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天才たちの成功話や不遇話はもういいじゃないか。
それらは、平凡なきみが、仕事を始めるうえで
の役にも立たない。
中島義道『働くことがイヤな人のための本』新潮文庫
◆ 執筆中のメルマガ紹介 ◆ 
1)博士の就職活動 ―ドクター・Ph.Dを目指す人へ―   URL: http://archive.mag2.com/0000247609/index.html 2) NEETからの脱出-既卒・中退者の就職活動必勝法   URL: http://www.mag2.com/m/0000146486.html

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第3話 僕が大学院を中退するまで

2008-01-14 02:55:53
テーマ:日記

2002年2月



私は、某大学院 博士課程の入学試験に合格した。


しかし、不思議なものである。



英文試験では、



「自分の研究を英語で説明しろ」



という30分の試験問題に対して、



失恋の痛手のために、やる気が何も起きず、

ほとんど何も準備できずに挑んだので、

落ちていても不思議ではなかった。



しかも、内部進学者は出題内容をあらかじめ

聞かされおり、外部からの進学者には、知ら

されていなかった・・・・・。



日頃から膨大な英語論文を読んでいたからな

んとか対応できたにすぎない。



受験当日はあまりの出来の悪さに両親にも、



「修士終了後に、就職先を探すよ。」



と言っていたくらいで、相当できなかったことは確かだ。



修士課程時代の同級生がキヤノンや日産など大企業

に就職がに決まる中、自分だけが「無職」になることが

怖かった。



試験終了後、共働きで誰もいない家の中、部屋で一

人泣いた。


自分の大切な人を大切にできなかったことに、

そして、自分で自分の将来を切り開けなかった

自分のふがいなさに・・・・。


しかし、博士課程への進学に諦めのつかない自分は、

所属大学の研究室の先生に、このことを報告した。


「じゃあ、僕の研究室へ進学しなさい。」


と言われることを期待して・・・・。


所属大学の先生には、「違う大学に進学します。」

と言っていたのに・・・・。


それは、「あなたの下では、博士号を取得しません。」

という絶交宣言にもちかいものなのに、私は・・・・・。


もちろん、先生も色よい返事はなかった。

もう、僕には未来がない状況だ。


しかし、数日後、受験した教授から連絡があり、何故か、

合格したのだ・・・。



とにかく「無職」として行き先がなくなることは避けられて、
ホッとしたことを覚えている。



合格のお礼と今後の状況について話すために、
教授に会いに研究室に行った。



「修士論文は”ひどい”ので、


 すぐにこちらに来てください。」


とのことであった。



最初に、そう言うのもどうかと思うが・・・・。



大学院の入学に当たっては、あまりに論文がひどかった

ためか、(自分でも納得済み)自宅から通える範囲であっ

ても下宿して研究に専念することとの条件が伝えられた。



以上のような経緯もあり、私は修士論文発表会を終えた

次の日の2月17日から通い始めた。



この時期はまだ、国立大学の学生は修士論文発表を終え
ていない。学部の学生はまだ論文を書いている時期であ
った。


今になって思うと、この時期はゆっくり体を休めておく
べきだったと思う。


当時は、失恋の感情をまだまだ引きずっていた・・・・。


失恋の痛みから復帰しておらず、なんだか、疲労感ですべて
のやる気が起きなかった。


今になって思うと、神経症およびうつ病的傾向があったのだ
と思う。




2002年4月



何とか合格し、地方国立大学であったこともあり、大学の近く
アパートを借りて毎日研究室に通った。


ただ、状況は非常に、きつかった。指導教授は修士論文のひ

どさによって私の評価が良くないので、


週末に休もうものなら、



「君さぁ、自分の状況分かっている?」


と言われてしまう。


教授の研究室にはお気に入りの内部進学の同級生がいるので、



「A君は、こんなにすごい研究をしたんだよ。


 それに比べて、君は大したことがないんだよ。」



と言われ続けた。


(私の感想では、A君も大したことがないと思うのだが・・・。

 もちろん、私よりは優秀でした。)




