今日帰ってきてCSを見たらやっていた。なんて切ない映画だろう。

メシを食うのももどかしく見入った。アイルランド映画。

ダブリンの街角で音楽を通して出会う男女。出演している二人の男女は本物のミュージシャンで、ギターを弾きピアノを弾く。二人とも歌もうまい。

もう一度最初から見たい。音楽を演奏することのリアルな場面の積み重ねがあってしみじみ共感する。

映画の終わり方も爽やかで余韻が深い。

「のだめ」のような幼稚園児的青春はここにはない。成熟した、あるいは成熟しようとする青年の姿がある。音楽も本物。映画を通して音楽が伝わってくる。

いい映画を見たな。

ONCE ダブリンの街角で デラックス版 [DVD]/グレン・ハンサード,マルケタ・イルグロヴァ

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コージー富田が鶴瓶の真似をするとき、表向きほのぼの芸人だが裏では怖い顔をする「黒鶴瓶」をやってた。

それを見て笑う人は、鶴瓶にどこか胡散臭いところを感じとっている人だ。

鶴瓶は、僻村の偽医者の、ほのぼのとした善人面で名医と崇め立てられながら、後ろ暗いところのある男を見事に体現している。

能力がないのに、偶然や、周りの成り行きで絶賛される偽医者。まわりにほめられ慕われても、まったく喜びが得られない。僻村のなかで自分の存在が一定の役割をはたし機能してしまうことに恐れとまどう毎日。

いつか破綻する。

借金を重ねながら、日々人並み以上の暮らしをしている人のようだ。いつか破綻する。それがわかっているから贅沢をしても少しも嬉しくない。

この映画のサスペンスは不思議な構造になっている。冒頭で失踪してしまう偽医者=鶴瓶の行方や、動機についての謎解きはサスペンスではない。

偽医者である鶴瓶の「嘘」バレないか、そのことがサスペンスになる。そもそも人の命を預かる医師には仕事そのものにサスペンスがある。それを毎日偽医者の鶴瓶がどうやってクリアしていくのか、冷や汗がでるほどのサスペンスが生まれる。いつの間にか、偽医者に肩入れして見てしまうのだ。

自殺した桂枝雀が言っていたが「笑いとは、緊張と緩和」だ。この映画にも巧まぬ笑いが多くある。鶴瓶の自然な言葉になんともいえぬ可笑しさがある。

余貴美子、八千草薫、香川照之が素晴らしい演技を見せる。それぞれ印象に残るいい場面がある。

これら全てを映画にまとめ上げた西川美和監督の能力は素晴らしい。なにげない台所の場面や、美しい日本の田園風景、脚本の妙、俳優たちの好演・・。嫉ましいほど幸福な映画監督だ。
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この映画はひどい。見る価値がない。脚本がひどすぎる。

どれほど撮影に苦労しようが、素晴らしい映像だろうが、映画という物は成り立たない。

俳優が出てきて台詞を言い始めたとたんにこの映画の駄目さがわかってくる。書き割りのような人物。薄っぺらなキャラ設定。役所広司、浅野忠信、松田龍平、香川照之がそれぞれ見事な演技をするのだが、台詞の陳腐さ、カット割りのへんてこさに苛々してくる。

厳しい登山に伴う雪崩、落石、転落、遭難など、ことごとくサスペンスゼロに描かれる。本当に危険な雪渓を歩いているのだろうが、登場人物たちの内面がまったく描かれていないから、なにも感じることができない。本当に山に籠もってものすごい映像を取っているんですよ、といわれても、それだけではまったくすごいと感じられない。

逆に、全部セットやCGで撮ったとしても、はらはらするドラマや、危険を顧みず任務を淡々と遂行する男たちの感動物語は描ける。

香川照之の演技には惚れ惚れさせられる。浅野忠信もいい。演技がうまい分、台本のひどさが際立つ。俳優たちにはどうしようもない。

二時間近く映画館で座っていることが苦痛だった。腹が立って外に出てしばらく悪態をつき続けた。とにかくひどい。ひどいよ。
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まず、父が出てきたらそれは神を表すw

