公務員同士での飲み食い代は交際費として計上できない。民間人を一人でも交えたら知事交際費に計上できるのだそうだ。

この税金乞食、石原は一晩で三八万円飲んだり食ったりするんだと。

何様だ。

自分の金で食うなら何も文句は言わない。俺たちの税金でそんなもの食ってうまいのか。哀れな税金乞食!あわびのステーキとかなんたらいう一本四万円のワインとか。酒飲みは乞食だな。痴漢だし(笑)。

これほど傲慢で意地汚い人間が都知事でいることは耐え難い。

これほど感性の狂った人間が次の政治目標は「福祉」だと。どの面下げてそれを言う。都民の税金であわびステーキ食ったおなじ口でそれを言うのか。

お前のような愚劣な老人でも人間であると言うだけで生きる価値はあるよ。品性は最低だけどな。

「人間は人間であることで神聖である」と言った石井筆子の爪の垢でも煎じて飲むことだな。それがかなわないのなら一度でも介護体験やってみろよ。いま学生はやってるよ。教職の単位で必修なんだろ?都知事の資格の中に介護体験を入れろよ。たった二日でいい。年寄りの大便を始末してみろよ。

石原が都知事でいるのは、東京都民である俺の責任だ。恥ずかしい。すまん。謝る。
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教員、警察官、公務員、会社員・・。だれでもいいが痴漢で逮捕されたのニュースのあとに、犯人は犯行当時酒を飲んでいた、と付け加えるのはなんなんだ?酒を飲んでいたからやむを得ないとでも言う気なのか?

俺は酒を飲まない。もちろん痴漢もしない。

酒を飲む奴は痴漢なんだ(笑)

犯行当時酒を飲んでいなかった、と言う報道は聞いたことがないからな。

酒を飲む奴は痴漢。

痴漢の原因は酒。サントリーやキリンビールは痴漢幇助会社だ。

酒なんか飲むからいけない。テレビもいらないが酒はもっといらない。
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Beethovenの逸脱

古典和声の調和の世界をBeethovenはどうやって踏みにじったか?

交響曲第三番 変ホ長調 「英雄(エロイカ)」のニックネームを持つ。この曲はBeethovenの交響曲のなかでも目立って革新性を語られる曲だ。

実は交響曲第一番の冒頭からBeethovwnは突飛なことをしている。

じゃーんじゃーんじゃーーん!というお辞儀の和音を思い浮かべてもらいたい。大概、お辞儀の和音は、主和音ー属和音ー主和音の順で鳴る。初めの和音が鳴ると、お辞儀をする準備をして、次の和音でペコリと頭を下げ、三つ目の和音で元に戻る。これが「順当」な和音構成だ。

それをいきなり「頭ペコリ」の和音から始められたらどうする?あわてるだろう。しかもどうも期待している方向とは違う方角に頭を上げさせられる。違和感ありありのまましばらく引きずり回され、あれよという間に、この交響曲の主和音、ハ長調になだれ込む。

これがBeethovenだ。つかみから古典和声のテコを使って聞き手を翻弄する。結果として主和音になだれ込んだときの安定感、到達感がすごく強調される。

しつこい濃厚なラーメンを食べるとクセになるようなものだ。ひどい目にあっても問題が解決したときの開放感、幸福感がたまらない、みたいな。マゾヒスティックな喜びだ。数多い「メロドラマ」の手法でもある。

これが疲れる原因だ。

こうやって序奏部を作り、主部の開放感、安定感、爽快感を演出する。一番のハ長調の交響曲ですでにBeethovenはやってくれている。それがあざといんだよ!!(・・・・俺の師匠に言わせると。。。)

一番の交響曲は四楽章の冒頭もわざとらしい。一度クセになるとこの四楽章の虜になってしまうのだが。快速に進むはずの四楽章にまたもやもったいぶった序奏がつく。なんだかもやもややっているうちに、驚くべきヴァイオリンのパッセージをブリッジにして四楽章の主部、快速部分に「なだれこむ」。

うまい!!・・・が、ここが「あざとい(c 師匠)」んだよ!!!

ま、こんな交響曲はいままでありませんでしたね。Beethovenはやる気でやっています。そこが、あざと・・・おっとしつこいね。

この「やったるで」が最高に発揮されたのが「英雄(エロイカ)」。

まず一楽章の冒頭、主和音の連打だけの序奏。いきなり主題。これは画期的です!まわりくどい序奏を最少にしちまえ!ってんで。

第五交響曲「運命」第六交響曲「田園」になると2曲とも序奏は一切なし。マクラなしにいきなり噺にはいる名人の落語のようです。これは怖いね。

それはともかく「英雄」。

膨大、長大な一楽章も展開部を経てソナタ形式の再現部に入る直前。Beethovenの技術力というか、強引な和声が見られます。和音をお辞儀で例えると、全員がお辞儀している和音の中に一人だけ頭を上げている人がいる、あり得ない響きが出現するのです!

