例えば、以下のような問題。本当にあるかどうか知らない。

問題:テープレコーダでとる と書くとき、「とる」の正しい漢字はどれ?

正解 「録る」

「とる」には場合によっていろいろな漢字があるので間違えないように。

虫を捕る、写真を撮る、映画を撮る、魚を捕る、魚を漁る、メモを取る、事務を執る、ものを盗る、山菜を採る、熊を獲る、鹿を猟る、栄養を摂る、米を穫る・・・・。

このくらいかな?

これどう思います?

「録る」なんて日本語じゃない。駄洒落だし。「録」はロクとしか読めない。他のものも同じだ。

この伝で行けば、出前を丼る、出前を鮨る、出前を蕎る、場所を占る、時間を経る・・・・・などどうでもいい当て字を正しいと言い張ることが出来る。こんなものは日本語ではない。

つまり正しい日本語は、「とる」という平仮名で表現される音にある。

「とる」の意味内容をどのように使っているか考察するのが正しい日本語を考えることになる。

「とる」の意味は新明解によると以下のように定義される。

1)必要のあるものを元の場所から移動して、一時自分の手の中に収める。
2)(さしあたって)必要としないものを自分が努力して元の場所から移動する。
3)自分の必要とするものを何らかの方法で自分の物とする。
4)自分の思い通りに動かして、何かをする。
5)自分の立場上、それを選ぶ。
6)実際に調べて、内容を判断したり理解したりする。
7)何かをするのにそれだけのものを必要とする。
8)やむを得ず・(行きがかり上)そういう結果を得る。

1)と2)がまったく逆の方向の意味になるのに、まったく違和感なく使っているのが面白い。これらの意味を「とる」で表すのが日本語だ、と知ることに興味を引かれる。

面白いことに英語の「take」の意味内容も日本語の「とる」に似ていることだ。完全に一致してはいないが概念が一致しているように思う。

こういう蘊蓄を学者から聞きたいのに、テレビの学者はバカばっかり。テレビは見ないことだ。

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サムの障碍は、「知能が7歳程度」と表現されている。ただ、順番、場所、ビートルズ、色、食べ物などに見せる異常なこだわりは、自閉症を思わせる。サムの仲間にも、映画オタク、猜疑心が異常に強いなど、偏執傾向の症状が描かれる。

何が言いたいかというと、障碍者と関わりを持たない人たちから見た障碍者像によってこの映画は出来ている。

サムのように、常に娘のために仕事を求め、理解ある経営者に雇われ、身ぎれいに日々を過ごしてくれたら障碍者のいる家庭はどんなにか気が楽か。障碍者の理想像とも言える。障碍を持った者に対して励ましの映画になるかどうか、または障碍者に関わりを持つ人々に娯楽になるかどうか。微妙なところだ。

障碍者を人ごととして見るには励ましを受けるかも知れない。ハンディを持った人々に無用の負い目を感じることもない。サムのようにがんばれ、と。世間に厳然として存在する理解不能な「差」を、この映画が埋めてくれる。

高齢者の介護がきついことを「金さん銀さん」の小ぎれいで可愛らしいおばあちゃんをフレームアップすることで無効化するような感じ。手のかからない、きれいな老人は介護に苦しむ人々の理想像であった。

実際に知的障害や自閉症の子供を持つ家庭は大変だ。てんかんの子供も多い。統合失調を併発する子供も。日に日に成長し、まあ、可愛い!と言っていられなくなる。障碍のある子供は天使のように可愛いことが多い。障碍のある夢のように可愛い子供をたくさん見た。

そのうちに自我か確立し、体格も良くなると女親では手に負えない。性衝動も暴力も激しくなる。なんとか青年期を乗り越え、30代に入り、太り出す。家に引き籠もりがちになり外出しなくなる。食べることでストレスを発散するようになる。母親も50代60代になりほとほと疲れ果てる。

何か特別の能力を発揮する自閉症に対する幻想もある。素数を見ただけで判別できる自閉症児とか。カレンダーを全部知っている子供、映画のデータを全部知っている、ビートルズのあらゆることをしている・・・。

社会に有益で、面白く身ぎれいな自閉症児は希有の希有、全くの例外としか言いようがない。リアルな自閉症児たちにそのような特殊能力は99.99パーセントない。期待はある。だが、それが幻に過ぎないのは、自閉症児を知っていればよくわかる。