神、すなわちキリストだ。当然だろ?説明は不用。

不平不満をたらたら言うガキが出てきたらそれはイスラエルの民を表す。

エジプトで酷い目にあっていたイスラエル民族が、モーセに率いられエジプトを脱出し、約束の地カナンに至るまで、四十年にわたる荒野の旅を知らないわけないよな。

モーセも荒野の四十年も知らなければ「カラマーゾフ」読んだって、この映画見たって意味がわかるわけないだろw

チャールトン・ヘストン主演の「十戒」を見ていなくて映画のblogなんか書くなよなw

映画に出てくる弟イワンは、飯を食え、と言われて「いらない」と言い、車に乗ってから「腹が減った」と言ってただろ。あれだよ。荒野のイスラエル人たちは、ことある毎にモーセに不平不満を言い立てた。

「エジプトで奴隷だったときのほうがよかった、エジプトに帰りたい、お腹すいた、疲れた、水飲みたい・・・・。」

その度に天からはマナが降り、うずらが与えられ、メリバの岩から水すら涌いたのに。

映画の父も、弟イワンの不平不満にその都度応えている。ある場合は、ここで下りろ、ここで釣りがしたいんだろ?と望みを叶えてやる。自分の言葉に責任を持てないガキは自分の愚かさの故に酷い目に遭う。

そうやって、従うべき神に背き、挙げ句の果て、キリストを十字架に架けて殺してしまう。それがイスラエルの民だ。神に選ばれし民族、イスラエル。

十字架に架けて殺した後に、神であったことを自覚する。

この映画でも、ずっと父を「あの人、あいつ」と言っていたイワンが「パパ、パパ!!」と叫ぶのは最後の場面だ。ここで泣かない奴はこの映画の意味が全くわからないガキだけだ。

父は、キリストの似姿となって昇天していくかのように水に沈んでいく。

空っぽの父の車は、あたかもよみがえったキリストの空の墓のようだ。三日後に墓からよみがえったキリストの墓には遺骨も遺体もない。あるのは、父が大事にとっておいた子供の頃の兄弟と母の写真。父の愛の痕跡。

父はもはやこの地上にいない。大きな愛情の痕跡だけが残されている。

・・・・って具合に、キリスト教を読み取りたいならこのくらいやってみろ。

こんなことはまったくどうでもいいことだ。映画「父帰る」はキリスト教のことなんか知らなくたってよくわかる映画だ。

団子とすすきと月があれば「お月見」だ、とわかる程度のことだ。それがどうした?と言えばいい。

言ってみれば、キリスト教風味はただの通俗だ。ロシア正教のことを知っている人に、そのことを下敷きに見せてやったらわかりやすい、という程度のことなのだ。

宗教的隠喩やほのめかしなんか全部通俗。

通俗を見るのもひとつ。通俗を廃して普遍に目を凝らすのもひとつ。

俺はどっちもやってみる。

このくらいのことを書いてくれよ、映画blogを書いている、にいちゃん、ねえちゃんたち。

おばちゃん、おじちゃんたちももっと映画をよく見て、目を凝らして見て、見たことをちゃんと書いてくれよ。見なくちゃわからないことを教えてくれよ。見なくてもわかることばかりコピペしても全くの無駄。


この映画は素朴に荒々しい父性とそれを理解できない子供の悲劇だ。

悲しいまでに不器用な父親の愛情が痛々しい。父親が不在で少年期を迎えた息子たちは「父性」が理解できない。さまざまな躾けがされていないために、父親自身を受け入れることが出来ない。

なんと悲しい物語だろう。

終わりの方で十字架上のキリストを見上げたような構図で父親がバプテスマを受けるかのような場面がある。全身が水に浸されていくのはまさにバプテスマだ。

親子が車でたどる道に立つ電柱の形が、ギリシア正教の十字架、八端十字架の形になっている。

そう言えば、父親が怪しい箱を掘り出す朽ち果てた建物の窓から見える柱も八端十字架になっていた。

などなどキリスト教の隠喩が満ちているなどと、この手の与太話があちこちの書き飛ばし感想文blogに書かれている。

それがどうした?