再現部に入る直前、ヴァイオリンの1s2ndの刻みの上に2ndホルンが主題を演奏するところ。これを古典和声で分析するのは不可能です。主和音と属和音が同時に鳴っては和声が成り立ちません。掟破りです。こんなことをしてはいけない!

これがBeethoven。

古典和声の世界を踏みにじり、聞き手を引きずり回し、強引に自分の世界を押しつける。好きな人は熱狂してしまう。でも一度うるさいな、と思うともう聞いていられない。ギトギトの油と、必要以上の塩分、香辛料。胃にもたれます。

でもその吹きこぼれるようなエネルギーこそBeethovenにしかない味わいなんです。ときたま猛烈に食べたくなってくるギトギトラーメンのようなものですね。

文体が途中でかわってしまった。風呂に入ったからな。まあいいや。



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だから言ってるでしょう。ホソキとか言う豚がいじめ問題を語ったり、血液型で性格がわかるなんていうのを「証明」してみせたりするのがテレビだよ。

全部、嘘。そう断言して間違いない。

ホソキ豚、俺を呪ってみろ!!血液型を信じる馬鹿ども、俺の血液型を当ててみろ!!

星占いやなんたら占いを節操なく垂れ流すテレビ。馬鹿な占い師を恥ずかしくもなくのさばらせているテレビ。悪質だ。

もういらないよ。テレビなんか見なくても何も困らない。のだめだけやってくれたらそれでいい。

上野樹里ちゃん、もどってきてください。
いま職場で好んで聞いているのがパレストリーナ。NAXOSの安いCDだ。

「教皇マルチェルスのミサ」が今一番のお気に入り。パレストリーナの代表作かな?職場にピッタリマッチする。明るく透明でひたすら協和する音響。

パレストリーナとは1525年に生まれ1594に没した人。タカ・アンド・トシに「昔か!」といいタイミングで突っ込んでもらいたい。

そんな昔の人の作品が今ここで俺の胸に染み渡ることが不思議だ。楽器の伴奏のない六声部の合唱曲。ポリフォニー(多声音楽)の代表作と言われる。でもよく聞くと不思議の原因もわかってくる。多声音楽の面ではなく和声体系に鍵がある。

パレストリーナの曲は古典派の和声体系に属する音楽なのだ。同時代のジョスカン・デ・プレに比べても和声が「モダン」。(と言っても16世紀にしては、ということだけど・笑)。

ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンを聞いている耳にもなじみのある和声体系が確立していてとても聞きやすい。上記のハイドン以外の二人は、古典和声体系の逸脱を「芸」にして人気を得ている作曲家だ。その手の音楽にくたびれている耳には素直すぎる古典和声を聞くのは安定の極み。和声の安定の幸福感がいっぱいに満ちあふれてくる。

話の順序が逆である。

パレストリーナに代表される、反宗教改革時代のカトリック公認音楽の安定感、和声体系こそベートーヴェンの時代までも支配的で「美」の基準であった。その安定した体系を逆手にとって驚くようなことを次々にやってみせたのがベートーヴェンだ。いまでこそ、クラシックのかたまりのような顔をしているが、音楽の美しさにとって、数々の反逆を行ってきた異端児だ。

パレストリーナの作品は人工的な美しさ、と評される。だが人工的でない音楽なんてあるだろうか。ジョン・ケージなどの実験作でもそのあたりの自然音、環境音を「音楽だ」と言い張ることに置いて作為的人工的だ。鳥の声、風の音、せせらぎの音などそれらの音を「音楽」として聞き取ろうという意志がすなわち人工的作為的なことだと思う。

人工的といわれる大家がもう一人いる。バロックの有名人、ヴィヴァルディ。1600年代の生まれで、パレストリーナとは100年も時代が違う。私生活で波瀾万丈、精神も病んでいたとか言われるヴィヴァルディの弦楽器作品は美の極みのような音がする。

いま、もうベートーヴェンはうるさくてかなわない。聞くならルネッサンス。フランドル楽派のハインリヒ・イサークも好き。バッハのマタイ受難曲のコラールに使われて有名な「インスブルックよ、さようなら」もオリジナルの簡素な明るさ哀切さがいい。

職場ではこの他にフォーレのレクイエムとか、バッハのマタイ受難曲、ヨハネ受難曲、ジョスカン・デ・プレなどをいい気になって聞いております。