映画は娯楽だ。お伽噺だ。障碍者についてリアルでないからいい映画でないというつもりは全くない。ただ、障碍者に対して幅広い見方も付け加えておきたい。
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サムは、ルーシーの愛情によって救われる。裁判の戦略ではなくルーシーの行為が状況を変えた。ミシェル・ファイファーは、サムの「優しさ」に救われる。最後は「聖愚者」の勝利だ。

放浪画家、山下清のドラマがあった。芦屋雁之助が嬉々として演じていた。「清はんは足らんところがあるけど心はきれいや!」っちゅうわけや。

関わった人たちはみんな幸せな気持ちになって「聖愚者」を崇める。仙台に「仙臺四郎」 と呼ばれる実在の人物がいた。仙臺四郎 がぶらりと立ち寄って気に入られた店は繁盛する。いかに四郎さんを接待しようとも、気に入らない店はつぶれた、という逸話がある。「福の神」として、仙台や東北地方にはあちこちに「仙臺四郎」の絵が貼ってある。

作品は爽やかに終わる。審理で親権を争う相手の家庭とも心の交流が生まれ、ルーシーを中心に、それぞれが失われた愛情や傷ついた心を癒すことになる。里親の心情も描写され、彫りの深い映画になっている。

ミシェル・ファイファーの好演、ショーン・ペンの捨て身の演技、ダコタ・ファニングの奇跡。他にもいい役者が揃って幸福な作品になった。アーニー、検事のターナー、サムの仲間たち、里親の女性。説得力のある演技だった。

それにしても前提となる、産んですぐいなくなる女とか、サムの父親の無責任な態度はどうなんだ?犬や猫と同じだ。そこにこだわっていたらこの映画全体が無意味になる。そういうもんだ、と受け入れるしかない。

サムとルーシーの今後の幸せを祈りつつ今回で終了。面白かった。
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依然として、ミシェル・ファイファーは高得点。素晴らしい。サムの覆いようのない「幼児性」をどのように親権獲得につなげるか。法廷ドラマとしても興味が尽きない。「私は、負けを知らない女よ」という自信が格好いい!!

後半30分。ここが結末に向けての「たるみ」部分だ。

悪い意味ではなく、話をまとめてエンディングがうまくいくように、意図してテンションを下げる。主人公が行き詰まったり、重要な告白があったり。格闘技や野球なら、相手のクリン・ヒットが決まり、リードされる場面だ。ここでダメージをじっと耐え、心くじけずに最後に向かう。

ダコタ・ファニングは夢のように可愛い。世界中の父親は自分の娘をあのように見ていることだろう。抽象化された可愛らしい女の子。あまりに可愛くて非現実感すら漂う。

シュールだぜ、ダコタ・ファニング!

ガール・スカウトの水色と茶色の愛らしい制服!俺はこの色の組み合わせが好きだ。なぜかアメリカっぽいと思っている。砂のような色のブロンド!ドレスデン人形のようにきめ細かく透明な肌。そのほかにも、出てくるたびに懲りに凝った「キッズ・ファッション」が決まってる!

いま日本でも子供服ブランドが出てきたが、昔はアメリカにしかなかった。アメリカの子供服は安くてしかも最高に可愛かった!おみやげに買って帰ったものだ。

重苦しい負け試合と作戦会議の場面のあと、明るい日差しのなか、サムは犬を連れルーシーの里親と話す。サムは近所に超してきたのだ。親権の審理まであと一週間。

結末に向けて、号砲が鳴ったようだ。あと一回で最後まで見ることにしよう。この映画は予測に反して相当面白い。この先を見るのが楽しみだ。
ミシェル・ファイファーの弁護士ぶりに感心する。

法廷場面が素晴らしい。ルーシーの親権を巡る争いなのだが、まさしく丁々発止の法廷ドラマだ。このように本格のやりとりになるとは予想もしていなかった。

陪審員のいる裁判ではない。家庭裁判所か簡易裁判所のような感じで、判事が両者の言い分を聞いて裁定を下す下級審ということなのだろう。

サム側のミシェル・ファイファーも敵側も一歩も譲らない。外出恐怖を乗り越えてアーニーも証言台にのぼる。ジュリアードを首席で卒業のインテリだ。しかし容赦のない追求に証言を潰されてしまう。素晴らしい演技が見られる。

