) 作詞:神坂 薫、作曲:遠藤 実
6.「青春日記」(1937) 作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀 政男
歌手:藤山一郎
7.「異国の丘」(1948) 作詞:増田幸治(補作詞:佐伯孝夫)、作曲:吉田 正
歌手:竹山逸郎、中村耕造
8.「青い山脈」(1949) 作詞:西條八十、作曲:服部良一
歌手:藤山一郎、奈良光枝
9.「ガード下の靴磨き」(1955) 作詞:宮川哲夫、作曲:利根一郎
歌手:宮城まり子
10.「東京のバスガール」(1957) 作詞:丘 灯至夫、作曲:上原げんと
歌手:初代コロンビア・ローズ
11. 学園3部作メドレー: 作詞:阿久 悠、作曲:遠藤 実
 「せんせい」(1972)
 「同級生」(1972)
 「中学三年生」(1973)
12.ものまねメドレー
 「横須賀ストーリー」(1979) 作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童
 「わたしの青い鳥」(1973) 作詞:阿久 悠、作曲:中村泰士
13.「愛傷歌」(1985) 作詞:石本美由紀、作曲:三木たかし
14.「なみだの桟橋」(1977) 作詞:杉 紀彦、作曲:市川昭介
15.「彼岸花」(1978) 作詞:阿久 悠、作曲:出門 英
16.「愛は流れる」(2011) 作詞:なかにし礼 作曲:浜 圭介
17.「哀しみ本線日本海」(1981) 作詞:荒木とよひさ、作曲:浜 圭介
18.「立待岬」(1982) 作詞:吉田 旺、作曲:浜 圭介
19.「越冬つばめ」(1983) 作詞:石原信一、作曲:篠原義彦
20.「子供たちの桜」(2009) 作詞:荒木とよひさ、作曲:都志見 隆
新潟だより-40周年記念(渋谷公会堂)チラシ

 2011年8月から始まった「森昌子デビュー40周年記念コンサート」もついにフィナーレを迎えた。昌子さんのデビューは昭和47年(1971)6月25日だから、3日前でちょうどデビューから41年が過ぎたことになる。江戸時代の平均寿命は40歳くらいだから、人間の時間スケールからすればじゅうぶん長い時間だ。私が最初にこのコンサートを中野サンプラザで聴いたのは平成23年(2011)8月26日(金)だった。その後の開催地は、やはり関東が多かったが、愛知、兵庫、広島、熊本など、独立後はコンサートを開いていなかった地域でも開催された。最終公演は、6/30(土)に茨城県の結城市民文化センターで開催されるコンサートになるが、それを含めると計20回になる。立派な興行実績だ。今後も内容のある魅力的なコンサート企画で、一歩一歩開催地域を広げ、日本全国の昌子ファンに生の声を聴かせてあげてもらいたい。
新潟だより-渋谷公会堂
渋谷公会堂

 今回のレポートでは、このフィナーレだけでなく、このコンサート企画そのものを総括してみたい。プログラムは、一部の曲に順番の変更があった。以前は「越冬つばめ」が冒頭に配置されていたが、それが最後に移されて、3大名曲が「哀しみ本線日本海」「立待岬」「越冬つばめ」の順に並べられた。それに伴い、オープニングは定番の「バラ色の未来」となり、「愛傷歌」が「なみだの桟橋」の前に移された。以前、私は40周年のプログラム構成を
第1部 森昌子ヒットパレード1:
 第1曲「バラ色の未来」~第5曲「おかあさん」
第2部 昭和の歌謡曲:
 第6曲「青春日記」~第12曲「ものまねメドレー」
第3部 森昌子ヒットパレード2:
 第13曲「愛傷歌」~第19曲「越冬つばめ」
アンコール:「子供たちの桜」
と分類したが、今回の変更でプログラムは完成の域に達したと、私は考えている。もう一度、そのすばらしい構成を振り返ってみたい。
新潟だより-40周年記念・生花
ファン有志で贈った生花

 昌子さんは、引退以前に50枚ものシングルを発売した。その他にもアルバムでは多くのカバー曲を歌っている。それらを集めれば、2時間のコンサートプログラムは簡単に組める。その方が昔のファンにとってはわかりやすく、地方への営業もしやすいはずだ。だが、音楽工房は、いや昌子さんは敢えてそうはしなかった。ただし、独立後の2つの企画「昭和歌謡史」と「ふるさとコンサート」では持ち歌の数が少なかったことに配慮して、今回のデビュー40周年記念では引退前の曲を増やして、第1部と第3部を構成している。その間の第2部に「昭和の歌謡曲」を挿入したことには、自分が育った音楽環境である「昭和の流行歌」に対する彼女の深い思いが現われている。その挿入は、自分の歌が昭和の流行歌の流れをくむものであり、自分はその継承者として歌い続けるという、彼女の強い意志表示だと思う。
新潟だより-40周年記念品
ファン有志で贈ったデビュー40周年記念品(プリザーブド・フラワー)