学術振興会の奨学金に応募した時も、



「応募書類を書け。」



と言われて書いたが、


教授の推薦順位は、2/2となっていた。


(もちろんA君も落ちた。



A君と比較されて、



「お前はだめだ、だめだ。」



と言われて、僕は消耗していった。



ただでさえ、失恋の後で、体は疲労感で、むちを打っても
動きやしないのに・・・・。



このことが、教授のさらなる怒りを生んだのかもしれない。



「君は、何度言えばわかるのかぁ~ん。


 自分の状況がわかっているのかぁ~、


 えぇっ~。」



っと・・・・・。



決定打は、土・日は研究室で研究をしていたにもっかわらず、

教授がたまに出勤する土曜日にいなかったことがあった。




次の日になると、



「きみぁ~、状況分かっている?・・・・・」



とまた言い聞かされた。

 

教授室で、1時間以上も話を聞いていたこともあった。




もちろん、今の危機的状況のことは自分が一番よく分かっている。


でも、ぼくの体は違った。頭では、



「彼女がくれたチャンスなのだから、がんばらなきゃだめだ。」



と無理にでも考えようとするが、体は



「休みが欲しい」



と悲鳴をあげていた。もちろん疲れは取れない。



状況が状況のため、休めないでいた。



研究室では、コンピュータの画面をチェックされ、

毎週月曜日には研究成果を教授に一人だけ実験

方法から実験結果、解析の順序まですべて報告

することになった。



前代未聞の異常事態である。



その大学では学部生も、修士の学生もそんなことは

していなかったからだ・・・・。



今となっては、よき「個別指導」であるが、当時は屈辱でしか
なかった・・・・・・・。



親の心、子知らずだったのかもしれない。




だけど、当時の私は、焦りばかりで、体や頭が全く働かなかった。



「俺は何をやっているのか」



という思いしかなかった。





とどめは、金銭的な追い打ちだった。



修士時代の同期は仕事で忙しくしながらも、趣味や新しいことに
挑戦できるお金もある。



反対にぼくは、日本育英会(現:学生支援機構)から毎月借金

(奨学金を貸り)をし、食べていくだけで精一杯だった。
借金は膨大な額になった。洋服なんて新しいものを買う余裕はなかった。



「このまま、あと3年も教授の叱責を黙って聞いていかなくてはいけ

 ないのか。」



「ここまでして、何のメリットがあるというのだろうか。」



卒業後に職が安泰というわけではない。


博士課程は幾ら工学部だからといっても余りにあまっている。


しかも、自分は同期と比べてもレベルはどう考えても下の下
といったところだ。



思考が混濁してきた。もう、ポジティブな思考など出来やしない。



ぐるぐるとした抜け道のない未来に体は疲労で疲れ果てていた。
1週間ほどなにもせずに寝ていたかった。


そういう日が1年以上、続いた。



こんなときでも、大学の並木道を通るたびに思うことは、



「あいつ、今ごろどうしているかなぁ」


「幸せであってほしいな。」



と思いながら、



「もっと、もっとがんばらなきゃいけない。」



と思っていた。


がんばりすぎていたのに・・・・・。


本当は、



「今は、ちょっと体を休めて冷静になれよ。」



と言うべきだったのに・・・・。


ぼくは過去の失恋から開放されていなかったのだ。


Misiaの"Everything"に自分を重ねながら・・・・・・・。

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第2話 ぼくは失恋した

2006-11-03 14:19:53
テーマ:日記

失恋。


「ちょっとした火傷のようなものさ。


 そんなに大げさに話すこともない。」


という人もいる。


5年経つと、思い出の1ページとなるからか、