兄弟がカインとアベルのようだ、なんていうのもあった。

男二人兄弟ならなんだってカインとアベルに見立てることが出来る。この映画では、兄がアベルで弟がカインだと強弁することも可能だが、兄と弟の関係が違っているし、カインとアベルにたとえられる内容ではない。

つまり、そんなのどうでもいい。何とでも言えると言うことは何も意味がないということだ。

監督も意図してキリストの姿にしたとか言っているが、それがどうした?と聞きたい。

感想文blogを書いている年齢層がガキばかりなので、父親の気持ちが理解できていない。

ひどいのになると「この映画は何を言おうとしているのか全く理解できない」なんて馬鹿丸出しの感想文を得意気に書いてある。

曇りない目で、映画そのものを見つめればいいのだ。そこに映し出されている映像に目を凝らし起こる出来事に心の目を凝らせ。

静かな映像に無骨で荒々しい愛情を感じ取れ。ガキはいいかげん大人になれ。

父、帰る

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「テルマとルイーズ」の南部訛りの英語を聞いていたら、麻生が出てきた。

ブラット・ピットの訛りはなんとなくわざとらしい。スーザン・サランドンも練習したような感じ。レニーセルウィガーはすごい。テキサスの南部訛りもロンドンのブリティッシュ英語もネイティブのように聞こえる。

テルマの話す南部訛りはあまり違和感がない。そのテルマが、自分の馬鹿亭主のことをブラッド・ピットと話している場面。

J.D.「あんたの亭主はろくでなし(ass hole)だな」

テルマ「OK,OK,He's ass hole」

テルマのOKは「オーカイ、オーカイ」に聞こえる。そのあとのass holeは「ヒーズ 麻生」とはっきり言っている。

麻生は、ass hole に聞こえる。Prime Minister ass hole.

実に麻生太郎にふさわしい。

ケツの穴、ろくでなし、国辱麻生太郎。
終わり方がおやおやの「アメリカン・ニュー・シネマ」風だ。
テルマ&ルイーズ

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内容はあのシャーリーズ・セロンの傑作「モンスター」と俺の大好きな「猟奇的な彼女」をミックスした作品。

テーマは女に対する抑圧の強い韓国や上海、香港で大ブームになった「猟奇的な彼女」と同じ。アメリカの南部の平均的な男が女をどのように扱うかが焦点になっている。

しっかり者のルイーズと抑圧的な馬鹿亭主に閉じこめられているダメ主婦のテルマが、週末にほんの少し息抜きの旅行をしようというところが発端だ。

いたって牧歌的な始まりの映画は、たががはずれたダメ主婦テルマの暴走によってとんでもない方向に転がっていく。ルイーズの触れてはいけない過去に関係のある出来事が起きてしまったのだ。


気のいい大学生風のブラット・ピット演じるJ.D.がからんで、話は「雪だるま」式(スーザン・サランドンの台詞より)に悪い方向に転がっていく。

はじめ苛つくバカ女だったテルマがどんどん「ヨプキ=猟奇的」になっていくのが面白い。爆笑ネタが満載されている。

なぜかテルマがコンビニ強盗を見事にやってのけたり警官を脅してパトカーのトランクに閉じこめたり(人道的な方法でねw)ラジバンダリ。。

無名のブラッド・ピットが今と同じ芸風で出てくるのが微笑ましい。スーザン・サランドンの肝っ玉の据わり方がいい。

アーカンソー、オクラホマそれからテキサスを通らず、ユタ、アリゾナそしてメキシコへ・・・。

俺もオクラホマ、ミズーリ、アーカンソーあたりを走ったことがある。なんにもない乾燥地帯。道だけがどこまでも続いている。

ジョン・フォードの古典「駅馬車」でネイティブ・アメリカンと騎兵隊が駆け抜けたモニュメント・バレーをテルマとルイーズのT・Birdが疾走する。

大量のパトカーとのカーチェイスは見ものだ。「わたしたちもこれまでね」と覚悟を決めた次の瞬間!!

