前の記事で書き足りなかったことを書く。

グロテスクな自己愛とは、家族愛のことだ。自分の娘、息子を自分の拡張自我として偏愛する姿が美しいわけないだろ!!

自分のガキの写真だけを何の説明もなしに年賀状にしてくる馬鹿!お前だよ。

家族愛は利己的な自己愛の極みなのでキモいのだ。

キャメロン・ディアス演じる母親の不気味さは、ビジュアルでもキモい!!

鏡の前で、いきなり髪をバリカンで刈り上げるシーン!正視できないくらい怖い!落ち武者の亡霊のような顔つきなのだ。これが、「エエ話し」のエピソードとして出てくるのがいたたまれない。

そんな母にほだされる反抗期の長女が嘘くさい。死に行く思春期の病人としては底が浅いんだよ。

そういうところが嫌。この映画。

AD
この映画に出てくる主人公夫妻はものすごい。長女が白血病であることがわかると、医師の遠回しなサジェスチョンによって、将来、長女の延命に必要であろう骨髄や、臍帯血、腎臓を移植するため、移植しやすい遺伝子をもった妹を作ってしまう。長女のスペアだ。

その考えかた方にまず吐き気が襲ってくる。

で、スペアの妹が成長して、自分の腎臓を姉に提供することが嫌だと言って、有能な弁護士を雇い、母親を訴える。母親はかつて弁護士だった。

母親は自分の下の娘の言い分に納得するだろう。当たり前だ。ところが、アメリカがそうなのか、母を演じるキャメロン・ディアスがそうなのかわからないが、母親は幼い妹の言い分を頭ごなしに否定する。法廷で、自分の14歳の娘と争うのだ。

全く不愉快。

あとは、感傷的なお涙頂戴場面がだらだら続く。

臓器移植について漠然と医療技術の進歩であってすばらしいことだ、と感じる人が多いだろう。

福岡伸一先生の臓器移植についてのコメントや解説を聞くと、臓器移植というものがどれだけ非人間的でグロテスクな行為か考えさせられる。

短く言うと、生物は全てどこからどこまでが心臓で、どこからどこまでが肝臓だ、などと部品のように切り分けることができない。そのようなものであるのに、他人の臓器を切り分けて移植する。他人の臓器を受け入れるために、生物に本来備わっている、異物に対する「拒絶反応」を薬物で抑制し、極めて不自然な形で騙し騙し安定したかのように見せかける。これが医療行為と言えるのか。

映画は、泣かせる場面がたくさんあるので、泣いている観客が多かったが、俺はまったく共感できなかった。

映画の語り口が問題。それぞれの主観ナレーションが交錯して混乱する。映画の視点が誰のものなのかわからなくなる。その結果、誰にも共感できなくなってくる。

しかも、出てくる人物たちが底の浅い、いい人ばっかり。え?そこスルーかよ?というようなゆるい人間関係。

瀕死の病人が出て、死んで、母親が泣く。そういう映画だ。

妹が母を訴えたのも、ある理由があってのことだったのだが、その理由もそれでよし、なのかよ?という感じ。死ねばなんでもありなのかよ。

問題は「ミリオンダラーベイビー」で扱われた事柄になってくるだろ。そこのところの追及はしないの?

家族はそこで葛藤して苦しむはずじゃないか。妹の意志の問題にすり替わってしまって、本当の問題がスルーされているのが最後まで気になった。

感傷的なだけで、扱っている問題が大きそうなふりをし、論理的な思考が全くなされていない頭の悪い作品だ。
AD
ニーノ・ロータの「太陽がいっぱい」とイヴァノビッチの「ドナウ川のさざ波」と「素晴らしき天然」を混ぜ合わせたような音楽だ。

なんかパクリっぽい。懐かしい感じがする、と言えばそうなのだが。

「素晴らしき天然」は別名「ジンタ」。

サーカスや見世物小屋で「さてお立ち会い。ご用とお急ぎのない方は寄ってらしゃい見てらっしゃい・・・」と口上のバックに流れる和製ワルツだ。リズムがジンタッタ、ジンタッタ、と聞こえることから「ジンタ」と言う。