 第1部の構成をみてみよう。曲順は「バラ色の未来」(2006)、「孤愁人」(1986)、「北寒港」(1981)、「ふるさと日和」(1983)、「おかあさん」(1974)と、3番目と4番目を除いて、徐々に発売年代が古くなっていることがわかる。第1曲は「バラ色の未来」になったことにより、リズミカルな曲が冒頭に3曲並ぶことになり、オープニングの華やかさが増した。「孤愁人」と「北寒港」はリズム演歌といっていいだろう。「ふるさと日和」で曲調は和らぐが、まだ快いリズム感は残っている。情緒的な「おかあさん」へのつなぎとしても最適だ。おそらく第1部の隠されたテーマは「母親への感謝」だ。「バラ色の未来」は再デビュー、「孤愁人」は15周年と引退、「北寒港」は10周年の象徴であり、それら人生の節目を温かく見守ってくれた母に捧げられているとみるのは、深読みのしすぎだろうか。
新潟だより-おかあさん
「おかあさん」(1974)

 第2部は、ミニ昭和歌謡史ともいうべき「昭和の歌謡曲」だ。ここにも隠されたテーマがある。「戦争への憤り」と「戦後復興」の2つだ。「青春日記」は古賀政男の名曲としてだけでなく、特攻隊で散って行った若い兵士たちへのレクイエム(鎮魂歌)のように聴こえた。ほんとうは淡い恋の歌だが、「思い乱れてむらさきの ペンのインクも乱れがち」「泣きぬれて 送る手紙の恥ずかしさ」という歌詞は、相手を「恋人」から「母」に置き換えれば、この歌に続いて朗読された「特攻隊員の手紙」につながる。朗読のとき昌子さんにしてはめずらしく「戦争に強い憤りを憶える」と反戦の思いを述べていた。3人の息子を育てあげた母親としての実感だろう。次の吉田正の名作「異国の丘」では、その鎮魂の思いを、戦争で亡くなったすべての人々にまで汎化している。「今日も暮れゆく異国の丘に 友よ辛かろ 切なかろ 我慢だ待ってろ 嵐がすぎりゃ 帰る日も来る 春が来る」という歌詞は、次の「戦後復興」につながる。「青い山脈」と「ガード下の靴磨き」は、戦後の風景そのものだ。それぞれ「希望」「貧困」というポジティブな面とネガティブな面を象徴しているように思う。「東京のバスガール」は昭和32年(1957)の曲。昌子さんが生まれる前年の曲であり、昭和29年に始まる「高度成長期」の初期を代表する一曲といっていいだろう。
新潟だより-東京のバスガール
「東京のバスガール」(1957)

 第2部はおそらく「東京のバスガール」で終わり、学園3部作は第3部のイントロではないだろうか。第2部の深刻さと重さを緩和し、華やかなフィナーレの第3部につなげる曲としてこれ以上ふさわしい曲はないように思う。「ものまね」も彼女一流のファンサービスだ。第3部は、曲順を入れ替えたことにより、代表作によるフィナーレ感がいっそう強くなった。古い歌謡曲の雰囲気を残す哀愁的な「愛傷歌」、日本の伝統音楽の流れをくむ演歌「なみだの桟橋」、叙情歌謡の「彼岸花」、歌謡曲の伝統の中にシャンソンの語り口を感じさせる「愛は流れる」、最後は「哀しみ本線日本海」「立待岬」「越冬つばめ」の代表3作と、昌子歌謡のスペクトルのすべてが盛りこまれている。いまでもすばらしいポピュラー音楽の歌手は何人もいるが、これだけ幅広いスペクトルをもつ曲群を、すべて心に響く説得力をもって、かつ自然な語り口で歌える歌手は、いまや森昌子しかいないと、私は断言できる。
新潟だより-哀しみ本線日本海
「哀しみ本線日本海」(1981)

 私がはじめて聴いた昌子さんのコンサートは、平成22年2月21日に中新田バッハホールで開催された「ふるさとコンサート」だった。それから2年半しか経っていないが、その間の変化には驚くべきものがある。久しぶりに昌子さんの歌声を聴いたとき、「これがあの天才、森昌子だろうか」とわが耳を疑ってしまった。あまりに生彩を欠いていたからだ。平成18年(2006)にホリプロから歌手復帰したものの、更年期障害とパニック障害のために思うように歌えなかった。もともと内向的な性格だから、離婚騒動による心のダメージもそうとうなものだったろう。翌19年(2007)、ついに急性肺炎で倒れ、緊急入院してしまう。平成20年(2008)にホリプロから独立して「おんがく工房」を設立するが、体調は已然思わしくなく、さらに子宮筋腫・子宮頸癌が追い打ちをかけた。それによる極度の貧血では、声が出ようはずもない。平成21年(2009)に発売された「子供たちの桜」は自主販売だった。同年にレーザー手術を受けるが、翌22年(2010)に再発し、今度は子宮全摘出手術を受ける。それが成功したため、体調は徐々に快復に向かった。それに伴い昌子さんの声も表現も少しずつによくなって行った。翌23年の3月には2年ぶりに新曲「洗濯日和」をポニーキャニオンからリリースし、8月には「デビュー40周年記念コンサート」の全国ツアーを開始した。11月には待望の40周年記念曲「愛は流れる」を発表した。心身の快復よって、活動も徐々に活発になっていったことがわかる。その総決算が今回の40周年記念コンサートのフィナーレだったように思う。こうやって振り返ってみると、まさしく波瀾万丈の6年間だった。私ですら感慨深いのだから、長年のファンの思い、そして本人の思いはいかばかりだろう。
新潟だより-ふるさとコンサート
「ふるさとコンサート」(中新田バッハホール、2010/2/21)

