「韓国美少女ホラー」というジャンルが結構好き!なにしろ出てくる女の子が可愛いのなんの。

一番のお気に入りは、もちろん全智賢(チョン・ジヒョン)です。「猟奇的な彼女」の「彼女」ね。永遠の「彼女」!素晴らしい!

この「狐怪談」に出てくる、パク・ハンビョル も最高ですよ。チョン・ジヒョンに似たところがあるけれど、チョン・ジヒョンより容貌が整っている。あれかな、整形なのかな?ま、いいや。映画で見るだけだもんね。付き合えるわけもないし。

「狐怪談」を見たくなってじっくり見た。いいねえ!ストーリーもちゃんとしている。昔ながらの少女コミックに出てくる嫉妬と羨望から巻き起こる悲劇だ。主人公がバレエをやっているのも美少女ホラーの王道だ。

でもなんで少女コミックには昔から必ずホラーがあるのだろう?楳図かずおの「おろち」とか、「エコエコ・アザラク」の黒井ミサとか少女漫画のりだもんな。女性は人間の心が一番恐ろしいということがよくわかっていて、怨み嫉みからくるいじめの恐怖をコミックの中に解消してきたんだろうなあ。よく言われる、ホラー漫画が異常な犯罪を誘発する、というのはまったく逆なんじゃないかなあ。

ま、どうでもいいや。年末、暇なのでこの他にもジョニー・デップの「フロム・ヘル」という映画を見た。デップがハンサムなだけで異常につまらない映画でした。途中で飽きて別の音楽を聞きながら字幕だけで流し見をしておしまい。時間の無駄でした。
AD
ブレンデルのCDを聞いている。部屋を片づけ、落ち着いてCDを聞く環境ができた。オーディオ装置はたいしたことがないがグレードアップすることを夢見つつ今の音で満足している。

シューベルトのピアノ・ソナタは「夢遊病者のたわごと」ともいわれるほど、もやもやと長く、耐えられない人にとっては我慢ならない作品らしい。暗いとか意味がわからないとか。

一楽章冒頭のたゆたう旋律を聴いただけでシューベルトの音楽に引き込まれる。透明で清澄な響き。なだらかで単純な和音構成。天から響くかのようなその旋律がひとしきりおさまると、心底震え上がるような低音のトリル。怖い。これがシューベルトでやんす。おちゃらけないと怖すぎ☆しんとした静けさが徐々に最強音の連打にまで発展する。ブレンデルの演奏のすさまじい迫力!凄いっす☆

二楽章の哀歌も聞き惚れる。悲しくて明るい。死後の世界????泣き笑い。この世のものと思われない音楽なんでやんす☆

三楽章のスケルッツォ。師と仰ぐBeethoven以来の陽気なスケルッツォだが、調性が不安定なまま行方が定まらない。微妙に色合いを変えるところがシューベルトだ。

四楽章。なんていう音楽でしょう。迫り来る運命のファンファーレのように響くオクターブのユニゾン。残された時間を惜しむようにめまぐるしく駆けめぐる旋律。突如襲いかかる最強音の嵐の音型。迷い、ためらいながら半音ずつ階段を下りるようにたどり着く変ロ長調。予想に反しそこは輝くばかりのコーダが待っている。

シューベルトは31歳で死んだ。1828年のことだ。その年にこのソナタは出版された。それで「遺作」などとタイトルに付記されるのだろう。そんな蘊蓄はどうでもいい。

シューベルトのこの世のものではない美しさと恐ろしさを敬愛する。渋く難解と言われるピアノ・ソナタを片っ端から聞こう。弦楽四重奏も聴こう。やっとシューベルトを親しく聴く心境になってきたのかも知れない。
AD
全智賢の姿を見たくなって「四人の食卓」をまた見た。この作品は良くできている。感想は、以前このblogに書いたとおり で変わりはない。

改めて見て、全智賢の女優ぶりがとても好ましかった。演技がうまい。暗くて地味な役。不気味で怖い主婦をほとんどノーメイクで演じる。インタビューでもすごく難しかった、と言っているほど。