いい場面です。

「運と頭の良さはいつか行き詰まる。」(ハーベイ・カイテル演じる渋い刑事の台詞より)

というより、はじめからから先のない逃避行だった。そして最後のおやおやの場面で終わり。

だめじゃん、リドリー・スコット。あんな風に逃げちゃ。二時間十分もかけてあれかよ。お前も所詮アメリカのコンサバティブ爺さんにすぎないな。

あのタンクローリーのディスガスティング・マナーの男と同じだ。あいつはどれだけ酷い目にあってもついに謝らなかった。全く不愉快だ。

テルマもルイーズもあれでよしとしては女が廃る。顔を蹴るとか銃でぶっ殺すとかしてほしかった。少なくとも俺の大好きなヨプキ姉さん、チョン・ジヒョン(全智賢)のように男をぶん殴らなくてはいけない。

後味爽やかなラブコメ「猟奇的な彼女」のほうがよっぽど優れている。

居直るテルマを好演するジーナ・デイヴィスや、ルイーズの恋人ジミー役で出てくるマイケル・マドセンが渋くて俺は好きだ。

いまひとつスカッとしなかったなあ。
ケーブルテレビで後半だけ見た。(なんだよ、それ!)

何度も宣伝があったので、どのような作品かなんとなくわかっていたので、後半のスリリングな展開が飲み込めた。

12年も音信不通だった父親が突如もどってくる。母と兄と弟の3人で穏やかに暮らしていた家族がぎくしゃくした関係になる。

父は息子二人を連れ、無人島に小旅行にでかける。

なにも説明せず横暴に振る舞う父親に反感を募らせる兄弟。そして思わぬ結末へ。

水と空が張りつめた父子の物語をじっと見ている。

もう一度、初めからゆっくり見たい。もうちょっと蘊蓄が言えるように見なくちゃ。

兄役の少年が、ロケ終了後、ロケ地の湖で溺死してしまった、という事実が、一層この映画の気分を切実なものにしている。

コンスタンチン・ラヴロネンコ/父、帰る

¥4,935


悪を悪と認識するためには、人間の堕落と悪の本質を知らなくてはならない。

その意味で、ジョーカーはモラルを認識している。わかった上で、悪の限りを尽くす。だから怖い。悪を楽しむことが目的だから、どんな脅迫や取引も成立しない。

しかもジョーカーは、偉そうにしている偽善者をもっと憎む。そいつらだって、状況が変われば憎悪の鬼と化して、俺と同じ悪を行うようになるではないか!

ジョーカーの正しさがこの映画の中で次々に証明されていく。

正当な手続きで逮捕され尋問されているジョーカーに対し、なんとバットマンは拷問をするのだ!突然、取調室に入って、ジョーカーをボコボコにするバットマン!何の権限もないのに。

正義なんて言うものがもろくも崩れ去る瞬間だ。もっとも、バットマンというのは、ゴッサム・シティの非合法の自警団、暴力も辞さない街の用心棒にすぎないのだから仕方がない。人殺しをしない、というのが一応最低限のモラルらしいけどね。

ジョーカーは、鋭くゴッサム・シティの市民のモラルを問い続ける。

ゴッサム・シティの将来をになう正義漢の検事ハービー・デントが、悪との戦いに市民の期待を集めるが、ジョーカーの仕掛けた悪により、ジョーカーと同じ悪の構造に落ち込んでしまう。

見れば見るほど、自分自身の悪に気付かさる。ジョーカーに肩入れしている自分。バットマンやデントの失敗をつい喜んでしまう自分。

人間は、悪に対してどれだけなすすべがないか、うんざりさせられる。

なんの救いもない。なんの報いもない。汚名まで着せられて、それでも悪と戦わなくてはならないバットマンの悲哀。これが男なのかも・・・と韜晦して見せて映画は終わる。

暗っ!!