やっと笑って話せるようになった。


ただ、時折、電車の中でふと楽しそうなカップルを見ると、


「あの時、もしああしていれば、うまくいったのだろうか。」


という思いは巡る。



2001年10月



研究室で閉校時間まで実験をし、家に着いたのは夜中の
0時を回っていた。寝ようとしていた夜中に急に僕の携帯
が鳴った。


大学を卒業して、会社に勤めていた彼女は、出張先のホ
テルから携帯で僕の携帯に電話をかけているようだった。


「今時間ある。」


と聞いた後に、一気に言い放った。


「博士課程を卒業するまで待つことはできない。修士課
 程で就職して、結婚してくれないのなら、別れてほしい。」


「・・・・・」


深い沈黙、何も言えなかった。


「就職するよ。」 とも、「結婚しようよ。」とも、


どちらも、無責任すぎる・・・・・。


修士課程で就職しても、結婚を出来る状態になるには、2、3年

ぐらいはかかる。


博士を修了してからでは、博士の3年+就職後2、3年。


そうすると、早くとも僕は30歳、彼女は31歳・・・・・


リスクを取るには危険すぎる・・・・。



来るべく時が来た。



以前から、何度か友人の結婚式に出席していた26歳の彼
女にとって、結婚は切実な問題だったのだ。



それにどうも、職場で気になる年上の先輩から誘われて
いるような気配は、彼女から聞いていた。困ったように、
僕に相談しながらも、「楽しそうに。」話す彼女がいた。



その後、どうやって電話を切ったのか今でも思い出せない。



彼女は僕には三年間ずっと付き合ってきた「初めて」の
彼女だった。


今考えても、この「初めて」という経験の無さがあとあと
の人生にこんなにも影響してくるとは思ってもみなかった。



* *  *



振られてから、ぼくは気が狂ったようになってしまった。

毎日彼女のことを考えた。振られたときの言葉がぐるぐ
ると頭をよぎり、夜は眠れない,電車に乗れば涙がにじ
み出てくる。そのたびに奥歯をかみ締めて、なんとかこ
られた。


「神経症」気質であることもそのころから露呈した。強がって
いた自分がどんなに彼女に依存していたかが、身に沁みて
よく分かった。


友人たちは、

「他にもっとかわいい娘 いるって。」

と言ってくれたが、その優しさも何の慰めにもならなかった。


「なぜなんだ。」
「まだ大丈夫だ。」
「きっとやり直せる」
「いつものことさ・・・・。」
「彼女の方から謝ってくるさ」


と頭が混乱していた。


そんなことは、あるわけないのに・・・・・。



どうも、冷静に考えてみると、付き合っているときは、
自分が彼女より「上」だと思っていた。


なぜなら、年上にもかかわらず世間知らずのお嬢様だっ
たからだ。


自然とそういう態度が出ていたのではないだろうか。


それに、今思えば、現実を受け入れることを拒否してい
たようだ。自分が極度に傷つかないように、自分を「保
てる」ように、思考で作り上げたのだ。


それから何度か電話したが、彼女はもう2度と僕には会お
うとしなかった。


彼女の意思は固かった・・・・・。


それからぼくは「一人」で生きることになった。いまま
で研究で苦しかった日、それでも挫折しなかったのは、
彼女がいたからできたことだったような気がする。


10月以降は、彼女との思い出、自分のふがいなさ、研究
の成果が遅々として出ないことへのあせり、すべてが心
的負担になっていった。




2001年12月




すべてにけだるさを感じていた僕は、修士論文提出前の12月

から1ヶ月間、これ幸いと、自宅に閉じこもった。


先生から、実験をやめて論文を書くようにといわれたからでは
あるが、実際は、毎日コンピューターの前に座るだけだった。


何かに取り組む気力なんて起こってこない。何も「しなかった」。
いや、彼女のことを考えながら、失恋サイトを何度も読んでいた。
そうして、2001年は終わっていった。