顔のアップでは額にある傷もわかるくらいの素顔。生々しく全智賢の肉体を感じることができる。マニア必見です。

いいシーンがいろいろある。今回特に印象に残ったところ。主人公の男が、いろいろないきさつがあって全智賢とつき合っているのではないか、と疑いを持たれる。男の婚約者が、二人で寄り添って(いるように見える)ところを目撃するのだ。

男と婚約者が車の中で話し始める。婚約者は男に説明を求めない。男にはもっと恐ろしい出来事があって、誤解を持たれるどころの状況ではない。婚約者の抱く不審は男の抱えた問題と比べたら些細なことなのに。。。説明できないもどかしさ。誤解を解けないまま婚約者は車を降り、去っていく。

この場面で婚約者が語るエピソードがとてもいい。誰もこの映画を見ないだろうし、俺も忘れてしまうかも知れないので書き留めておく。こんな話しだ。

ある村で日照りが続き、このままでは村の作物や飲み水にも事欠く状況になった。村人は教会に集まって雨を降らせてもらうように神に祈ることにした。信じて祈れば雨は降るはずだ。大勢の村人たちが何日も祈り続けやがてその祈り会は終わった。帰り道に祈ったとおり雨が降った。終わり。

聞いている男が、つまらない話しだな、と言う。俺もそう思った。

婚約者は続ける。「そうよ。これで終わり。つまらない話。でも帰り道、雨が降ってきたのに傘を持って来たのは小さな男の子一人だけ。その子は、祈ったら雨が降るから傘を持って行かなくちゃ、と言って家を出たの」。

婚約者が話を終えると映画の中でも雨が降りはじめる。渋滞した男の車から婚約者は降りる。鞄から折りたたみの傘を出して。

映画らしい、いい場面だ。傘の伏線は映画の初めの方に張ってある。小物の活用例として巧妙だ。映画の主題とはあまり関係ないのだが、この場面だけで完結していていいな、と思った。

全智賢、姿が美しいなあ。顔は丸く、顎が短くてアジアの顔だ。そこがいい。手足が長くスレンダー。見とれてしまう。
AD
まず日本語タイトル。「敬愛なる」ってなんだよ。親愛なる、敬愛する、だろ?なんて不愉快なタイトルだろう。

原題の「Copying Beethoven」もふざけている。写譜職人の話だから「Copying」なのだが、Beethovenの写し、という感じでしっくりこない。

冒頭と映画の最後が完全に食い違っていて、映画の構成として破綻している。これは致命的だ。前の日にクリントの見事な映画作品「硫黄島よりの手紙」を見たからいっそう構成の欠陥が目に余る。クリントは、常に丁寧に冒頭と末尾部を一貫させる。最後まで見ることでタイトルの意味もわかり、タイトルの意味を理解したとたんに感動も押し寄せてくる。複線もきちんと解決して実に清潔な印象が残る。これが映画だ。

それに比べ、この駄作「べとべん」はなんだ!!冒頭で馬車で駆けつける写譜職人の女の回想のように始まるのに、最後の場面では意味もなく野原に消えておしまい。馬車は?「大フーガ」は?いつBeethovenと別れたんだ?どこから馬車で来たんだ?最優秀の作曲はどうなった?疑問百出。

ふざけるな!!!こんなへたくそな構成があるか!!歪んでいる。途中で投げ出したような作品だ。

シナリオがひどい。ベートーヴェンを題材に自由に作ったファンタジーと言えないこともないが、あまりに実在のBeethovenを矮小化している。見るに耐えない。事実が間違っているから嫌なのではない。架空の人物である写譜職人の女の言動が、不愉快極まりないのだ。Beethovenを「敬愛」している俺たちにはとても容認できないフィクションだ。

しつこくあげつらってやる。

まず、写譜職人として雇われた女。音楽学校で作曲を学ぶ学生のうちで最優秀の学生だと!!!!そんな学校があったとして作曲を誰に教わっていたのだ?しかもBeethovenの家にアルバイトで出かけていくんだぜ。いつの時代だよ。その設定でもう俺のイライラは募っていく。