ヒース・レジャーの狂いっぷりがすさまじい。無力感と脱力感に襲われたいなら見るべし。
「人々は心義しい人間の堕落と恥辱を好む」と、ドストエフスキーも「カラマーゾフの兄弟」で言っている。今話題の亀山先生の翻訳だ。

何が話題って、これほど売れた古典の翻訳本もない。ミリオンセラーだって。しかしこの翻訳、心ある学者から、おびただしい誤訳を指摘されている。しかも、出版社および亀山先生は、なんの断りもなく、版を重ねる度にこっそり、指摘されているおびただしい箇所の訂正を加えている。こんな大先生の「超訳」が売れまくっているのだからまことにめでたい。買って読んだ俺も、お目出たい。

亀山先生のおびただしい誤訳、不適切訳の詳細はここを読んでください。ロシア語の原文と、過去の有名な訳と亀山先生の「超訳」を比較してあり、興味深い内容です。

それはそうと、俺はこの夏「カラマーゾフの兄弟」にはまって、ずっと読んでしまった。もちろん亀山先生の訳本だ。深夜、第三巻まで読み上げ、四巻をすぐにでも読みたい気持でネットを見ていたら、先ほどの「検証」に行き当たった。

これは面白い!!!

まさに「人々は心義しい人間の堕落と恥辱を好む」の通りだ。

亀山先生と言えば、東京外国語大学の学長であらせられる。権威ある立派な、どうあっても心義しくあらねばならぬ人物の代表である。そのお方に降りかかった「誤訳、不適切訳、超訳」疑惑。

こんなに心躍ることはない。しかも俺は、当事者と言ってもいい。出版社に踊らされて、うかうかと第三巻まで亀山先生の翻訳本を買ってしまった。しかも、没頭して読んで興奮していたのだ!!

これで、新潮文庫の「カラマーゾフ」を初めから読み直す楽しみができた。岩波文庫の米川先生訳も読んでみたい。それほど、ドストエフスキーは面白い。雪と氷に閉ざされた長い冬に読む物として人気があるのもよくわかる。「読み物」として面白いのだ。饒舌さと、ストーリーテリングの巧みさは、スティーヴン・キングを思わせる。分厚い小説を没頭して読みふける楽しみはなにものにも代え難い体験だ。

これを機会に「白痴」「虐げられた人々」など、ドストエフスキーを全部読んでみたいと思う。亀山先生の蛮勇と、出版社の恥知らずな金儲け優先主義に幸あれ!

映画「The Dark Knight」は、人間の悪についての考察だ。ヒース・レジャー演じる、狂気のピエロは、高潔な人格が堕落して、恥辱にまみれることを一番の喜びとしている。これはすなわち、俺たち自身の心性だ。テレビで、政治家や有名人のスキャンダルを叩き、憂さを晴らす。

人間とはこのようにくだらないものだ。

ドストエフスキーが描くいくつかの人間像も、ヒース・レジャーの狂気のピエロも同じだ。冒頭の言葉は、有名なゾシマ長老が死んで腐臭を放つ場面で引用される成句だ。人格高潔なゾシマも死して腐臭を放つ。

俺に言わせれば当たり前のことだと思うけど。高潔なロシア正教の聖職者だから、死んだときに、何か奇跡が起こるに違いない、と考える方が間違ってる。聖職者であろうとも、罪ある人間であって、死ねば腐臭を放つ。小説の中で、このことがとても大きなスキャンダルとして語られるのが面白い。

こんな感じですよ、ドストエフスキー。恐れることはない。ただの読み物です。読んでいると高尚な感じに見られるのでお得です。

気が向いたら続きはまたそのうち。