* *  *



2002年の大学の冬休みが終わる日に第1回目の論文提出だった。


3日前になり、さすがにこの状態ではまずいとあせり、徹夜

で論文を何とか完成させた。


出来上がった論文の構成や内容は目も当てられないほど
ひどかった。自分でも学部時代の論文よりひどいことは、
分かっていた。


この論文は博士課程への入学試験のために提出しなけれ
ばならかったが、合格する代物ではなかったはずだ。



ただ、幸か不幸か、僕は運がいい。



「博士1万人計画」かなにかのおかげで、定員
を増やすことになってきたのも追い風だったこと、


お金のない研究室は、博士の学生が一人入るとその研究

室に毎年何十万かの補助がでることで、人気の
ない研究室は、博士学生を欲しがること、


この2点が僕が合格になった理由だと思う。



僕は、博士の学生の基準レベルに達していない。



このことは、のちのち博士課程の指導教官によって何度
も「教えられる」ことになる。


しかし、そんなことよりも、失恋によって、博士課程進学

への期待、将来への期待などすべてが「吹っ飛ん」でしまった。



結局、25歳にして初めてぼくは失恋した。



「男なんだから、あきらめずに頑張りなさいよ。」


と、彼女の残した言葉が今でも頭の中を駆け巡る。

第1話 私と言う人間

2006-11-01 02:03:27
テーマ:自己紹介

読者の方は、どういう人間が書いているか分からないで
あろうから、今回は自分について書いてみたい。


中学や高校時代どういう人間だったかと自分で考えると、
きっと、


あいつ、真面目なんだけどな。あんまり成績良くないな。


という感じではないかと思う。



遊んでいたわけではなく、勉強に打ち込んでいたわけで
もない。いや、勉強に取り組んでいたんだけど、要領が
悪くて、あまり成績が伸びないタイプであったろう。


だけど、ファインマンやアインシュタインにあこがれる
生徒であった。 (※不純な動機ではあったが・・・。)


公立中学の成績は、3と4が交互にパラパラに入っている
程度、5を取った教科は、体育くらいであった。


そんな私は、高校は進学するにはぎりぎりラインの7校

ある学区の上から4番目のごく普通の高校に入学。



でも、大学は行きたかったので、国立大学をめざして、

高校1年生から塾に通ったが、今思うと、勉強不足。

そのまま浪人1年を経て、偏差値50-60の間の私立の

工学部に入学した。



今思うと、完全なる劣等生と言ってもいいくらいだ。



大学でも成績は振るわず、学科の150人中およそ専門は90番
くらい、後半1/3ぐらい。


その大学の大学院進学率は国立大学の平均進学率70%を
大幅に下回る10%程度であったので、上位15人くらいしか大

学院には進学できない。

普通に考えたら、私は、進学組ではなく、完全なる就職組だっ

たと思う。


そう考えると、私は、博士課程まで進学しているので、働
くチャンスは2回ほどあったはずだ・・。


※ 大学院には 修士課程(博士前期課程)2年間と
        博士課程(博士後期課程)3年間の計5年間がある。



成績のためもあってか、大学院に進学する前の大学4年生

のときに、少し就職活動をするために、数社の説明会には

参加した。


あのノーベル賞受賞前の田中さんの勤める会社に10年前

に会社説明会に訪れていた。


だが、結局、就職しなかった。


理由は以下の4つだ。


 ・ 世間体
 ・ 学歴をリベンジするチャンス
 ・ 卒論の研究で、指導教官にあこがれた。
 ・ 働くのが怖かった。


世間体とはどういうことかというと、母の友達の息子さん
で、私が「お兄ちゃん」と呼ぶ人が東工大の大学院を出て
日立に入社したと 聞いたとき、


「(東工大では)大学院に進学するのが普通。」


と聞いていた。だから、「大学院に行こう」と思っていたの

かも知れない。


さらに、大学院に行けば、高学歴だし、大学院で国立大学
に進学すれば、高校受験、大学受験の失敗をカバーできる
と思った。今思うと、見栄でしかないのだが・・・。


でも、それが一概に悪いとは言えないけどね。



次に、大学の最終学年時に卒業研究というものをするのだ
が、その研究の指導教官の先生が、研究者として、すごく
尊敬できる人であった。


「こういう風になれたらなぁ。」


と思ったのも大学院に進学するきっかけだった。よくよく
考えると、その指導教授は東大出身者だったのだが・・・。



確かに、これらの理由はもっともらしい。だが、どうも、
今になって 分かることは、


「働くことが怖かったのだ。」
「働きたくなかった。」


と言うのが本音だろう。



今も働かないですむなら、そうしたい・・・。



なんとなく漠然と、会社という組織の中で

「自分がなくなりそうな」怖い感じがしたからである。


だから、 組織に所属することが嫌だった。
そのため、2年間自分の好きなことができる大学院に進学
したのかも知れない。


今は、どうだろうか。「働いている」ということに、多少の違和感
はある。しかし、「怖い」という感じはない。


今は、ワイシャツをきて会社に行くことはないのだが、スーツを着
たときには、かえって「普通」のような感じがして、”安心”する
ことさえある。


「純粋に学問がすき。」ではなく、見栄や自分と向き合うことを避
けてきたことが、そもそもの失敗の原因だったのかもしれない。