チンドン屋のクラリネット、サックス、和製ドラムセットで演奏するとぴったりだ。

立派な歌詞もある。

「空に囀る鳥の声 峰より落つる滝の音 大波小波滔々と・・・」

「私は貝になりたい」の音楽もこの「ジンタ」系列だ。ウィンナ・ワルツの速い三拍子(一拍子)ではない。

「ドナウ川のさざ波」は一拍子っぽいが、短調の旋律ときっちり三拍子が感じられるところがジンタっぽい。

「星影のワルツ」は長調だが、ゆっくり刻む三拍子。テネシー・ワルツ系だ。

映画は、まあ見てみたいが、この音楽の作りに興味がある。全曲を聴いてみたい。

TBSラジオでヘビーローテーションだから一度聞いてみて。交通情報をお聞きのがしなく。

AD

美男美女の恋愛メロドラマ。美しいヒロインが不治の病で記憶を失っていく。「肉体の死より先に精神の死を迎える」と医師から宣告される。愛する人の顔も名前も、自分の名前も日常のあらゆることも。「すべて忘れてしまったら心もなくなる」。


肉体は美しいまま、すべての記憶を失って死を迎える。なんと残酷なことだろう。ヒロイン、キム・スジンは苦悩する。キム・スジンを愛するまわりの人々も苦しむ。その葛藤が涙をさそう。

       keshi


ヒロイン役のソン・イェジンは美人だ。日本人の俺が見て安心できる顔だ。ジェシカ・ビールのようにいくつも思いこみのフィルターをかけなくても自然にその美貌を堪能できる。日本や支那、朝鮮の昔ながらの美人女優を煮詰めたような顔をしている。整っているのだが個性に乏しく俺はどうも萌えない。(うてなさ~ん♪)


足の微妙なラインが実に生々しい。ふくらはぎのかたち、足の指、ふともものいい感じの丸さ。長すぎず、細すぎず。エロいです。


kashi2 keshi3

この映画はソウルにいる韓国人女子大生のガールフレンドから教えてもらった。すごくいいから見て!と言う。その子と話を合わせたくて見に行った。韓国の女子大生の間でかなり話題にになったという。


ヒロインの父親は大きな建設会社の社長。キム・スジンは育ちのいいお嬢さんだ。おっちょこちょいなところがあるが、おとなしく優しく可愛い。俺にとっては「ぶりっこ」すぎてつまらない女に見えるが。男は建築家を目指すワイルドな男。マッチョです。その二人が出会い、いくつか問題を乗り越えて幸せな結婚をする。


女の子を口説く手口がいくつか盛り込まれていて参考になった。女子もキム・スジンの手口を学ぶといい。ラブコメ調の展開が続く。なかなかロマンチックです。「お姫様抱っこ」が決め手。

       keshi4

ヒロインのわまりやビルの上でカメラをぐるぐる回すのはやめて欲しい。俺は三半規管が弱いので酔ってしまう。古くさいプロモ・ビデオみたいな手法だ。カメラが回らないときは、キム・スジンが回っているのに笑ったけど。。。もうひとつ。大事な出会いの場面でコーラを飲むのだがその演出がいただけない。「百年の恋もさめる」。ソフィア・コッポラだったらこんなことは絶対にしない。文化の違いを感じる。最後にも同じ状況が現れ、まさか、と思ってはらはらした。


余談だが、韓国では結婚しても姓が変わらない。また同姓の相手とは結婚しない。これには細かいことがいろいろある。普通、キム同士、パク同士は結婚しないのだが、同じキムでもどこそこのキムなら問題ない、というように、名字の本籍地のようなものがある。韓国人に訪ねるとこのシステムについて詳しく説明してくれる。


仲良しの女の子同士では、なぜかフルネームで呼び合う。キム・スジンだったら、親しい友達は「キム・スジン!」と呼ぶ。映画では、夫が大事な場面でも、奥さんをフルネームの「キム・スジン!」と呼ぶ。面白い。


前半のやや退屈なラブ・ロマンスも徐々に悲しい方向に変わっていく。「ぶりっこ」演技が笑えないものになってくる。何もかも忘れてしまうことの実際が示される。新しい記憶から失われていくということが、どれだけまわりを傷つけるか。しかしそれは本人のせいではない。


記憶を失ってしだいに純化していく様子が切ない。様々な駆け引きや思惑などありえない。目の前のことにしか反応できない。終わり近く、病棟で出会う場面に泣かされる。


外出を許可され、初めて夫となる男と出会った店に行く。すべてが浄化された映像で寓話のようだ。そこで発せられるキム・スジンの言葉。俺は耐えきれず泣き崩れた。そうだよ、その通りだよ、と言いたかった。


見事に俺はこの映画の意図するところに乗せられた。期待に違わない泣かせの技術は大したものだ。大衆の娯楽は、笑って泣かせるのが王道だ。笑いの強烈さは少ないが、涙を絞られることは請け合う。どっぷりと浸りきって見てくれ。


ソン・イェジンの美貌を愛で、思い切り泣かされたら満足だ。気が散らないので劇場で見た方がいい。おまえら、見てくれ!!!泣け!!!