ハンディカムを多用した撮影は、ドキュメンタリのような効果を生む。俳優の演技力とともに迫真の場面が続く。

ショーン・ペンは演技とは思えないほどサムに憑依している。すごいなあ。こんな演技するんだ。

施設から抜け出しすルーシーとサム。バスに乗って行く二人は恋人同士のようだ。切ない逃避行に見える。昔ながらの「道行き」「駆け落ち」の場面だ。

ミシェル・ファイファーの素晴らしい弁護士ぶりは終始一貫している。しかし家庭は置き去りだ。息子は母親を拒絶する。苦しい胸の内。サムはそんなはずはない、と励ますが・・・・。

・・・・というところで限界。眠い。女の子と遊んできて疲れた。お休みなさい。
敏腕弁護士、ミシェル・ファイファー。

「The age of innocence」 で、貫禄の貴族の出戻り婦人役を演じ、ウィノナしか目に入らない俺には印象が薄かったが、この弁護士はいい。金に汚く(おそらく)、上昇志向があって、能力も並はずれているのだろう。相当の見栄っ張りでもある。日常で子供とのこと、夫とのことも抱え込み混乱の極みだ。

この演技、最高ですね。見事にかっこいいし。こんないいキャラが出てくるあたり、この作品はあなどれない。「ザ・ビートルズ」についての蘊蓄は、サムの特殊能力として描かれている。

この弁護士、サムの弁護の依頼を「ええかっこしい」で引き受けることになる。無理なくいい感じで巻き込まれていく。演出がうまい。ミシェル・ファイファーのキャラ設定が生きている。

サムの仲間の障碍者たち。ややステレオ・タイプだ。サムが、Big Boy で騒いでしまう場面がある。なんらかの知的障碍者は大変なことの方が多い。映画のことだけ異常に詳しい、というような、役に立ってほほえましく、無害な障碍者というのは都合が良すぎる。本当はね。でも映画だから。社会に問題を問いかける訳じゃないから・・・・・。

サムはルーシーの親権を主張するための裁判を起こそうというわけだ。そのための証人がいない。仲間たちは障碍によって証言できるほどの雄弁さがない。唯一の大学出のインテリは外出恐怖症のアーニー。

インテリのアーニーは、証言の依頼のため訪ねていくと、バッハをピアノで弾いている。俺の大好きな、バッハのカンタータ第208番「狩りのカンタータ」BWV208、第9曲「羊は安らかに草をはみ」のピアノアレンジ版だ。ブゾーニの編曲だろうか?ややテンポをルバート気味にする甘い感じのバッハ。

なかなかしっかり作ってある映画だ。ここまで見た。

さて。

アメリカ映画おなじみの法廷場面。陪審員に弁護士が語りかけ、さてみなさん、というわけだ。このトライアルはどうなるだろう?ミシェル・ファイファーはうまくやってくれるのだろうか?興味は尽きません。

役人の慇懃無礼な感じが良く出ているね。「ミスター・ドーソン、言ってることがわかりますね?」だって。理解できないのがわかっていて専門用語をぶつけたり。もったいぶってるよな。日本でも同じだろうな。

若い!ダコタ。なのにお母さんのような貫禄。賢い子だなあ!めちゃくちゃ可愛いし。サム、幸せだよな。「Green eggds and Ham」も一緒に読んでもらえるし。


「ザ・ビートルズ」へのオマージュが随所に見られますね。有名なアビーロードのカットもある。俺は「ザ・ビートルズ」世代ではないが、上の世代の熱狂ぶりと「ザ・ビートルズ・アイテム」はわかる。知っている曲も多いし。


小学校の父親参観が興味深い。あんな小さな子でもきっちりプレゼンテイションするんだね。教育がちがうなあ。


そろそろ父親サムはルーシーを教えられない。ルーシーが、寒が不通のお父さんと違うことを質問する。サムが「ごめんなさい」と謝る。ルーシーは「謝らなくていいの。一緒に遊べるから」って大人の答え方をする。声のトーンも低く、まったく大人の態度だ。


男の糞ガキが「君のお父さんはスローだね。君もそうなの?」と聞く。「違うわ」と悲しそうな目をするところなんかすごいなあ。天才だね、ダコタ・ファニング。この時いくつなんだろう?


