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Sat, September 01, 2012

大田洋子『人間襤褸』(新潮文庫)

テーマ:「文学」
大田洋子『人間襤褸 (1955年) (新潮文庫)

原爆投下から5年後の夏、約1年かけ書き綴られた長編小説。

原爆の体験記、回想は多いけれども、すでに作家として身を立てていた女性が、残りの半生を賭し、原爆下に蠢くひとびとの姿を描き続けたということは、もう少し知られてよいはずだ。

本書は、自らの出生の秘密に悩む青年が原爆投下直後の広島を、身重の同級生を連れながら両親を求め彷徨するところから始まる。

タイトルの余りに直截な表現によく現れているように作者の描写は生硬で容赦がなく戦慄的で、そこで描かれる風景は、これまでの読書人生で最も胃が冷たく絞め付けられるものであった。

しかし、本書の主眼は原爆を生き延びた人々の様相を書き記していくことにある。

われわれは原爆による傷病の悲惨さのみに目を奪われがちなのだが、実は、壊滅した都市、生活、人間性などが、いかにして現代の広島にまで辿り着くのかという、その後の被爆者たちの苦悩も同様に原爆の問題なのであって、この点については、戦後復興とも絡めて、いままで以上に考え、知らねばならないだろう。

ちなみにいえば、さすがに中沢啓治はこのことをよくわかっていて、『はだしのゲン』はもとより、数多の中短編で被爆後の人々の受ける差別、復興への苦悩を描いている。


終わりに、本書から一節を引いておきたい。

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 来る夜も来る夜も、廃亡の市街の残骸は真暗であった。暗黒の荒れて果てた街に、点々と小さな火が無数に燃えている。火葬の火だ。火葬場でもないてんでの場所で、人は肉親や親類縁者の死体を焼いている。街中に死臭がひろがっていた。
 暗黒の街で、人々の生活は停止していたが、それにも拘わらず日時は正確にすぎて行った。どこにも行き先のない連中だけが廃墟に残り、少しでも手がかりのある生存者たちは、次々と田舎へ去った。河原や山、たまには焼け残った防空壕で、生きている人間たちが、原始的な、動物的な暮らしをはじめていた。強烈な爆撃効果の前に一切の機構が崩れ、秩序は支離滅裂しているが、そして希望的ではないが、その中に、残存した人間の生活の流れがかぼそく生じていた。亡霊のようではあっても、生きてはいる。彼等はしかし時間の停止を錯覚し、正常な時間を知らなかった。
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★★★★☆

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Mon, August 01, 2011

吉行淳之介『闇のなかの祝祭』(講談社文庫)

テーマ:「文学」
吉行淳之介『闇のなかの祝祭』(講談社文庫)

昭和36年(1961)11月に『群像』に発表された表題作と、昭和42年(1967)1月、『新潮』掲載の続編「赤い歳月」の二編所収。

宮城まり子と思しき愛人と、本妻の間を右往左往する作家の姿を描いて、いかにも実録小説のように見えるため、当時かなりの話題を攫った一編である。実際、ここで描かれる愛人の姿は、宮城を忠実に映しだしたものらしい。


吉行作品の主人公は、のらりくらりと優柔不断にも見える曖昧な態度が目立つのだが、実は、彼らは軒並み、頑固なまでに自己決定権を自らの手に収めていないと気が済まない男たちである。主人公たちが曖昧に見えるのは、彼らが状況に対して曖昧であることを自ら選択し、決定しているからであって、優柔不断と似ているようでいて別のそれである。

たとえば、吉行を語る際に必ず登場する生殖の否定も、胎児の父親であることの不確かさへの恐怖や苛立ちに由来するといってよい。つまり、吉行は基本的に、臆病なまでに不信の作家である。自分以外の何ものをも信じることができない。信じるものが自分だけであるならば、もちろん、すべてを消極的に支配していなければ気が済まないわけである。

本書でも、愛人から勧められて借りたラブホ代わりのアパートを一旦は受け入れながら、偽名を使っているという一点が気にかかり独断で解約を決意するなど、随所に吉行らしさが見え隠れしているが、この状況への諦めと決断の奇妙な混交を、時には見え見えに堕してしまうにしても、基本的には抜群のメトニミーとメタファーによって展開させてゆくところに、彼の面白さがある。

本書からいくつか引くならば、愛人の妊娠に悩む主人公の別宅に、妻から唐突に送られてきた薔薇の花束を、物置へ隠す以下のようなところだ。
 その花束は異様に重たく、彼は取り落とすように畳の上においた。パラフィン紙を透して棘が掌を刺した。(中略)
 それは、濃い赤い色をした、生きた花だった。彼は、その花がはやく水分を失って、茶色くパリパリに乾いた物質に変化することを望んだ。

何が語られているかはいうまでもないが、次の段落で近所のそば屋に出掛け、親子丼を注文する悪趣味ぶりも、吉行の魅力のひとつといえるだろう。もちろん、この薔薇は伏線なのであって、ラストで再び妻から送られてきた花束を抱えるシーンは鮮やかである。
 腕の中の花を隠すとすれば、その物置の扉を開かなくてはいけない。祝福を受けた主賓に似た姿勢で佇んでいる自分に気付くと、彼ははげしく舌打ちし、いそいで、物置に歩み寄っていった。(中略)思い切って扉を開いた。
 その瞬間、彼は立ち竦んだ。
 横たわっている三十本の茶褐色の茎の先に、大きな蕾が真黒い三十個の塊に変って、堆く積み重なっているのだ。(中略)
 腕の中に一ぱいになっている花束を暗い窖の中に投げ込んだ。真赤な花の塊り[ママ]が、たしかにまだ生きている湿った三十の黒い薔薇の上に落下して重なり合った。
 空になり軽くなった両腕に眼を落とした瞬間、どさりと置かれた新しい大きな花束を、彼は両腕のあいだになまなましく感じた。

つまり、彼の意志とは関係なく、薔薇の花束は送られ続けるのである。

端的に言えば妊娠を司るのは女性であり、その点でつねに男性は女性を信じなくてはならないということの、その苦さ、畏怖をもったいぶり格好つけて描いているわけである。とはいえ避妊もろくにせず、妊娠に脅える男など女性にとってはいい迷惑で、かつては女子大で卒論のテーマに選べなかったとかいう話だが、いまならば逆に、積極的にとりあげられて然るべきだろう。

これが文学的な価値をもつかどうかといったことはさて措き、マルクス主義にも戦争にも関わることのできなかった宙ぶらりんな世代、つまりアプレゲールのひとつの姿として、光クラブ事件を題材にとった高木彬光『白昼の死角』あたりと読み比べてみるのも面白いかもしれない。

彼らにとって信じられるものは己のみ。己以外を信じるということは、苦痛であり畏れなのである。

★★★☆☆
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Fri, September 04, 2009

森敦『意味の変容』「まず極少において見、極大において見、はじめて思考の指針を現実に向けて、」

テーマ:「文学」
灰色の脳細胞:JAZZよりほかに聴くものもなし
森敦『意味の変容』(ちくま文庫)

「その意味を変容において捉えなければならぬ」(101-102頁)
「矛盾はつねに無矛盾であろうとする方向を持つ。かくて道がつくられる。その行く先が未来であるのではなく、それを未来と呼んでいるのだ」(77頁)

★★★★☆
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