で、その「最優秀」の作曲女が頼まれる仕事は、四日後に初演するBeethovenの「第九」のコーラスのパート譜の写譜。そんなもん、分量で言えば一晩の徹夜でできる量だろう。俺だってできるぜ。

それなのにあろうことか、Beethovenに、作曲のアドヴァイスをするんだぜ!!!!!!!あほか!!!!「ここはいったん短調に転調して緊張を高める。それから思い切り爆発するのよ。それが、Beethoven・・・・・」とかなんとか。Beethovenは、スケベじじいの顔になって、「ほほお。そのほうがいいかのお。そうかそうか」とか言ってその意見を採用するんだぜ。いつオケのパート譜を書き直してリハーサルしなおすんだよ。コーラスがトゥッティで入ってくる直前の大変更だぜ。んなんありえない。馬鹿女の一言で作品を書き換えるような人物はそれだけでBeethovenではありえない。

見るに耐えないとはこのことなのだ。こんなあほなフィクションがあるか!!悪質な捏造。あまりに作曲家を馬鹿にしている。見ている俺は怒りがこみ上げてくる。

これ一つでこの映画のレベルの低さがわかるのだが、まだまだ山ほどくだらない場面が続く。

ほかのブログや提灯持ち記事で「感動の場面」とか書いてあるのが多くてあきれた。耳の聞こえないBeethovenが第九の初演の指揮をする場面。最悪だ。

あの写譜職人の馬鹿女(最優秀作曲女)が、オケの中に座ってBeethovenを指揮するんだ。Beethovenはその馬鹿女の指揮を見ながらオケを指揮する。その世にも珍妙な猿芝居に感動している素人衆。この映画は罪作りだ。指揮なんてこんなもんだと思っちゃうじゃないか。「のだめ」の玉木宏よりはいい指揮をしていた、とか書いてあるブログがあって殺意を覚えた。

えんえんその場面が続き、おれは目をそむけた。醜い。自己陶酔している馬鹿女の指揮ぶり。見るに耐えない。踊ってんじゃねぇ!!

ま、シナリオ・ライター、監督の責任だ。こんな愚作を作って。こんなもの、音楽と関係ない人たちが音楽と関係ないところで見ていればいい。クレジットをちゃんと入れてほしい。「この映画は実在したベートーヴェンと実際の作品とは何の関係もありません」と。あまりに音楽がわかっていない監督とシナリオ・ライターの作った無礼なくず映画、糞映画(失礼!マダム)だ!!

Beethovenや音楽を心から「敬愛する」人々は決してこの映画を見ないように。愚弄された気持ちになるから。

神田うのがこの映画の宣伝をしていたよ。その程度の作品。インタビュー記事が最悪。「うのさんにとって『敬愛なる人』はどなたですか?」芸能記者って心底馬鹿だな。もちろん、あのパチンコ屋って言わせたいんだろ?パチンコ屋と、俺の敬愛するBeethovenとはなんの関わりもない。俺は死ぬまで絶対パチンコはやらない。いままで何度かやったことがあるがもう絶対やらない。決めた。

そんな新たな決意を生むほどの駄作「べとべん」。どれほどくだらないか、教養ある人々はよく見て俺と一緒にこの映画を馬鹿にしてくれ。とにかく悪質だぜ。ほめている素人衆を啓蒙しなくては。。。俺のやるべき仕事はまだあるぜ。。
作曲家がどのような人格であろうが知ったことか。俺は作品が好きなのであって作品や作曲家本人にまつわるエピソードなんかどうでもいい。

この映画を見て強く感じたことだ。

冒頭から「大フーガ」の異様な音響が強調される。意味ありげな手ブレの映像。目をふさぎ耳を覆いたくなる。嫌な予感。

結局冒頭の印象通りの作品だ。

第九や大フーガがすごいすごい、と描かれているのだがどこが革新的でどこが後世に影響を与えることになるのかシナリオ・ライターはまるでわかっていない。

写譜に雇われた小娘が第九を勝手に手直ししたりするもんか!いかに才能があっても絶対のタブーだ。

こんなくだらないシナリオに沿ってできた映画だからすべての場面が滑りっぱなし。

甥のカールとのやりとりも何も伝わってこない。カールが第九の初演に来て涙ぐむ場面など陳腐の極みだ。

陳腐といえばその第九の初演。写譜の小娘が指揮者を指揮するという世にも滑稽な猿芝居。あれはないよ。このシナリオ・ライターは音楽家や演奏者に対する敬意が欠けている。馬鹿にしてる。不愉快で正視できなかった。