ルーシーの教科書もまともに読めないサム。売春婦に引っかかって警察に呼ばれるところまででひとまず終わり。


赤ん坊から小学校一年まで育てる苦労は並大抵ではないと思うが、そのあたりはスルーですね。外出恐怖症のアーニーの一言一言は含蓄があっていい。アーニーに助けてもらってここまできたと・・・。


まあ、ダコタちゃんが出てこなければこの映画は成立しないわけで・・・・・。ここからが本編なのでしょう。育児期間は大変だったけど、楽しくここまで来ました、という映画の語るところを額面通り受け止めよう。


さて、直面する売春婦問題、どう切り抜けてどう物語を変化させるのか?


おそらく、誤解だということがわかりすぐ解放されるが、サムの知的能力が問題になるのだろう。お節介な方のアメリカが顔を出す。子供を大声で叱っただけで近所の人に通報されて警察が来る「有り難い」社会がアメリカだ。


サムとルーシーの幸福な毎日が、ルーシーの成長によって失われようとしている。皮肉なことだ。しかし子供とはそのようなものだ。いずれ、親からは離れなくてはならない。離れるべきだ。小学校一年では適切かどうかわからない。


サムのような場合、日本ではどうなんだろう?日本はサムの両親や兄弟が面倒見そう。でも日本ではサムのように「子供を抱える単身障碍者」というのが考えにくい。それだけ、障碍のある人は阻害されているのだろうか?別枠で丁寧に一般社会から隔絶しているのが日本の障碍者なのだろう。なんとも不自由な国だ。


俺の知人の重度身体障碍(脳性麻痺)の男が、「俺は世の中にとって迷惑だ。でも一番迷惑しているのはこの俺なんだよ」とジョークを言う。そいつは笑わせようとして言ってるから俺は笑うが、本心は笑えない。その通りだからだ。一番迷惑してるのは、自由に動けないそいつなんだよな。

スターバックスじゃん。

スィートゥン・ロウのピンクのパック、砂糖の小袋をぎこちなく仕分けする。主人公目線の冒頭部でなんとなく主人公がなんらかの障碍があって、不器用だけれど一生懸命働いているらしいことがわかってくる。映像は綺麗。

主人公サムが登場すると、おや?ショーン・ペン、「レイン・マン」のダスティン・ホフマンの物まねしてるのかな?と思う。やはり障碍を持った主人公サムなのだ。スターバックスでみんなに愛されて懸命に仕事をしている。

マネージャに呼ばれ、町を行くサム。行き先は病院だ。なんと、サムの子供が生まれるのだ。家庭を持っているのか?と見ていると、母親は赤ん坊をサムに預けてどこかに消え去る。そうだろう、そうだろう。

生まれたとき、赤ん坊に名前を付ける。ビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンズ」から、ルーシーと名付ける。これ、まずいんじゃないの?と思った俺。だって、LSDだろ?映画の中で即座に「馬鹿な評論家がそう言っている」と返事が返ってくる。

おや?この映画、確信犯だな、と思う。

まったく育児の知識も何もないサム。友達が訪ねてくるが、やはり障碍を抱えた仲間たちだ。唯一、サムに親身に相談に乗ってくれるのが、外出恐怖症の女性。外出できないだけで、あとは極めて優秀な人物らしい。

さて。

ダコタ・ファニングも登場しないここまでで、初期設定完了。ここまでしかまだ見ていません。この先ストーリーを推理しながら何度かに分けて見ることにします。見た人、黙っててね。頓珍漢なことを言っても放置しておいてくださいね。

この先、サムはなんとか子供を育てるのだろう。少なくともダコタ・ファニングぐらいの年齢まで。まわりの溢れる善意に応援されて。このあたり、いいほうのアメリカが全開になるんだろうな。いくつか、心温まる育児エピソードが入って・・・。熱が出て徹夜で看病とか。スターバックスで相変わらず砂糖を仕分けしたり、テーブルを拭いたりするサム。