 最後に、現在の昌子さんの歌唱スタイルについてまとめておきたい。私が聴き始めた頃、曲によっては音程が決まらず、必至に歌っている感があった。それが今では、歌に余裕が感じられるようになった。つまり、身体と喉から不要な力が抜け、それによって表現の柔軟性と自由度が大きくなり、落ち着きも感じられるようになった。そのような変化は冒頭の「バラ色の未来」から感じられた。力が抜けた分だけ、リズムの乗りもよくなっていた。中でも私がいちばん嬉しいのは、昌子さんの独壇場である「自然な語り口」が戻ってきたことだ。それは、語りの前半部をもつ「孤愁人」「ふるさと日和」「彼岸花」「愛傷歌」と3部作ではっきりと感じられた。「愛は流れる」の前半部は、シャンソンのような自由で振幅の大きい表現に変わっていた。まるで朗読のような自由さで、旋律に言葉をのせる歌唱法はだれにも真似できないだろう。旋律を歌い上げる以上に深く心に染みてくる。
 一方、旋律を歌い上げる部分では、表現の振幅が拡大され、よりダイナミックな歌い方に進化していた。まるでささやくような繊細な表現から、慟哭するかのような絶唱まで、歌詞の内容に合わせて、あらゆる歌い方が駆使されている。以前は高音を胸声で無理して出すことが多かったが、頭声で軽く歌うことが多くなったように思う。「北寒港」の「こころ凍らせる」は、オリジナルでは胸声だったが、今回の歌唱では伸びのよいファルセットに変わっていた。そのような美しいファルセット表現は、「おかあさん」「青春日記」「彼岸花」「愛傷歌」「哀しみ本線日本海」でも認められた。振幅の拡大例はいくつも挙げることができる。「なみだの桟橋」の最後の「いかないで」は、若い頃は絶唱していたが、いまでは声にならないレベルにまで抑えられ、「魂の叫び」と化していた。これまでは引退前のNHKホールでの歌唱(1986)が最高だと思っていたが、いまやそれを越えていると思う。「愛は流れる」の後半は、CDでは歌い過ぎていたが、いまは抑えられた表現に変わり、いっそう彫りが深くなっていた。同じことが「越冬つばめ」のサビの部分にもいえる。「立待岬」の最後の部分は1番ではや柔らかく優しく、最後の繰り返しでは力強くと、変化がつけられていた。「哀しみ本線日本海」のサビでは、自信に満ちた多彩な表現が心に残った。
新潟だより-孤愁人
「孤愁人」(1986)

 昭和を代表する歌姫、昌子さんに復活は、日本のポピュラー音楽にとって大きな朗報だ。が、紆余曲折の末、ようやく彼女本来のトラックのスタートラインに立てたのだと、私は思っている。体調さえよければ、6年前にこのレベルから始められたはずだ。しかし、この6年間の艱難辛苦は、順調に復帰する以上に、昌子さんの歌に磨きをかけ、表現をゆたかにしてくれたとはいえないだろうか。でも、芸の道に「終わり」はない。ようやくスタートラインに戻った昌子さんは、いったい歌の森のどれくらい奥深くまで私たちを導いてくれるのだろうか。ファンも彼女と一緒に進化していけたらうれしい。
新潟だより-バラ色の人生
「バラ色の未来」(2006)
2012年04月15日(日) 10時44分10秒 テーマ:森昌子エッセイ

森昌子さんといく、早春バスツアー(報告 その3)

 翌30日(土)は、朝6時過ぎまでまったく目が覚めなかった。よほど疲れていたのだろう。午前7時から朝食なので、慌てて風呂に入りに行った。寝覚めの温泉はまたかくべつだ。日本人にとって、この世の極楽のひとつだろう。もっとゆっくり浸かっていたかったが、朝食時間が近づいたので早々に上がった。朝食は温泉ホテルでよくあるバイキングだった。周りをみると、普段の朝食では絶対に食べないと思われる量をお皿に盛っている人が多く、おかしかった。前の席は福井県から来られたOさんだった。この方、大学生時代に雑誌記事のために昌子さんと対談したとのこと。「たまには休みをとって・・・」と昌子さんにいったところ、昌子さんは「ほらそうでしょう」とマネージャーの方を睨んだそうだ。当時、休みはまったくとれなかったのだろう。スターの生活は過酷だ。このOさん、「昌子ファンには人生経験ゆたかな人が多いのだから、おんがく工房に提言するような会があってもいいのでは」と語っていた。後で分かったことだが、Oさんは食品会社の社長さんだった。たしかに提言は多ければ多いほどいい。いろいろな可能性がみえてくるからだ。ただし、ファンは責任はとれないから、それを参考にして最終的には工房自身が決めればいい。決めたことに対しては、それがどんな内容であれ、私は全力で応援していきたい。