すべてこの調子。なにかを期待して、うかうかと見に行った俺の負けだ。見なければよかった。見て損した。野原に写譜の小娘が消えていく最後のシーンには呆れ返った。

タイトルの日本語が馬鹿なのはこの映画のくだらなさを暗に示していたのだ。なにが「敬愛なる」だ、馬鹿!!そんな言葉あるか!!八つ当たり。

糞映画。むかむかする。
映画作品として良くできている、と感じた。

俺は、戦争のことなんかろくに教育されてこなかった人間だ。それでも日本人だから、この作品のテーマである「硫黄島の決戦」について中立の立場を取りにくい。敢えて、日本人であることを意識から排除して考えてみたい。

この映画で上官として優れた人物として描かれるのはいずれもアメリカの生活を体験した人間だ。合理的に考え、部下を大事にし、部下からも慕われる。アメリカの暮らしを知らない根っからの日本人は中村獅童に代表されるファナティックな人物としてしか描かれない。ここにまず大きな違和感を感じる。

戦闘場面のリアルさはすさまじい。いまでも本当の戦争をやっている奴らにはとうていかなわない。こんなことがリアルに表現できるのは下品なことだ。そうしてもイラク兵の心境を思いやってしまう。アメリカはずっと本物の戦争をやり続ける狂気の国家なのだ。

桂三木助(もちろん先代の)の「へっつい幽霊」。若い頃、鉄火場に入り浸っていた三木助の、さいころを転がす手つきがあまりに鮮やかで華麗なのを見た桂文楽は、ああいうところはさらっとやればいいんです、と言って評価しなかったそうだ。

この作品を見ていると、いまだに日本人は歴史に何も学ばず、正義を教えるアメリカ学校のなかの駄目生徒のような気分になってくる。なんて日本人は駄目なんだろう。

栗林のような英雄的な人物がいるのもこの作品でクリントとスピルバーグが丁寧に教えてくれる。ありがたいありがたい。

だが、待て。そんな駄目で腰抜けな日本人はこの戦争のあとどれだけの外国人を殺してきたというのだ。アメリカン人は今なお外国で人を殺し続け、自国の兵卒も戦死させている。どちらが愚かなのだろうか。

俺は腰抜け日本人で良かった。

ケーブル・テレビで、たまたま米軍側の資料をもとに作られた記録映画、「硫黄島」を見た。米軍のカメラマンが記録した硫黄島戦闘の実写フィルムだ。上陸するおびただしい兵隊。何日も姿を見せない日本兵の恐怖。雨あられと降り注ぐ砲弾、銃撃。見えない日本兵に恐怖でがくがく震える兵士の姿も生々しく捕らえられている。

飢餓と恐怖から投降する日本兵の姿も映っている。洞窟の地下要塞を作った兵卒たちだ。最初に大規模に投降したのは強制連行されてきた朝鮮半島出身者たち。一様に安堵の表情を浮かべ煙草をうまそうに吸っている。これが日本兵の真実だ。

このような歴史を学校で教えてこなかったのは正しかったのではないか。知るべき人間はいずれこのことを知る。そして人間の愚かさを知る。

硫黄島の亡霊は硫黄島に閉じこめておけ。死者を政治に利用するな。俺の感想はそこにある。

歴史とは、人類がいかに歴史になにも学んでこなかったかという証明だ。
何かを語る気持ちがおきない映画だ。

こんなことまでアメリカの大師匠二人に説教されなくてはならないのか。

俺の見たくもない知りたくもない戦場のリアリティ。この戦争が終わって以来日本は腰抜けになることによってアメリカのような蛮行を今日までしていない。

このままでいいじゃないか。一部のファナティックな馬鹿を焚きつけて硫黄島に封じ込めた日本兵の亡霊を呼び覚まそうとしている。

嫌な話だ。アメリカ主導の「日本人愚民化計画」はお笑い教育再生会議で最高潮に達している。

あの山谷なんとかとか林家三平の嫁とかまさに現代の「愛国婦人会」だ。あの者どもの面を見ろ。気味の悪いこと!

