第3話 僕が大学院を中退するまで
2002年2月
私は、某大学院 博士課程の入学試験に合格した。
しかし、不思議なものである。
英文試験では、
「自分の研究を英語で説明しろ」
という30分の試験問題に対して、
失恋の痛手のために、やる気が何も起きず、
ほとんど何も準備できずに挑んだので、
落ちていても不思議ではなかった。
しかも、内部進学者は出題内容をあらかじめ
聞かされおり、外部からの進学者には、知ら
されていなかった・・・・・。
日頃から膨大な英語論文を読んでいたからな
んとか対応できたにすぎない。
受験当日はあまりの出来の悪さに両親にも、
「修士終了後に、就職先を探すよ。」
と言っていたくらいで、相当できなかったことは確かだ。
修士課程時代の同級生がキヤノンや日産など大企業
に就職がに決まる中、自分だけが「無職」になることが
怖かった。
試験終了後、共働きで誰もいない家の中、部屋で一
人泣いた。
自分の大切な人を大切にできなかったことに、
そして、自分で自分の将来を切り開けなかった
自分のふがいなさに・・・・。
しかし、博士課程への進学に諦めのつかない自分は、
所属大学の研究室の先生に、このことを報告した。
「じゃあ、僕の研究室へ進学しなさい。」
と言われることを期待して・・・・。
所属大学の先生には、「違う大学に進学します。」
と言っていたのに・・・・。
それは、「あなたの下では、博士号を取得しません。」
という絶交宣言にもちかいものなのに、私は・・・・・。
もちろん、先生も色よい返事はなかった。
もう、僕には未来がない状況だ。
しかし、数日後、受験した教授から連絡があり、何故か、
合格したのだ・・・。
とにかく「無職」として行き先がなくなることは避けられて、
ホッとしたことを覚えている。
合格のお礼と今後の状況について話すために、
教授に会いに研究室に行った。
「修士論文は”ひどい”ので、
すぐにこちらに来てください。」
とのことであった。
最初に、そう言うのもどうかと思うが・・・・。
大学院の入学に当たっては、あまりに論文がひどかった
ためか、(自分でも納得済み)自宅から通える範囲であっ
ても下宿して研究に専念することとの条件が伝えられた。
以上のような経緯もあり、私は修士論文発表会を終えた
次の日の2月17日から通い始めた。
この時期はまだ、国立大学の学生は修士論文発表を終え
ていない。学部の学生はまだ論文を書いている時期であ
った。
今になって思うと、この時期はゆっくり体を休めておく
べきだったと思う。
当時は、失恋の感情をまだまだ引きずっていた・・・・。
失恋の痛みから復帰しておらず、なんだか、疲労感ですべて
のやる気が起きなかった。
今になって思うと、神経症およびうつ病的傾向があったのだ
と思う。
2002年4月
何とか合格し、地方国立大学であったこともあり、大学の近く
アパートを借りて毎日研究室に通った。
ただ、状況は非常に、きつかった。指導教授は修士論文のひ
どさによって私の評価が良くないので、
週末に休もうものなら、
「君さぁ、自分の状況分かっている?」
と言われてしまう。
教授の研究室にはお気に入りの内部進学の同級生がいるので、
「A君は、こんなにすごい研究をしたんだよ。
それに比べて、君は大したことがないんだよ。」
と言われ続けた。
(私の感想では、A君も大したことがないと思うのだが・・・。
もちろん、私よりは優秀でした。)
学術振興会の奨学金に応募した時も、
「応募書類を書け。」
と言われて書いたが、
教授の推薦順位は、2/2となっていた。
(もちろんA君も落ちた。
A君と比較されて、
「お前はだめだ、だめだ。」
と言われて、僕は消耗していった。
ただでさえ、失恋の後で、体は疲労感で、むちを打っても
動きやしないのに・・・・。
このことが、教授のさらなる怒りを生んだのかもしれない。
「君は、何度言えばわかるのかぁ~ん。
自分の状況がわかっているのかぁ~、
えぇっ~。」
っと・・・・・。
決定打は、土・日は研究室で研究をしていたにもっかわらず、
教授がたまに出勤する土曜日にいなかったことがあった。
次の日になると、
「きみぁ~、状況分かっている?・・・・・」
とまた言い聞かされた。
教授室で、1時間以上も話を聞いていたこともあった。
もちろん、今の危機的状況のことは自分が一番よく分かっている。
でも、ぼくの体は違った。頭では、
「彼女がくれたチャンスなのだから、がんばらなきゃだめだ。」
と無理にでも考えようとするが、体は
「休みが欲しい」
と悲鳴をあげていた。もちろん疲れは取れない。
状況が状況のため、休めないでいた。
研究室では、コンピュータの画面をチェックされ、
毎週月曜日には研究成果を教授に一人だけ実験
方法から実験結果、解析の順序まですべて報告
することになった。
前代未聞の異常事態である。
その大学では学部生も、修士の学生もそんなことは
していなかったからだ・・・・。
今となっては、よき「個別指導」であるが、当時は屈辱でしか
なかった・・・・・・・。
親の心、子知らずだったのかもしれない。
だけど、当時の私は、焦りばかりで、体や頭が全く働かなかった。
「俺は何をやっているのか」
という思いしかなかった。
とどめは、金銭的な追い打ちだった。
修士時代の同期は仕事で忙しくしながらも、趣味や新しいことに
挑戦できるお金もある。
反対にぼくは、日本育英会(現:学生支援機構)から毎月借金
(奨学金を貸り)をし、食べていくだけで精一杯だった。
借金は膨大な額になった。洋服なんて新しいものを買う余裕はなかった。
「このまま、あと3年も教授の叱責を黙って聞いていかなくてはいけ
ないのか。」
「ここまでして、何のメリットがあるというのだろうか。」
卒業後に職が安泰というわけではない。
博士課程は幾ら工学部だからといっても余りにあまっている。
しかも、自分は同期と比べてもレベルはどう考えても下の下
といったところだ。
思考が混濁してきた。もう、ポジティブな思考など出来やしない。
ぐるぐるとした抜け道のない未来に体は疲労で疲れ果てていた。
1週間ほどなにもせずに寝ていたかった。
そういう日が1年以上、続いた。
こんなときでも、大学の並木道を通るたびに思うことは、
「あいつ、今ごろどうしているかなぁ」
「幸せであってほしいな。」
と思いながら、
「もっと、もっとがんばらなきゃいけない。」
と思っていた。
がんばりすぎていたのに・・・・・。
本当は、
「今は、ちょっと体を休めて冷静になれよ。」
と言うべきだったのに・・・・。
ぼくは過去の失恋から開放されていなかったのだ。
Misiaの"Everything"に自分を重ねながら・・・・・・・。
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