 ホテル出発は午前9時。玄関前に昌子さんの自家用車があったので、ファンと記念撮影した(写真)。まず向かった先は、武田信玄ゆかりの武田神社。そこで昌子さんと記念撮影する予定だったが、あいにくの雨で中止となった。昌子さんは晴れ女で有名だが、90人の中にはかなりの数、雨男・雨女がいるはずだから、多勢のマイナスに、昌子さんのプラスが負けてしまったのだろう。駐車場にバスが停まってしばらくすると昌子さんが車で到着し、各バスに挨拶に来た。40周年記念コンサートで使っている「バスガールの制服」で。「この手があったか!」と、予測できなかった自分が悔しかったが、もちろんみなさん大喜びだった。

新潟だより-昌子さんの車とファン2
昌子さんの車とファン仲間

 雨のため、バスは参道入口まで移動し、そこで下車となった(写真)。昌子さんの車もあったので、一緒に参拝すると思い、しばらく待っていたのだが、なかなか出て来なかった。そこで、取りあえず先に参拝することにした。武田神社はそれほど大きくなかったが、信玄ゆかりの神社だけに格式の高さが感じられた(写真)。バスに戻ろうとしたとき、昌子さんが取り巻きに囲まれてようやく現われた。スタッフが「何が起こるかわかりませんから」といっていた訳がよくかった。それでまた神社に戻り、一緒にもう一度「ヒット祈願」のために参拝した。昌子さんは「二拝二拍手一拝」をよく知らなかったらしく、工房長が細かく指示を出していたのが微笑ましかった。その後、昌子さんはおみくじ引いていたようだ。その内容ないし昌子さんのコメントがおもしろかったようで、周りから笑いが起こっていた。その間、私は司会者の牧野さんと立ち話をしていた。牧野さんはステージ上では饒舌だが、普段は物静かな紳士だ。生まれは昭和28年8月とのこと。私より一歳先輩だが、同世代だった。これからも昌子さんのステージを大いに盛り上げてくれることだろう。

$新潟だより-武田神社
武田神社の参道入口

新潟だより-武田神社2
武田神社本殿

 本来は桃源郷を見学する予定だったが、あいにくの雨とまだ開花していないこともあり、バスは直接、河口湖近くのレストランに向かった。近づくにつれて雨はますます強くなり、ハーブガーデン「四季の香り」(http://www.shikinokaori.jp/)に到着する頃は大雨となった。レストランからは美しい富士が望めるはずだったが、次回のお楽しみとなってしまった。が、旅とはそういうものだ。完璧でない方がいい。2階のレストランは貸し切りで、みな事前に指定された席に着いた。そこでスタッフからNHK公開ラジオ放送の入場券のプレゼントがあった。しかし、枚数が限られていたことから、参加できる人の間で抽選となった。

$新潟だより-ハーブレストラン
NHK公開ラジオ放送入場券の抽選風景

 昼食のメニューは、ハーブ入りグリーンサラダ、ポークソテー、デザート、お茶だった。シェフによれば、主菜のポークソテーは、山梨産の豚肉だという。淡白で深い味わいと心地よい歯ごたえがすばらしかった。ソースはトマトベースだが、比較的あっさりしていて、地元の豚肉の味わいを引き立てていた。付け合わせは人参のグラッセ、さやいんげん、さらにマリーゴールドの小枝が添えられていた(写真)。昌子さんは肉は苦手なので、いったい何を食べるのか、私は興味津々だった。昨晩の集いでは末席だったが、今回は幸運にも昌子さんに一番近くて、かつよく見える席だった。私が食べ終えた頃、昌子さんの前に出されたのは、スパゲティとパンだった。

新潟だより-ポークソテー
主菜のポークソテー

 昌子さんがパスタを食べ始めた頃、食べ終えた工房長のSさんが椅子をもって私の隣にやってきた。開口いちばん、「昌子さんのマネージャーが高熱で休んでしまったので、代わりについていなければならず、みなさんとお話する時間がとれなくて申し訳ありませんでした」。工房長は、一泊二日の機会を利用してファンの思いや意見を聞いてみたかったのだろう。とても残念そうだった。「ヒゲが様になってきましたね」といったら、「この業界では私は若い方なので、貫禄をつけるために・・・」という返事。その言葉の裏に、関係者に中高年が多く、体質も古い音楽業界で奮戦している様子を察することができた。実際、40周年記念コンサートの営業には苦労したことだろう。2年前、「40周年記念コンサートを全国の40箇所で開催したい」といっていたが、さすがにそれは無理だった。しかし、関西以西でも何回か開催できたのは、大きな収穫だ。その数回のために、いったいどのくらいの営業努力があったことか。今後、今回蒔いた種が芽を出して、牛歩の歩みかもしれないが、着実に前進していくものと、私は信じている。
 短時間ではあったが、工房長から心強い発言がいくつもあった。特に「我々スタッフは、ファンの皆さまの代わりに、昌子さんを預かっているようなもの」「昌子さんは、紅白歌合戦に出場してはじめて、完全に復活したといえる」の2つは印象的だった。総合すれば、「再び紅白の舞台に立ち、ファンのみなさんに喜んでもらいたい」ということだろう。私からは、「いま大人が楽しめる叙情歌が求められているので、ぜひその追い風を生かして欲しい」とお願いした。今後も若き工房長の手腕に注目していきたい。もうひとつ、布施明さんと共演したときのエピソードも印象的だった。テレビ番組の収録では緊張しやすい昌子さんに対して布施さんは、「歌は聴く人の心に響いてはじめて価値があるのだから、細かい歌い方を気にし過ぎない方がいい」というようなアドバイスをしたとのこと。ベテラン歌手らしい、みごとなアドバイスだと思う。