そこへもってきて「硫黄島」だよ。うんざりだ。

中村獅童の演技には失笑を禁じ得ない。下手くそだな~(笑)役柄ではなく素の獅童の中身の無さ演技力の無さが、作品の全てをぶち壊すぐらい酷かった。

お前なんか馬鹿な甘ったれたガキに「たっく~ん」とか呼ばれていればいい。もう獅童には仕事が来ないだろう。

二宮和也は素晴らしい役者だと思った。
明日というか、今日の夕方(18時から19時)、TBSラジオで昨年やったモーツァルトの新発見の交響曲の番組が再放送される。

真作なのか贋作なのか、検証が進んでいるらしい。最新情報も交えての再放送だ。詳しくは下記をクリックしてみてください。

http://www.tbs.co.jp/radio/topics/200612/002618120600.html

俺はパソコンにつないだステレオAMラジオでタイマー録音する予定だ。

昨年この番組を聞いた俺の感想。この作品はモーツァルトではない。展開の仕方の不自然な感じ、唐突な感じはむしろハイドンを思わせる。またはパパ・モーツァルト。レオポルトの作品ではないだろうか?

楽しみな番組だ。

「音楽を続けることがあたりまえのことではないこと・・・」。

竹中直人扮するミルヒがつぶやく言葉。この言葉を噛みしめる。

テレビ版のだめがさっき終わってしまった。。。 放心状態である。

幸福な時間が過ぎ去ってしまった。楽しかったなあ、のだめ。

上野樹里最高だった。玉木宏も良かった。

玉木宏の指揮ぶりは相当さまになっていた。あの指揮で、オケが演奏できるレベルだ。実際は音に合わせた振り付けなのだろうが、実に指揮をしているように見えた。

音楽大学の声楽科を出た友人が話しているのを聞いた。「玉木宏の指揮はちっともうまくない。あんな指揮で音楽が変わるなんて思えない。」

俺はその人がオーケストラをやったことがなく、指揮を学んだことがないことがわかった。

巨匠のもやもやした自己陶酔のような指揮ばかり見ていると、千秋の指揮は物足りないだろう。だが、千秋の指揮ぶりは、基礎をきちんと練習した「見える」指揮だ。派手なパフォーマンスはない。すっきりとテンポとメリハリを示す、ハッタリのない指揮だ。好感が持てる。

先週はアフリカに旅立つ友の送別会があり「のだめ」を見逃した。俺のまわりの女子が何人か、録画したものを貸してくれる、と言ってくれたのだが、今日に至るまで手元に届かない。とほほ・・・。

師匠には「なに?見てないの?だめじゃない!」と怒られるし・・・・。しかも師匠は「シューベルトって大嫌い。暗くて最悪。なにあの曲?」と俺の好きなシューベルトをこき下ろされるし。さんざんだ。

今週ののだめは千秋先輩の白目がめまぐるしく、笑ったなあ。のだめに抱きつくシーンでは不覚にも涙が流れた。いい奴だな、千秋。

ベートーヴェンの七番。俺にとっても青春の記念碑のような音楽だ。血が騒ぐ。冷静でいられない。

一楽章と四楽章しかテレビでは出てこないが、二楽章の美しさは例えようもない。主題も美しいのだが、展開部のフーガの切実さが素晴らしい。ある演奏会で、フーガ部分で、舞台と客席がシーンと水を打ったようになったことがある。もちろん演奏は続いているのだが、静寂が空間を満たした。そのような演奏は何度もできるものではない。

俺は音楽に触れ続けることができた。そのことがどれほど幸福なことであるか、思い続けながらテレビ版の最終回を惜しみつつ見終えた。