そこで何かが起こらなくては映画にならない。なにかきっかけがあって、ダコタ・ファニングと離ればなれになるのだろう。でも最後は一緒になって感動して泣く。そんな感じかな?
悲惨な交通事故が続いている。

年間一万人以上死んでいることを考えたら、「歩留まり」のうちかもしれないが、高校の生徒や幼稚園児、小学生の列に突っ込む車がこれほど報道されるのは異常だ。実は毎日起こっているのに、たまたま流行っているから報道されるのか。

報道にはそのような傾向がある。ひとつ印象深い出来事があると、しばらく類似の事件事故報道が続く。火事でも泥棒でも交通事故でも。

今回の未成年者の列に突っ込む事故の連続は何なのか。幼稚園児をなぎ倒した五十代の男は、ネコをよけようとしたそうだ。優しい男なのだろう。その優しい気持ち、甘い態度が悲惨な事故を招いた。

俺は、人間を守るためには猫でも犬でもひき殺す覚悟をはっきりしている。今日のような事故を起こさないためだ。判断している暇はない。

車を運転する人!!!人間を守るためだったら、躊躇なく犬猫をひき殺す!はっきり決意して欲しい。言葉にして口にしてみて欲しい。

残酷だ?????

とんでもない。車の暴力をはっきり意識しないものは決して運転するな!!!人間を守るためだったら、犬猫はよけるな!!!!馬と鹿だけはよけた方がいいけどね(w
死ぬまでに行ってみたい場所がある。すぐにでも行けそうだが、一生行かずに終わる気もする。それが「奇巌城」だ。海に突き出した門のような岩から天空に向けて針のように突き立った岩城。ルパンの隠れ家として子供の頃から憧れの場所だ。フランスはノルマンディ地方、エトルタの断崖。
        エトルタ
モーリス・ルブランの「怪盗ルパン」やコナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」に読みふけった。いまの30歳代と話をすると「ああ、知ってます!ルパン三世ですよね」「コナン、大好き!」。

アホか!!!!

アルセーヌ・ルパンも知らず、シャーロック・ホームズも知らずに、翻案の漫画しか知らない非教養。「ルパン三世」も「コナンシリーズ」もいい作品だと思うが、オリジナルを知らないのは恥ずべきことだ・・・・・と、いくら力んでみても、三十歳代以下の教養体系はすでにこの程度の幼稚さだ。仕方がない。日本大衆文化のありのままの姿だ。

映画は、ルパンの父親の話から始まる。「怪盗ルパン・ビギニング」という仕立てだ。1800年代の話なので、ネットワークのハッキングの話も、網膜でアイデンティファイするセキュリティシステムも確立していない。怪盗ルパンの手口は、パーティに変装して潜入し、淑女が身につけている宝飾品を手品のようにスリ取るといういたってのどかなもの。じつに優雅な身のこなしだが、すぐに正体がばれるのはご愛敬。

エヴァ・グリーンがクールな美貌で、アルセーヌの従姉、クラリスを演じる。映画の中身はやや退屈。時代の空気や衣装、建物をゆったり味わうといい。小説で読む颯爽としたルパンが事件を解決していく物語を期待したが、そうではなかった。ルパンの生い立ち、怪盗になるいきさつが中心だ。怪しいカリオストロ伯爵婦人が物語を進める大悪党の役割だ。魔術を使う。

濃厚なキスシーンがいくつかあるが、フランスっぽいというか、エロくてイイ。

カリオストロ伯爵夫人の悪党っぷりは半端ではない。終盤、ルパンを完膚無きまでにたたきのめす。そのあたりがこの映画のオリジナリティだろうが、もういいよ、という気分になる。ルパンをリアルな小市民に引きずりおろして、ひどい目に遭わせて喜んでいるような終盤には呆れた。確かに泥棒に正当性はない。だが、金持ちからだけ盗みをはたらき、殺人は決してしない、「義賊」の誉れ高いルパンをこんな描き方はないだろう。ものすごくせこい「こそ泥」のようなルパン。見たくなかった。納得がいかない。

俺にとって一番嬉しかったのは、奇巌城の映像がふんだんに出てきたことだ。やはり想像通りのルパンの隠れ家だ。胸が躍った。悪い強欲な金持ちをたたきのめす、俺の心のヒーロー、怪盗アルセーヌ・ルパン!!そういう映画が見たかった。