 昼食後、武田神社でできなかった記念撮影があった。テーブルを動かし、一列だけ椅子を並べて3組に分けて撮影した。大人数だと動きが遅いので、私はさっさと空いている前の椅子のいちばん端に座った。前列中央に座った昌子さんは、バスガイド姿と笑顔がとてもかわいらしかった(写真)。「永遠のアイドル」とは彼女にこそふさわしい。撮影後、一階で買い物をしながらバスの出発を待っていたが、また二階に来て欲しいとのアナウンスがあった。何だろうと思って上がると、昌子さんの挨拶があるという。段取りが悪いのも「何が起こるかわかりませんから」のひとつだろう。いつものようにファンへの感謝と抱負を述べた挨拶があり、その後、握手会となった。一瞬たりとも笑顔を絶やすことなく、ひとりひとりの手を両手で握っていたところに、言葉以上にファンへの気持ちが現われていたように思う。これを最後に、昌子さんは仕事の都合で一足先に東京に戻った。

新潟だより-昌子ツアー記念写真
記念の集合写真

 バスは最後の訪問地、忍野八海(おしのはっかい)に向かった。雨は相変わらず強く、富士山は濃い霧の中だった。この地は、富士山の雪解け水が地中をゆっくり移動して、山麓にわき出しているところだ。八つの池があることから「八海」と呼ばれている。雨のため全部は回れなかったが、湧池(わくいけ)の傍らを通って、人工池に面する土産屋まで行ってきた(写真)。調べてみたら、忍野は大きな湖の一部だったらしい。それが西暦800年の富士山延暦噴火によって、山中湖と忍野湖に分断されたという。山中湖は残ったが、忍野湖は渇水して盆地となったとのこと。だから八海は、かつての忍野湖の名残ともいえる。残念ながら、数々の神秘的な池も目近に迫る壮大な富士の高嶺も、次回のお楽しみとなった。

新潟だより-忍野八海1
忍野八海「湧池」

新潟だより-忍野八海2
忍野八海「人工池」

 バスは、渋滞ぎみの中央自動車道には戻らず、御殿場経由で東名高速道路に入った。それが功を奏して予定通り午後6時ちょうどに品川駅に到着した。私は2日間お世話になったスタッフのFさんにお礼を述べ、旅の思い出を反芻しながら新潟への帰路についた。いい旅だった。

追伸:旅が終えて一週間もしない内に上記の記念写真および昌子女将との記念写真が届いた。後者で私の頭が少し欠けてしまったことに、Sさんはえらく気を遣い、二度も「申し訳ありません」と付箋に書いてあった。もちろん私は、自分の頭など見たくもないので、まったく気にならない。「Sさん、気にしなくてもいいですよ(^_^)」

新潟だより-昌子女将
昌子女将との記念撮影
2012年04月03日(火) 23時17分57秒 テーマ:森昌子エッセイ

森昌子さんといく、早春バスツアー(報告 その2)

 ワイナリーから石和温泉に向かうバスの中で、工房のFさんから思わせぶりの発言があった。「部屋の机の上に書置きがありますから、必ず読んでくださいね」
ホテル君佳には予定通りに16:00過ぎに到着した。期待に胸をふくらませて部屋に入ると、次のような書置きがあった(写真)。

         緊急速報!!
404号室の皆様、長旅大変お疲れ様でございました。
    皆様にお知らせがございます。
 この後、16:50~17:05の間に
女将の昌子さんがご挨拶にお部屋を訪問いたします!
記念写真の撮影などもございますので、この時間内は
お部屋にてお待ちいただけますようお願いいたします!!

新潟だより-緊急速報
緊急速報

昌子さんが直々部屋に挨拶に来てくれて、写真まで撮ってくれるなど、予想だにしなかった。この上なくうれしいサプライズだ。昌子さんは、時間通りに工房長とカメラ担当のSさんとともに現れ、挨拶をしてから同室の4人と一緒に写真を撮ってくれた。20部屋くらいあったから、全部回るのはたいへんだったろう。銀座の「ママ」の次は旅館の「女将」とは、40周年は、どうもこの路線らしい。

 夕食まで時間があったので、お風呂に入ることにした。石和温泉は50年前、ボーリング中に偶然発見された温泉だ。アルカリ単純泉で、内湯の熱さは私にはちょうどよかった。一方、露天風呂はぬるく、ずっと入っていたかったが、18:00から夕食なので、早々に上がった。夕食会場の大広間には、円卓(写真)がたくさん並べられていて、食事も食べるばかりに準備されていた。ファンの集いまで1時間しかないことへの配慮だろう。ほうとうを完食したにもかかわらず、また完食してしまった。めずらしくビールを飲んだ勢いからだろうか。

新潟だより-森昌子ファンの集い
森昌子ファンの集い

新潟だより-食事の円卓
食事の円卓

 次は今回のツアーのハイライトである「ファンの集い」だ。おんがく工房は、そのために大きなスピーカーと調整卓を会場に持ち込み、音響スタッフも配備した。円卓の写真の後ろの方に、その音響スタッフが写っている。早くからホテルに来てセッティングしたのだろう。昌子さんのリハーサルも入念に行ったに違いない。後で述べるように、最近歌っていなかった曲を含む13曲メドレーという、全く新しい企画を用意していたからだ。すべて昌子さんによる選曲だ。それがおそらく、午前中、ツアーに同行しなかった最大の理由だろう。メドレーのカラオケもよくできていた。その編集に、時間もお金もかかったはずだ。曲目は次の通り。

1.「せんせい」(1972):作詞:阿久 悠、作曲:遠藤 実
2.「同級生」(1972):作詞:阿久 悠、作曲:遠藤 実
3.「中学三年生」(1973):作詞:阿久 悠、作曲:遠藤 実
4.「夕顔の雨」(1973):作詞:阿久 悠、作曲:遠藤 実
5.「若草の季節」(1974):作詞:阿久 悠、作曲:森田公一
6.「夕笛の丘」(1976):作詞:山口あかり、作曲:新井利昌
7.「北風の朝」(1974):作詞:阿久 悠、作曲:新井利昌
8.「父娘草」(1978):作詞:山口あかり、作曲:八角朋子
新潟だより-信濃路梓川
9.「信濃路梓川」(1980):作詞:いではく、作曲:遠藤実
10.「晴れたり降ったり曇ったり」(1978):作詞:山下路夫、作曲:佐々木勉
新潟だより-あなたを待って三年三月
11.「あなたを待って三年三月」(1975):作詞:阿久 悠、作曲:新井利昌
12.「寒椿」(1984):作詞:中山大三郎、作曲:船村徹
13.「ありがとう~雛ものがたり~」(1986):作詞:石原信一、作曲:篠原義彦

 メドレーの各曲は一番だけだが、13曲も続けると全体では19分の大曲になる。司会はいつもの牧野尚之さんが担当した。当初の予定にはなかったらしいが、ツアーに同行するついでに、ということで決まったらしい。いつもながら昌子さんの選曲はすばらしい。最初はいつもの学園三部作だが、それに続く「夕顔の雨」「若草の季節」「北風の朝」は、復帰後はほとんど歌ってないのではないだろうか。まさかこんなところで聴けるとは思いもよらなかった。「夕笛の丘」と「北風の朝」の順番が入れ替わっているのは、4~6を「青春歌謡」でまとめたかったからだろう。続く7~8は「叙情歌謡」といっていい。「信濃路梓川」と続く「晴れたり降ったり曇ったり」も復帰後は聴いたことがない。両曲は、曲にちなんだハンドルネームを使っている古くからのファンへのサービスだと思う。ファンの集いにふさわしい配慮だ。最後の11~13は「叙情演歌」だろう。初期の「あなたを待って三年三月」を最初にもってきたのも心憎い。いずれにせよ、最近は歌っていない曲をちりばめて、引退前の昌子歌謡のスペクトル全体を俯瞰できるすばらしい選曲となっている。これらはすべて、胸声を高い音域でしぼりだす必要がない曲なので、今の彼女ならば軽々と歌うことができる。夢のような19分があっという間に過ぎてしまった。このメドレーを聴けただけでも、間違いなくツアーに参加した価値があった。

 その後、恒例のビンゴ大会が開催された。今回は工房のSさんが考案した「名前ビンゴ」という新機軸だった。昌子さんが五十音からランダムに1文字を選び、自分の名前をひらがなで書いた紙から、その文字を消していくというやり方だ。そのため、名前が短い人および同じ文字がある人は確率的に有利になる。が、細かなことは気にせず、みな楽しんでいた。一等は四国の今治から来た男性のMさんが当てた。商品は、なんとテレビ番組で使った巨大な「イカ」の背負いぬいぐるみだった。持っては帰れないので、翌朝、宅急便で送ったらしい。二等・三等は小物だったが、ようやく女性が当てたので、私はとても安堵した。ずっと男性ばかりが当てていたからだ。私は3文字しか消せず、惨敗だった。やはり7文字は不利か?

新潟だより-名前ビンゴ
名前ビンゴ

 次は「昔は昔 今は今」を昌子さんとデュエットするという夢のようなコ—ナーだ。お相手は。事前に申し込んでいた人の中から昌子さんがくじを引いて決めた。結果は驚くべきことに、ビンゴで一等賞を当てたMさんだった。一生に一度あるかないかというくらいの幸運だろう。皆が唖然としたのはいうまでもない。昌子さんの歌いぶりや表情・仕草がサービス満点だったので、周りの男性はみなうらやましそうだった。もちろん私も同じような表情だったに違いない。最後はいつものエンディング「子供たちの桜」を歌い、挨拶があってお開きとなった。あっという間の1時間だった。

 その後は解散となり、風呂に入る人、部屋で語り合う人、カラオケラウンジで歌う人、早く寝てしまう人など、それぞれのやりかたで夜を楽しんでいた。私は2時間ほどラウンジにいたが、朝早く起きたため、10時半頃に睡魔に襲われ、意識を失うかのごとく寝入ってしまった。そういえば、カラオケでおもしろいことがひとつあった。新潟県上越市安塚出身のWさんと二人で、登録されている昌子さんの曲を全部予約し、その場にいる人たちに次々と歌わせたことだ。昌子ファンは大人しい方が多く、曲を流してマイクを持っていかないと、なかなか歌ってくれなかった。が、持たせれば、みな楽しそうに歌ってくれた。

$新潟だより-カラオケラウンジ
カラオケラウンジ
2012年04月02日(月) 11時11分01秒 テーマ:森昌子エッセイ

森昌子さんといく、早春バスツアー(報告 その1)

昌子さんと行く1泊2日!
早春の桜・桃源郷と富士山を望むバスの旅 in 石和温泉


開催日時:平成24年3月29日(金)~30日(土)
宿泊先:山梨県石和温泉 ホテル君佳

新潟だより-昌子ツアーチラシ

 平成23年年度も押し詰まった3月末の2日間、森昌子後援会主催でバスツアーが開催された。会員のバスツアーに昌子さんが部分的に参加するという企画だ。リアルタイムでもブログで報告したが、もう一度詳しく報告したい。ときどき「報告が詳しすぎる」とお叱りを受けることもあるが、50,000円の参加費と交通費を払って参加できる人は、後援会会員の中でも限られた人たちだけだ。実際、参加者は90人に過ぎなかった。さらに、後援会に入っていない森昌子ファンもたくさんいる。そのような人たちにも、今回のツアー企画を一緒に楽しんでもらいたい、というのが私の願いだ。

 まずはチラシのタイトルに注目してもらいたい。
「昌子さんと行く1泊2日!
 早春の桜・桃源郷と富士山を望むバスの旅 in 石和温泉」
この長いタイトルからして盛りだくさんの内容であることがわかるが、実際にはそれ以上に盛りだくさんだった。企画スタッフの気の入れようがうかがえる。大人数のツアーはそれだけ事故やトラブルのリスクを伴うのに、敢えて実行に移したことに、まず拍手を送りたい。パンフレットの両面を下に掲載した。修学旅行を思い出させる手作り感あふれる「旅のしおり」だ。もう終わってしまったので、詳しいスケジュールを掲載しても問題ないだろう。
【1日目】
 9:30 品川駅 中央改札口前時計台下 集合
10:00 品川駅出発
13:30 昼食:甲州ほうとう「小作」双葉バイパス店
14:30 大人の社会見学:ワイナリー「シャトー勝沼」
16:00 宿泊先到着:石和温泉「ホテル君佳」
16:30 フリータイム
18:00 夕食
19:00 ファンの集い
20:00 終了予定
【2日目】
 9:00 ホテル出発
 9:30 「武田神社」参拝・記念撮影
10:45 桃源郷見学
12:30 昼食:ハーブレストラン「四季の香り」
13:30 富士五湖を望みながら移動
14:00 「忍野八海」散策
15:00 「忍野八海」出発
18:00 品川駅到着

新潟だより-旅のしおり1
旅のしおり(外側)
新潟だより-旅のしおり2
旅のしおり(内側)

 出発地は大阪と東京の二箇所で、それぞれ20人、70人が参加した。私は東京組みのため、朝一番の新幹線で新潟から東京に向かった。集合場所は品川駅中央改札口前の時計台(写真)。列車のトラブルで数名が遅れたが、午前10時過ぎには全員が集合して無事に出発できた。東京組のバスは2台。それぞれ工房スタッフが添乗した。1号車は新人のFさん、2号車は会報「マコ通信」にもたびたび登場するSさんだ。2号車には名司会者の牧野さんも同乗した。さらにバスガイドさんも添乗していたので、ものすごく久しぶりに「修学旅行気分」を味わうことができた。バス搭乗時に旅行バッジ(写真)と茶飴2個が配られた。バッチは、わざわざこの旅行のために作られたもの。昌子ファンには貴重な品だ!そんな細かな気配りがうれしい。

新潟だより-品川駅中央改札前
集合場所のJR品川駅中央改札口前時計台

新潟だより-旅行バッジ特製の旅行バッジ

 バスは首都高速を経て中央自動車道に入った。渋滞に巻き込まれることもなく、移動は順調だった。天候にも恵まれ、八王子を過ぎてしばらくすると南側に相模湖や丹沢の山々を望むことができた。さらに進んで山梨県に入ると、左前方に真っ白な富士山を望むことができた。その壮麗さと神々しさは圧倒的だった。
 添乗員のFさん(写真)は背が高く、まったりした話し方の娘さんだ。その癒し系のオーラのためか、車内も自然と穏やかな雰囲気に包まれていた。高速道路を甲府昭和JCTで降り、昼食場所の甲州ほうとう「小作」双葉バイパス店に向かった。到着は午後1時過ぎで、予定よりも少し早かった。一方、大阪組みは出発が遅れたため、やや遅れて到着した。

新潟だより-工房Fさん
おんがく工房の新人Fさん(添乗員)

 山梨名物の「ほうとう(餺飥)」は私の大好物だ。特に、かぼちゃのたっぷり入った熱々のほうとうが好きだ。しばらく山梨県に行ったことがなかったので、この昼食を楽しみにしていた。鉄鍋に入ったほうとうには、かぼちゃ、じゃがいも、さといも、人参、ごぼう、しいたけ、山菜、ねぎ、白菜など、具がたくさん入っていた。特にじゃがいもは1個、かぼちゃは1/5個以上は入っていたと思う。さすがに団体客用に準備しなければいけなかったので、熱々とまではいかなかったが、その分だけ食べやすかったともいえる。汁が絶品だったため、私は一滴も残さず完食した。

新潟だより-甲州ほうとう小作
甲州ほうとう「小作」双葉バイパス店

新潟だより-ほうとう
ほうとう(餺飥)

 昼食の席で昌子バッチをたくさん身に付けたご婦人を見かけた。いろいろな機会に作られたバッチだったが、さらにすばらしい装飾を身に付いていた。すべてのネイルに昌子さんの名前が平仮名で一文字ずつ書かれていた(写真)。さぞかし時間がかかったことだろう。根っからの昌子ファンとはこういう人のことをいうのだと思い、心底感心してしまった。私のように、良いことも悪いことも何でも書くような人間は「ほんとうのファン」ではないといわれる理由もわからないでもない。が、たまにしか昌子さんの歌を聴かない人から熱烈なファンまで、そのすべてが昌子ファンだと私は信じている。ファンを「質」で区別しては絶対にいけない。

新潟だより-昌子ネイル
昌子ネイル

 大阪組みの到着が遅れたので、バスの出発まで時間があった。私は満腹感を少しでも減らすべく、店の周りを歩き回っていた。隣に流れる釜無川は河原が広く、そのかなたには日本第2の高峰、南アルプスの北岳の勇姿を望むことができた。この景色は武田信玄公の時代とたいして変わらないはずだ。そう思うと、ますます雄大に思えた。バスに乗り込む前、二人のバスガイドさんに記念撮影をお願いしたら、快く応じてくれた。なぜか太陽の逆光が入り、後光がさしているような写真になった。そういえば、観音様のような雰囲気があった。

新潟だより-バスガイド
二人のバスガイドさん

 次に向かったのが、ワイナリー「シャトー勝沼」だ。「小作」からは一般道で移動した。短時間ではあったが、ワインの瓶詰めライン、おりの除去装置、樽熟成庫を見学した。その後、販売店でワインを試飲し、お土産を買った。甘口のワインは私には甘すぎて、食前酒としてしか使えないと思った。一方、モモのワインは美味しくて、かつ珍しかったので、妻へのお土産に一本買った。この大人の社会見学の間ずっと、工房のSさんは、次の会報に載せる写真を取り続けていた(写真)。このツアーの企画も担当したらしい。おんがく工房は従業員が少ないので、ひとりで何役もこなさなければならない。彼女が苦労して撮った会報の写真がいまから楽しみだ。最近、髪を短くしたようだが、人柄が以前よりも丸くなったように感じるのは私だけだろうか。それとも私が単に慣れただけなのだろうか・・・。

新潟だより-シャトー勝沼
シャトー勝沼

新潟だより-工房Sさん
おんがく工房のSさん

 ここまで読んでくれた方は、「昌子さんと行く」というタイトルなのに「昌子さんがいない」と思ったのではないだろうか。それには理由があった。それはまた後ほど。
2012年03月31日(土) 15時12分36秒 テーマ:森昌子エッセイ

忍野八海

昌子さんと行く一泊二日!
早春の桜・桃源郷と富士山を望むバスの旅! その14

最後の訪問地は、富士山麓の「忍野八海」。
あいにくの大雨で巡ることはできませんでしたが、湧池を見て、買い物をすることができました。
復路は、雨による渋滞を避けるために、往路とは異なる御殿場を抜けて東名高速を使うことになりました。
藤山麓の樹海を眺めながら、旅の余韻に浸っています。

平成24年3月31日(忍野八海にて)
新潟だより-忍野八海1
湧池(わくいけ)
新潟だより-忍野八海2
人工池
2012年03月31日(土) 13時54分28秒 テーマ:森昌子エッセイ

ハーブレストラン「四季の香り」

昌子さんと行く一泊二日!
早春の桜・桃源郷と富士山を望むバスの旅! その13

昼食は河口湖畔にあるハーブレストラン「四季の香り」で、サラダとポークソテー。
昌子さんも一緒に食事をしました。私は近い席から見ることができました。
昌子さんは肉嫌いなので、スパゲッティとパンという別料理でした。
サプライズとして、NHKの公開ラジオ番組の入場券のプレゼントがありました。
残念ながら、数が限られていたので、じゃんけんによる抽選になりました。

その後、バスごとに昌子さんと記念撮影をしました。
ほんとうは武田神社で撮影でしたが、雨のため変更になりました。
撮影後、昌子さんから最後の挨拶がありました。
「歌うのが楽しい」「やるき満々」という言葉が嬉しかったです。
最後は、握手会で昌子さんとお別れしました。

工房長Sさんによれば、マネジャーが高熱を出して、工房長自身がマネジメントしなければいけなくなってしまったそうです。もっとお客さまとお話ししたかったと、残念がっていました。
工房長によれば、昌子さんは体調も歌の調子も戻って来ているので,映像の発売、カバーアルバムの作成など、いままでできなかった新企画にも今後は積極的に取り組んでいくそうです。
それも嬉しい知らせです。

平成24年3月31日(河口湖、ハーブレストラン「四季の香り」にて)
新潟だより-ハーブレストラン
公開ラジオチケットの抽選
新潟だより-ポークソテー
ポークソテー

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